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【ドミニカ共和国略史】  渡邉 裕司さんの寄稿文です。
以前ジェトロ・サンパウロ所長をしておられた渡邉 裕司さんは、現在風光明媚なドミニカ島にJICA派遣ドミニカ共和国専門家として活躍されております。サンパウロ勤務当時何度かサンパウロでお会いしておりこのサイトにもエタノール工場見学記、サブプライム旋風、レアル高にもの申す、チェ・ゲバラに付いて等寄稿して頂いていますが、今回は、渡邉さんにお願いしてドミニカ移民等でお馴染みのドミニカに付いて分かり易くその略史を纏めて頂きました。トルヒーヨ政策の一つとして触れておられますが、その内是非悲惨を極めたドミニカ移民に付いても渡邉さんらしい観点からその経緯と歴史を綴って頂きたいと思っています。時効判決が出たにも関わらず、小泉首相が異例の謝罪と慰労金を全ドミニカ移民に出した事実を私たちも記憶しております。
「コロンブス以後、中米カリブにおけるスペイン植民のハブとして栄え衰退・・・・その後欧州列強フランスとアメリカの覇権に翻弄されたカリブの小国ドミニカ共和国。アメリカが容認した反共独裁政治の終焉とともに、ここでも”反米帝ナショナリズム”の自我が芽生え、そして時代の大きな流れの中に消えた」と渡邉さんご自身が書いておられるドミニカ共和国略史を覗いて見て下さい。
写真は渡邉さんに送って頂いた「カリブの海は限りなく碧く」です。


ドミニカ共和国略史
(1)スペインの植民(1492 年〜)
アメリカ大陸が世界地図に未だ存在しなかった15 世紀末、世界の2 大強国スペインとポルトガルはマルコポーロの「東方見聞録」に触発され、アジアの香料と黄金を求めて新航路開拓に覇権を競った。1488 年、ポルトガルがアフリカ南端喜望峰に達すると、一方のスペインは西周りでインド航路を目指しコロンブスは偶然、新大陸アメリカに達した。ポルトガルのバスコ・ダ・ガマが東回りでインドに到達する6 年前のことであった。コロンブスがエスパニョーラ島に達した1492 年当時、原住民タイノ族が約35 万居住し島はアイティーHaití(山の多い土地)と呼ばれた。スペインの植民が進むにつれ殺戮、金鉱採掘、都市建設、農作業等苛酷な強制労働と欧州からもたらされた疫病、山岳部への逃避による食糧不足などで人口はほぼ絶滅、代わってアフリカから奴隷労働力が導入され1518 年以降、黒人奴隷が本格的にエスパニョーラ島に送り込まれ、砂糖プランテーション農業の発展を支えた。
コロンブス像(写真1別掲) エスパニョーラ島に上陸するコロンブス(写真2別掲)

(2)フランスに領土割譲(1697 年)
金ブームの後、砂糖産業が勃興したが16 世紀後半にはブラジルの砂糖生産が拡大して欧州市場を席捲、サントドミンゴへの船団寄港も激減し製糖工場は壊滅した。代わって皮革産業が経済を支えたが、経済は衰退し英仏蘭の欧州後発国が海賊、密輸の形でスペインの勢力圏カリブに台頭し始めた。1586 年に英国の有名な海賊フランシス・ドレイクがエスパニョーラ島サントドミンゴを襲撃した記録がある。首都は防御に要塞化されたが、手薄な島の西部にはフランス人が侵入し始め、結局1697 年、スペインは条約により島の西3 分の1 を仏領サン・ドマングとしてフランスに割譲した。これが後のハイチである。

(3)全島がフランス領に(1801 年)
サン・ドマングが18 世紀にカリブ屈指の砂糖生産国に成長すると、スペインはフランスに奪われた西側の領土回復を狙い、また英国はサン・ドマングに反映し始めたフランス革命(1789 年)の影響が英領カリブ諸島にも波及せぬよう、フランスに宣戦布告して1792 年サン・ドマングに進攻した。しかし反撃に転じたフランス軍は善戦し1801 年、サントドミンゴが陥落、エスパニョーラ全島はフランス領となった。

(4)ドミニカ共和国成立〜ハイチから独立(1844 年)
フランス革命の自由平等思想はその後、植民地サン・ドマングに世界初の奴隷廃止をもたらし更に1804 年のハイチ独立に繋がった。一方、スペインに進攻したナポレオンが1814 年に敗北しイベリア半島から撤退するとスペインはサン・ドマング東側領土を回復したが、その経済は衰退し人口が減少し1822 年、国力で勝るハイチに占領された。ハイチ人の大量入植、重税、徴兵で抑圧的占領が続いたのに対しフアン・ドゥアルテが率いる独立運動が起り1844 年、旧スペイン領はドミニカ共和国として独立した。しかしハイチによる併合の脅威は続き1861 年、ドミニカ共和国はスペインの保護を求めてその支配下に復帰したが、1865年スペイン支配への反発から再び独立した。

(5)アメリカの軍事統治(1916 年〜1924 年)
19 世紀から20 世紀にかけてカリブ地域の支配地図を変えたのが1898 年米西戦争におけるアメリカの勝利であった。1898 年、ハバナ港の米艦船爆沈事件を契機にアメリカはスペインに宣戦、フィリピン、グアム、プエルトリコのスペイン植民地を獲得し、キューバを支配下においた。1899 年、アメリカはキューバをスペインから独立させ、グァンタナモ海軍基地租借、キューバへの干渉権等を規程した条項を新憲法に盛込ませ(1901 年、プラット修正条項)、1902 年新共和国となったキューバを保護国とした。
アメリカはその後、ドミニカ共和国の対欧州債務に関連してその関税徴収権を確保し軍事干渉も可能にする協定(1905 年)を結ばせドミニカ共和国を事実上の保護国とした。しかし1914 年に第1次大戦が始まるとアメリカはドイツの影響力を懸念し1915 年にハイチに、翌1916 年にドミニカ共和国に軍事侵攻しハイチには1934 年まで、ドミニカ共和国には1924 年のオラシオ・バスケスが大統領に選出されるまで軍政下においた。

(6)トルヒーヨ独裁の時代(1930 年〜1961 年)
アメリカ軍政下のドミニカ共和国ではアメリカ資本による大規模な砂糖産業が発展しインフラ整備が進み、アメリカ的消費社会が形成されたが、アメリカ軍撤退後もアメリカのドミニカ共和国支配が続いた。この間、軍部で急速に頭角を現したラファエル・レオーニダス・トルヒーヨは1930 年、クーデターで実権を握りその後、大統領に就任したが、第2 次大戦後まで31 年間、一族は砂糖など主要産業、土地を私物化し反体制派を弾圧するなどして専制体制を敷いた。トルヒーヨの迫害はハイチ人にも及んだ。国境地域の非合法居住ハイチ人口の増大に危機感を抱いたトルヒーヨは1937 年、推定1 万を超えるハイチ人を軍を動員して殺害した。事件は世界中に知れ渡り国際的非難に動揺したトルヒーヨ政権は事態の収拾を図ろうとハイチ政府と交渉し75 万ドルの賠償で合意したが、50 万ドルが支払われ残りは履行されなかった。
その後、トルヒーヨ政権は「国境地域のドミニカ化」政策を推し進め各地に農民を移住させるとともに欧州などからの外国移民も奨励した。第2 次大戦後の1956 年7 月〜1959 年9月まで続く日本移民の導入(260 家族、計1,319 名)もその政策の一環として実施され、西部国境地方サバンナ気候の耕作不能地域に入った日本人家族の悲惨さは戦後日本移民史に大きな汚点を残すことになった。
アメリカは反共のトルヒーヨ体制で内政の安定を期待しその独裁を黙認したが、圧政への国内の抵抗は次第に激しくなりトルヒーヨ暗殺計画の発覚が続いた。外からも1949 年に続き1959 年のキューバ革命直後、カストロのキューバに支援された反トルヒーヨ亡命ドミニカ人部隊が上陸するなど不穏な動きも高まった。「第2 のキューバ化」を恐れた米ケネディー政権は国内のトルヒーヨ打倒工作をCIA を通じて密かに支援した(注)。1961 年5 月30日夜半、首都から隣町サンクリストバルの農園に向かう車中でトルヒーヨは待伏せた一団によって銃撃され即死した。トルヒーヨ暗殺は後の民主政権によって「正義の裁き」
Ajusticiamiento として称えられ、暗殺実行グループ18 名の名は祖国の民主主義回復と国民解放の英雄として現代史に深く刻まれている。1961 年11 月の総統長男ラムフィスの国外亡命を以って長く暗い独裁の時代は終わった。
(注)暗殺に使用された武器のうち米国製M1 ライフル3 丁がLawrence Berry、Thomas Stocker の2 名の米CIA 要員によってトルヒーヨ襲撃グループに提供された(「Historia Dominicana」Jaime de Jesús Domínguez 著2006 年)
トルヒーヨ総統(写真3別掲) 総統長男ラムフィス・トルヒーヨ(右)(写真4別掲)

(7)内戦とアメリカの軍事介入(1961 年〜1965 年)
長期独裁に幕を閉じたドミニカ共和国内は民主化の期待に沸き立ったが、独裁の残した代償は高く民主政治の安定に5 年の歳月を費やすことになる。1962 年末、38 年ぶりの民主的選挙が実施され、1939 年に反トルヒーヨ派がキューバで結成した左派「ドミニカ革命党」PRD のフアン・ボッシュが1963 年2 月大統領に就任した。ボッシュは新憲法に大土地所有制の禁止(農地解放)、同一職種男女平等賃金、企業収益配分への労働者の参加、嫡出子・非嫡出子の権利平等化、国内農産物価格の国家保証など革新的政策を盛込み、価格統制、汚職摘発、軍による兵器の不正な高価格調達を認めないなど左傾化を強め軍、教会、地主、産業界の保守勢力と対立した。ボッシュを共産主義者と見る反政府保守派は米ケネディー政権の支援を受け政権発足7 ヶ月のボッシュ政権をクーデターにより崩壊させた。軍は民間人から成る「3 頭体制」Triunvirato で臨時政府を発足させたが、国民の抵抗は激しさを増し反政府ゲリラ活動も各地で起った。左派勢力は1963 年ボッシュ立憲体制への復帰を求める一方、右派はトルヒーヨ政権最後の大統領としても仕え独裁崩壊後の1962 年3 月まで臨時政府を動かした右派ホアキン・バラゲール(改革党PR を結党)の返り咲きを期待した。
1965 年4 月、フランシスコ・カアマーニョ大佐率いる軍部左派の決起で臨時政府が倒れる(4 月護憲革命)と、これを支持する大衆が呼応し国内は左右勢力が衝突する本格的内戦に発展した。事態は左派優勢に推移するかに見えたがボッシュの復帰を望まない米ジョンソン政権は直ちに42,000 の海兵隊を投入して軍事介入し左派を一挙に制圧、9 月内戦は終結した。護憲革命政府首班カアマーニョ大佐らはキューバに逃れ、その後1973 年、反政府部隊を組織してキューバからドミニカ共和国南部カラコール海岸に上陸しゲリラ戦を展開したが、間もなく政府軍に殲滅された。しかしアメリカとバラゲール政権に抵抗したカアマーニョ大佐の国民的人気は高く、サントドミンゴ市内にある大佐のモニュメントには今なお訪れる人が絶えない。
フアン・ボッシュ(写真5別掲) フランシスコ・カアマーニョ(写真6別掲)

(8)民主化とバラゲールの時代(1966 年〜1996 年)
1966 年5 月選挙で軍・旧体制の支持を得て発足したバラゲール政権は共産主義勢力を弾圧し新たな強権的支配体制を築いたかに見えたが、政治の手法としては利権の巧みな分配を通じて旧保守層から反体制派を広範に取込みアメリカの支持も背景に政権基盤を確立した。その後、再選を繰り返し政治の安定を背景にドミニカ共和国経済を拡大に導きインフラ整備を進めた。1978 年、1982 年の選挙ではバラゲール政治に不満を持つ層の支持するドミニカ革命党PRD に政権を譲ったが、1986 年には改革党PR を改称した右派「キリスト教社会改革党」PRSC 候補のバラゲールが政権に返り咲き、経済は観光産業、輸出産業(ニッケル等伝統品)の成長、移民送金、対内直接投資増大で発展を続けた。バラゲールは結局、トルヒーヨ政権崩壊前後の約2 年間(崩壊直後は国家評議会首班)、1996 年〜1978 年の3 選、1986 年〜1996 年の3 選で計7 回、24 年間大統領を務めるという現代史では珍しい長期政権を維持した。特にトルヒーヨ政権ではその成立の1931 年以来、一貫して行政の中枢で重用され大統領職を務めた末期は「傀儡大統領」とも言われたが、政治の機を見るに秀いで実務にも精通した政治・行政能力が独裁時代にも民主化後も買われ期待されると言う稀に見る政治家となった。
1996 年の選挙では左派ドミニカ革命党PRD 創設者フアン・ボッシュが別途、新たに結成した中道左派政党ドミニカ解放党PLD を継承した党首レオネル・フェルナンデスが当選した。
2000 年選挙で政権を奪還したPRD のメヒーア政権を挟んでフェルナンデス政権が2004 年、2008 年と現在3 期目に入っている。PLD は中道化し議会で多数を占め安定的な政治、経済運営を続ける。
ホアキン・バラゲール(写真7別掲)

(お詫びとお知らせ)使用ソフトの関係で渡邉さんから送って頂いた貴重な写真を本文に掲載することができず別掲の形で『私たちの40年!!』関連BLOGに掲載させて頂いております。お手数をおかけしますが下記BLOGのURLで関係写真を見ながら読んで頂けると分かりやすい手思います。筆者の渡邉さんのご意向をソフトの関係とは言え十分に伝えることができず大変申し訳ないと思っています。

http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/39250462.html




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