麻生 陽(キヨシ)さんのお話を伺いました。
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元南日伯援護協会の会長をしておられた麻生 陽さんのお話を伺う機会がありました。最近麻生さんが作られた納豆、豆腐、竹輪等を週に一度届けて頂いており大変重宝していますが、お宅の裏庭にゴーヤが沢山とれるとのことでゴーヤの写真を撮らせていただく目的で麻生さんのお宅を訪問しました。次女の久美さんは南伯では著名な陶芸家で御主人と一緒にガスの炉を備えて制作活動を続けておられアトリエを見せて頂き作品の数々を展覧しながら恵子が長居をするので私も麻生さんとお茶を飲みながら歓談し、麻生さんが移住して来られた頃からのお話をお聞きする機会がありました。下記に纏めて置きたいと思います。
写真は色々撮らせて頂いたのですが、矢張り奥さんと御一緒の写真を使わせて頂くことにしました。
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麻生さんは、1932年7月11日福岡県で生まれ1958年7月の移住船チャチャレンガ号(オランダのローヤルインターオーシャン)の船上で26歳の誕生日を向かえ8月11日にサントス港に到着しました。長兄の麻生正治さんご家族の構成家族の一員としてリオグランデドスール州ポルトアレグレの毛利さんの呼び寄せでサントスから78時間を掛けて汽車でポルトアレグレまで移動されたそうです。南伯雇用契約は、4年間でしたがパトロンの毛利さんがブラジルに慣れればいつでも独立して下さいとの方針で14ヶ月毛利さんのところで働いた後、ポルトアレグレ近郊のカッショエリニアという町の近くのブラジル人農場に借地農として正治さん一家と共に移り住みアルファッセ(チシャ)、トマト等を植え付け、できた野菜を農場から馬車で13kmの距離を4時間掛けて運んだとのことです。ポルトアレグレの町の中心地に野菜の夜市が立ち30キロ入りのトマトの箱を積めるだけ積んで午後の3時頃から暑い日差しの中を馬の背を叩きながら運んだそうです。今私が住んでいる近くの3角公園が馬の水を飲ませる場所になっていたそうでそこで馬に水を飲ませ少し休ませてから町の中心地の夜市まで運び直接販売していたそうで全部売れると馬車でまたトクトクと居眠りをしながら農場に戻ったそうです。出来たものは全て売れることから1959年から61年まで馬車で運んでいたがその後コンビと言う荷物を運ぶフォルクスワーゲンの中古車を手当てすることが出来て楽に成ったそうです。蔬菜だけでは面白くないとの正治さんの方針で麻生さんがサンパウロのアチバイヤの町までイチゴの苗を分けて貰いに行ったりジャガイモの種芋やキャベツの種を手当てしたり色々新しい試みもする。
1965年に正治さんの奥さんの姪御さんに当たる美恵子さん(1941年生まれ)を花嫁移住者として迎える。麻生さんが33歳、美恵子さんが24歳の時でした。美恵子さんは、所謂写真結婚の花嫁移住者でしたが、姻戚関係もあり何の不安もなかったそうです。麻生さんは移民船としては最後に成ったサントス丸がリオに到着するのにあわせリオまで出迎えに出て船がリオに停泊中にリオのコパカバーナの海岸を案内したそうで美恵子さんによるとポルトガル語は良く出来るし優しくて頼れるご主人だと満足したそうです。リオからサントスまで麻生さんも移住船サントス丸に乗り込み正に新婚旅行気分を味わったそうです。サントスで上陸しサンパウロからは飛行機でダグラスの双発機に意気揚々と乗り込み(この時がお二人が始めて飛行機に乗った日だったそうです)ポルトアレグレに到着したそうです。
麻生ご夫妻は、相性が良く1966年には長女の博美さんが生まれ(現在アメリカで生活中)、2人目が不幸にも死産、1968年に秀雄さんが生まれ(現在住友商事ポルトアレグレにエンジニアとして勤務中)、1969年に久美さん(陶芸家として活躍中)、1970年に陽次郎さんが生まれ始めてポルトアレグレの総領事館を通じて日本国籍を留保したそうで現在日本で日本人として働いているそうです。1975年に敦彦さん、1977年に勇さんが生まれ都合6人のお子さんがそれぞれブラジルにアメリカに日本に根を下ろしておられるようです。
1968年麻生さんは、ポルトアレグレから120km離れた標高920メーターの山の上の避暑地、サンフランシスコ・ダ・パウラと言う町の市長さんから20年間、20HAの土地を貸与するので町で野菜を栽培して欲しいとの要請を海外協会連合会(現JICAの前身)を通じて受け長兄の正治さんと分かれて独立しました。貸与された土地は耕しきれない広さでしたが、腐食土で有機分が30%以上ありPH4.3の超酸性土壌で土地改良が必要な土地でカサパーバと言う石灰の産地からトラックで何杯もの石灰を運び近くの養鶏所から鶏糞を運び何とかキャベツ、コーベフロル等当時高価な野菜を作り喜ばれたそうです。
3年間山の上のサンフランシスコで奮闘後、1971年に当時正治さんが中心になり海外協会連合会、海外移住振興株式会社(現JICAの前身の一つ)等が進めていた日本人の集団移住地であるイタチ移住地に入植する。イタチ移住地でも蔬菜栽培も続けるが、新しくバラの花とカーネションの花を導入した。バラの花の苗は、サンパウロ州のアチバイヤまで出かけて800本の苗を手当てしたのがイタチ移住地の花の始まりとの事でカーネションは、サンタカタリーナ州のラーモス移住地の小川さんのところで2000本の苗を分けて頂き始めたとの事です。今もイタチ移住地の主生産品である花が定着し始めるとその販売網の確立が欠かせなくなり麻生さんは、ポルトアレグレのCEASA(生鮮野菜卸市場)内に1972年11月に麻生商会を設立しイタチ移住地のバラ、カーネーションを中心にして季節的に花がない時期には冷蔵車でサンパウロからバラの花を取り寄せ市内に卸す会社を30年以上に渡り経営しておられた。その間、南伯日本商工会議所のメンバーとしての活動、南日伯援護協会の会長としてポルトアレグレ総領事館閉鎖反対キャンペン等で献身的な働きをされました。
福岡県出身で同郷、出身地も近く麻生と云う同じ名字を使用していることから良く麻生太郎現総理大臣とは御親戚ですかと聞かれるそうですが「直接関係は無いよ」と笑っておられます。ポルトアレグレ総領事館閉鎖反対の署名嘆願書を福岡まで届け麻生太郎現首相の第1秘書に9000人のポルトアレグレ総領事館閉鎖反対の署名運動の500ページの嘆願書を手渡し、時の川口外務大臣にもこの嘆願書を手渡す作業を実施しておられます。2003年ー2005年まで3年間、南日伯援護協会の会長職を全うし脳溢血で早期退陣されましたが現在はお元気になりご自宅で納豆、豆腐、油揚げ、竹輪、テンプラ等を作られて配達しておられ皆さんに喜ばれています。今年に入りつい最近麻生さんが納豆、豆腐を作っておられることを知り毎週届けて頂く様になり我が家の食卓にサンパウロから担いでこなくてもポルトアレグレで調達できる日本食材が並ぶことになり大変重宝しており喜んでいます。自宅の庭にはゴーヤが鈴なりになっており先日頂きに行った折にお話を伺い記録に残して置くことにした次第です。
週末には100km離れた大西洋の海浜かお隣のサンタカタリーナの州都フロリアノポリスに正治さんがお持ちの海の家で釣りを楽しんでおられご自宅の壁には1998年12月12日23時にリオグランデの港の入り口の岸壁で釣り上げた72cm、9260gの魚の魚拓が飾っていました。
機会をみつけて奥様の美恵子さん陶芸家として活躍しておられる次女の久美さんのお話も伺いたいと思っています。
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