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丸木 英朗さんの【ポルトガル紀行】 後編
豊富な話題に豊富な写真と共に『私たちの40年!!』関連BLOGに連載させて頂いた丸木さんの【ポルトガル紀行】は9回で終了しました。後編は、コインブラ、ポルトガルの最高峰セーラ・ダ・エストラーダ、クライマックスはポルトガル南端、ジブラルタル海峡に近いアルガルべの街、途中の風景もさることながら美味しそうなポルトガル料理にワインの話、ちりばめられた挿話、類似都市との比較、人生経験豊かな丸木さんならではのポルトガル紀行でした。出来たら車を運転出来る間に行って見たい国の一つだけに大変参考になりました。誰かが行くと直ぐその後を辿って見たくなる悪い癖?がありますが、是非ポルトガル、スペインの旅を実現させて見たいものです。
写真は、矢張り丸木夫妻のアルガルべのディアスさんの別荘の近くの海浜で撮られたアルガルべの思い出として最後に送って呉れた写真を使用することにしました。その他の写真は、各編の下に『私たちの40年!!』関連BLOGのURLを表示リンクしておりますのでそこからご覧下さい。


ポルトガル紀行(第6話)
聖地ファチマを後にして、テルシオの運転する大型ベンツは北辰斜にさすところの本拠地である世界最古の大学都市コインブラに向け北上。この街の学生は破れマント姿で、日本の旧制高校のバンカラ気風の元祖と云われる。その日のうちにテルシオの育った高地まで辿り着かなくてはならないので、コインブラ市街を見下ろす丘で少し休憩しただけでセーラ・ダ・エストレーラへモンデゴ川の上流を目指した。この川はイベット・ジローが「ポルトガルの洗濯女」に唄われており、日本語訳では中原美紗緒が唄ってヒットしました。聴きたい方はwww.youtube.com/watch?v=a6xW_houRpYをクリックすれば懐かしいメロデーが流れます。道路は次第に山道に差し掛かり、いかにもヨーロッパの田舎の趣き、ブラジル東北地方の農家出身のリーナは農地と牧場ばかりの風景を楽しんでる様子。僕は地図とコンパスを照らし合わせ、コインブラからスペイン行きの鉄道線路と平行に走ってるので国境の方向に向ってると判った。セーラ・ダ・エストレーラ地方は地球の歩き方にも載ってないので僕は「星合連峰」と名付けることにしました。テルシオが6才から24歳まで育ったセイア村に着いたのは夜の九時を過ぎていたが、夜景の見晴らしのいい場所に連れて行かれた。小じんまりとした街にも初夏の夜を楽しむカフェテラスが賑わっており、テルシオも出資してる旅篭に投宿した。スキーリゾートのこの辺りは、冬には欧州各国からのスキー客で超満員で1年以上前からの予約が必要とか。特にスイスやドイツからのスキーヤーが滞在費の安さを狙って押しかけてくるそうです。朝早くから小作人が段々畑で仕事をしてました。カナダでしこたま稼いだ潤沢な資金を投資してるテルシオが地主で今は農場主。12才の子供の頃から徒弟に出され電気工事に従事し寝起きしてた小屋(と云うより洞)を見せてくれましたが、語るも涙聞くも涙、毎日の様に母親が弁当を届けてくれたそうです。漁村で生まれ育った母親は山村の生活に馴染めず苦労されたまま亡くなったとディアス氏。後進国のポルトガルでは老若男女を問わずフランス、ベルギー、ルクセンブルグ、ドイツ等々に出稼ぎに行き数年後にはベンツに乗って帰ってきて不動産に投資するのが成功者の常。最近はヨーロッパから出てアメリカやカナダに移住するのが早道で、50年間無休で働き続けたテルシオが報われたのもむべなるかな。カナダに移住した頭初は最初は言葉もわからずポルトガル人の経営するパン職人をしたり、ナビスコのビスケット工場に勤めたり辛酸を舐めたが、アソーレス出身の魚屋の手伝いをするうちに直輸入し問屋に売るのが利幅が大きいと判断したのが成功のきっかけ。とかくクリスチャンは日曜を安息日と決め込んで働かないが、人の遊んでる時にこそ働くのが金儲けの極意と家族を顧みず働き続けた結果が現在の生活を享受できたと云う。金曜日を安息日とする回教徒は論外、鮮魚の一番売れるのは金曜日。ビジネスはタイミングの勝負で、明け方の仕入れた魚は午前中に売り切らなければ大損となる。">http://www.youtube.com/watch?v=a6xW_houRpYをクリックすれば懐かしいメロデーが流れます。道路は次第に山道に差し掛かり、いかにもヨーロッパの田舎の趣き、ブラジル東北地方の農家出身のリーナは農地と牧場ばかりの風景を楽しんでる様子。僕は地図とコンパスを照らし合わせ、コインブラからスペイン行きの鉄道線路と平行に走ってるので国境の方向に向ってると判った。セーラ・ダ・エストレーラ地方は地球の歩き方にも載ってないので僕は「星合連峰」と名付けることにしました。テルシオが6才から24歳まで育ったセイア村に着いたのは夜の九時を過ぎていたが、夜景の見晴らしのいい場所に連れて行かれた。小じんまりとした街にも初夏の夜を楽しむカフェテラスが賑わっており、テルシオも出資してる旅篭に投宿した。スキーリゾートのこの辺りは、冬には欧州各国からのスキー客で超満員で1年以上前からの予約が必要とか。特にスイスやドイツからのスキーヤーが滞在費の安さを狙って押しかけてくるそうです。朝早くから小作人が段々畑で仕事をしてました。カナダでしこたま稼いだ潤沢な資金を投資してるテルシオが地主で今は農場主。12才の子供の頃から徒弟に出され電気工事に従事し寝起きしてた小屋(と云うより洞)を見せてくれましたが、語るも涙聞くも涙、毎日の様に母親が弁当を届けてくれたそうです。漁村で生まれ育った母親は山村の生活に馴染めず苦労されたまま亡くなったとディアス氏。後進国のポルトガルでは老若男女を問わずフランス、ベルギー、ルクセンブルグ、ドイツ等々に出稼ぎに行き数年後にはベンツに乗って帰ってきて不動産に投資するのが成功者の常。最近はヨーロッパから出てアメリカやカナダに移住するのが早道で、50年間無休で働き続けたテルシオが報われたのもむべなるかな。カナダに移住した頭初は最初は言葉もわからずポルトガル人の経営するパン職人をしたり、ナビスコのビスケット工場に勤めたり辛酸を舐めたが、アソーレス出身の魚屋の手伝いをするうちに直輸入し問屋に売るのが利幅が大きいと判断したのが成功のきっかけ。とかくクリスチャンは日曜を安息日と決め込んで働かないが、人の遊んでる時にこそ働くのが金儲けの極意と家族を顧みず働き続けた結果が現在の生活を享受できたと云う。金曜日を安息日とする回教徒は論外、鮮魚の一番売れるのは金曜日。ビジネスはタイミングの勝負で、明け方の仕入れた魚は午前中に売り切らなければ大損となる。
セーラ・ダ・エストレーラ名産は山羊のステーキとチーズです。僕はどちらも好みではないのですが、リーナは山頂に沢山ある売店で試食しながら量り売りで沢山仕入れてました。二日目にカントリークラブの食堂でリーナはカブリット(山羊のステーキ)に頬が落ちたと申します。僕はポークソテーを食べましたがマデイラソースによる味付けがなんともいえない美味でした。街のスーパーの方が空港の免税店より安いので、ポルトガル名産のマデイラワインとポートワインを買って帰ったのは云うまでもありません。夜景も素晴らしい高原地帯ですが、昼には四方八方が見渡され、途中に通ってきたサブゲイロはポルトガルでは海抜2千メートルで一番高いところに位置する村落で、テルシオの父親の生まれ故郷。先祖代々スキー・ヒュッテを営んでいたとか。山頂に辿り着きモンデゴ川の起点に湧くアグア・ミネラルを車に積んで来た沢山のプラスチックに詰め大型車のトランクに収納。この水は市販され、輸出までしてるそうです。清浄な空気の高原は結核患者の療養でも名高く、喘息患者などは短期間
の滞在で完治するとか。川に沿って日本の温泉街のようなマンテイガスの街は風情があり、温泉芸者が居るかどうか存じませんが僕も滞在したくなりました。セイアもマンテイガスも含めセーラ地方は繊維産業が盛んでしたが、人件費の安い中国にお株を奪われ工場跡には繊維器械が運転停止のまま。中立国ポルトガルで繊維工業の全盛期はナチの軍服を作っていた頃。(続く)
写真:ポルトガル最高峰セーラ・ダ・エストレーラにて
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/41757895.html


ポルトガル紀行(第7話)
冬にはスキー場になる辺りの高原には所々に残雪が見られた。ダムの傍のレストランに併設された土産物屋で5ユーロの中国製ハーモニカを買って「しあわせなら手を叩こう」を吹いたら、ベルギー人がフランス語で、ウクライナ人がロシア語で、英国人が英語で、店の人はポルトガル語で皆が声を合わせて愉快な大合唱。そう云えば、トロントでもメジャーリーグ野球試合の最中に「しあわせなら手を叩こう」のデジタル・オルガンに合わせ観客が足を踏み鳴らす。モンデゴ川の水源に別れを告げ、僕達は一路この川が大西洋に注ぐ河口の街フィゲイラ・ダ・フォスに向った。ヨーロッパのリオデジャネイロと称される幅の広い砂浜の美しい海岸に着き泳ぎたかったが、砂浜で甲羅干してる人は居ても海に入ってる人影はなかった。6月は未だ海水浴のシーズンには早く7月から9月の最盛期には海岸沿いのホテルが満員になると云う。十年前の5月には、ヨーロッパのマイアミと云われるアドリア海に臨むイタリアのリミーニでも同じ経験をしました。ここからは海岸沿いにリスボンに向け南下。さていよい
よ、今回の旅のクライマックス、リベイラ・ダ・レイリーアに現存するテルシオの生家を見せると云う。6才まで育った街への帰郷には感慨深いものらしい。海浜の寒村の佇まい、小さな公園の公衆便所の前にある古い家屋には鍵がかかっていて誰も住んでいない様子。裏庭に入り荒れ放題の草花を見てもテルシオは懐かしさを感じなかった。セーラ・ダ・エストラーダでは凱旋将軍のような威勢の良かった男も生まれ故郷の想い出は芳しくないらしい。気持ちが吹っ切れたのか、「さぁ飲もう!」と漁港と海水浴客相手の海岸に面したレストランでの昼食となった。例によって長引きそうだったが長引いてくれたほうが安全と判った。テルシオは1リットルのカラーファの赤ワインを飲むので、早めに食事を切り上げれば交通事故の恐れがある。僕は昼はワインを飲まず、もっぱらインペリアルと呼ぶ生ビール。リーナとローザはテルシオのカラーファからワイングラスに一杯ずつ赤ワインを注いで飲んでいた。黒板にかかれたメニューを見て、鯵の開きを頼んだ、もちろんポルトガルでは炭火焼。リーナは鱸の開き、ディアス夫妻はどこに行っても鰯の塩焼き。日本の漁村と同じ味で、ポルトガルにしかない緑ワインを頼んだ。この若い葡萄酒は海鮮料理にもってこいで、白ワインよりも軽い。日本と同じ魚料理の味を満喫し口も軽くなり、お互いののろけ話に終始した楽しいランチでした。生まれ故郷に親友を招くことが出来て幸せ一杯の晩婚夫妻でした。海岸に沿って見所の多い村落が続き、ナザレの街に入った。ミサが終ったのか大勢の老若男女が古風な教会から出てきた。教会前の広場には地方色豊かな店が出店を出し、どこかでみたような菓子を見かけた。日本に伝わったポルトガル菓子コンペイトーは、今でも日本で時々見かけるが、全く同じ形と甘味。このナザレの街はイスラエルのナザレと関係があるらしい。僕がイスラエルのナザレを訪ねたのは20年以上前、ナザレ近郊のキブツで製作されていたIOL(眼内レンズ)のカウンタートレードに出張した時。その日はテルアビブのロッド空港で無差別乱射した岡本公三が釈放された日だったので忘れられません。イスラエルの田舎道を走るカーラジオが「オカモトオカモト・・・」と連呼してるので、ヘブライ語で何を言ってるのか訊ね
たら、運転してる会社の現地エージェントが「釈放」と吐いて捨てるように答えたのを憶えます。本家は奥地ですが、此処は海辺の景勝地でパラソルの列の綺麗な砂浜を見下ろすと息を飲む光景。ケーブルカーが上町と下町を往復してるのが見えた。ナザレから半時間ぐらいで、ポルトガル人と結婚した義弟(リーナの弟)の住むカルダス・ダ・ライーニャに着いた。市名を直訳すれば王妃の湯治場。今も鉱泉病院があるから別府の九大温研(九州大学温泉治療学研究所付属病院)みたいなものだろうか?消防署前のリオデジャネイロ街30番地が義弟の家。僕達夫婦が東京世田谷で住んでたのがバス停・新町消防署前、関係ないか。この街の近くにオビドスという城壁に囲まれた小さな村がある。絵のような軒先の花が美しい街路で、もう一度時間を掛けて来てみたい。日本語のパンフレットもあり、ガイドブックも売られていた。夕暮れ近くなったので、ハイウエーを一走りリスボンのバイパスを通り抜けヴァスコダガマ橋を渡り、セトゥーバルに戻った。近くのレストランBに寄ったが日曜でどこも休業、屋上のテラスで初日の残り物の鯛の浜焼きを焼きなおして、ワインをがぶがぶ飲んで酔っぱらった。(続く)
写真:絶景のナザレ
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/41775227.html
(コメント集)
丸木さん
送って頂いた写真は4メガ近くある写真でしたので縮小専門(縮専)で640x640にサイズを落とし少し加工(明るさを強調)しました。
私もポルトガルに行きたく成って来ています。


ポルトガル紀行 丸木さんから追加写真が届きました。
左の三枚は第1話セトゥーバルのディアス邸、右の二枚は第6話ポルトガルの最高峰セーラ・ダ・エストラーダ
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/41781051.html
(コメント集)
丸木さん
写真送付有難う。サイズが縮小されており適当なサイズで助かります。これであればそのままBLOGにも転載出来ます。


ポルトガル紀行(第8話)
ポルトガルの南端アルガルベに行く前に、見逃したリスボン近郊の観光に出かけました。ワイナリーの多いアゼイトンの村を通り旧国道沿いに4月25日橋を渡り、市内の西側にあるジェロニモ修道院にお参りした。僕にはロンドンのウエストミンスター寺院に似てると思えましたが、こちらのほうが由緒あるらしい。ここで時間を取られては西郊の景勝地を見逃すことになるので、テージョ河の河口に向った。先ずは太陽海岸と呼ばれるエストリルの街。モナコはモンテカルロのポルトガル版とでも云うところでしょうか、カジノや高級レストランのある富裕階級の集うリゾート。こんなところには用がないので通り過ぎ、隣町のカスカイスに来た。ここはユーラシア大陸の西の果て、ウラジオストックからは何マイルあるのだろうか、ジェット機でも一昼夜以上かかるだろうな。エストリルほど気取りがないとはいえ、なかなかにエレガントな避暑地のようで、海岸沿いには大きなレストランが軒を連ねる。最果ての荒波の打ち寄せる地獄の口の近辺のレストランに入った。例によってテルシオは一升酒ならぬ一リットルのワインを注文する。こんな大きなカラーファに並々と溢れんばかりで、たったの2ユーロだからポルトガルはワイン好きには極楽浄土。飲み過ぎたら直ぐ傍に地獄の口が開いてるからくわばらくわばら。ここから見上げる山並みが目的地のシントラ山系、ヨーロッパでも有数の別荘地帯で世界遺産にも登録されている。道が細く、飲んでなくても大型車では運転が難しい。野外の店頭を冷かすのもおもしろいが、急な坂道沿いの別荘を見るのも興味津々。いずれ劣らぬ豪邸で由緒ある貴族の館なのだろう。山頂には見晴らしの良いペーナ宮殿があるが、入り口の列にあきらめリスボン方面の道路標識の方向に引き揚げた。(続く)
写真:シントラのペーナ宮殿
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/41785929.html
(コメント集)
和田:丸木 さん 精力的に書いておられますね。10回では終わらないのではないですか?週末に最初の分だけでも寄稿集に収録して置きます。
写真は少し加工(トレミングとサイズダウン)させて貰っています。
丸木:次回の第9回アルガルベで脱稿です、ゲーテのイタリヤ紀行よりおもろいでっしゃろ?
和田:もう終わりですか?もう少し続くと思っていました。何とか2回で収まりそうです。写真を選ぶのに苦労しそうです。リンクをはっておけば総て見てもらえますので問題ありませんが。


ポルトガルの穀倉アレンテージョ地方を南下し、南欧随一の海浜リゾートであるアルガルベに向った。日本と同じく田植えの季節らしく、水田に早乙女姿が見受けられた。ヨーロッパでは珍しくポルトガルでは米食らしい。義弟の義母の料理には必ず美味しい米料理が楽しめた。彼女は僕より2才若く古希を過ぎてるが、美容院を3軒経営しており働き者。義弟のルイも髪結いの亭主、左団扇で暮らせると思いきや50過ぎてもカナダで土建屋稼業の重労働。ポルトガルの米料理を「地球の歩き方」から引用すると:Arroz de Mariscoエビ、イカ、アサリ、カニなどが入ったシーフード・リゾット。コリアンダーが味にアクセントをつけている。Arroz de Polvoタコのリゾット。ポルトガル人は日本人同様、タコを食べる。汁気のないタコの炊き込み御飯もある。Arroz de Tamborilアンコウのリゾット。このほかおじや風、炊き込み御飯風など、さまざまな種類の米料理がある。水田を見て涎を垂らす食いしん坊の僕はアホの見本みたいなもんやけど、旅の醍醐味はやっぱし食べ物でんな。日差しが強くなってくるのを感じたら、アルガルベの標識が見えた。はるばる来たぜ函館♪の心境。ハイウエイを降りたところのショッピングセンターで靴屋に入った。海浜リゾートではサンダル履きで充分なのに僕達夫婦はサンダルを忘れてきた。皮革製の軽くて履き心地の良いのを買い求めた。アルマソン・ダ・ペーラ(梨の添え木)という名の町にディアス氏の別荘がある。海に面した高級ホテルの隣でテラスの眼下にピーチパラソルの整然と並んだ砂浜が広がる。リミーニでもコートダジュールでも、ヨーロッパの海水浴場は整然とピーチパラソルが並べてある。自由主義の新大陸アメリカでもブラジルでも好き勝手にパラソルを立ててるので、ヨーロッパに来る度に、なんとなく肩苦しさを感じるのは僕だけだろうか。パラソルは全日11ユーロ、フロリダでは25ドルだから比較的安い。3回借りて、どの日も半日も使わなかった。6月の海水は未だ冷たく泳いでるのは僕を含め少なく、海岸に寝そべりリラックスしてるのが殆んど。夜には正装して出かける姿が多い。夜はローザの手料理をご馳走になったが、昼は近所のレストランで楽しんだ。もうもうと店先で煙を上げているトルコ人の店で鰯の炭火焼を大皿にてんこもり。冷えた赤ワインに意外と会うので昼間から酔っぱらった。テルシオは海岸沿いでないアパートも持っており月極めで貸してある。ローザと結婚してから買った新しい海岸のアパートはモダンで、バルコニーからは大西洋の海原が見渡せる。対岸は北アフリカのモロッコ。街でも評判の古いレストラン・グレーリャでアルガルベ地方の料理Cataplanaを食べた。ハマグリ、エビ、ソーセージ、野菜などをカタプラーナと呼ばれる鍋で蒸し煮した料理、スペインのパエヤに似てる。圧巻は11th Festival of Caldeiradaで、街中のレストランが競っていた。Caldeiradaはポルトガル風ブイヤベースで、魚介類と野菜をトマトソースで煮込んだシチュー。青い海、潮風に吹かれ特上のワイン、御馳走攻めでポルトガルの旅を終える晩に幻覚のように瞼に浮かんだのは「狭い日本、そんな急いでどこへ行く」と民営化された頃のJRの駅に貼ってあったポスター。ずばり云い得て妙「狭いポルトガル、そんな急いでどこへ行く」、ゆったり人生を楽しんでいるピレネー山脈のこちら側こそ真のヨーロッパで、先進国と云われる西欧諸国の国民よりも、栄華を誇ったタイムマシーンが16世紀で止まってしまったイベリア半島のほうが幸せではないかと・・・うつらうつら酔いが廻って来た。(完)
写真:ヨットクラブでランチメニュー、対岸は北アフリカのモロッコ、レストラン・グレーリャで酔っぱらったディアス夫妻
写真:レストラン・グレーリャで酔っぱらってる僕、レストラン・グレーリャの日替わりメニュー
写真:リーナと南欧の太陽を満喫する僕・アルガルベにて
写真:アルガルベは太陽が一杯、ディアス氏の別荘を背景にポルトガルの想い出
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/41795955.html
(コメント集)
和田:丸木 さん 寄稿集連載、豊富な写真と共に送付有難う御座いました。無事終了ですか。もう少し続くのではないかと思っていました。
アルガルべは、VINHO VERDEで有名な避暑地ですね。ヂブラルタルも近いポルトガル南部、行って見たいです。車の運転が苦にならない内に行かないと行けないですね。
有難う御座いました。多分2回に分けて寄稿集に掲載させて頂きます。
丸木:又、行く機会があればポルトガル発祥の地でもある北部にも行ってみたいものです。
ディアス夫妻は、今度はアルガルベの別荘を拠点にスペインのセビリヤからコスタデルソール地方に案内すると言ってますが・・・。
緑ワインはポルトガル北部が産地ですが、魚料理に合うので消費量は最南端のアルガルベが多いようです。リスボンからアルガルベ州の首都ファーロまで飛行機も特急列車もありますが、途中の田舎の村落に立ち寄るなら自分で車を運転したほうがいいでしょうね。ヨーロッパは日本同様鉄道網が発達してますが、田舎道のドライブは楽しいものです。



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