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百年の移民哀史よ 父土に 母は人魚と なりし家族かも 朝日新聞11月2日付記事より
朝日新聞の11月2日付朝刊に9月にサンパウロに特派員として赴任してこられた平山亜理記者の書かれたこのホームページでは御馴染の富田礼子さん姉妹の40年振りのブラジル訪問に寄せる思いを纏めておられます。書家、武田双雲が書いた題字「縁」が似合う『40年後 やっと会えたね 父は土に 母は人魚に』の全文をお借りして収録して置きたいと思います。
『私たちの40年!!』が取り持つ縁、このような形で朝日の記事として残しておけるのは幸いです。寄せられたコメントと共に収録して置きます。
記事を見て1句詠まれたという菅間五郎さんの句を掲題に使用しました。
写真は、掲載された朝日新聞の記事をスキャナに掛けたものです。
御父上がNHKリオ支局勤務中にリオで生まれたブラジル国籍を持つ平山記者の温かいコロニアの目線でブラジルを紹介する今後の記事、活躍を期待したいと思います。


縁 40年後 やっと会えたね  父は土に 母は人魚に  

「お父さん、やっと会えたね」
 東京都葛飾区の富田礼子さん(43)と埼玉県秩父市に住む妹の麻柄美代恵さん(41)はこの秋、初めて墓参りしたブラジルで、亡き父に語りかけた。
 赤道直下のアマゾン河口都市ベレンから南へ約200キロ。墓は日本人が開拓した移住地トメアスにあった。あたりに電気が通ったのは15年前のことと聞いて、姉妹は驚いた。
 姉妹の両親は63年、移民船「あるぜんちな丸」に横浜港から乗り込んだ。黒ダイヤと呼ばれたピメンタ(黒コショウ)を一緒に作ろうと友人に勧められた父の昭一さんは、連れ子のいる母敏子さんと結婚し、ブラジルへ渡った。
 ジャングルの大木を切り倒し、石を取り除いた。熱帯での開拓作業は困難続きだったが、礼子さんと美代恵さんが生まれ、家族5人でにぎやかに暮らした。
 ようやくピメンタの栽培が軌道に乗りそうになった時、父が急死する。26歳、肝臓がんだった。移民仲間の説得を振りきって、25歳の母は帰国を決意。3人の子の手を引いて、4年前と同じ、あるぜんちな丸に乗り込んだ。
 ベレン港を出てまもなく、母親は5歳の兄に財布を握らせた。
 「こっちに来ちゃいけません。ママは人魚になって先に日本に帰っているからね」。言い残すと、ひとりデッキから身を投げた。
 あとに3人の子どもが残された。礼子さんは2歳、美代恵さんはまだ9カ月だった。
 日系人向けの邦字紙パウリスタ新聞が、この悲劇を報じた。移民たちから「引き取りたい」との申し出が多数寄せられた。だが、兄は栃木県の母方の実家へ身を寄せ、姉妹2人は埼玉県の父方の親類に引き取られた。
 姉妹は、親に捨てられたという意識にさいなまれた。父親の顔を知らず、母親の声を覚えていない。両親を恨み、親類に気兼ねしながら育った。
 去年のことだ。礼子さんはパソコンで、「ブラジル」「移民」とネット検索するうち、思わぬページを見つけた。あるぜんちな丸で渡った仲間の消息を伝えあう欄だった。
 そのページを開いたのは、ブラジル南部に住む和田好司さん(68)。あるぜんちな丸で62年、いっしょにブラジルに渡った乗船者681人とほかの移民のその後を知りたいと願っていた。
 礼子さんはすぐに書き込んだ。
 「私は昭和39年にトメアスで生まれた者です。父は肝臓がんで無念の死を遂げ、母は日本に帰る途中船上から身を投げました」
 読んで、和田さんは驚いた。飛び込み事故のことを、あるぜんちな丸の客室乗務員の山添洋子さんから聞いたことがあったからだ。
 当時歳だった山添さんは、船内で泣きじゃくる子どもたちの面倒を見た。
 消息が気になっていた子どもたちが日本にいると分かって、山添さんも京都府の自宅からページに書き込みを始めた。
 山添さんの記憶では、敏子さんと言葉を交わしたのは船内の子ども室。乳幼児3人を連れているのを見て「遊んで行きませんか」と話しかけたが、暗い顔で「いいえ、上へ行きます」とデッキへ上った。「人が飛び込んだ」と大声がした。船は急旋回して海上を捜索。2時間後に遺体が発見され、看護師が死化粧を施した。
 「お母さんはきれいなお顔で旅立たれました」
 礼子さんにはブラジルのころの記憶はない。なのに、目を閉じると繰り返し現れる光景があった。それはいつも、何かの赤い実を拾っている場面だった。礼子さんは長年の疑問をページに書き込んだ。「あの実は何なのでしょう」
 「それは、熟れたピメンタの実でしょう」と和田さんが答えを載せた。トメアスで撮ったピメンタの写真を添えた。
 姉妹の手元には小瓶に入ったピメンタが残されていた。「お前たちの父親が作ったものだ」と叔父から渡された。中の実は黒くカビくさかった。和田さんの書き込みから、その黒い実が、熟れる前は赤色に輝くと教えられた。
 その後、美代恵さんの知り合いが、父の墓がトメアスにあると調べてくれた。墓守をしてくれていたのは、母のいとこでアマゾン栃木県人会顧問の室井洋さん(78)だと分かり、姉妹のブラジル墓参りが実現した。
 「おれが連れて行かなければ、2人が死ぬことはなかった。すまない、すまない」
 初めて会った室井さんは目を潤ませ何度も謝った。両親の仲人をし、ブラジルに誘ったのが室井さんだった。きっと無縁仏だろうとあきらめていた姉妹は、室井さんが父親を手厚く葬ってくれて墓を守っていてくれたことに驚いた。
 「両親の死は、宿命だったんです。楽になって下さい」
 「自分を責めないで下さい。40年、墓を守ってくれたお礼を室井さんに言うために、ブラジルに来たんです」
 姉妹は室井さんにお礼を言い、南国の赤い花を手向け、墓前で手を合わせた。周囲を2匹のチョウチョウが舞った。姉妹には、両親が飛んできてくれたように見えた。(平山亜理)


昨日お知らせした朝日新聞の記事が結構大きく全国版で出ているようですね。早速尾花さんがスキャナーに掛けて送って呉れました。
4月の新宿のOFF会に富田礼子さんがお嬢さんを連れて参加しておられたのを覚えていたとのことで驚いていました。
少し読み辛いですが下記の通りBLOGに記載して置きました。

http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/36778911.html

和田様
本日の朝刊に和田さんの名前が載ってました。
この間、新宿でのOFF会で耳にした内容でしたので驚きました。
尾花

丸紅ブラジル会社で副社長兼物資部門長として活躍されていた重政孝之さんから下記メールを頂きました。日本向けユーカリパルプの輸出、マナウスで丸紅の合弁会社のミノルタが組み立てた国産のミノルタ複写機の国内販売等一緒に苦労した仲間からのお便りは非常に嬉しいです。

和田さん
ご無沙汰しています。本日朝日新聞にブラジルで生まれた姉妹が日本に帰国後約40年ぶりにブラジルの父のお墓参りができ 開拓地での一家の写真を見ることができ 長年心にたまっていた苦しみが癒えた。ここまで辿ることができたのは和田さんをはじめとする人々の協力によるところが大−−−との記事が載っていました。経済人としての和田さんのほかにブラジル日系社会のリーダーとしての和田さんが鮮烈によみがえりました。これからも健康にご留意の上ご活躍ください。   重政孝之

この朝日新聞の記事は直接お読みの方も多いと思いますが、BLOGに下記書き込み(コメント)をしております。朝日を購読されていない方はBLOGの記事を左クリックすると良く読めるサイズになりますので是非お読み下さい。コメントをお待ちします。
上記の記事の上を左クリックすると画面が大きくなり読み易くなります。
書家、武田双雲さんの題字『縁』この記事に相応しいですね。
朝日新聞のサンパウロ駐在特派員の平山さんの初めて?の力作。今後もコロニアの皆さんの目線で記事を書いて行って欲しいですね。応援したいと思います。


和田君
縁 40年後 やっと会えたね の記事を見た瞬間貴君の顔が浮かびました。読み進めると案の定貴君の名前が出てきましたね。感涙に咽びました。

一首が浮かびました。

百年の移民哀史よ父土に
   母は人魚となりし家族かも

昭和36年 1961年 早稲田の移住研究会の一員として南米を渡り歩いたときアルゼンチンはイグアス植民地の焼き畑を見たときの光景、帰りの移民船の中で日本で骨をうずめる為に帰られるというパラグアイに移民されていたご老人のことを思い出しました。
追伸
イエスの涙の花見事でした。
11月2日
          菅間五郎

菅間 先輩
お便り有難うございます。

百年の移民哀史よ父土に
   母は人魚となりし家族かも

さっと一句浮かぶところが凄いです。寄稿集への収録はこの菅間先輩の一句を使わせて頂きます。

ラグリマス デ ジェズウス(イエスの涙)の花御覧頂いたとのこと有難う御座います。


46年前にご家族と一緒にトメアスー移住地に入植され現在もトメアスー移住地に住んでおられる同船者の三宅昭子さん(旧姓佐藤)からのお便りが届きました。
三宅さんは、ご両親、妹、弟の4人をアマゾンで亡くされています。アマゾンでの日々を巧みに575の17字に凝縮したアマゾンらしい句を幾つも詠んでおられます。

和田様 こんばんんは
私もやっとメールできるようになりました。小山さんから富田姉妹のトメアスー訪問の事きかれました が 第二トメアスーは遠くて室井さんに会うまでご返事できませんでした。
また 小山さんの正しいアドレスを打たなかったのか戻ってきてしまいましたのでここに書いてみます。先日、室井氏にお会いしましたところ 富田姉妹は9月9,10,11日(二泊三日)に立正佼成会の方たちとトメアスーを訪問なされたご様子でした。親戚の室井御家族 栃木県人会のかたがたと懇談され お父様の御墓参りをしトメアスー文協、トメアスー農協ジュース工場を訪問されお帰りになられたようです。ちなみに室井洋氏の奥様が富田姉妹のお母様のおばさまなのだそうです。念願叶ってお墓参りが出来てよかったですね。私たちも喜んでおります。
祈って居りましたのでお会いできればなおうれしかった事です、。後で写真をみせてもらいます。それでは 又 お休みなさい     三宅昭子   11月2日記す

こんばんは 
今日 日曜日 室井洋氏が栃木県人会の先没者法要出席のためバスで出てこられたので時間があるからと我が家に立ち寄られしばらくはなしていかれました。
 話をしているうち富田姉妹のお母様が室井氏の奥様の姪なのではなく富田姉妹のお父様が室井氏の従兄弟なのだそうです。室井氏が移住するとき富田氏も一緒にということになり 独身では県の助成金がおりないので急遽結婚相手を探してつれてこられた由 富田氏は渡伯後四年で亡くなり奥様もあのようになってブラジルへ連れてきた自分の責任だと思い続けてせめてお墓だけはと守って来られたようです。それでもあの頃はみな必死でなれない土地と戦っていた頃なので三人の幼い子 供たちの事を気にかけながら四十年以上も経ってしまったけどホームページがきっかけで富田姉妹が来てくれてお墓も見てくれて喜んでもらえて私のむねのつかえが下りたような気持ちです。といっておられました。間違いを訂正いたします。三宅昭子


神戸にお住みの山田喜久子さんから下記書き込みがBLOGに寄せられていました。

今日は朝から 心温まる記事に感動し胸が震えました。
40年と一口に言いますが、富田さんご姉妹の思いはいかばかりだったかと思います。
和田さんの コツコツと書き足しておられるページからこのように広がり、お互いが親善と同時に 生きる励みになられることに敬意を申し上げます。



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