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ここに逞しき「ハポネス」あり  サンパウロ新聞特派吉永拓哉記者の連載です。(後篇)
サンパウロ新聞、福岡支局長の吉永拓哉記者は、今回2冊目の本出版の為に若い頃に歩いたエクアドル、ぺルー他を再訪しているとのことで立ち寄った各地で取材し足を使って【ここに逞しき『ハポネス』あり】を連載しておりメリングリストを通じて皆さんに紹介しておりますが、東京の拓大OB会の事務局長をしておられる井川 實さんを通じて東京OFF会参加者に配られたエクアドルのタグア(象牙椰子)のストラップを記念に頂いたのを覚えておられる方も多いと思いますが、その提供者が今回紹介さえている井上順八さんです。遅まきながらお礼を述べさせて頂きます。昨年のあるぜんちな丸45周年記念式典でもこのタグアのストラップを記念配布させて頂いています。
11月5日にサンパウロで日本学生移住連盟の創立50周年記念式典が開催されエクアドルから井上順八さんも参加されました。井上さんが乗られた貨物船『輝川丸』の同船者が見つかり年末に東京で当時のパーサー(事務長)をしておられた一柳さんを招待して47年振りの会合が持たれるとの事、色々交流の輪が広がっています。
写真は、サンパウロにおける日本海外移住連盟の50周年式典にエクアドルから参加された拓大OBの井上さん(第八話収録)の式典で乾杯の杯を取り挨拶中のものを使用しました。


ここに逞しき『ハポネス』あり(7) サンパウロ新聞WEB版より
この国は可能性ある理想郷 バックパッカー から貿易会社社長に近沢真理さん

 赤道が通るエクアドルといえば「とても暑い国」だと連想しがちだが、港町グアヤキルや東部熱帯地方など一部の地域は別としても、この国はフンボルト海流(寒流)の影響で、比較的すごしやすく温暖な地域が多い。

 とくに山岳地方にある首都キトは、海抜二千八百五十メートルに位置するため、年間を通して日本の春のような気候である。高地なので蚊に悩まされることもない。

 町並みも一五三五年に建立された南米最古の教会がある旧市街、近代的かつ緑豊かな新市街に区分されており、南米各都市の中でもキトは環境に恵まれている。

 日本の移民政策が行なわれなかったエクアドルには日本人が少なく、同国日本大使館によると邦人定住者は国内に百七十三人(〇七年度)を数えるのみ。そのうちキトでは八十二人(同)が生活している。

 そんな僅かな日本人のひとり、貿易代理店を経営する近沢真理さん(六一、北九州市出身)は、自身のオフィスでスペイン語の現地新聞を広げ、毎日じっくりとこの国の情勢を読む。

 「独立して商売をするんだったら日本人が少ない国のほうが可能性があると思い、エクアドル移住を決めた」という近沢さんは、北九州大学ラテンアメリカ研究会の学生だった六七年、キャバレーのウエイターなどのバイトで稼いだ資金で、二年間の南米放浪を経験した。

 その時は渡船費用を節約するために、貨物船でペルーのカヤオ港まで行き、そこからヒッチハイクで南米大陸を回った。寝床は同郷の移民の家に泊めてもらっていた。

 最終目的地の米国ロスアンゼルスでは、レストランで三か月間の皿洗いをして渡航費を稼ぎ、帰国している。

 「いまでいうバックパッカー(鞄一つで世界を放浪する貧乏旅行者)の走りみたいなもんだったよ」と、その当時を振り返り豪快に笑う。

 帰国後、北九大を卒業した近沢さんは、その頃ブラジル進出を計画していた第一製薬に勤めた。「ブラジルに駐在できるかもしれない」と見込んでの入社だったが、その目論みは見事にはずれてしまう。

 勤めだして三年後に同社はブラジル進出を断念。自身もはじめからエリートコースに乗る気などなく退社届けを出した。

 そして心機一転、「駐在ではなく南米に移住しよう」と決意を新たにした。

 七五年当時のエクアドルは石油の輸出がはじまったばかりで、「これから発展する可能性がある国だと思った」という。また、日本人が少ない地とあって「エクアドルこそ俺の理想郷だ」と、二十八歳で再び日本を飛び出した。

 キトに移住して間もなく、進出企業の伊藤忠商事から声が掛かった。その後、同社に六年間勤務したのち三十五歳で独立。現在の貿易代理店を立ち上げた。

 日本人とは接触の少ないこの国で、スペイン語を駆使しながら独立開業するのは人一倍の努力を要したが、近沢さんの勤勉、誠実さがエクアドル人から認められ、事業は伸びた。

 現在は主にアジアで生産される農工用機械や合成繊維などの輸入代行を行なっている。

 仕事以外での趣味は週二回のゴルフと、「日本人が少ないので対戦相手が一人しかいない」と嘆く将棋。キトの生活環境は抜群にいいが、唯一の問題は同国のケーブルテレビが英語版のNHKしか配信しておらず、そのため日本の情報には疎いことだという。

 このような国に永住した宿命なのか定かではないが、日本人女性との縁がなく、還暦を過ぎた今でも独身生活を続ける近沢さん。「自宅に帰ればエプロンをつけて台所に立ってますよ」と、苦笑いしていた。

(つづく、吉永拓哉記者)

写真:オフィスで現地の新聞に目を通す近沢さん

2008年10月31日付


ここに逞しき『ハポネス』あり(8) サンパウロ新聞WEB版より
時代遅れの漁法に「活」 福祉事業も手掛ける井上順八さん

 マグロの水揚げ港として東太平洋最大の規模を誇るマンタ市に日本人の『顔役』がいる。南米各地に散在する拓殖大学OBのひとり井上順八さん(七〇、川崎市出身)がその人だ。

 かつての「拓大生」といえばバンカラ学生で知られたが、井上さんはその先入観を覆すようなインテリ的な風格を漂わせていた。

 マンタ一の高級リゾート・ホテル『オーロベルデ』の最上階が井上さんの住居で、テラスからはエメラルドグリーンの太平洋が一面に広がり、無数の漁船が停泊するマンタの港が見渡せた。

 年間に二十万トンのマグロを水揚げする現在のマンタ市は、エクアドル国内でも急速に発展している町のひとつだが、その陰では井上さんによる功績も大きい。

 拓大卒業後の六一年から四年間、キトの国立中央大学に留学した経験がある井上さんは、七九年にマンタ市の水産会社から呼び寄せられ、妻と子供二人を連れてエクアドルへと渡った。「四十二歳厄年での一大決心だった」と当時を語る。

 同市へ来た当初は、地元漁師たちの漁法知識の乏しさに驚かされた。「連中(地元漁師)はマグロを釣ると、船上に放置したまま港まで運んでいたので、どのマグロも鮮度が悪かった」という。

 そこで井上さんは日本の船員を招いて延縄漁法を取り入れ、漁師たちに釣ったマグロの血抜きと、背骨にある神経を取り除くことを教えた。さらに、氷入りの木箱にマグロを入れて鮮度を保つことも指導した。

 このようにして保存状態のよいマグロを水揚げした漁師から、通常よりも高値で買い取ってあげたため、漁師の生活も向上していった。

 井上さんが勤めた水産会社は労働争議により解散してしまうが、自身はこれを機に独立。冷凍技術を普及させ、鮮度の良いマグロを米国や日本などへ輸出した。「東京築地の寿司屋でもエクアドルで水揚げされたマグロが握られるようになった」という。

 マンタの水産業を伸ばすことに成功した後は、「無理をせずにこの町の貧しい人を支援したい」とNPO法人プロアルテ財団を設立し、ボランティア事業にも力を入れている。

 同市にある市営孤児院は、井上さんが〇一年に日本政府からの草の根援助の取得に尽力し、実現させたもので、今では三百人の子供が院生活をしているほか、障害者のリハビリ施設などが建物の中に設けてある。

 また、ロータリークラブや日本マンタの会ら有志とともに、市内の貧困地域にサンホセ託児所を建てた。ここでは、両親が共働きをする貧しい家庭の子供に教育を施し、地域の住民には昼食を提供している。

 そのほか託児所の二階で、貧困家庭の主婦にエクアドルの名産品である象牙椰子(タグア)のアクセサリーの組み立て方や、パナマ帽の編み方など職業訓練も実施する。 現在の井上さんはマグロの貿易業から身を引いたものの、中華料理の素材であるフカヒレ、フィッシュ・モウの輸出を手がけ、「戦後廃れてしまったエクアドルの伝統手工芸品を再び世界へ」と、タグアボタンやパナマ帽の生産輸出に情熱を注いでいる。

 「原住民は熱帯雨林を伐り、木材を売って暮らしていたので、私らが原住民から森に自生するタグアの実を買い取るようにしたんです。収入さえ得れば原住民も森林を伐らなくなるから」と、環境改善とビジネスを両立させ、町の雇用者を増やすことにも貢献する井上さん。

 まさにマンタの『顔役』として市民から敬愛される日本人がそこにいた。

(つづく、吉永拓哉記者)

ここに逞しき『ハポネス』あり(9) サンパウロ新聞WEB版より
バルサを植林から製材まで 製材所経営の羽富博さん

《エクアドル》

 世界一軽い木として知られるバルサ(パンヤ科)は断熱性、断衝性にも優れているため、ボートやヨット、冷蔵庫、ガスタンクの内張りなど使用されている。

 この木は中南米の熱帯地域に自生しているが、海外へ向けてバルサを生産・輸出しているのはエクアドルのみである。

 同国の熱帯高湿度地域に位置するケベド市とサントドミンゴ市の境で、おそらく日本人としては世界唯ひとりであろう羽富博さん(六四、茨城県出身)が、バルサの植林・製材所を経営している。

 「エクアドルのような小国でもバルサのビジネスは景気がいいですよ。伐ったら全部売れちゃうので、常にストックはゼロ」と、羽富さんの笑いは止まらない。

 以前は森に自生していたバルサを無制限に伐っていたが、エクアドル政府から自生林伐採の規制がされてからは、すべて植林に切り替えた。

 現在は四百ヘクタールの土地に約二十万本のバルサを植えており、毎月十コンテナを出荷する。同国にはバルサの製材所が十四か所あるが、出荷量では羽富さんが一番だ。

 「この木は成長が早くてね、発芽から四〜五年で高さが二十メートルを超える。その頃が伐採時で、五年を経過すると木が重くなって商品価値がなくなるんだよ」

 製材所では従業員がまるでスーパーマンのように軽々と巨木を持ち上げていた。そのバルサを製材し、十二日間乾燥釜に入れる。同釜に備え付けてあるボイラーの燃料は、この地域で栽培されるアフリカンパーム椰子の皮や、バルサの切れ端を使用する。

 「バルサの品質は、いかに乾燥されているかがキーポイントですから」と説明しながら、羽富さんが乾燥釜の中に入ると、一瞬で同氏のメガネが曇ってしまった。

 「釜の中にバルサを入れて二日目ですが、いかにこの木が湿気を含んでいるか、おわかりになったでしょ」

 羽富さんは名古屋物産の駐在員として、一九七二年にエクアドルへ赴任した。その後、独立して貿易商を営んでいた時に、日本の大手玩具メーカー『バンダイ』から、模型飛行機の素材として使うバルサの発注を受けた。これを機にグアヤキル市近郊でバルサ製材所を設立した。

 羽富さんが事業拡大のチャンスを掴んだのは、同国で手広くマニラ麻の栽培をしていた古川拓殖の二代目社長・古川欽一氏(故人)との出会いだった。

 小さなバルサ製材所をやっていた頃、古川社長からバルサ事業の共同経営を提案された。その際、「金の心配ならするな」といわれた一言が羽富さんの心を動かした。

 古川社長の支援で現在の場所にバルサ製材所を移してからは、二百五十キロ離れたグアヤキル市の自宅にはほとんど帰らず、製材所に泊まりこみで働いた。「エクアドルに来てから、つい昨年まで一度も日本には帰らなかった」と豪語するほど、一生懸命バルサ事業に打ち込んできた。

 古川社長亡き後は、羽富さんと次男の直樹さん(三一、二世)が二人三脚で製材所を経営している。年々、世界で需要が増すバルサ材なので、うなぎ登りで業績が上がり続ける。

 「いまの私は肩書きだけ社長で、実質は直樹が経営者だよ。彼は若いし、私のような日本人とは考え方が違うから仕事も早いしね」と、跡取り息子を横目に嬉しそうな顔を見せる羽富さん。

 現在は製材所よりもグアヤキル市の自宅で過ごす時間のほうが長く、趣味の盆栽やラン栽培、油絵などに熱中して優雅に暮らしている。(つづく、吉永拓哉記者)

写真:製材済みのバルサを軽々と担ぐ羽富さん

2008年11月4日付け

ここに逞しき『ハポネス』あり 終 サンパウロ新聞WEB版より
マニラ麻指導農業で成功 日本人最高齢者の田辺正明さん

《アクアドル》

 今年一月に九十歳を迎え、誕生日会にはエクアドルに定住する日本人たちが一堂に集って田辺正明さん(広島県出身)を祝福した。田辺さんは同国在留邦人の中で最高齢者である。

 自ら「インパール作戦の生き残り」だと胸を張る田辺さんは、少年期から青年にかけてフィリピンのダバオ州で過ごした。一家は同州でマニラ麻の栽培を行なっていた。

 一九四〇年に日本へと帰国後、翌年には志願兵としてビルマに出兵。ジャングルでの戦闘や捕虜生活などを経て四六年に復員した。

 その後、日本郵便逓送で働いていたが、海外生活が長かったせいで日本の環境が肌に合わず、当初はブラジル移住を希望していた。

 ところが妻の千代美さんから、「ブラジル移民は苦労すると聞いたことがあるから、ブラジルへ行くなら離婚する」と告げられて、これを断念。

 そんな時、フィリピン時代に親しかった古川拓殖の創設者・古川義三氏(故人)から、声が掛かった。

 古川氏はフィリピンと気候風土が似たエクアドルの低地でマニラ麻の栽培をはじめたため、同麻の経験者である田辺さんに「エクアドルでマニラ麻栽培の技術指導をしてくれないか」と話を持ちかけた。

 海外への移住思考が強かった田辺さんは、渡りに船だとばかりに古川拓殖の指導者として、六三年に単身でエクアドルへと渡った。

 三年後に一度帰国して千代美さんを口説き落とし、翌年の六七年、二人の子供たちを連れてエクアドルに移り住んだ。

 田辺さんはかつて、フィリピンで暮らしていた経験があるのでまだいいが、夫から騙された形で連れて来られた家族はたまらない。

 「ここで生活を始めた頃はコロラド族ちゅうて、顔や体に黒い縞模様を入れて、髪の毛を真っ赤に染めた原住民がたくさんおったんよ。ジャングルの奥地なんで昼間でも薄暗いじゃろ、そりゃもう怖あなって涙が出よった」と、千代美さんは入植当初を語る。

 田辺さんはマニラ麻の技術指導を終えたあと独立し、プランピロート地区で自ら同麻の農園を経営した。農業は順調だったが、日本人が少ない国なので、日本食や日本の娯楽には長らく事欠いていた。

 田辺さんが農業に専念する一方で、千代美さんの楽しみはというと、キトに本部があった日本人向けラジオ放送『アンデスの声』を聞くことだった。同ラジオを通じてブラジル在住の広島県人と文通をしていたこともあった。

 現在は田辺さんの農園を長男の正裕さん(五七、日本生まれ)が継いでいる。同氏は農業のセンスがよく、父が携わっていたマニラ麻、アフリカンパーム椰子を管理するとともに、二百五十ヘクタールのバナナ農園を経営する。

 正裕さんは食の安全を重視して自然循環型農法を取り入れ、日本のマスコミから注目を集めた結果、それまでエクアドルの輸出業者に卸していたバナナを、自らの手で日本へと輸出するようになった。

 今では、「エクアドルで日本人が育てたバナナ」をキャッチフレーズに『田辺農園』ブランドとして、日本一円の各スーパーマーケットなどで大好評を得ている。

 田辺さんとその家族はこのようにしてエクアドルの地に根付き、同国の輸出促進に大きく貢献している。

     ◎

 南米の太平洋側、ペルー、エクアドルの大地で「ハポネス」と呼ばれる彼らは、あらゆる分野において成功を遂げていた。

 『南米大陸に日本人あり』

 海を渡った初代日本民族の功績は、永遠とその国の子孫や国民の間で語り継がれていくことだろう。(おわり、吉永拓哉記者)

写真:プランピロートの自宅で仲良く暮らす田辺さん一家

2008年11月5日付け

関係コメント
菅間さん下記書き込みをBLOGに掲載しております。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/37683577.html
47年振りの同船者会を開かれる井上順八さん。
47年前に室蘭から出港した貨物船「照川丸」に乗り込まれた若き菅間さんが47年振りに日本でエクワドルのマンタから帰国される井上順八さんを囲み同船者仲間4人が集まると聞いておりますが、この出来事は今年の大きなイヴェントの一つと位置付けております。『私たちの40年!!』HP、ML、BLOG等で何気なく伝えるニュースが失われていた青春の一コマを思い出させ現実への繋がりを実現させることが可能でその一つがこの井上さん、山崎さん、神谷さんとの47年の遠い昔に「照川丸」船長と撮ったセピア色の記念写真が日時を経た平成20年12月に新しい写真となって世界に流れる。有難い時代になったものです。
皆さんの会合で撮られた写真を今年の大事な一枚として是非このBLOGにも紹介したくご連絡をお待ちしています。井上さん始め皆さんに宜しくお伝え下さい。
写真は、11月のサンパウロで井上順八さんと学移連50周年記念式典の会場で三重大の角谷さんが撮られた写真です。態々プリントして送って下さったものです。

和田さん
{私達の40年}のお陰で47年ぶりの再会が叶うこと全く夢の如しです。
照川丸の船長は既に鬼籍に入っておられますが、再会の当日学生4人が世話になった同船のパーサーでありました一柳さんをお呼びして会に花を咲かせることにしています。ご期待下さい。
菅間



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