どっこい生きている明治男のど根性(1)―(4) 吉永拓哉記者の力作 サンパウロ新聞WEB版より
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97歳のコロニアの色男?と自称する大坂勝次郎さんを取材した吉永拓哉記者の連続4回のルポールタジューがサンパウロ新聞WEB版に掲載されていた。『私たちの40年!!』MLにもお借りして流したところオランダのあや子さんから下記コメントが届いた。「"どっこい生きている明治男のど根性"楽しく読ませていただきました。自分のいいと思うところを、このようにまっしぐらに生きてきたひともいるのですね。"人に歴史あり" またなにかありましたら、お願いします。」これに対して下記返信を出しました。
「明治男の大坂勝次郎さんの人生は羨ましい限りの生き様ですが、それを取材して記者の目でレポートしている吉永拓哉記者の人生も大坂さんに劣らぬ立派な生き様だと高く評価しています。このHPでも何度か紹介しておりますが、吉永記者は、中学卒の元暴走族、『ぶっちぎり少年院白書』という自伝風の本を出版しており下記に紹介しています。」40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1238
今後も吉永記者の報道記事には注目して行きたい。頑張れ拓哉君とエールを送りたいと思います。
写真は、サンパウロ新聞に掲載されていた大坂勝次郎さんです。
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どっこい生きている明治男のど根性(1) サンパウロ新聞WEB版より
「降る雪や明治は遠くなりにけり」とは昭和の俳人・中村草田男氏が詠んだ句だが、時代は今や平成二十年。明治生まれともなれば九十五歳以上の高齢者で、いくら長寿が多いコロニアとはいえ、明治人はそうザラにいるものではない。そんな中、耳が少し遠いものの心身ともに健康で、明治気質を兼ね備えた老人がリベルダーデ東洋人街で暮らしている。その人は過去、サンパウロ日系社会にビッグニュースを持ち込んだこともある大坂勝次郎さん。彼に昔話をしてもらった。
「オレはまだまだ色男だよ」と、記者に会うなり早速冗談を飛ばす大坂さんは明治四十四年(一九一一年)生まれの九十七歳。
利根川の支流・黒部川を望む千葉県香取郡東庄町で生まれ、九歳のころに姉と上京。都内の工手学校に通っていたときに、当時はまだ珍しかった英国製のボイラーに興味を持ち、英語習得に励んだ。
勝次郎さんのその後の道筋を決めたのは、かの二・二六事件(一九三六年)だった。
事件が勃発した大雪の日、日比谷公園前を通りかかった勝次郎さんに向かい反乱軍の兵隊が、「戒厳令だ。動いちゃいかん!」と怒鳴ったという。
そのとき、公園前にいた大衆の中に幼子がいて、その子が「ウンチしたい」と駄々をこねだしたので、勝次郎さんが思い切って兵隊に「子供が便所に行きたいと言っている。行かせてやれ」と話した。
「なんだと! 戒厳令が守れんのか」兵隊は勝次郎さんに機関銃を突きつけた。勝次郎さんは当時、血気盛んな二十五歳。これには怯まず「撃てるもんなら撃ってみろ」と兵隊に凄んだ。
ふたりの喧嘩を見かけた付近の警察官が慌てて駆けつけ、「今日だけは勘弁してもらいたい」と仲裁し、この一件は落着。しかし勝次郎さんの胸中には、『こんな日本にいては駄目だ。海外で暮らしたい』との思いが募った。
「マドロスパイプを銜(くわ)えることに憧れていた」と言う勝次郎さんはその後、ハワイ移住を夢見てハワイ航路をとる大型船の機関士へ志願した。
しかし、この職業は背丈百七十センチ以上が条件だと知らされて断念。そんな時にブラジル移住啓蒙の張り紙が目に留まり、『行け南米へ』のフレーズが気に入って、海外移住先をブラジルに決めた。
ここでひとつ問題が起きる。渡伯するには構成家族が必要だったからだ。勝次郎さんは、移住目的のために肺病を患っていた女性を口説いて結婚し、それからすぐに神戸市の移民収容所へと向かった。
だが、現地へ着いてみてはじめて「夫婦のみでは構成家族として認められない」ことを知る。移民収容所の宿舎には泊めてもらえず、仕方なく付近の宿屋を借りて寝泊りし、移住許可が出るまでじつに四か月間も辛抱していたのだという。
結局、勝次郎さんの苗字が同じ『オオサカ』というだけで、大阪市の警察署長へ会いに行き、「ブラジルで男になりたい」と願い出た。
署長もこれには驚き「大した青年だ」と移民収容所所長宛に手紙を書いてくれた。
再び神戸市に戻った勝次郎さんは、その手紙を所長に渡してどうにか移住手続きをクリア。二・二六事件があったその年の秋、「あらびあ丸」で日本をおさらばしたのだった。
(つづく、吉永拓哉記者)
2008年7月4日付
(写真:97歳とは思えないほど元気な勝次郎さん)
どっこい生きている明治男のど根性(2) サンパウロ新聞WEB版より
《波乱万丈の浮沈人生 未だ体に刻まれた戦中の傷痕》
時は一九三六年十二月二十四日、丁度クリスマス・イブの日だった。勝次郎さん夫妻を乗せた「あらびあ丸」がサントス港に着いた。
まだ仕事先も何も決めていなかった彼は移民収容所で東山農場の仕事を斡旋してもらった。
ジャポネースなので農場主に優遇してもらい、仕事をはじめてすぐに開拓地の現場監督に抜擢されたが、それが仇となった。
いくら監督に昇進したとはいえ、農場内ではまだ新米。そんな勝次郎さんが昼休みの終了を知らせるために、角笛をブォンと吹いたものだから、昼寝の最中だったカボクロたちが「あのジャポネースは頭が高い。あんな新米からコキ使われるくらいだったら、一層のこと殺してやる」と勝次郎さんは命を狙われるはめに。
「こりゃまずいことになった」と彼は東山農場を逃走して、日本人が多いリベロン・プレットへと向かった。
同地ではしばらくの間、日本語教師をして生計を立てていたが、「こんなことなら日本に引き揚げよう」と再びサントス港まで戻った。
ところがサントスの街には大洋漁業(当時の捕鯨会社)の在留者子弟がたくさんいて、勝次郎さんが日語教師をやっていたことを聞きつけた彼らは、「ここでも日本語を教えてくれ」と彼にすがり付いてきた。
勝次郎さんはサントス市内の一角にある小屋を借りて日本語学校を設立、教え子は二年間で八十人にも上ったという。
しかし、ここでもまた思わぬ不運に巻き込まれた。一九四一年に太平洋戦争が勃発、翌年には日伯国交断絶となり、勝次郎さんの日語学校も閉鎖に追い込まれた。
それに加えて警察は「ここには外国人がいてはならん」とサントス在住の日本人たちを一掃してしまった。
勝次郎さんもこの時はオタオタとしていたようで、彼の強面顔とガッシリとした体格を見た警察官が「おまえは日本の軍人だろう」と疑いの目を掛けて、なんと牢獄に放り込んでしまったのだった。
そこで二か月間、警察から毎日のように「連合軍が勝つか、日本が勝つか」と質問攻めにあい、応えなければ殴る蹴るの暴行を加えられ、日の丸を「踏め」と強制されて断ればまた殴られる、あれから六十年経った今でも勝次郎さんの背中に傷跡が残るほど、こっ酷く絞られた辛い獄中生活を過ごした。
結局、この誤認逮捕の一件は、彼の教え子たちがミラカツ郡長に頼み込んで、郡長直々に勝次郎さんを釈放してくれたのだった。
だが、ここで彼は無一文になる。所持品は警察側から誤認逮捕のお詫びとして受け取ったサルバコンヅット(通行許可証)のみだった。
教え子たちからの情報で、離ればなれになった妻と幼子二人は、ジュキア線のムザスヤという場所にいることがわかった。勝次郎さんはサルバコンヅットを使い汽車に乗り込んで愛する家族を捜しに同地へ向かったのだった。
(つづく、吉永拓哉記者)
写真:勝ち負け抗争を鎮めるため47年に移住地で運動会を開いた(一番左が勝次郎さん)
どっこい生きている明治男のど根性(3) サンパウロ新聞WEB版より
病魔に苦しむ人に一念発揮 「医療組合」設立して奉仕活動
ムザスヤに着いた勝次郎さんは小屋の中に身を寄せていた家族と再会。一銭の金もなく、「草取りの仕事でもさせてもらえんか」とさまざまな農場を訪ね歩いたが、「カデイア(牢獄)へ入っていた者に働いてもらうわけにはいかん」と拒否され続け、ようやく見付けた職がドイツ系ブラジル人所有の土地での炭焼きだった。
これは勝次郎さんの天職だったのか、良質な炭を作ってブラジル人たちを驚かせ、一文無しから五年後には農場一つ買えるほどの金を貯めた。
さらにその農地でナスビを植えたところ、今度はサントス市に多く住んでいたトルコ人たちから好評を得て、売れに売れた。
ここで勝次郎さんは「人生の絶頂期だ」とペトロバーラスに大農場を買う算段をしていたのだが、人生そううまくはいかないもので、なんと蓄えていた札束の半分近くをネズミが食い散らかしていて、無念にも小規模な農場しか買うことができなくなった。
そこで二十年もの間、こつこつとバナナ栽培を行っていたが最後には嵐に遭ってバナナは全滅。やむなくレジストロに移り、今度は木造船を造ってリベイラ川からアルゼンチン行きの大型船にバナナを積みこむ仕事をした。
このように勝次郎さんの若かりし頃は波乱万丈そのものだったが、一九五四年にサンパウロ市へ移って設立したアルミ製造加工所の経営がうまくいきだすと、コロニアの福祉事業にも力を注いだ。
当時、ブラジル奥地から農機具でケガをした日系農夫や貧しい日系妊婦らが、医療設備の整った病院を求めてサンパウロ市内を訪れていたが、ポルトガル語が理解できないうえ医療保険がないために、医療費に大金を支払わなくてはならなかった。
これを改善しようと勝次郎さんがコロニアに呼び掛けて五七年、サンパウロ州政府からの認可を得て聖市リベルダーデ区に『南米相互医療組合』を設立した。
この組合の功績は、医者に掛かった日本人が医療証明書を組合に届ければ、医療費を半額以下に割り引く日系福祉制度を実施していたことだ。
勝次郎さんは自らの情熱をすべて組合に注いでいたことで、じつに二世の日系医師ら四十数人が協力してくれるようになった。
これに力を得た彼は、さらに組合を拡充させるため、当時名医として活躍していた土肥セルジオ氏を組合長に迎え、勝次郎さんは専務理事として六四年に『フレイ・ボニファシオ慈善医療協会』に改名、新たなスタートを切った。
この時、勝次郎さんの頭の中ではある壮大な夢を芽生えさせていた。
「ブラジルに散在している多くの日本人たちが医療と病院に乏しい農村で暮らしておる。彼らは言葉や地理に不安があり、親戚知人がいない人も多かろう。同胞たちのために今、オレたちがやらなければならないことは、戦前のような日本病院を建てることだ」
勝次郎さんのこの構想に賛同する人も多く、「おなじ死ぬなら日系看護婦の介抱の下に安価で安楽死したい」とコロニアの中で日本病院建設の声が高まっていった。
そして勝次郎さんがフレイ・ボニファシオ慈善医療組合を発足させて以後、十年近くも温めてきたこの構想が、いよいよ実現間近となったのである。
(つづく、吉永拓哉記者)
2008年7月8日付
(写真:フレイ・ボニファシオ発足パーティー(勝次郎さん、土肥会長、松原さん=左から))
どっこい生きている明治男のど根性(終)サンパウロ新聞WEB版より
日本病院建設構想打ち上げ 悲願の奔走も「ボス」の反対で涙呑む
『病院建設へ手がかり』―。このような見出しのトップ記事が一九七五年五月十四日のサンパウロ新聞に掲載された。
笑顔の勝次郎さんがニーロ・デ・リマ弁護士と固い握手を交わした写真が載っている。この人物は勝次郎さんの友人で親日家としても知られる。彼が日本病院建設計画のために、聖市サコマン区にある時価一千クルゼイロス(当時)もする一万平方メートルの土地をフレイ・ボニファシオ慈善医療協会に寄贈したという報道だった。
勝次郎さんはその前年に訪日し、斎藤邦吉厚相、法眼晋作国際協力事業団総裁の両氏に会う機会を得て、日本病院建設の協力を呼び掛けた。
その際に法眼総裁は「大丈夫です。なんとかしましょう。病院の設計図と建設資金の総計をまとめ、陳情書を提出して下さい」とすすめている。
早速ブラジルに戻り、フレイ・ボニファシオ慈善医療協会と日伯慈善協会が一緒になって陳情書をつくった。同書によれば総合病院の規模は三百〜一千床で、まずは百床を作って発足し、機を見て拡張していきたいとのこと。資金は約六千百万クルゼイロス(約二十九億円)、その後の維持資金が五百万クルゼイロスと莫大なものだった。
しかし、建設資金こそ多額なもののニーロ弁護士から土地を譲り受けたことで勝次郎さんは、コロニアの総意を得るために日系医師ら有志を集めて日本病院建設準備委員会を発足させた。
その後、間もなくして法眼総裁が訪伯し、「日本病院の建設は大切な問題と考えているので真剣に検討したい」と発表するなど、七五年当時は邦字各紙も日本病院建設に関する報道を頻繁にしている。
一部では建設案を疑問視する記事も見られるが、木原暢医師はサンパウロ新聞投稿欄に『早く建てよう日本病院』と題する連載をし、「不可能ではない」と述べるなど、コロニアで建設ムードが高まっていたことには疑いない。
勝次郎さんは同年九月に再び訪日し、京浜総合病院の矢作忠政院長と話し合った。その結果、矢作氏は横浜銀行に掛け合ってくれ、日本病院建設に五億円の援助をすることが確実となった(サ紙七六年十月七日付け掲載)。
さらに勝次郎さんの熱意に打たれた法眼総裁は、日本赤十字社に資金援助をするよう要請し、いよいよ日本病院の実現が濃厚のように見えたが、ここへ来て勝次郎さんのこれまでの努力をすべて無にしてしまう波乱が起こった。
時の「天皇」と呼ばれていたコロニアの中心人物が、「たとえ日本病院ができたとしても、今のコロニアの力では運営が困難だ」との見方を強めて日本病院建設反対を唱えたため、コロニアの総意が得られなくなったのだ。
「オレの仕事は終わった・・」勝次郎さんはあと一歩のところで建設計画を断念。法眼総裁、矢作氏らすべてに断りを入れ、ひっそりとコロニアを離れていった。
この日本病院計画の一件は、これ以上調査の仕様がない。と言うのもフレイ・ボニファシオ慈善医療組合も時代の流れとともに衰退・消滅してしまい、「天皇」と崇められたコロニアの中心人物もとうの昔に他界しており、当時を知る人は勝次郎さん以外にまず存在しないからだ。
現在、ふたり目の愛妻とともにリベルダーデ東洋人街の自宅で余生を過ごす勝次郎さん。「オレのような大馬鹿者はいねえ」と愚痴をこぼしながらも、誰よりも長く生きてきた明治男として移民百年を迎えたコロニアの姿を見守り続けている。
(おわり、吉永拓哉記者)
2008年7月9日付
(写真:75〜76年当時は各邦字紙で日本病院建設計画が採り上げられていた)
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