在日ブラジル人ホームレス支援 2008年07月08日 朝日新聞東京版より
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『私たちの40年!!』のメーリングリスト仲間のかなやさんが目聡く朝日新聞東京版に出ていた掲題の記事を見つけて流して呉れました。ブラジルから日本に出稼ぎに行っている30万に上る日系ブラジル人の一部が犯罪を起こしブラジルに逃げ帰ったとかマイナス面が大きく報道されている中、小さな善意、15年間も続くホームレスの人たちを支援しておにぎり、ゆで卵、お茶を配る。世界で国単位では世界で一番カトリック信者が多い国としてブラジルでは、こうしたちょっとした善意は、自然に培われている。この活動を15年前に始めた江東区の会社員・角智織(ともお)さん(44)は、結婚したブラジル人の奥さんがカトリック信者で自然な発想を聞き入れたのがその端緒とのこと。それを自然に受け入れる仲間が増えているという。「助け合いはブラジルでは当たり前だから」、このブラジル人の良さが日本でも認められ活動が広がって行くことを願いたい。写真も朝日新聞のWEB版からお借りしました。 |
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ブラジルから日本へ働きに来た人たちが中心になって、都内で月1回、おにぎりや古着などをホームレスの人たちに配っている。数人で始めた活動も既に15年。一日がかりの準備と配達には首都圏の各地から50人前後が集まり、それぞれが自分にできることを無理せず続けている。「助け合いはブラジルでは当たり前だから」だという。
(豊吹雪)
月末の日曜日、千葉県市川市内のアパートに、都内各地や茨城県、埼玉県などで働くブラジルの人たちが集まる。
6月29日は米70キロを炊いた。午後2時ごろからおにぎり作りを始め、夕方までに1570個ができた。ゆで卵547個を小分けにし、沸かしたお茶40リットルをポットに入れる。古着を仕分けし、ひげそりとせっけんも袋詰をする。30人ほどがおしゃべりをしながら働いた。
サンパウロで生まれ育ち、00年に来日して埼玉県飯能市に住む日系の末広由美子さん(49)は2年前から活動に参加。車の部品検査の工場で働き、休みは日曜だけ。それでも「人のために何かできたら」と言う。
夕方になると配達部隊が集まってくる。ブラジル国籍の10人とペルー国籍の1人に日本人が4人。上野公園に向かう班と、銀座や大手町に向かう班と二つに分かれた。
「ブラジルでも貧しい家に米や豆を分けたり、お手伝いしたりしていた」と国分寺市の村上エミリアさん(56)。平日は運送会社で荷物の仕分けをしているが、最近は仕事が少なくなり、給料も減った。夜間に週4日、皿洗いの仕事も始めた。決して余裕があるわけではないが、ボランティアの気持ちは持ち続けてきた。「ブラジルでは貧しい家の子が有名なサッカー選手になることもあれば、豊かな家でも職を失えば貧しくなることもある。助け合いはお互い様の当たり前よ」
午後8時前に銀座の公園に到着。雨の降る中、90人が既に並んでいた。5年ほど前からこの配給に並んでいるという男性(55)は「よくやってくれるよ」と話す。大手町でも74人におにぎりを配り終えると午後10時を回った。
この活動を93年に始めた江東区の会社員・角智織(ともお)さん(44)は「こんなに長く続くとは思ってもいなかった」と振り返る。当時結婚していたブラジル人の妻がキリスト教の信仰もあって、クリスマスに仲間数人と始めたという。日本で発行されているスペイン語の新聞に募金や古着を募る広告
を出したところ参加者はどんどん増え、00年に市川のアパートを借りたという。
「外国人労働者というと、悪いイメージを持つ人も少なくないが、国籍にとらわれず、助け合って当たり前と思っている人たちがいることも知って欲しい」
『私たちの40年!!』MLのコメント集です。
和田: かなや さん
朝日新聞には写真も出ていましたので寄稿集に皆さんのコメントと共に掲載するようにします。いつも目ざとく貴重な情報を見つけて流して頂いているので感謝しています。これからも宜しくお願いします。
オランダ あや子です。
11年前にブラジルへいったおり、食べ物の余ったものを持っていくところと食べ物のない人がそれをもらいに行くところがある、と言うのを聞きました。
ブラジルにはそういう助け合いの精神があるというのを聞いていましたが、日本でもそういういい考え方を輸入し、実行しているグループがあるというのを知り、うれしく思いました。たまたまお金があり、たまたま貧乏をしている。でも人間の価値はおなじです。悲しいニュースばかりの中で、あったかーいニュース。うれしいですね。
ボリビアの三浦です。
無理しないで、自然体で続けている様子がわかる記事で好感をもてました。自分でできる範囲で行えばよいので無理する必要ない。
荒木:かなやさんの在日ブラジル人のホームレス支援を拝見しました。
以前読んだ本に、東京には生活保護を受けている家庭が多くあるとの事で驚きましたが、今度は多い路上生活者におにぎりと衣類の支援とか、戦後の災いがまた戻ったのかと大変驚きました。
私は戦中戦後育ち(昭和12年生まれ)で、食事は米麦半々、夜はソバガキなどで育ち、昭和31年に東京に出てなんとか職に就きました。当時はまだ仕事にありつけない「浮浪者」が上野駅周辺にたくさん居た事を覚えています。
50数年過ぎた現在、浮浪者から路上生活者、ホームレスと言葉が変わり、質も変わったようですが歴史が繰り返し複雑な気持ちです。支援にはやはり周辺の人達が暖かいこころざしで支えてやる事が一番大事なことでしょう。
三浦:こちらでも、路上生活者いるのですが、それほど多くなく(人口もすくないのですが、)、なんとかみんな暮らしているような感じです。最近、路上生活者が、多少増えてきたのですが、困るのは、集団で有機溶剤を吸っていて、中毒者になっています。彼らが、盗みを行っているうちはいいのですが、そのうち強盗にかわらないかと心配になります。ここでは、悪いことをしても、警察は動かず、連れて行っても迷惑顔をするだけで何もしてくれないことが多いのです。そのうち戻ってきます。
彼らにしても、近くに市場があり、簡単な掃除なりすれば、食べることには困らないのですが、それすらすることもなく、グループで動き回っています。仲間内でいつも喧嘩しているようで、いつも傷だらけです。
大統領は、低所得者層の支持で当選したのですが、まったく彼らを返る見ることなく、権力闘争に終始して、放置しています。
にやにやしながら、チーノ、チーノと店の前を通り過ぎます。希望もなく、中毒状態で時間を過ぎるのを待っている彼らの、将来どうなるのかは予想がつきません。
ボリビアは、数年前まで、夜歩くのに不安がなかったのですが、最近では、あまりしないようにしています。
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