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【アマゾン日系社会を築いた草創の日本人】 サンパウロ新聞特別連載記事より
昨年の日本移民100周年祭の後、今年はアマゾン日本人移民の80周年に当たる。9月にはトメアスー移住地、、べレン、マナウスの3都市で記念式典が予定されている。サンパウロ新聞でもこの80周年祭に向かって9月まで知られざるアマゾンの日本人移住の歴史を連載で紹介して行くとのことです。その第一弾として掲題の【アマゾン日系社会を築いた草創の日本人】が5回の連載で紹介されている。アマゾン日本人移民発祥の地であるトメアスーの歴史を紐とき同地の第1回移民の話を松本浩治記者が署名入りで掲載しています。
写真も第3回の連載記事に掲載されていた加藤昌子さんの写真をお借りしました。


アマゾン日系社会を築いた草創の日本人(1) サンパウロ新聞WEB版より

 アマゾン移民80周年記念企画―第1部
  今年〇九年は、アマゾン日本人移民入植八十周年の節目の年にあたる。一九二九年に第一回アマゾン移民四十三家族百八十九人(うち、単身九人)が、アカラー移住地(現トメアスー)に入り、気候風土の違う灼熱の「緑の地獄」の中でマラリアの被害に遭いながらも、「黒ダイヤ」ともてはやされたピメンタ景気に沸くなど、数々の試練と喜びの中で信頼ある日系人の地位を築き上げてきた。「アマゾン日本人移民発祥の地」であるトメアスーの歴史を振り返るとともに、現在も同地に在住している三人の第一回移民たちに当時の生活の様子など話を聞いた。(松本浩治記者)

 「黒ダイヤ」に挑んで 日本人移住地発祥の地トメアスー

 まずは、トメアスーの八十年の歴史の流れを簡単に記してみる。

 アマゾン日本人移民導入の経緯については、すでに今年の正月特集号で、アマゾン移民史研究家の堤剛太氏が記載しているので、ここでは、第一回移民たちがアカラー移住地に入植したところから振り返ってみたい。

 「アマゾン日本移民六〇周年記念史」(汎アマゾニア日伯協会編)によると、第一回移民は一九二九年七月二十四日、「もんてびでお丸」で神戸港を出航。アフリカ周りで九月七日にリオデジャネイロに到着し、翌八日に「まにら丸」に乗り換え、同月十六日にベレンに着いている。

 ベレンで数日間休養した後、南米拓殖株式会社(南拓、福原八郎代表)が用意した汽船「アントニーナ丸」に乗り、アカラーの波止場に着いたのは、同月二十二日の午前八時半だったという。

 第二回移民は同年十二月に三十五家族百八十六人、第三回移民は十八家族が翌年七月にそれぞれ到着。ちなみに、戦前移民(二九年〜三七年)は三百五十二家族二千百四人、戦後(五三年〜八〇年)は二百七十八家族と単身者二百六十四人を合わせた千七百九十七人がトメアスーに入植している。

 開拓当初、南拓は永年作物としてカカオを奨励した。しかし、カカオの生産は思うようにいかず一九三一年には、現在のCAMTA(トメアスー農協)の前身となるアカラー野菜組合が発足。移民たちは自給自足を含めて米や野菜類を栽培。ベレンに出荷したが、当時の地元民は野菜などを食べる習慣はあまりなく、当初はほとんど売れなかったという。

 三三年、南拓社員の臼井牧之助氏がシンガポールから持ち込んだピメンタ・ド・レイノ(コショウ)の苗二十本のうち、二本が活着した。

 しかし、この頃から悪性マラリアが猛威を振るい、三三年一月に百五十八人だった罹病者は、同年十二月には三千人にまで膨れ上がっている。

 その影響などで、移住地からの脱耕者が相次ぎ、戦前に入植した三百五十二家族のうち、脱耕者は二百七十六家族千六百三人(三五年〜四二年)にも上ったという。

 三五年頃から南拓の事業が破綻。小作人闘争問題の責任を取り、福原八郎南拓代表が帰国。南拓直営の試験農場が閉鎖された際、第一回移民の加藤友治氏と斎藤円治氏の二人にコショウの苗が配布され、両人の地道な努力により苗が増殖。戦後にはトメアスーに新しいピメンタ景気を及ぼすことになる。

 三五年、野菜組合が発展し、アカラー産業組合に改組。南拓の事業破綻に伴い、同組合の存在が益々重要になっていった。 (つづく)

 (写真=第1回アマゾン日本人移民たち(写真=トメアスー文化農業振興協会提供)

 2009年1月28日付


アマゾン日系社会を築いた草創の日本人(2) サンパウロ新聞WEB版より

活発な農村活動を復活 暗雲の戦中トンネル抜け出して

 一九四二年一月、ブラジルは日本に対して国交断絶を布告。伯国に在留する日本人は敵性国民としての扱いを受けることになった。

 その上、同年八月十五日には、ベレン沖でドイツ軍の潜水艦がブラジル人たちが乗った客船を撃沈。乗客二百七十人が死亡する事件に端を発し、暴徒化したブラジル人がベレン市内で日本人を含めた枢軸国民の家屋や商店などを焼き討ちにした。

 ブラジル連邦政府は枢軸国民保護の名目で、アマゾン各地の日本人をはじめ、ドイツ人、イタリア人をアカラー移住地に軟禁した。同移住地はその後、パラー州の管理下となり、州営のトメアスー移住地となったという。

 戦後、アカラー産業組合の経営権を取り戻す運動が始められ、四六年三月、青壮年十七人から構成された「アカラー農民青年同士会」を結成。移住地の生産物を輸送する専用船「ウニベルサル号」を完成させた。

 また、州政府によって凍結されていた運輸権をはじめ、組合資産や運営権などを移管させ、四九年にはアカラー産業組合から「トメアスー産業組合(CAMTA)」へと改称した。

 五二年には、ピメンタが大高騰。当時のCAMTA組合員の植付本数だけでも四十四万本に上り、年産八百トンに達した。移住地は黄金時代を迎え、二階建ての「ピメンタ御殿」が建ち並んだ。

 五三年には、戦後第一回移民二十五家族百二十九人がトメアスーに入植。移住地はピメンタ景気に沸き、活況を呈していた。

 六〇年には第二トメアスー移住地の建設が始まり、トメアスー野球連盟が結成されるなど、生活面にもかなりのゆとりができてきた。この頃の中心的組織はトメアスー組合で、文化・医療などあらゆる面でトメアスー発展の中心的存在だった。

 六二年には、文化協会の前身である「地区連合会」が結成。組合から文化活動が分離された。六六年には、トメアスー文化協会の改称され、会館も落成。移住地の文化、スポーツや日本語教育の拠点として発展した。

 しかし、この頃からピメンタに根腐れなどの病害が発生。それまでのピメンタ一本やりのモノ・カルチャー(単作)から脱却した多角経営化が叫ばれ、組合はメロン、ハワイマモン、マラクジャなどの営農作物を奨励した。

 八一年には、トメアスー農村振興協会(ASFATA)が発足。遠方への輸送用として熱帯果樹の加工も必要視され、日本政府の援助を受けるなどし、八八年にはASFATAジュース工場が完成した。

 同八八年には、援護協会十字路病院が落成され、農村電化電話組合(COERTA)も発足。翌八九年には全村電化が完成して移住地に電気が行き渡るなど、生活面での向上も一層進んだ。

 しかし、この頃から日本への出稼ぎが始まり、九〇年代初頭には「各家族で一人は出稼ぎに行っている状態」となった。

 九一年には、ジュース工場の運営が、農村振興協会から組合に移管。九三年には全村電話化が完成している。

 九〇年代半ばには、組合員の高齢化と、日本への出稼ぎによる後継者の減少が問題となり、組合は組織の縮小と合理化を断行した。

 九八年には、COERTAの所有していたパラー州電気公社株が高騰。株の売却により、組合ジュース工場の拡張を実施し、日系団体運営の回転資金などにも回された。

 現在、ジュース工場はマラクジャをはじめ、クプアスー、アセロラ、アサイ、グラビオーラなど十種類以上の熱帯果樹の加工が行われ、ポウパと呼ばれる冷凍果肉がブランド商品として都市部や日本、欧米などにも輸出されるなど、成果を上げている。

 また、出稼ぎで帰伯した次世代が、アグロフォレストリーと呼ばれる「森林農業」にも取り組んで農業を継続。世界的な環境問題への意識が強まる中、今年入植八十周年を迎えたトメアスーへの注目度がさらに高まっている。

(つづく・松本浩治記者)

写真:現在の十字路(クワトロ・ボッカス)

2009年1月29日付


アマゾン日系社会を築いた草創の日本人(3) サンパウロ新聞WEB版より

内助の功高く移民母の鑑 「木村天皇」と言われた父を持つ加藤昌子さん

 クワトロ・ボッカス(十字路)からトメアスー方面に八キロほど離れた場所に、現在は独りで住んでいる加藤昌子さん(七九、秋田県出身)。父親の木村総一郎さん(故人)は、トメアスー農業組合創設者の一人で「木村天皇」と言われたほど厳しい性格の持ち主だった。

 昌子さんの義弟にあたるトメアスー文化農業振興協会会長の海谷秀雄氏の話によると、総一郎氏は時間にも非常に厳しかった。組合には一番に顔を出し、職員が五分でも遅れようものなら「今日はお前の仕事は無いから、帰れ」などと言い、不真面目な組合員を除名にしたエピソードもあったという。

 また、トメアスーで農業に貢献した人に贈られる「臼井牧之助賞」の設定を提唱したのも総一郎氏だった。

 その厳しい父親が、ピメンタ景気全盛の時代に故郷秋田の小学校(母校)に多額の寄付を行なったことがある。晩年に一時帰国した際、地元関係者が鼓笛隊のパレードを伴って総一郎氏を歓迎したという。

 生後三か月でアカラー移住地に入植した昌子さんは、七人弟妹の長女。当初は十字路の入口付近に住んでいたが、八歳になった時に「アグア・ブランカ」と呼ばれる、現在の組合ジュース工場の手前の場所に移った。木村家族は二、三百町歩の土地で、綿、米、野菜づくりなどを行っていた。

 昌子さんは少女時代、十字路への三キロの道のりを歩いて学校に通った。当時はまだ周辺には原始林が生い茂り、たまに馬車が通っていた風景を覚えている。

 家庭では、厳しい父親の影響で会話は日本語だけ。長女として家事や畑仕事の合間に弟妹の面倒を見る毎日で、昼も夜も休んでいる暇など無かったが、「でもその厳しい生活が後になって良かったと思う」と昌子さんは、親の躾(しつけ)に感謝している。

 ピメンタの苗をトメアスーで広めた故・加藤友治氏の長男にあたる邦蔵さん(九九年に七十三歳で死去)と、親の勧めにより二十歳で結婚した。加藤家も兄弟が多く、十一人の大家族。舅姑(しゅうと)、小舅姑(こじゅうと)も多い中、家事・畑仕事に従事したが、「父親の厳しい教育で育ってきたので、何ともなかった」と昌子さんは当時の生活を振り返る。

 夫の邦蔵さんは、アイデアの豊富な実業家で、ピメンタ栽培のほかに牧場を持ち、町に薬局、製材所、ガソリン・ポストを開いたり、食肉業も営業するなど手腕を見せた。

 仲間の面倒見も良く、大家族で手一杯の家庭に誰ともなく連れてきては、食事を振る舞った。昌子さんはそうした突然の客にも「はい、はい」と嫌な顔をすることなく食事の準備をするなど、「内助の功」を発揮してきた。

 楽しい思い出は少ない生活だったが、「義母さんがすごく優しい人だった」ことが、昌子さんにとっては大きな支えになっていた。

 義母から味噌作りを教わり、家庭用以外に移住地をはじめ、その後はベレンなどにも販売するようになった。日本食品が手に入りにくい中で、味噌は大層喜ばれた。「今は作る量が減ったね」と話す昌子さんだが、それでも月間四〜五百キロは作っているという。

 子どもは三男一女の四人で、それぞれ大学などを卒業し、ベレンやマナウスなどの都会に出てしまったが、今でも年末年始には必ず家族が顔を合わせている。

 「一年に一回、全員が揃うのが楽しみです」と昌子さんは、嫁いだ当時から変わらない家で生活を続けている。

 (つづく・松本浩治記者)

写真:今も味噌作りを行なっている加藤昌子さん=昔ながらの大きな家の前で

2009年1月30日付


アマゾン日系社会を築いた草創の日系人(4) サンパウロ新聞WEB版より

栄枯盛衰の黒ダイア 普及の功績ある父を持ち歴史と共に歩んだ横山礼子さん

 前回紹介した加藤昌子さんの隣家に住んでいるのが、義妹にあたる横山礼子さん(八〇、山形県出身)だ。天井が高く、がっしりした二階建ての「ピメンタ御殿」に、夫の利得右ェ門(りゅうえもん)さん(八五、北海道出身)と二人で暮らしている。

 礼子さんは、トメアスーでピメンタの苗を増やしたことで知られる故・加藤友治氏の長女にあたる。

 友治氏は、少年時代に「酒どころ」として知られる山形県で、酒屋に丁稚奉公した経験があり、学校卒業後に貿易会社にも勤めていたという。

 父親の代には農業をしていたが、「分家すると土地が小さくなる」とし、友治氏は第一回移民としてアマゾンに行くことを決めた。

 アカラー移住地に入植した時、礼子さん自身はまだ一歳。当時の記憶は無いが、幼少の頃から「計算ができなくては困る」として友治氏から直接、珠算や日本語を教えてもらったことを覚えている。

 八歳頃からは、南米拓殖株式会社が建てたブラジル学校に通い、日本語だけでなくポルトガル語も勉強した。父親はたまに伯字新聞を持って来ては、「何が書いてあるのか読んでみろ」と言って翻訳させた。「『何だ分からないのか』と怒られたこともあり、「一生懸命勉強したものですよ」と礼子さん。家庭内での日本語会話を義務付けられた子弟が多かった当時、斬新な友治氏の教育方針で育てられた。

 一九三三年に臼井牧之助氏がシンガポールから持ってきたピメンタの苗を増やし、「黒ダイヤ」と呼ばれるまでに発展させた友治氏たちの貢献は、今なお語り継がれている。

 「私は、父がどこから(ピメンタの)苗を持ってきていたのか知りませんでしたが、とにかく『水をかけなさい』と言われ、毎日忘れずに水をやっていました」(礼子さん)

 また、友治氏は、山形の酒屋に勤めていた経験を生かし、自宅で自ら日本酒を醸造し、開拓にあえぐ初期移民たちにも振る舞ったという。

 戦争中は敵性国語として日本語での会話が禁止され、トメアスーに強制的に追いやられた同郷出身の家族を引き受け、しばらくの間、一緒に暮らしたりもした。

 警察が自宅にやってきて、日本語関連の書籍などがないか捜しに来たこともあった。友治氏は皇室関連の写真や書籍など日本から持ってきた大切なものを事前に茶箱に詰め、山に持って行って埋めていた。

 礼子さんは山形県人の世話により、早くに両親を亡くしたという利得右ェ門さんと二十歳で結婚した。

 利得右ェ門さんは、兄の邦蔵さんの幼馴染みで、邦蔵さんからピメンタの苗を入手。当初は、川の近くにバラックを建てて住んでいたが、五十年代半ばからピメンタ景気に乗り、現在の場所に二階建ての家を造った。

 その頃はピメンタが二十俵(一トン)で、カミヨン(トラック)が一台買えた時代。礼子さんは当時、アメリカ製の「SINGER」ミシンを二台購入し、現在もそのまま使用し続けている。

 二男三女の子宝に恵まれたが、子どもたちは自分の意志で十代にもなると、「もっと勉強をしたい」と主張。ベレンの街で寄宿しながら、勉学に励んだ。

 その頃からピメンタの病害が発生しだし、七〇年代後半にはマルパウーバというトメアスーとコンコルジアの中間にある場所に農地を購入した。

 その間、礼子さんはトメアスーの自宅裏で葉野菜などを栽培して組合の市場に販売。その資金で二週間ごとにベレンの街へ行き、子どもたちの生活必需品などを渡す生活を続けた。

 子どもたちは全員、大学を卒業。農業を継ぐことなく、それぞれの人生を歩んでいる。マルパウーバの土地も二〇〇〇年前後には売却した。

 夫婦二人で暮らしながらも礼子さんは、今でもピメンタを二千本ほど自宅付近に植えている。

 「父親が苦労してこの地で育ててきたピメンタが、一本も無くなってしまっては申し訳なくてね」

 親への思いを胸に、礼子さんは日々を送っている。(つづく・松本浩治記者)

写真:礼子さんの父親・加藤友治さん

写真:「ピメンタ御殿」に住む横山夫妻

2009年1月31日付


アマゾン日系社会を築いた草創の日系人(終) サンパウロ新聞WEB版より

トメアスーこそ生甲斐の天地 快活な野球少年だった山田元さん

 クワトロ・ボッカス(十字路)の交差点から程近い「ピメンタ御殿」に住む山田元(はじめ)さん(八一、広島県出身)。八十歳を超えているとは思えないほど背筋がピンと伸び、若々しい姿が印象的だ。

 ピメンタ景気全盛の頃の一九五四年に建てたという二階建ての家屋は、ノコギリで手引きした木材をカンナがけさせたとし、長年にわたって磨き上げられた床は黒光りしていた。

 父親の義一さんは、広島県の「猫の額のような土地」(元さん)で農業をしていたが、将来性が無いとしてアマゾンに渡ることを決意したという。

 元さんの記憶が、鮮明にあるのは十歳頃からのこと。当時、アカラー(現:トメアスー)では米やマンジョカ芋のほか、南米拓殖会社の指導で野菜など日銭になるものを植え、ベレンに出荷していたが、「最低の生活」だった。医療施設も整っていない中、「一か月に一回はマラリアに罹(かか)って四十度の高熱にうなされ、生きているのが不思議なくらい」という状況だった。

 元さんは同地で小学五年生までブラジル学校に通ったが、中学はベレンにしかないため、経済的余裕の無さから進学できなかった。

 午前中は学校に行き、午後からは家の野良仕事を手伝ったが、父親は軍隊上がりの厳しい性格で、「こき使われた」という。

 そうした中でも野球が盛んで、元さんも少年時代から野球にのめりこんだ。

 「十字路に小さな売店があって、お使いを頼まれて行くと、そこに同年代の友達がいて一緒に野球をやって遊んでしまう。その売店に行くのが楽しみでね。母親からは毎回『早く帰って来なさい』と言われても、どうしても一時間くらいは帰って来れない。普段は厳しい父親も野球が好きだったから、けっこう大目に見てくれましたね」

 母親のスエノさんは社交的で、食堂などの店と作物などの取引を行っていたため、地元ブラジル人の知り合いも多かった。そのため、戦争が始まり日本人が敵性国民と見なされても、山田家はブラジル人官憲からも比較的寛大に扱われた。

 しかし、それでも日本人が公の場所で集まって話することなどはできず、「八割近い日本人が牢屋に入れられた」と元さん。当時、ベレンの町に住んでいた日本人はアカラーに強制退去させられ、山田家でも『高島』『渡部』という二家族を引き受けた。

 気丈だった母親が心臓麻痺で四十八歳の若さで亡くなり、元さんは、親日家のブラジル人支配人の家で下働きをしていた豊江さん(旧姓・今村、〇七年に八十歳で死去)と互いに十七歳の若さで入籍。翌四六年五月に披露宴を行なった。

 五〇年代後半はピメンタ景気の全盛期で、平均四、五万本を植え、年間収量は百二十トンに上り、従業員も百二十人くらい使っていた。土地面積は全部合わせて二百五十町歩ほどあったという。

 農作業の合間に、好きだった野球にも更に力を注いだ。チームでは「六番ショート」がポジションで、キャプテンも務めた。

 七〇年代前半には、ピメンタが病害を受け、カカオやアセロラなどの生産に切り替えた。しかし、「農業はやればやるほど苦しくなる」時代となり、二〇〇〇年には本格的な農業には見切りを付けた。

 〇七年四月にトメアスーの西本願寺の住職をつとめていた坂口陞(のぼる)さんが亡くなり、その後を元さんが管理している。

 二十年ほど前に、渡伯後初めて日本に一時帰国し、広島県の実家を自分の目で見た際、「こんな所にいたらどうしようもない。父親たちがブラジルに行きたがった理由がよく分かった」という。 「トメアスーは日本人の集団地で、結果的にはこちらに来て良かったと思う」

 今年八十周年の節目の年を迎えて、元さんはそう実感している。

 (おわり・松本浩治記者)

写真:野球選手時代の写真を手にする山田元さん



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