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【ブラジルの天然ゴム】 麻生悌三さんの寄稿が届きました
月に一度の頻度でブラジルの特に農業関係産品を取り上げてその歴史、統計数字を集積し分かり易い読み物風に纏めて寄稿して頂いている【麻生悌三レポート】が今月も送られて来ました。今年はアマゾン移民80周年に当たる年でもあり意識されてアマゾンの産品を集中的に取り上げて呉れています。ジュート、胡椒の後は今回が天然ゴムを取り上げています。これからも年末までは、ブラジルの紅茶、カシャサ、ジャガイモ、葉タバコを計画して原稿の資料を準備しているそうです。
何時も写真は、その取り上げる作物に合わせて手持ちの写真かGOOGLEで適当な写真を探していますが今回は、サンパウロに出た際に麻生さんを引っ張り出して夕食を御一緒させて頂いた時に撮らせて頂いた麻生さの近影を使わせて貰いました。


ブラジルの天然ゴム
1839年にアメリカ人グッドイヤーが、生ゴムに硫黄を混ぜて、加熱すると、弾性が増し、電気絶縁性、耐久性も高まる加硫化法を発見し、ゴムの利用価値が高まり、天然ゴムの供給不足となり、価格は大暴騰しました。当時、ゴムはアマゾン地域以外でしか産出が無く、ブラジルが独占していました。独立したばかりのブラジルはゴム輸出に輸出税を掛け、種子、苗の持ち出しは禁じ厳重に監視しました。1980年にはイギリス人ダンロップが空気入りのタイヤを発明し、自動車タイヤに活用され、ゴムの需要に拍車をかけました。1850年の1400トン産出から、21年後の1911年の産出は44000トンに伸び、原始林に自生するパラ−ゴムの木からのゴム液(Latex)採集産業が隆盛を極めた。


―第一次ゴム景気 (1850年 − 1912年)
アマゾンのジャングルを歩いてみれば分かるが、天を突く大木が茂り、直射日光が遮断されるため、下草は生えず、落ち葉が堆積する。雪原ならぬ落ち葉原が原始林の中に続く。
湿気を含んだ堆積落ち葉は歩きにくく、足が地面に埋まる。蔦や草木が生い茂る原始林は日光が入る、川べりか、倒木によって開けられた空間だけであり、原始林の真ん中は、落ち葉のジュータンが続き、湿度は90%ぐらい有り、さながら、昼間はサウナ風呂にいる感じである。有用材、ゴム、パラー栗などは、固まって、存在しない、原始林の中に、ぽつりぽつり、点在している。従い、ラテックス採集には手間と時間を要し、密林内の単独労働は、危険もあり、飢餓(食糧が途絶えれば自給の道は乏しい)と病魔(マラリヤ、黄熱病、アメーバー赤痢)との戦いでもある。原始林の中ではどこまでも同じ景色の連続なので、方向感覚が狂いやすく、迷ったら出にくい。採集人は一人当たり、150本のゴムの木を受けもたらされ、ラテックス採集に1日20−30km歩かさせられた。ゴム需要が高まるにつれ、ブラジル各地、主として東北伯から、採集人が集められ、囚人も刑期と引き換えに送りこまれた。当時の中心地マナオスで1890年代の人口は5万人。ゴム景気で沸き返る田舎町にブラジルで始めて、電燈が灯り、市内電車が走り、パリのオペラ座を模した、アマゾナス劇場が、イタリアからの大理石、フランスからの調度品、タイル、ステンドガラス等、欧州の粋が集められ、1890年に竣工した。パリから踊り子、芸人オーケストラが送り込まれた。アマゾンに想像も出来ない欧州風の文化都市がゴム景気によって生まれた。1912年代のゴムの産出は4千トンで、ブラジルの輸出高の25%を稼いだ。然し、どれだけの、原住民、採集人がジャングルの過酷な労働下で命を落としたか、正確な統計はないが、数千人の規模だろうと云われている。
―アクレ地方のボリビアからの買収とマデイラマモレ鉄道の建設(1907−1912年)
アクレ地方はボリビア、ペルーと国境を接するジャングルで、ゴムを産出し、ブラジルから採集人が入り込み、原住民インジオ、ボリビア人とも紛争が絶えず、1899年には内乱状態となった。1903年ブラジルはアクレ地方を200万英ポンドで買収し、ボリビアの産物を太平洋から欧米に輸出すべく、鉄道を建設する条約を結んだ。悪魔の鉄道と呼ばれる、マデイラマモレ鉄道の建設である。ボリビアのグアジャラミリンからブラジルのポルトヴェーリョ迄、延長366KMの鉄道で総工費3千万ドル(純金32トン)をつかって1907年着工し1912年完工した。建設工事は難工事でマラリヤ、黄熱病の蔓延で工事人夫がばたばた倒れ、犠牲者の数は1万人を数える。建設してみたら、ゴム景気の終焉で何の役にも立っていない。今日でも余り利用価値がなく観光列車に使用されている由。因みに、パナマ運河が1914年に開通したが、これも病魔と難工事で犠牲者の数は3万人である。鉄道建設はゴム景気に咲いたあだ花の一つである。
―英人プラントハンター、ヘンリーウイッカム(1846−1928年)
ロンドンにキュー王立植物園がある。表むきは、1759年に創設された王立の植物園だが、裏の顔は英国の植民地統括機関の一部門で、インド省、海外植民地の植物園(カルカッタ、ボンベイ、シンガポール、セイロン、マドラス、ジャマイカ、トリニダーデ)とも密接な連携をしていた、プラントハンター(植物園と契約した植物学者、庭園師等が珍しい植物や有用植物を海外から盗み採る)達の統括機関であった。外国の産業を支える、植物の種を密かに、持ち出し、(発覚すれば銃殺のリスクもある)、英国内に移植する(原種と在来種を交配し新種の作成も行った)冒険的業務で成功すれば、英国にとっては英雄、被害国にとっては大泥棒である。英国は今日では屈指の園芸大国だが、16世紀初頭の英国の草木類は200種類ほどで、日本の20分の1ぐらいしか無かった。17−18世紀、英国が7つの海を制覇すると、世界中から植物を収集した。(日本からもキクやアネモネ等が持ち出された)1807年ナポレオンのイベリヤ半島侵攻からポルトガル王室がイギリス艦隊に護送されリオに脱出し、帝政を移し、1822年のブラジル独立まで続いた。その頃の欧州―南米航路は略英国の独占で、ブラジルの港湾、インフラは英国の手によって建設された。ゴムの金融、輸入等もイギリスによって行はられ、マナオスも英国資本によって建設された。英国とブラジルとは、1860年には英国と通商条約締結、1872年にはアマゾンとリヴァプール間の定期航路がレッドクロス汽船会社によって開設された。ブラジルと英国とは密接な経済関係があり、そうした背景のもと、ヘンリーウイッカムは1876年アマゾン河中流にあるタパジョース川上流から、パラーゴムの種子7万粒の盗み出しに成功した。ウイッカムは蘭のコレクターと云う名目で奥地に潜入したらしい(中隅哲郎氏著の続アマゾン学のすすめの記述)また、1938年に制作されたドイツ映画ジャングルの決死行―ウイッカムのゴム種子持ち出しをえがいた冒険映画では蝶の採集家と述べられている。一方、別の文献では農園をアマゾン中流で経営していたと述べられている。いずれが確か分からぬが、キュー植物園と契約したプラントハンターだった事は確かであり、成功報酬は英インド省が支払った。ゴムの種子は採集後、30日以内に植えられないと、発芽しない。時間との勝負であり、保存状態も細心の注意が必要だった。ウイッカムは種子を1個ずつバナナの葉でくるみ、籠に入れ、それに蘭と張り紙し(べレンの税関の検査では英国女王に献上の蘭と説明したらしい。(当方の憶測では、官憲に鼻薬を効かせたのだと思う、又この作業一つとっても、かなり力量のある乙仲の介在なしには実現不可能)、船荷検査をドリブルし、チャーター船アマゾナス号に積み込み出航。種子は1週間で7万粒を集めた(以前からかなり周到に計画し原住民を使って手早く採集した。ジャングル内の自然状態でも2週間、放置すると発芽しない)。ウイッカムと種子は、1876年6月14日リバプール港到着、リバプールからロンドンへ汽車で運び、ロンドン着は真夜中だったが、馬車を飛ばし、キュー植物園の蘭の温室に移植された。7万粒の種子から2625本が発芽した。発芽率4%は今日でも驚異的発芽率らしい。1877年には1900本の苗をセイロン植物園に移植、50本をシンガポール植物園に移植した。1910−1913年には毎年1200平方kmのマレー半島のジャングルが開墾され、ゴムの苗が植えられた。1910年のゴム採集人(殆どがインド人)2500人から1926年には15万人に増加し、マレー半島の栽培ゴムの隆盛期を迎えた。ウイッカムはゴム盗み出しの功績により、1912年にサーの称号を授けられた。英国のプラントハンターの内、中国より茶の種17000粒を盗み出し、インドの在来種と交配し、アッサムの紅茶産業の基礎を作ったフォーチューン(1888年)とウイッカムが2大功績者と云われている。プラントハンターこそ、大英帝国の繁栄を影で支えた、冒険技術者と云えよう。ゴムの種子をいつごろ採集したか、推測すると、べレンーリバプール間航海日数が15日とするとべレン出港が1876年5月30日、タパジョース川上流からべレン迄動力船で約4日掛かるとすると、採集は5月19日から5月26日の1週間で、かなり周到に準備し現地に精通したブラジル人数名の協力なしには成功は不可能である(種子がジャングルに飛び散ってから最短18日から最長25日以内に採集している)。ゴム産地はアマゾン一帯に広く散在しているが、べレン港と距離的に800kmと近いサンタレン上流の川の途中に滝などが無い、奥地にアクセスが容易な、タパジョース川に目を付けたのは、けだし慧眼である。このタパジョース川上流のゴムの故郷に後年、自動車王ヘンリーフォードがゴム園造成に巨費を投じたが失敗し撤退した経緯もある。

―第2次ゴム景気(1941年―1945年)
第一次ゴム景気が終了してから30年後、又、ゴム景気が戻ってきた。1941年に日本軍はマレー半島のタイ国境近くのコタバルに敵前上陸し、1100kmを英印軍と交戦しつつ進軍し、1942年2月英国の東洋の牙城シンガポールを陥落させた。世界のゴムの
80%を供給したマレー半島を日本軍が占領したため、ゴムの供給源を再び、アマゾンに求めて来た。米国ルーズベルト大統領と伯国ヴアルガス大統領との直接交渉で、ゴムの増産と対米供給協定が締結した。その要旨は1)ブラジルは年間1,8万トンの産出量を4万トンに高める 2)アメリカはゴムを固定価格で買い上げる。3)アメリカは1億ドルの借款をブラジルに行う(その資金でブラジルはCSN−国立製鉄所とCVRD−リオドーセ会社=鉄鉱石採掘を設立した)
―ゴムの兵隊(1943−1945年)
その当時現地のゴム採集労働者は約3万人いたと見積もられていたが、年間4万トンに増産するには、約10万人の採集労働者が必要とした。当時、旱魃で困窮していた、東北伯の農村に目をつけ、労働者を国家命令で動員することを実行した。SEMTA(アマゾンに対する特別労働者動員令)を発布し、陸軍省が徴兵と同様の措置をとり、1943年に4,5万人の労働者をアマゾンに送り込んだ(セアラ州より3万人)。過酷な労働と病魔により、戦後(1945年)故郷の東北伯に帰還出来たのは、6千人だけで、3万人が命を落とした。9千人がアマゾンに定住したものと思われる(アマゾンには東北伯人の集落が各地に現存している)。第二次大戦にはブラジルもイタリア戦線に出兵した、2,5万の兵員の内、戦死者は1,8千人程度であり、アマゾンのゴム採集の犠牲者が如何に大きいか分かる。
―フォードのゴム園造成(1927−1945年)
アメリカの自動車王ヘンリーフォードが1927年にタパジョース川の2箇所にゴム園の造園計画を開始した。アマゾン河中流の中心地サンタレンより260km上流のフォードランジャと40km上流のベルテーラである。100万Haの面積に20万Haのゴム園を造成し、1Ha当たり1500kgのラテックスを生産する大プロジェクトで、2千万ドルの巨費を投じ、密林に、アメリカ式住宅、上下水道、病院、学校、を備えた近代的開拓村が誕生した。実際に1929年に造園したのは、400Ha、1931年には900Ha造園出来たのみであった。1942年には760トンのラテックスの生産があったが、1945年には石油由来の人造ゴムの生産が軌道に乗ってきた(人造ゴムは1939年にドイツで開発され、アメリカは1941年より生産に着手、1945年に800トンの生産あり)事と、終戦となり東南アジアからの供給が復活したことにより、ゴムプロジェクトを放棄し、ブラジル政府に捨て値の25万ドルで売却し撤退した。失敗した原因は結局1)アマゾンに於いて、単一作物の大面積の栽培は、病虫害の発生が起きやすく、フォードゴム園の場合も葉枯れ病(mal-de-folha)と云うカビ病が蔓延した。ウイッカムがキュー植物園に運んだ種子には、この菌が付着してなく、東南アジアのゴム栽培の成功は、葉枯れ病
が無かったことが主因と云われている。2)労働問題。労働力が不足していた上に、アメリカ式労務管理とトラブルが絶えなかった。今日に於いても、アマゾンでゴム栽培は余り見受けられない。

―世界のゴム(栽培ゴム)の生産
1) 世界の主要ゴム生産量(2004年)と栽培面積(2007年)
生産国       生産量(千トン       栽培面積(千Ha)
タイ        3020 (33%)    2433 (23%)
インドネシヤ    2128 (24%)    3414 (33%)
マレーシャ     1175 (14%)     1229 (11%)
インド        780  (9%)      630 (6%)
中国         620 (6%)      776 (7%)
スリランカ      100 (1%)      −
ヴェトナム       −            649 (6,3%)
ミャンマー       ‐            286 (2,8%)
ブラジル       100            160 (1,8%)
その他       −              683 (8,5%)
合計        8900         10328
世界のラテックス生産量は2006年で9630千トン。ブラジルの生産量は僅か
110千トン(世界生産の1,3%)。消費量は年間340千トンあり、不足分230千トンは輸入している。
2) 世界の主要国のゴム消費量(2006年)
主要国の消費量は合計で年間8900千トン。国別の順位と比率は 中国 21% USA
13% 日本 10% インド 9% ブラジル 1,2%の順位である。
用途は自動車用タイヤが82%、工業製品が12%、ホース、ベルトが4%を占める。自動車用タイヤは合成ゴムと天然ゴムを半々に混ぜて製造される。合成ゴムの2006年の世界生産量は12580千トン。ブラジルは445千トン生産し世界の4,5%を占める。

―ブラジルの栽培ゴムの生産(2006年)
生産州        生産木の栽培面積      生産量
サンパウロ      45000Ha        50千トン
マットグロッソ    44700          22
バイヤ        21000          10
エスピリットサント   9000          −
ゴヤス         4000          28
其の他         8700          −
合計        137000Ha        110千トン
ゴムの木は植え付け後6−8年で収穫があり。1Ha当たり500本を植え、1本当たり普通年間5kgの収穫を見込む。サンパウロ州が栽培ゴムのトップで7万Haの栽培面積がある(成木、未成木合計)。今日天然ゴムの殆どが栽培ゴムであり、原始林から自然採集されている量は1800年代と同じ位の量の年間1500トン程度であり、採算的に栽培ゴムのコストに敵わない。ブラジル政府は何とか、100%自給に栽培面積を増やすよう振興策を進めている。農地は有り余っているのだから、せめて3倍の40万Haに増やしたい。
以上
麻生
2009年8月1日



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