内田雅夫さんの寄稿 『弓道の話』
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ブラジルのシャープの駐在員としてサンパウロ、マナウスの工場に勤務されて居られた内田雅夫さんが帰国後も生まれ育った神戸のご自宅から大阪に勤務しておられ難しい業界の第一線で激務をこなす傍ら週末は母校の神戸市外国語大学で弓道の指導をしておられご自分でも弓を射ておられ週末に一度は『私たちの40年!!』ML用のPCにもアクセスして呉れているとのことで週に一度弓の話、その他のコメントを送って呉れています。
今回、1月10日に撮られた写真を送って下さったので新しいお便りから古いお便りに辿り『弓道の話』として纏めて寄稿集に収録させて頂くことにしました。使用ソフトの関係で1編1万語までとの制約がありこれ以前の話を一緒に収録できませんでした。またの機会とさせて頂きます。
写真は、3枚送って頂きましたが、矢張り緊張感溢れる弓を射る内田さんのさんの写真を使わせて頂きました。
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和田さん 皆様
入替戦に望んだ我が、弓道部ですが、結局、上の1部への復帰は果たせませんでした。
結果は、今、OB担当の3年生からメール連絡ありました。
1部最下位 龍谷大学54中2部Aグループ大阪経済大学66中2部Bグループ神戸市外国語大学 55中でした。我が弓道部は、実力は50-55中の間。だから実力どおりの結果と 思います。本当に、実力以上はでないものです。スポーツ何事もそうですが。
平成20年11月9日、私の今年のリーグ戦も終わりました。また、来年。
大学弓道のリーグ戦は、的中のみを競います。4名の選手が20射します。合計160中。
私のリーグ戦は昭和44年が一番印象に残っています。3年生。リーグ戦でがんばったこと、プレッシャーに打ち勝ったことは、いまだに、何かあるときの支えになっています。
19歳の秋、あてなければ同僚に申し訳ない、そして負ける、という非常に単純な、しかし強烈なプレッシャーに心臓が痛くなったことが二度。
会社に入って、眠れなかったことはあったが、心臓がいたくなったことはなかったです。それほど強烈でした。でも、それにうちかって、責任を果たした感じは、19歳のそのときのそのままに脈々と私の血を巡っています。本当にかけがえのない財産です。
中南米の修羅場をくぐることができたのも、弓のおかげ。サンパウロ弓道会をたちあげてやろうとおもいましたが、出来なかった。これは一つ心残りですが。
弓をいまだに練習しているのも、そのときの高揚感が忘れられないため。的中したときの嬉しさが忘れられないためです。
実は、私はエースでして、弓道部のみんなにとっては、私はあたることがあたりまえの状況だったのです。
だから、私があてるとみんなの顔が、ああ、そうか、と当然の顔をしているその顔を見るのもうれしかった。
学生達には、財産を作ろう、といって1年生を勧誘し何とかあてるようにコーチしています。ことしは、1部には復帰できなかったですが、4年生の女子は相当なプレッシャーに耐えて、やっとリーグ戦を終了しました。きっと、彼女達も、後輩の指導に情熱を燃やしてくれることでしょう。こういう人達を知っているというのも私の大きな財産です。
若い人達が弓を引く姿は、ほんとうに元気をくれるというか、若返ります。見学したい方はいつでもお連れしますのでおっしゃって下さい。
次回は、学生時代の弓と今、私が引いている弓とどう変わってきたかをお話します。
力と若さで引く弓と、作法どおり、職人芸の積み重ねで引く弓とどう違うかです。人生の年輪というか、逆にオレもとしをとったなと思うこともあります。
内田雅夫
内田さん
内田さんがサンパウロ駐在の頃に果たし得なかったと言うブラジル弓道会が現在はあるようですね。別電(サンパウロ新聞WEB版)の中に下記、記述があります。
また、東京外国語大学留学中に弓道に出会って以来「静かで、きれいで、心が落ち着く」と、その魅力に引き込まれたというエリーザ・コヘイアさん(二七、リオ出身)は、今年三月に『ブラジル弓道会』を立ち上げた柳井信雄同会会長(六一、大分県出身)とともにリオから参加。「これからブラジルで弓道を広めていく上でとても良い機会になった」と、日本の弓道家たちの来伯を喜んだ。
和田さん
そうですか。ブラジル弓道会が出来ているのですね。将来、私になにかお手伝いできることはないのかな。
と思います。ブラジルの人達とのびのびと弓が引けるのは楽しいと思います。日本ではどうも制約が多くのびのびとはいかないですね。弓に限らず何事も。
写真の件。いい写真をと思い、とろうとろうとしてなかなかです。もう少しお待ち下さい。
私の弓は、学生の熱血弓道でして、そんな堅苦しいものではありません。ご参考まで我が弓道部のOB会のブログがあり、そこへの本日の書き込みの抜粋をご紹介します。和田さんも弓を始められたら?
剣道、柔道が国際化、変質化してしまっている今、弓道はまだ、アウテンチコでアウテンチコのものこそ、ブラジル日系社会のよりどころとなるのではとサンパウロ弓道会を立ち上げるときに思っていました。
レスリング化した柔道はJudoであっても柔道ではありませんよね。以下、ご紹介します。
OBの皆様
私の弓シリーズ。 6月15日以来の書き込みです。ごぶさたしております。
第26回。
ちょっと長いですが、主観的リーグ戦観戦記です。
リーグ戦の後の雰囲気。
良い成績の余韻がただよい、なんともいえない気持ちの良い若い人達です。みんな眼がいい。日本の若者達は将来が見えず、全体にもう一つですが、外大は、リーグ戦というひと仕事やり終えた安堵感があり、眼が輝いており頼もしいです。
私の中り。
リーグ戦の最中もそうでしたが、私もあたりました。それは現役生の気合の乗った練習の雰囲気のなかで参加したからです。自己最ラッシュ、と豊留君が言っていましたが練習中に一回20射おわると、あっちで19中、こっちは18中など、何事もないかのように普通でした。
そんな中、立ちに入れてもらって引いたこともあります。10月ごろ、12射の立ち。私は非常に気持ちよく引けて10中したとき、4年生の乾さんが、なんでそんなあたるんですか?と聞いてくれて、短期決戦ならまだまだ負けない、あたるんや、とか応えたことおぼえています。気持ちよく嬉しかった。
乾さんはご承知のように、全試合第二的で出場、おそらく平均15中の七割五分の的中率だと思います。大前はいわずと知れた五嶋さん。試合で二十射皆中をやってくれました。外大初の快挙です。その両手を私は、私の両手で抱え、ようし俺もあやかって二十射皆中をやる、とか言ったこともおぼえています。これも10月の中旬。
私の弓は単純な学生の弓。気合が乗ればあたるのです。
今年は女子の集中力が目立った。私も、”女子もすなる皆中というものを男子もしてみんとてするなり、ではないですが、をのこたるわれなんぞこそせざらむや、神佑けあれ二十射皆中の気概、心境にて取り組みました。今でも、いつか、きっと二十射皆中の夢は捨てていません。きっとできる。
現役に栄光あれ:
女子は一部復帰を逸したものの、弓道部女子始って以来の驚異的な成績で、四年生は自信と安堵感と、もしもう一度引けたら、という気持が混じりながら、昇段審査にそなえ、下級生を指導している姿が、”大人”でした。下級生もそんな4年生に信頼を置き、教えを聞いています。
足、腰がだいぶお痛そうな寺内先生も、体配、作法のご指導をされておりました。
私の考えは、1部校にふさわしい雰囲気を作り、そのなかで精神を集中して中てる練習をすることが大事だと考えています。
清新な雰囲気のある道場。清冽な凛とした気が流れる道場になるように工夫することが大事だと思います。それに、昇段審査の練習のときくらいしか出来ないきっちりとした八節の稽古。とく残身。道場内でも行儀作法も一部校にふさわしいものにしないとコンスタントに55-60中はやはり出ない。彼らは出来ます。
きっと、彼ら自信がそのような「気」を作り挙げてくれると確信しています。
ちなみに、私は今年現在迄で、合計で1,061射しています。年初の目標が1,000射でした。成績は、5月中旬から記録しだして、おそらく6割はあたっていると思います。
弓のかしひ号が6月中旬に壊れ、修理中。今はもう引退したやまゆき号を引っ張りだしていますが、その替わりを充分に勤めてくれています。
二十射皆中にむけてがんばります。
やまゆきの姿ふたたび夏秋とはげみ尽くせよ一射絶命
今回は二首、詠みました。おおかたのご批評を。
内田雅夫
内田 さま
日本の大学もそろそろ冬休みに入るのでしょうか?ブラジルの大学は多くの学部では既に授業が終了し新学期(3月まで)長い夏休みに入ります。もたもたしている次女の茜は現在土木を勉強していますが(音楽部のピアノ科、バイオの生物学部、建築学科と渡り歩き未だに連邦大学の学生を続けています)既に夏季休暇に入っていますが卒業前のエスタヂオ(研修)が義務付けられており現在建築会社で研修をしています。既に10年近い大学生活、良く投げださないなと感心しています。妹の小百合は既に卒業して4年以上経っています。
内田さんの若い人達への温かい目がどこから来るのかと不思議に思っていましたが、弓の指導を通じて何時も学生さん達と接しており次代を担う若い人達を指導し期待を寄せているからだと分かりました。
写真が出来たら送って下さい。お待ちしております。
和田さま
わが、外大弓道部はまだ練習していますよ。休みはどうも12月の20日すぎくらい
かららしいです。
写真。いいのがとれない。いっその事、かつて昇段審査をうけた34年前にもどり紋付袴でほんとうの礼射(れいしゃ)姿をとか、思ったりしています。弓には射品、射形というものがあり、どうしても満足のいくものでないとご披露できません。
女性の見合い写真みたいなものかな?(いまどき、見合い写真など撮る若い女性
がいればのはなしですが)6日土曜日。寒かったです。久しぶりの寒さ。前日と比べて10度もさがる気温。でも、道場へ行きました。彼ら若い人達は練習していた。
もう4年生は、来ていないです。リーグ戦はほんとうに弓漬けといった毎日でしたので、卒業を控えた最後の年、やることもあるでしょう。
3年生が、主将、マネジャーを勤め、2年生があたりを磨き、1年生は射を完成させ、来年の活躍を期すといった具合。
寒いときは中らないです。だから、"あて気"を出さず、良い射をしよう、と心がけで引きました。学生達にもそのように指導しました。
弓には弓道八節といって、戦国以来の各流派が編み出した術を、近代的なスポーツとして弓道八節という形でまとめています。
ちなみに私は小笠原流です。あの行儀作法の礼法でいわれる小笠原流ですが、実は弓を引くときの作法なのです。立ち居振る舞いを無理なく無駄なく、結果、端麗に行う。決して堅苦しいものではなく、特に女性は本当に美しくなります。
馬で駆けて的を射抜く流鏑馬(やぶさめ)も私たちの流派です。小笠原流騎射といい、馬術もならわないといけない。
余談はさておき八節は次ぎの動作です。
足踏み(あしぶみ) スタンス Se posicionar para entrar processo tiramento
胴造り(どうつくり) 体を整える Fazer posicao fisica e espiritual
弓構え(ゆがまえ) 以降、ポルトガル語のみ。Estar pronto para comencar tiramento
打ち起こし(うちおこし) Comencar, ficando tranquilo pedindo Divino que me faca bom tiramento.
引き分け(ひきわけ) Sintindo a linea do centro do corpo e espiritu,desde cabeza ate terra, dividir o arco e a cordao ao frente e atras.
会(かい) Pretender para atingir a melhor oportunidade de fazer enviar a fleita com toda forza interna do tirador, e dar-lhe a vida a fleita como si fossi ele mesmo vai voar junto ate o branco.
離れ(はなれ) O segundinhinho que Divino dar instruccao ao tirandor de separacao do arco e a fleita.
残身(ざんしん) 残心とも書きます。 Pos todo processo, satisfeito ou se arrepender, mantendo a forma terminada de tiramento uns segundos, tentar a escutar a voz do Divino como foi o seu tiramento.
なかなか、難しいですね。思ったままを書きました。 唯一絶対神を奉じるブラジル人に弓にも神様がいるなんて、信じられないでしょうね。邪宗門、異教徒です。
神の意にかなう射ができたときは満足、出来なかったとき、(普通このときはあたらない)が次回を誓う。常に、「一射絶命(いっしゃぜつみょう)」を心がけます。全身全霊をこの一射に打ち込み、弓道八節を完璧にやることを実践し、神意にかなう射が出来たとき、結果、的中したとき、は命を捧げても良いという気概で引きます。
口で、いうのは簡単ですが、なかなか。一日に二十射しますが、時々、2−3本よいのがでます。こんなときは、弦音(つるね、musiquinha no segundinhinho da separacao que nascem arco e cordao juntos, a mesma eh a voz de divino) が軽く、鋭く響きます。
学生にこんな辛気臭いことをいっても始らないので、気合、気概だけをいい、とにかく当てろ、中らないのに御託を並べるのは年寄りの射だ、と燃え上がらせます。
するとあたるのです。実は、燃え上がる若い人を見て、自分が燃え上がる、より若い射が出来るのです。
いつか、ポルトガル語で弓のことを書いてやろうと思っていますが、上記の[ 私たちの40年] への寄稿が "はしり"です。和田さん、その気にさせて頂いて、ありがとうございます。
もっと、語彙を選び、本質を言わないといけないのですが、まずは、"お口よごし"とご笑納下さい。
内田雅夫
内田 さま
寒さが増した日本で今も週末には弓を引いておられるのですね。
若い女子学生さんとの接触は、内田さんの活力の源泉なのでしょう。
堅苦しい理論より日常の生活を通じての説明は良く分かり人気があるのでしょうね。
一緒に練習風景を見学させて貰えれば私自身が写真を撮ることもできるのですが。
神戸にお住まいの鳥を撮らせれば関西一の香西さんにお願いして見ようかとも思っています。
紋付袴の昇段審査を受けられた三四年前の見合い写真?も見てみたいです。
弓の話奥深いですね。小笠原流とのこと。流派がちゃんとあるのですね。
弓を引くにも八節というプロセスがあるとのこと興味深いです。
特にポルトガル語での各節の説明が見事です。これでだいぶん理解できました。
恵子が一月から書道に付いてのポルトガル語のサイトを管理運営するとのことで現在準備中ですが、ブラジルの人達に日本文化の一つ一つを分かりやすく説明するのは結構難かしいですね。
内田さんが弓に付きポルトガル語の解説を書かれる積りとのこと、少しづつ出来上がった部分から恵子のサイトに掲載させて頂くのも同じ日本文化の紹介サイトとして面白いかも知れませんね。ご検討下さい。
和田さん
恵子さんが書道についてのWEBを管理運営されるとの事。おもしろいですね。というのも、弓の稽古は書道のように、楷書、行書、そして草書という風に段階的に哲学化してゆくからです。
先週、ポルとガル語で解説したものは、その「草書」の部分です。
初心者は一心に楷書を習います。やることは一番多い。行書、草書へ行くほどだんだんすることは少なくなって行きます。
楷書を20年くらいやってやっと、行書へのステップとなります。行書のレベルになると、もうエンドレス、いつのまにか草書のレベルにはいる下準備が出来上がるということになり、ふと気がつき、そうだ、一度、草書を書いてみようとなるわけです。
暑くても寒くても、いつも、「一射絶命」を心がけて的に相対することが必要です。私は、まだ楷書のレベルの中間の後半かな? まだまだです。
今、「私たちの40年」で茶道のお話が表、裏、武者小路とされています。きっと、茶道の作法も楷行草のステップで修業されるのかな、とおもいます。 お茶席に招かれても、お茶の作法を知らなくとも、小笠原の弓術作法どおりにやれば恥ずかしい思いをすることはないと言われたことあります。
さて、一度、例で見てみましょう。
例えば、足踏み。楷行草で解説するとこうなります。
草書=スタンス、気概。 的との一体感、これから行う行射(弓を引く動作を行射と言います。ぎょうしゃ)を万全におこなうための基本。心根を清く無心に保つべく、当然、白足袋は洗って、清潔なものを着用する。
行書=的と両足親指を結ぶ線を一致させて立つ。重心は体の中心に置く。心は胃の後ろに納めるように鎮める。
楷書=的の中心と両足親指の先を結ぶ線をイメージし一直線にする。両足の開きは60度。個人差や弓の強さ、矢の重さによって微調整するが基本的には変えない。重心は、左足の親指と右足のかかとの左後ろを結ぶ線、並びに右足の親指と左足のかかとの右後ろを結ぶ線、この両線の交差するところが重心。頭のてっぺんからまっすぐに錐きりを下ろしその錐の先端がこの両線の交差点と一致すること。背筋、腰の位置がきまらないとそうならない。などなど、ほんの一部をご紹介しました。時間があれば、ポルトガル語にしたら面白いと思う。
恵子さん、楷書、行書、草書はどう翻訳しましたか?弓ではこうなるのかな、と思ったりしています。
kaisho =Tudos os coisas , o que deve se executar, ou completer para arco-puxa.
Gyousho =Compreender se a combinacao de tudos os coisas para dar harmonia a cada coisa para ultima harmonia total.
Sousho=Pensar a significacao de cada coisa o que deve fazer ou completer, como se fossi a expressao do espiritu do tirador ou seja, filosofia dele mesmo, no execucao da arco-puxa.
Arco-puxaはまだダメですね。楷行草の訳語もきっと、ぴったり来るポルトガル語があるはずです。ちょっと、考えないと出てこないです。全体に、本質を考えた訳語をあてないといけないと思います。大層な、僭越なことをやっており、おはずかしいです。
余談ながら、そういえば、日本の会社も終身雇用できっちりと人材を育てていたころは、無意識のうちに楷行草のステップで行われていたのだと言う気がします。若い頃はいそがしかった、部長課長があんまりバタバタしていないのを見てうらやましかったです。
終身雇用は崩れてしまい、いま、人材の枯渇になやんでいます。中途採用で、例えば、行書レベルの人を雇っても、その会社の、筆、墨、半紙、文鎮、が違い、ちょっと違うと思います。草書ならなお更。
内田雅夫
内田 さん
週一度の内田さんの弓談義何時も楽しませて頂いています。
弓の道にも書道の楷書、行書、草書と云った風に段階的に哲学化してゆくとの説明分かりやすいですね。
恵子も内田さんのご意見を参考にさせて貰いたいとのことですが、正直言ってまだ自分の言葉で語るほどその道に達しておらず良くわからないというのが本当のようです。
ただ、書道の楷書、行書、草書と云った違いは書体そのもので楷書から入り行書、草書と段階を経て習得、理解して行くものではないのではないかとのコメントをしています。
たとへば一生楷書だけを得意としてその道を極めて行く方もいますし楷書、行書はそれなりに筆の動きと云うか筆順はある程度規則があるそうですが、草書になると全く筆順等がなく崩した書体を書き易いように筆を動かすことから楷書、行書と全く違う(反対の動き)をすることもあり大きな違いがあるようでこれは段階的な哲学化としての1線上にあるものでなく矢張り書体の違いでの説明が必要ではないかとのコメントでした。また恵子が自身が遣りたい事を伴侶とは言え勝手に云いふらして貰いたくないと叱られており反省している次第です。
楷書、行書、草書のポルトガル語訳は難しく書体としてそのままカイショ、ギョウショ、ソウショとして使用適当な説明を加えるより良い方法はないのではないかとのことです。
和田さん 内田さん 今日は。
茶道では真、行、草と言ってました。
真に入る前に、めちゃくちゃたくさんのお点前(てまえ)があり、11月から4月までは炉のお点前、5月から10月までは風炉のお手前。
炉は寒いときなので、火のものをお客様のほうにということでお釜が客よりになりますが、風炉は水差しがお客様よりにすえられます。
でもブラジルでは夏と冬が反対なので、日本とは逆になるのでしょうか。
めちゃくちゃたくさんのお手前のお稽古のあと真にはいりますが、ここからは本にはなく、先生から弟子に伝授。
これは毎月払う月謝とは別料金で、他の稽古とは別の日に行われていました。《私の場合)
真、行、草が終わりますと、家元から家元への伝授で一般には公開されませんので、家元以外だれも知りません。
あや子
内田さん 皆さん
昨日のNHKニュースで京都の国宝三十三軒堂で成人式を迎えた女性が12メートル?の的に向かって真剣に弓を引いている所が報道されていました。内田さんのお便りで弓に付き幾らか理解できる段階にあり大変興味深く見ました。内田さんのお弟子さん(神戸外語大学の女生徒)の方も参加しておられたのでしょうか?UPで撮られ目が動いている女性も写し出されていましたが、精神統一は結構難しいようですね。弓を射た後の姿勢等も良く教育されているように見えましたが専門家の内田さんから見られた感想をお聞きしたいですね。インタビュウに答えていたお嬢さんの『良き大人になりたい』とのコメントが印象的でした。
和田さん
寒いです。でも、今日も稽古して来ました。そうそう、やっと写真をお送りします。見て下さい。これは1月10日に取ったものです。
さて、京都の三十三間堂は例年成人式を迎えた若い人達に弓を引く機会を与えています。
良い記念になると思います。特に、若い女性が、あでやかな振袖を白いたすきできりりと締め、はちまき、袴を付けて60メートル先の大的を射るのは一生の記念になると思います。
わが、外大の2年生達も参加しています。男子は黒紋付五つ紋そして袴の正装で、左胸は袖を脱ぎ、素肌で引くのが作法。これを「肌脱ぎ(はだぬぎ)」といいます。女子は「肌脱ぎ」はせずたすきと「胸当て」で胸部を保護します。
着物を普段きたことがない男みたいな後輩の女学生もやはり日本人、たすきに鉢巻、袴をはくともう立派な眼もくらむ美少女です。的をねらう目は真剣そのもの。
普段の的と違い、距離が遠い大的は一旦定めた狙いを、そのままで約10-15度左手の角度を上げます。
腰から上、両腕の肩の線と体の中心線の十文字をそのままにゆるませずに角度を取るのは難しい。
この間約8-9秒。これがくるしいのでねらいどころではないのです。
矢も、細身の竹、矢羽根も低い滑走しやすい距離を稼ぐ大的用のものを用います。
私が女子学生に注意するのは、着物でやる以上は、作法としてイヤリング、ネックレス、指輪などは付けない、汚れた足袋ははかない。背筋は折れない、まげない。
出来るだけ大きく引き、わかさをぶつけよと言っています。
男子には、自分の家の紋を染め抜いた紋付で引くので、その紋に恥じない、立派な弓を引け、と檄を飛ばしています。
そもそも、江戸中期、大名家が平時になお尚武の気風を養うためはじめました。徳川御三家の尾張徳川家と紀州徳川家が、藩の威信を賭けて毎年、最後は一騎打ちを行いました。
三十三間のお堂の縁側の端から端まで、一晩かけて、徹夜で、何本の矢を通せるかを競うのです。
日本記録は紀州の和佐大八郎(わさ・だいはちろう)の8,133本(13,053本のうち)、これに次ぐのが、尾張の星野勘左衛門(ほしの・かんざえもん)の8,000本(10,542本のうち)です。
尾張の星野がまず1660年ごろ、8,000本の記録を打ち立て、くやしい紀州は藩を挙げて絶対に負けるなとそれこそ血の出る努力の上、20年後の1680年代、ついに8,133本の前人未踏の大記録で雪辱を果たしたのです。紀州藩の名誉のため和佐大八はそのためほぼ一生をこれにささげました。
徹夜で弓を引き続け、何本通せるか、であり、矢を準備する者、弦が切れたときにすばやく換える者、弓が折れたりしたときの換え弓、或いは、握り飯、水を持ち控えている者、など、一大プロジェクトで命がけの競技でした。
55万石の紀と61万石の尾の争いはさながら武道オリンピックのようであったと言われています。
現在はお堂が国宝に指定されているため堂前の庭で行われています。和佐大八や星野勘左を偲び一手(ひとて、二本)引きます。なにしろ、何千人の参加者がいるので京都府弓道連盟のお世話するひとたちは大変です。
私は、昭和54年くらいを最後に出ていません。私は大まとが苦手で、三十三間堂で中ったためしがありませんが、学生には内緒です。
もっと稽古して、出ようと思っています。
内田雅夫
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