
生きて残っていたぶらじる丸!!
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私たちのあるぜんちな丸の姉妹船ぶらじる丸が中国で解体されたものと思われていたが10数年後の最近中国南部の町【湛江=じんこう=ヂエンジャン】で観光施設として残されていたことが分かり関係者を驚かせると共に喜ばせている。2009年1月27日付けの朝日新聞、国際ニュースのアジア欄に【ぶらじる丸、生きてた 解体の予定が…中国で観光施設に】のニュースを目聡く見つけてくれたサンパウロの麻生 悌三さんが知らせて呉れました。
昔の蚕棚はないようですが船内に海鮮レストラン、水族館などをつくり、船の歴史も展示しているという。華麗な船体を今に残すぶらじる丸は、現在【海上都市「湛江号」】として湛江海浜公園にその雄姿を留めている。戦後移住船の唯一の生き残りとして今後ブラジル移住者にとっての歴史的実存建造物として神戸の元移住センターと共に訪問客を引き付けるのではないかと思います。是非見に行きたいものですね。
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サンパウロの麻生 悌三さんがこんな嬉しいニュースを目聡く見つけて呉れて知らせて呉れました。あるぜんちな丸と姉妹船として合い前後して建造されたぶらじる丸が鳥羽の港より中国南部の港町、湛江と云う所で観光施設として働いているとのニュース是非行ってみたい町です。麻生さん有難う御座いました。
ぶらじる丸、生きてた 解体の予定が…中国で観光施設に 朝日新聞国際ニュース版アジアより転載
戦後の大型移民船として活躍し、96年に解体が決まった2代目「ぶらじる丸」が、いまも中国南部の港町、湛江で観光施設として働いている。約1万6千人の南米移民者を運び、日中友好船としての歴史もある船。懐かしむ日本人が訪れている。
白い船体に青いライン。赤い煙突は昔の面影を残す。前部が貨物用に使われたスリムな船は、湛江の海浜公園に係留されていた。
「久しぶりだな」。42年ぶりにぶらじる丸と対面したベトナム在住の吉田栄作さん(67)が静かに語りかけた。
上着の内ポケットにしのばせた乗船券は「67年9月2日出航、横浜発ロサンゼルス行き、354号室」。315ドル。当時のレートで11万3400円。大卒初任給が約3万円の時代だ。
「解体されたと聞き、二度と見られないと思っていた。感動です」。米国で経営学修士を取り、鉄鋼マンとして活躍するきっかけが、ぶらじる丸での航海だった。
戦時中に撃沈された初代を継いで54年に就航したぶらじる丸は、多くの歴史を背負っている。52年に南米移住が再開され、この船は移住の象徴になった。日中友好青年の船第一船として天津にも航海した。
退役後の74年、三重県鳥羽市で海洋パビリオン「鳥羽ぶらじる丸」に生まれ変わるが、入場客が伸び悩んだ96年、所有者の商船三井が解体を決定。中国へ曳航(えいこう)され、その後の消息は途絶えた。
実は、引き取り先が現れていた。「もったいない。まだ使えると思った」と語るのは「湛江海上城市旅遊娯楽」の張華生会長(62)。船を買い取り、97年、海上都市「湛江号」として再出発させた。
船内に海鮮レストラン、水族館などをつくり、船の歴史も展示している。
最後の船長だった川島裕さん(87)は「あの美しい船が生きているとは」と驚く。鳥羽ぶらじる丸観光の元営業課長、中井克昌さんによると、鳥羽市民を集めて見に行こうという話が出ているという。(湛江〈中国広東省〉=奥寺淳)
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