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【ブラジルの養蚕】 麻生 悌三さんの寄稿文です。
お馴染みの麻生さんの寄稿文が届きました。今年に入り第4弾となります。昨年来農業関係の製品を中心に寄稿して頂いていますが、話題が少なくなり専門化、希少化して来ている中、色々興味深い話題を選んで麻生式に上手く纏めて呉れています。今回は【ブラジルの養蚕】と題してブラジルに置けるお蚕(オカイコ)さんのお話です。世界でも中国、インド、ブラジルの3ヶ国が主要生産国とのことで正にBRICsのロシアを除いた国が押えているようです。輸出余力があるのは中国とブラジルだけとか。以前は日本が桑を植えカイコを飼っていたようですが、日本から進出して来たカネボウ生糸のコルネリオの工場は、フジムラに売却されたようですしマリリアの町に工場を持っていた丸紅と合弁会社のKOBE’S(神戸生糸)も整理されてしまい寂しい限りです。老舗のブラ拓生糸とカネボウ生糸を買収したフジムラしか現在は残っていないとのことで価格面で中国には対抗出来ないようで将来性は少ないとの結論です。ブラ拓が900トン、フジムラが320トンの生産を2007年度に記録しているそうです。輸出先国では日本向けが70%を占めているようですが、日本での着物離れがブラジルの養蚕を衰退させる一因とか。
写真は、蚕でなしに蚕さんの食糧となる桑の木になる可愛い桑の実を見付けましたのでお借りすることにしました。季節になると散歩の途中で桑の木を見付けて啄みます。私が自身が撮った写真もある筈ですが探すのが面倒でこれで行くことにしました。


養蚕は紀元前2千年頃、中国で始まったらしい。日本には3世紀頃の弥生時代後期に、中国から伝わり、明治時代には、日本の主要輸出品(世界シェアーの80%を占めた時期もあった)として世界に広まった。ブラジルには1854年にドンペドロ二世により、Imperial―Compania de Seropedica Fluminenseと云う社名の製糸会社がリオに創られた。
(後の、Rio de Janeiro農大)然し、本格的養蚕の導入は、ミナス州に州立養蚕
試験場が設立され、1922年にイタリー移民による、Industria de Seda Nacional(内国
製糸工業会社)が設立されてからである。 1924年には繭の生産が8,8トンあったと記録されている。その後、急増し1927年には、135トンの生産があり、欧州からの輸入が解消された。1930年に日本政府の植民代行機関である、ブラジル拓殖組合(ブラ拓)がサンパウロ州Bastosに耕地を造成した。バストス移住地は砂質土壌で地力が低く
慢性的旱魃地帯で、コーヒー栽培に適さず、他作物の栽培を模索する内に、内国製糸工業に繭の生産、販売を行う事に到達した。日本より当時の最新式機械を導入し、1940年にブラ拓製糸有限会社を創設した、1956年には株式会社に改組し現在に至る。絹の製糸工場としては単独で世界最大の規模であり、残存している、ブラジルの製糸会社2社の一つである。もう一つは2005年にカネボーより買収したフジムラ製糸である。ブラジルの生糸製糸産業は、イタリー移民が勃興させ、日本移民が発展させた。

―蚕と桑
蚕はチョウ目科に属する、昆虫の一種で正式名称はカイコガ。人の与える、桑の葉を食餌し、生糸を吐き出し、蛹の繭を作る。家蚕は野生回帰能力を完全に失った、家畜化された昆虫である。蚕も逃げ出したり、羽化した蛾も飛んだりしない。腹脚が退化しており、自力で樹木や壁に付着することは出来ない。、蚕は孵化後幼虫期に4回眠り,4回脱皮してから繭を作り、蛹となり、羽化(化蛾)し、交尾をし、直ぐ、産卵を始める。約1晩で産み終りその後、体力を消耗し一生を閉じる。ブラジルでは、製糸会社が蚕種製造、稚蚕飼育まで行い、農家に渡す。農家は製糸会社とインテグレーション契約を結び第2令(体長は約3センチ)の幼虫を受け取り、繭で工場に渡し,精算する方式を取っている。養蚕のシーズンは7月と8月を除く9月から翌年6月までの10ヶ月で、年間で7−8回の繭の生産が行はられる。蚕の吐き出す糸は長さが連続して、700 − 1500メーターあり、数本より合わせて、絹糸とする。一般的な蚕のライフサイクルは下記の通り。
1) 一令=孵化した幼虫は毛蚕(ケゴ)と呼び、約3日で食餌をやめ、眠りに入り、1
日後に脱皮する。− 2)2令=約2日半食桑し、眠りに入り、1日後脱皮する − 3)
3令=約3日食桑し眠りに入り、1日後脱皮する。 − 4)4令=約4日食桑し眠りに入り2日後脱皮する − 5)6日食桑し熟蚕となり(体長7−8センチ)営繭を始める
― 6)上族=1日―2日。約5日で化蛹する。 − 7)収繭=化繭を確かめ、蛹の皮膚が硬くなってから、収繭する。(上族から約8日後、製糸用の繭は選繭され製糸会社に搬入される )− 8)発蛾=化蛾後、10日で発蛾する。雄が少し早く発蛾し、雌が発蛾すれば直ぐ交尾を開始する −9)産卵=雌は交尾後、直ぐに産卵を始める。 ― 孵化=一般的に産卵後10日位で孵化する。飼育中の蚕、繭が農家の手にあるのは、3令からで約4週間位で、繭搬出後、農家は次の飼育に備え、蚕室の消毒、桑園の手入れを行う。蚕のライフサイクルは約50日間である。又農家に配布される蚕はF-1(一代雑種)が多いい。
蚕の餌は桑の葉だけであり、桑は耐寒、耐暑性、いずれにも強く、植え付け後、翌年から収穫があり、2−3年で収穫量は略100%になる。ブラジルの桑の栽培面積は約18千Ha。養蚕農家は約7600軒。農家1戸当たりの桑の栽培面積は約2,4Ha。である。

―激動の養蚕産業史
1930年―1940年の生糸の年間生産量は40−50トン。一方、国内需要は220トンあり、不足分は日本,イタリーから輸入した。1935年に州及び連邦政府は蚕糸産業
振興の為、各種の振興策を施政した。1939年ドイツのポーランド侵攻により、第二次大戦が勃発し、日,伊よりの輸入は途絶した。国内での増産に益々、拍車が掛り、政府の増産策は成功を収めた。大戦後の1945年には、繭の生産は8144トン、生糸生産量。
751トン(約15倍に増産)になり、製糸工場の数も141社、、工場所在地15箇所、
養蚕就労者数は12万人、製糸工場従業員1万人に増加した。然しながら、軍需景気で沸き、粗製乱造し急成長したブラジル生糸の取引は、急減し、膨大な在庫を抱え、生糸相場は大暴落した。この時期、10社を残し、工場は倒産閉鎖された。又、大戦中はイタリア系の内国製糸工業と日系のブラ拓製糸は,敵性資産として政府の監督下に置かれ、自由な経営も制限された。 1949年になると、国産生糸の生産激減から、輸入が復活し、政府は再び、養蚕の振興策を取り入れた。生き残った10社の工場も、これで,息を吹き返した。1951年にはブラ拓の敵性資産も解除され、元の経営に戻る事が出来た。
1960年代に入ると、日本が高度成長期に入り、生糸の需要も急増し、日本よりの製糸工業の進出が相次いだ。(カネボー、コウベ、ショウエイ、グンサン等)1969年には養蚕がパラナ州に拡大し、1984年にはサンパウロ、パラナ両州の繭の生産量は各5千トンと略、互角の数量になった。パラナ州の養蚕は隆盛し、2006年の繭の生産では、パラナ州が7334トン、サンパウロ州が458トンとなり、パラナ州の生産がブラジルの
89%を占めるようになった。其の他の州のシェアーはサンパウロ6%、マットグロッソドスール5%である。マットグロッソドスール州の生産者はMST運動(土地なし農民運動)の農民が殆どで、払い下げ農地若しくは借地に桑を栽培し養蚕を始めている。

―世界の生糸生産
生産国        1999年   占有%   2002年  点有%
中国         63370トン 65%  45000トン 75%
インド        23240   21   10800   18
ブラジル        2690   2,6   1542   2,6
世界生産       97060        60000
世界では約10カ国が養蚕を行っているが、上記3カ国で生産の殆どを占めており、
輸出余力のある国は中国とブラジルだけである。 

―ブラジルの繭の生産、桑の栽培面積とイールド
年度    桑畑の面積     繭の生産量     イールド(1Ha,Kg、年)
1999  30355Ha   10091トン   333kg/Ha/Year
2000  23835      8254     346
2001  23822      8760     410
2002  26321     10070     383
2003  23562      9939     422
2004  22879      8045     352
2005  18566      7146     385
2006  不明         8051
2007  不明         8255
1戸当たりの繭の生産量は年間約1トン程度。イールドも改善し07年以降500kgとの話もあるが、はっきりとした統計は不明。

―ブラジルの生糸生産量、繭、生糸のイールド、輸出量と輸出高
年度     生糸生産量    イールド    輸出量       輸出高−ドル
1999   1553トン   15,3%   1742トン
2000   1389     16,8    1474
2001   1484     15,2    1287
2002   1007     10,0    1416
2003   1542     15,5    1303      31,0百万 
2004   1512     18,7    1353      35,5
2005   1284     17,9    1130      33,5
2006   1387     17,2    1173      42,1
2007   1230     15,7     978      36,9
生産量の90−95%は輸出向けである。ブラジルの生製の輸出先は70%が日本、15%
が欧州、10%がアメリカ向けである。日本の着物ばなれがブラジル生糸の衰退と大いに
関係がある。尚07年の生糸の生産はブラ拓900トン、フジムラ320トンであった。

ブラジルの養蚕の将来
生糸は世界的に需要が減退している、原料の蚕の生産は、昔ながらの、労働集約型産業で
あり、低廉な労働力と人海戦術が決め手である。製糸工業がいくら、近代的機械をそろえ
ても、産業構造は変わらない。中国は伝統の技術の上に、世界人口66億の2割を占める
(2007年度公称人口は13億)低廉且つ豊富な労働力を武器に、世界市場の75%を
占めている。インドは中国に次ぐ人口11億の国で,生産量では、世界の18%を占めるが
インド伝統の民族衣装サリーの需要がまだ多く、国内需要を満たせず、毎年、中国から、
生糸を5千トン位い輸入している状態である。一方、ブラジルは人口2億に至らんとして
いるが、労賃は決して低廉ではない。09年4月よりの最低賃金は月間約200ドルで
あり、ルーラ政権後以前の約3倍に上昇している。それに、社会福祉費等120%を必要
とする、企業及び雇員の負担合計を加算すると月額440ドルの給与となり、中国農村部
の労銀の10倍位になるのではないだろうか。繭の生産量は1992年に19134ト
ンを記録したが、2002年には、10070トンと半減し、2007年には、8225
トンと、右肩下がりの凋落である。日本よりの進出工業も(市田、ミナスシルク、ショウ
エイ、グンサン、コウベ、カネボー等〕90年代に次々と撤退した。今、ブラジルに現存
している企業はブラ拓(100%内国資本)の3工場(SP州Bastos,Duartina,PR州の
Londrina)とフジムラの1工場(PR州Cornerio Procopio-2005年カネボーより買収)
の4工場のみとなった。生糸の品質に関しては、ブラジルは世界のトップクラスであるが、
中国の安値攻勢にジリ貧を余儀なくされている。ブラジルは豊富な天然資源をバックに、
工業化がハイピッチで進んでおり、労賃も上がり、農村労働者の生活レベルも上って来て
いる。労働集約的産業は国際競争力が落ち、コスト上、対抗できなく成って来た。尚又、
本レポート作成に当たっては、日本繊維学会誌―2007年63号に掲載された、レポー
ト、ブラジル絹産業の発展―茂原勉著(ブラ拓製糸専務)の記事を一部参考にさせてい
ただきました。茂原氏に御礼申し上げます。
以上
麻生
2009年4月1日



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