「アマゾンの歌」を歩く ニッケイ新聞堀江剛史記者の連載記事(その1)
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ノンフィクション作家角田房子(一九一四〜)による『アマゾンの歌 日本人の記録』(一九六六年に毎日新聞社から出版、後に中央公論社が文庫化)は、トメアスー移住地を題材にした小説。
一九二九年に入植した第一陣の山田義一(よしいち、広島県出身)を家長とする一家を物語の中心に、過酷な開拓生活を耐え、苦闘の末にピメンタ(胡椒)の緑の波を育て上げるまでを描いた。
ニッケイ新聞ではアマゾン移住80周年を迎える今年、色々とアマゾンに付いての記事を連載で読者に送っているが、堀江剛史記者が6月に現地トメアスーに行き11回に渡りレポートした「アマゾンの歌」を歩くを『私たちの40年!!』のメリングリストでも毎日流しましたが、今回2階に分けて寄稿集にも収録して置くことにしました。
写真は、ニッケイ新聞WEB欄に掲載されている第2回のアカラ港をバックにしたお元気そうな山田 元さんの写真をお借りしました。もう少し大きければ良かったのですが。。。9月にトメアスーを訪問する予定にしておりますのでチャンスがあれば直接撮らせて頂くことにします。
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「アマゾンの歌」を歩く=(1)=入植当時の場所に今も
ノンフィクション作家角田房子(一九一四〜)による『アマゾンの歌 日本人の記録』(一九六六年に毎日新聞社から出版、後に中央公論社が文庫化)は、トメアスー移住地を題材にした小説。
一九二九年に入植した第一陣の山田義一(よしいち、広島県出身)を家長とする一家を物語の中心に、過酷な開拓生活を耐え、苦闘の末にピメンタ(胡椒)の緑の波を育て上げるまでを描いた。
今年六月十三日夜、トメアスー文化農業振興協会(文協)の会館前で「フェスタ・ジュニーナ」が開かれていた。
伝統的な農民風の衣装に身を包み、踊る子供たち。色とりどりの飾り付けが焚き火の炎に照らされ、スピーカーから音楽が流れている。
「昔の知り合いは本当に少なくなりました。今日も誰も来んでしょうな」。そう言葉を切り、周囲を見回すのは、山田元さん(82、広島)。
肉が薄く、日焼けした顔貌には、長年の苦労が染み付いたような皺が刻まれている。伸びた背筋が実直な性格をよく表しているようだ。
「かつての祭りはどうだったのですか」―。記者の質問に、歓声を上げながら走り抜ける子供たちを見遣りながら、「昔は蓄音機とガスランプでささやかにやっていたものです―感無量です」と口を一文字に結んだ。
現在六万人が住むトメアスー移住地。文協や総合農業協同組合がある中心地「クアトロ・ボッカス」(十字路)の周辺はかつて、南米拓植株式会社(南拓)と山田一家の土地で占められていたという。現在は交通量も多く、商店も農機具店などが建ち並んでいる。
八十年前―。この地に家長、山田義一(31)、妻スエノ(同)、長男元(2)と次女三江(7)の一家四人が立っていた。長女文江と三女八重子は広島に残した。
「今からここで暮らすんだねエ……」
山田義一のうしろで高い梢を見上げていたスエノが、ひとりごとのようにいった。山田も同じ思いを抱いていた。
山田と妻とは彼らが住むことになった土地の、ほんの一部が切り倒されている原始林の前に立っていた。名もわからない大木が枝を重ねて、ひたすら天に向かって伸びていた。ここは事務所のある十字路に近く、道だけはなんとか切り開かれていたが、家がまだ全く手がつけられていなかった。道に沿って五百メートルおきに、四軒に一つのわりで井戸が掘られていた。移民たちの割り当ては、くじ引きで決められたのだった。
「もちろん当時のことは子供でしたから覚えておりません。収容所に二カ月ほど入ってここに移ってきたようです。それ以来、私の家族だけがどこにも越さず、ここに住んでおります」。
最初に入植した場所に五四年に建てた〃ピメンタ御殿〃で元さんは、そう胸を張った。
◇
角田房子はあとがきで次のように書いている。
「アマゾンの歌」は、平凡な日本農民の集団の記録である。登場人物はすべて実在し、実名である。私はこの中にただの一行も〃つくりごと〃を書かなかった。地味な事実しかないのだが、この平凡な人々の歩みほど、私に日本人の血に対する誇りと自信を感じさせたものはない。
小説にも登場する山田一家の長男で、現在も同地に住む元さんとともに、今年入植八十周年を迎えた小説の舞台を歩いた。 (堀江剛史記者)
ノンフィクション作家角田房子(一九一四〜)による『アマゾンの歌 日本人の記録』(一九六六年に毎日新聞社から出版、後に中央公論社が文庫化)は、トメアスー移住地を題材にした小説。
一九二九年に入植した第一陣の山田義一(よしいち、広島県出身)を家長とする一家を物語の中心に、過酷な開拓生活を耐え、苦闘の末にピメンタ(胡椒)の緑の波を育て上げるまでを描いた。
今年六月十三日夜、トメアスー文化農業振興協会(文協)の会館前で「フェスタ・ジュニーナ」が開かれていた。
伝統的な農民風の衣装に身を包み、踊る子供たち。色とりどりの飾り付けが焚き火の炎に照らされ、スピーカーから音楽が流れている。
「昔の知り合いは本当に少なくなりました。今日も誰も来んでしょうな」。そう言葉を切り、周囲を見回すのは、山田元さん(82、広島)。
肉が薄く、日焼けした顔貌には、長年の苦労が染み付いたような皺が刻まれている。伸びた背筋が実直な性格をよく表しているようだ。
「かつての祭りはどうだったのですか」―。記者の質問に、歓声を上げながら走り抜ける子供たちを見遣りながら、「昔は蓄音機とガスランプでささやかにやっていたものです―感無量です」と口を一文字に結んだ。
現在六万人が住むトメアスー移住地。文協や総合農業協同組合がある中心地「クアトロ・ボッカス」(十字路)の周辺はかつて、南米拓植株式会社(南拓)と山田一家の土地で占められていたという。現在は交通量も多く、商店も農機具店などが建ち並んでいる。
八十年前―。この地に家長、山田義一(31)、妻スエノ(同)、長男元(2)と次女三江(7)の一家四人が立っていた。長女文江と三女八重子は広島に残した。
「今からここで暮らすんだねエ……」
山田義一のうしろで高い梢を見上げていたスエノが、ひとりごとのようにいった。山田も同じ思いを抱いていた。
山田と妻とは彼らが住むことになった土地の、ほんの一部が切り倒されている原始林の前に立っていた。名もわからない大木が枝を重ねて、ひたすら天に向かって伸びていた。ここは事務所のある十字路に近く、道だけはなんとか切り開かれていたが、家がまだ全く手がつけられていなかった。道に沿って五百メートルおきに、四軒に一つのわりで井戸が掘られていた。移民たちの割り当ては、くじ引きで決められたのだった。
「もちろん当時のことは子供でしたから覚えておりません。収容所に二カ月ほど入ってここに移ってきたようです。それ以来、私の家族だけがどこにも越さず、ここに住んでおります」。
最初に入植した場所に五四年に建てた〃ピメンタ御殿〃で元さんは、そう胸を張った。
◇
角田房子はあとがきで次のように書いている。
「アマゾンの歌」は、平凡な日本農民の集団の記録である。登場人物はすべて実在し、実名である。私はこの中にただの一行も〃つくりごと〃を書かなかった。地味な事実しかないのだが、この平凡な人々の歩みほど、私に日本人の血に対する誇りと自信を感じさせたものはない。
小説にも登場する山田一家の長男で、現在も同地に住む元さんとともに、今年入植八十周年を迎えた小説の舞台を歩いた。 (堀江剛史記者)
「アマゾンの歌」を歩く=(2)=さびれた移民の玄関口
サンパウロ州の日本移民の功績を高く評価していたパラー州のジオニジオ・ベンテス州統領は一九二三年、アマゾン地域にも日本移民を受入れる用意があることを、就任間もない田付七太・在ブラジル日本国大使に打診した。
同年十月、日本人移民を制限するレイス法案が提出されたこともあり、他地域への移民導入を思案していた田付大使は、強い関心を抱く。
翌年には、すでに二十年近くブラジルに滞在、ポ語辞書の編纂や「実査三十年大アマゾニア」の著もある野田良治書記官らを現地調査に赴かせている。
二五年、ベンテス州統領から、「無償提供する五十万町歩の植民地選定期間を一年間与える」との書面を受け取った田付大使は、これを本国に報告。
日本政府は、調査団設立の検討を図ったが、予算がつかず、鐘淵紡績株式会社にこれを諮った。
かねてから南伯の棉作に関心を寄せ、留学生も派遣していた武藤山治社長は早速、株主総会を開き、八万円の支出を承認。二六年、同社取締役の福原八郎を団長とする調査団を派遣する。
州政府、すでにベレンで英雄的扱いを受けていた柔道家前田光世(コンデ・コマ)らの協力を得て、現地調査を行なった結果、アカラ河本流とアカラ・ミリン河沿岸の五十万町歩を「土地肥沃」として選定、ほかにも州内三カ所の選択する権利を得た。
この報告書により、二八年、資本金一千万円の「南米拓植株式会社」(南拓)が設立される。 翌年一月には、南拓の現地会社となる「Companhia Niponica de Plantacao de Brasil」を設立。
アカラ郡から百五十キロ上流にあるトメアスーの港に置かれた本部を中心に、先発隊による測量、伐採、食料販売所、病院建設などが始められている。
日本側では、入植者が募集され、二九年七月二十四日、四十二家族百八十九人の第一陣が大阪商船「もんでびでお丸」で神戸を出港。
独立記念日である九月七日にリオに入港、「まにら丸」に乗り換え、ベレンに到着したのが十六日。
五日の休息後、南米拓殖会社の「アントニーナ号」でアカラ河を二百七十キロ溯上し、二十二日午前八時過ぎにトメアスーに到着している。
河の水がきれいになっているーと教えられるまでもなく、山田はその変化に気づいていた。アマゾン本流の泥色は消えて、深い藍色の水面が清々しく朝の光を受けていた。間もなくアカラ植民地に着くはずだが、水の色はどのあたりで変わっていたのだろうか。
スエノが二歳になる元の手をひいて、夫のそばに立っていた。
数十年ぶりに港を訪れたという元さんは、桟橋に歩を進め、「いやあ、川の水が汚れたなあ」と驚嘆の声を上げた。
市が観光目的に建設を進めたものの、今は打ち捨てられたコンクリート製のターミナルが殺伐とした雰囲気を与えている。
かつての桟橋はすでにないが、「向こう側の景色―つまり船の左舷の風景は、当時と変わっていないでしょうね」
アカラ植民地のトメアスー港の桟橋が遠くに見え始めた。現実に入植地が現れようとする今、移民たちはただ黙々と甲板に立っていた。荷物を背負い、子供の手をひいた移民たちは、南拓現地事務所の人々に迎えられて、一列に陸地に上がった。
(堀江剛史記者)
「アマゾンの歌」を歩く=(3)=猛威ふるうマラリア禍
かつて〃陸の孤島〃と呼ばれたトメアスーに至る交通網は川だった。ベレンまでの道路が貫通するまで、この港が植民地と外界を繋いでいた。
「南拓の事務所があってね。日本人の経営する食堂や商店もあって、かなり賑わっていましたよ」。しかし、車で案内役を務めてくれたトメアスー文協の松崎純事務局長(33、二世)は「初めて来た」という。
「懐かしいなあ」と元さんは港の前にそびえるサプカイアの木を見上げ、「この木は覚えてますよ。樹齢八十年以上にはなるでしょうが、あまり大きくなっていませんね。ここらへんは土地が悪いんですな」と頷く。
ー澄んだアカラ川を見て、スエノさんは喜んだという。広島では見ることがなかったベレンの泥色の大河を不安に感じていたこともあったのだろう。しかし、その清流が移民らを長年苦しめることになる。
マラリアを媒介するアナファレス蚊は濁流の地帯には発生せず、アカラ河のような清流の沿岸だけに発生する。
入植早々も昭和四年末に、幼児がマラリアの犠牲者一号として死んだ。しかし入植初期の大人にはマラリアの被害を寄せつけない強い体力があった。それが一年、二年とたつうち、植民地の予期に反した失敗続きで、生活難におちいり、移民たちが体力を失ってゆくにつれ、この病気が蔓延した。
入植から三四年までの五年間の死亡者数は、百九人。そのうち二年を待たず亡くなった幼児は、実に三十八人(三五%)となっている。
マラリアが猛威をふるい始めた三三年の罹患者数は三千六十五人。当時の移民の数は二千四十三人。つまり一人が何回も罹っていることになる。
マラリアと黒水病になぎたおされたアカラの惨状は、サンパウロ州をはじめ全ブラジルの日系人の間に伝わり、〃生き地獄植民地〃〃マラリア植民地〃などと呼ばれて恐れられた。
「そりゃあもうひどかったですよ。震えが来て、四十度近い高熱がでる。それが二週間おき。幾度罹ったことか。キニーネを飲んだら、一時的によくなるんだけど、また高熱が出て。キニーネに肝臓がやられて、じきに黒水病になる人もいましたよ。小便が赤くなるんですよ。〃赤ションベン〃とか〃血のションベン〃とか呼んでいました。それが出たら、二、三日で死ぬんですよ」
黒水病は黒水熱とも呼ぶ。当時マラリアの特効薬だったキニーネを多用することで発病するキニーネ中毒、もしくはマラリアの異型と考えられていた。南方戦線でも多発し、存在自体を知らない日本の軍医もなす術がなかったという。
角田房子は帰国後、植民地で看護婦をしていた女性に取材している。移民政策に水をさす結果になることを理由に、黒水病の死亡者も他の病気や事故死として記録されることが多かったことを明かされている。
当時は七度二分以上の熱のあった患者が死亡すると、その肝臓に先端の曲がった小刀を突き刺し、その先について出た肉片をニューヨークのロックフェラー研究所の熱帯病研究室に送った。このため看護婦は〃いきぎも〃を取るという噂が立ち、古村(註・元看護婦)は何度も、出刃包丁を持った遺族に肉片収集をこばまれた――
「現地の子供は小さい頃に亡くなるからね。抵抗力のない日本人がなったんでしょう。その肝臓が溶けてなくなっているという話も聞きました。私の家族でいえば、マラリアには、全員罹ったけれど、黒水病は幸い誰もならなかった。父は『生きているのが不思議。仏様のおかげ』とよく言っていました」
(堀江剛史記者)
「アマゾンの歌」を歩く=(4)=野菜普及への〃挑戦〃
移民たちはただ命をつなぐことだけを目的に、働き続けていた。彼らの皮膚は内部から熱に責められ、外部から赤道直下の太陽に焼かれて、どす黒く濁った色に変わっていた。野菜組合の用事などでベレン市に出ると、街の人々は「アカラの人だ」と、すぐに見分けた。〃マラリア色〃〃アカラ色〃と呼ばれる顔色になっていたのである。
「どう言ったらいいでしょう」と元さんは、家の中を見回し、「こんな色ですよ」と鈍く黒光りした家具を指でなぞった。
「何色って言うんですかね。艶もなくてね。紫色っていうか。父もそのアカラ色になっていました。ベレンに行ったら、『トメアスから来たな』ってよく言われたそうですよ」
入植当時、南拓が主力作物としたカカオは生育が悪く、米も安価のため収益が上がらなかった。
三一年、入植時の契約にあった「作物の三割を納入すること」の一項の撤回を求める動きが起こる。
マラリアの恐怖におののく移民らの南拓に対する不満は限界まできていた。扇動者がいたこともあり、植民地を震わせる一大騒動に発展する。
「三割争議」と呼ばれ、移民らは実った稲を刈り取ることを拒否、徹底闘争の構えを見せた。
ベレンにいた福原八郎社長に直談判するため、移民らは代表を送る。そのなかには山田義一もいたが、全員が腰にマラリアの薬瓶を下げていたという。
最終的に、移民らの要求は受け入れられた。同年、「野菜組合」が移民ら自身の積極的な意志によって設立される。
ピーマン、キュウリ、キャベツなどを天秤棒に担いで売り歩く姿が注目を集めた。言葉が分からないため、白墨による筆談で交渉、涙ぐましい奮闘ぶりを見せた。
大根(ナーボ)が主力商品であったため、日本人のことをナーボと呼んでいた時期もあったという。もちろん南拓も支援を怠らず、販売所の家賃や運搬代を負担した。
北伯一の都市だったベレンの人口は当時約三十万人。野菜を食べる習慣は一部上流社会に限られていたが、トメアスー移民らの必死の努力により、徐々に庶民にも根付いていく。
生き抜くため、そしてアマゾンの食生活を変える〃挑戦〃でもあった。スエノさんも器用に野菜を作り、組合から奨励金を受けている。
一方、退耕者が続出していた。三五年に十七家族、翌年は二十家族―。
戦前の入植者二千百四人(三百五十二家族)のうち、実に七八%がトメアスーを後にした。
スエノはトメアスーの波止場から船が出るたびに、見送りに行った。もう形見として残す品も尽きた。女どうしが畑仕事に荒れた手をとり合い、くり返し別れの言葉を述べて、涙を流した。波止場からの帰途、スエノはいつも暗い気持ちになった。―うちはいつまでも、ここにおるんじゃろうかー。
幼い子供ばかりで男手といえば、夫一人の家族では、よそへ行くといっても動きがとれないーと、スエノにはよくわかっていた。だが子供たちが悪性マラリアで死にはしないか、という恐怖を抱くスエノは、やはりアカラを去りたいと考えた。しかし、夫は何もいわない。退耕者を眺めて、黙々と働き続けている。
「よく(父は)言っていましたよ。『出ようにも金がない』って。『だから頑張れた』とも言っていましたが」
第一回入植四十二家族のうち、現在もトメアスーに住むのは五家族。その中で唯一、山田家のみが最初に割り当てられた土地に住んでいる。
その家から、スエノさんが退耕者を見送った港まで十三キロ。
「現在でこそ車で十分ほどですが、当時は馬車で四時間かかったんですよ」
三六年に生まれた双子の一人、昭が赤痢にかかり、この道を病院まで運ぶ途中に死んだ。一歳だった。(堀江剛史記者)
「アマゾンの歌」を歩く=(5)=足に残る開拓の苦労
入植当時、七歳だった姉三江、二歳の元さんを抱えた山田家の労働力は、義一、スエノさんだけだった。
開拓に加え、育児や家事も切り盛りしたスエノさんの苦労は、「小さかったですから、当初のことは覚えておりません」と話す元さんの足に残っている。
日本人の多くは足が歪んで―いわゆるO脚―いるが、元さんの場合、極度に曲がっている。
「怪我したのかって言われるんですけど、そうではなく、母の背中にくくりつけられていたからですよ」
預ける人もいなかった植民地では、乳飲み児を背負い、屈んだ格好で稲の植付け、刈取りなどの農作業を行なった。垂れ下がった骨の柔らかい幼児の脚は、母親の体の形に沿うように成長していく。
「ペルナ・デ・パパガイオ(オウムの足)とかアリカッチ(ペンチ)ってブラジル人に馬鹿にされてね。だから、妻(豊江さん)には、『絶対に子供は背負うな』ってよく言ってました」
元さんはスエノさんの背中を下りて間もなく、働き手の一人として家族を支える。小学校に行きながらも、農作業を手伝った。
週末には、両親と刈ったサトウキビをジュース(ガラッパ)にし、空き缶に取っ手をつけた容器を持ち、植民地の角で声を張り上げた。
蹄鉄の技術を義一さんから学び、スエノさんが作った味噌や醤油を売りに歩くのもまた、元さんの仕事だった。
「いやあ、もうね、本当にこき使われましたよ。親父は軍隊上がりでしょう。厳しくてねえ。だけど、貧乏だとは思いませんでした。周囲みんながそうなんだから。反抗する気持ちもないではないけれど、『元も子もなくなる』って自分を慰めてましたよ」
山田は畑仕事の合間をぬって、水車小屋を建て始めた。モミを自分で精米して売り、そこから出る小ぬかを肥料に当てようという計画だった。
アカラの土地は、山焼きをした年は作物もできるが、灰分がなくなると、労力をつぎこむかいもないほど収穫が落ちる。うわさに聞く南伯の開墾後何十年かは肥料がいらない土地とは、大違いである。それに北伯は米や野菜の値が安いので、肥料を買っては採算が取れなかった。
すでにトメアスー内には、イピチンガとアライア両地区に二カ所の精米所があったが、クアトロ・ボッカスから約六キロのあったジャングル内の小川をせき止め、新たな精米所を作ることになった。
「その頃は機械なんてないでしょう。二年かけて堤防を作りましたよ。直径四メートル半もある水車を回していました。一俵(六十キロ)で六割五分が米。残りがブタの飼料になる小米、肥料になるぬか。当時は精米所の持ち主がそれをもらえた。これが馬鹿にならなかったんですよ」
このホエザルが鳴き叫ぶジャングルのなかに建てられた精米所に、当時わずか十三歳、小学校を終えたばかりの元さんが一人で住むことになる。
(堀江剛史記者)
「アマゾンの歌」を歩く=(6)=記憶辿り、水車小屋へ
働き詰めの毎日を一家は送った。その間にも次男允、和子と昭(赤痢で死去、享年一)が誕生、スエノさんは育児と雑事に追われた。
ある日、水車小屋で精米が遅れているにも関わらず、義一さんは請け負い仕事の必要があった。重労働が家長の肩にのしかかり、働き手の少なさを実感していた。
「父さんが帰らなきゃいけないんなら、僕がここに残ろうか」
なに? という顔で、山田は息子を見詰めた。骨の細い体つきで、十四歳という年より幼く見える元が、澄んだ目で父を見上げていた。
「お前、一人でここに残れるか」
意外であった。人家のある地区からは、歩いて半日もかかる水車小屋である。小屋の周囲はわずかに樹を伐り拓いてあるが、そこから続く細々とした道さえ、左右からおおいかかる巨木の茂みに太陽の光をさえぎられて、うす暗い。―この子はここに残って、一人で泊まれるというのか―。
「大丈夫だよ。精米も一人でできるし…本も持ってきたから、たいくつしないよ。タローもいるし…」
彼はタローと名付けたオウムをつれてきていた。
「十三歳だったと思います。オウムがいたことは覚えてないですが、本は父が取り寄せてくれた小学一年生(小学館の学年誌)の付録をよく読んでいました」
精米の仕事は、一俵分の米を搗くのに四十五分ほどかかる。水量の少ない乾季を除き、朝から晩まで水車を回しつづけた。
合わせて精米所の周囲で米作を行なった。元さんは日曜日に精米所に行き、土曜日に十字路の自宅へ帰る生活を約十年間、続けた。
「夜はホエザルが鳴いてね。そりゃあ、恐ろしかったですよ」
水車小屋があったところは、十字路から北に約三キロの地点を西へ三キロの地点。戦後はディーゼルエンジンを使っての精米も進み、ピメンタブームが始まったこともあり、次第に行くことがなくなったという。
記者のたっての願いで「五十年は行っていない」という水車小屋に同行してもらうことになった。
真っ直ぐ伸びる赤土の道。両側には鬱蒼とした森が広がっている。
「昔はこの道で競馬をしていたんですよ。馬券も売って、面白かったですね」。
しばし走らせた車を道沿いに止める。粗末な小屋から出てきた老人は、昔の使用人だという。小屋のあった場所を尋ね、二言、三言交わし、森の中に入っていく。
呆気に取られ、しばし待っていると、「ここじゃないですね。もう少し向こうだと思います」
この土地はかつて山田家のピメンタやカカオ園だったが、現在は牧場になっており、風景も一変している。
当時の記憶を辿りながら、踏み固められた重粘土の道で、「この先ですね。間違いありません」と元さんは、聳え立つパラー栗(カスターニャ・デ・パラー)を見上げた。六十年ほど前に植えたものだという。
「ここらへんは地味がいいんでよく育ってますね」。パラー栗の実は、十五センチほどの円状の固い殻のなかに詰まっていてかなりの重量がある。
「ココの実は昼夜構わず落ちますが、これはよくしたもので夜にしか落ちないんですよ。頭に落ちたとか怪我したとかは、聞いたことないですね」。そう言って歩を進めた。 (堀江剛史記者)
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