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県連ふるさと巡り=アマゾン80周年式典へ=過去最多の211人参加=連載 松田 正生記者のレポート ニッケイ新聞WEB版より
サンパウロ新聞の上岡 弥生記者のアマゾン80周年式典への参加慶祝団随行のレポートを寄稿集に収録させて頂いていますが、粗、次期を同じくしてニッケイ新聞にも松田 正生記者が県連主催の『第32回移民の故郷巡り』随行記をレポートしておられこれは、ブラジル新聞のメルマガ版よりお借りしてメーリングリストメンバーの皆さんにはニッケイ新聞発行前日に配信させて頂きました。今回ニッケイ新聞のWEBサイトでも写真入りで掲載していますのでこのWEB版よりお借りして『私たちの40年!!』寄稿集に収録して置きたいと思います。
非公式情報ですが来年のふるさと巡りは、ボリビアのサンタクルスのサンファン移住地、沖縄移住地等を訪問することを検討しているとの事で同船者が多数(101名)入植したサンファン移住地の訪問が実現すれば是非また参加させて貰いたいと願っています。
写真は、アマゾン河の遊覧船の甲板で撮らせて貰った松田記者の英姿を使わせて頂くことにしました。


県連ふるさと巡り=アマゾン80周年式典へ=過去最多の211人参加=連載《1》=現地と喜び分かち合う=トメアスーで前夜祭
ブラジル日本都道府県人会連合会(県連、与儀昭雄会長)主催の「移民のふるさと巡り」が9月15日から21日まで実施された。32回目となる今回の訪問地は、移住80周年を迎えたアマゾン。過去最多となる211人が参加し、日本移民が最初の一歩を踏み出したトメアスーからベレン、マナウスまで3カ所の祭典を訪れ、喜びを分かち合った。
 一行がアマゾンを訪れるのは3回目。80周年慶祝を目的とした今回は、青森、栃木、滋賀、鳥取、島根、福岡、長崎、鹿児島、沖縄の県人会長が参加。滋賀県人会の山田康夫会長が旅行団長、与儀会長が慶祝団長という陣容だ。県人会長ら第一陣が15日早朝に空港から出発する光景を、さっそく映像担当の畑勝喜さんが収録。
午後1時、無事にベレンへ到着すると、同地祭典委員会の須藤忠志実行委員長(汎アマゾニア日伯協会副会長)、歓迎副委員長の恩地民雄さん、同文協前会長の小野重善さん、ベレン福岡県人会顧問の岩坂保さん(92)らが迎えに。福岡県から到着する予定の海老井悦子副知事ら慶祝団を迎えに来たという。
 サンパウロからの250人をはじめ、計約300人がこのために来るという。「準備がたいへんですよ」と疲れた表情ながらも、須藤さんは「にぎやかになると思います。ゆっくり楽しんでください」と話した。
 一行はトメアスーへ向かう前に空港内で昼食。レストランに入ると援協副会長の菊池義治さんが一人の男性と話している。福岡県から参加した山口博文さん(70)だった。二人は南米産業開発青年隊5期の同期。山口さんは今年4月まで9年間、福岡県海外移住福岡地区家族会の会長を務めていた。今回同期の渡伯50周年、80周年を機に来伯したそうだ。
 パラナ州ウムアラマの合宿所で過ごした青年時代。「道が悪くて、3カ月間食料が届かないこと」や「カボチャばかり食べていたら肌が黄色くなった」と笑う。
 午後3時、昼食を終えた一行はバスに乗り込み、トメアスーへ向かう。ベレンから南へ約250キロ。早起きの疲れか、車内で一休みする一行。2時間ほど走り、ブジャルーからグァマ川を渡るバルサへと乗り込む。川風に吹かれ、暑さがやわらぐ。
 約20分で向こう岸に到着。そこから再びバスに揺られ、トメアスーに着いたのは午後7時過ぎだった。
 ホテルで夕食のつもりだったが、聞けばトメアスー文協で前夜祭が開かれているという。記者は一行と分かれ、12キロ離れたクアトロ・ボッカス(十字路)の同文協へ。到着すると会場は満員のにぎわいだ。ちょうどパラグアイ・イグアスー移住地の太鼓グループ「鼓太郎」が演奏しているところだった。
 昨年も同地を訪れた歌手の宮沢和史さんと、亜国生まれの大城クラウディアさんが出演。ヒット曲「風になりたい」のほか、沖縄系の大城さんとともに琉球民謡などを熱唱。大城さんは亜国日系社会を思い起こし、「初めて来た気がしない」と話していた。
 1929年9月22日に最初のアマゾン移民が到着したトメアスー。ここから北伯日系社会の歴史が始まり、多くの人材がブラジル社会へと羽ばたいていった「アマゾン移民のふるさと」だ。
 節目の式典が行われる16日は、第1回移民が乗った「まにら丸」がベレンの港へ到着した日。15日の夕方には追悼法要が営まれ、これまでに同地で亡くなった834人の御霊を偲んだ。
 入植80周年の祭典委員長を務める海谷英雄・同文協会長(山形、66)は、62年に移住して以来住み続ける。「若い人たちが、村を継ぐ人として真剣に取り組んでくれている。慰霊祭、前夜祭にもたくさんの人が来てくれ、トメアスーの団結力を感じます」と、翌日の式典に向け気持ちを新たにしていた。(つづく、松田正生記者)
写真=トメアスー文協の海谷会長/バルサでグァマ川を渡る県人会長ら


県連ふるさと巡り=アマゾン80周年式典へ=過去最多の211人参加=連載《2》=次々に旧友と再会=ここから巣立った
9月16日、トメアスー入植80周年式典当日の朝、第一回移民が到着した桟橋へ出かけた。ホテルから5分ほどの距離。ちょうど一隻の船が停まり、野菜や海老などの食品を下ろしていた。すぐそばには、かつて使用していたと思われる桟橋も。川の先は今も鬱蒼とした森が広がり、移民が到着した80年前と変わっていないようだ。
 式典は文協で開かれるため、会場の関係で、ふるさと巡り一行からは与儀団長、県人会長と菊地援協副会長、大原毅文協評議員会長などが別行動で代表出席。やはりスーツにネクタイ姿、北伯ではさすがに暑そうだ。
 8時過ぎ、それ以外の一行は、文協前の通りで行われた記念パレードを見学後、トメアスー農協や果樹栽培の現場などを見学に出かけた。
 会館の入り口で日本海外協会の今村忠雄会長が文協関係者と話をしていた。今村会長の手には一枚の額。トメアスー移住地を造成した南米拓殖株式会社の株券だそう。出資者の鈴木五市氏の家族から譲り受け保管していたが、80周年を機にトメアスーへ寄贈するため東京から持参したとか。「めったにないもの」と海谷会長らも喜ぶ。
 会場に入ると一人の男性を紹介された。8月に日系初のアマゾニア連邦農牧大学学長に就任した沼沢末雄さん(57)だった。同学長の一家は戦前にトメアスーへ入植。自身が育った50年代はまさに胡椒景気の黄金時代だった。
 巣立った生まれ故郷の節目の日。父・谷蔵さんに教わったことは――と尋ねると沼沢学長は、「規律を守り、素直であること、それと献身。それを守って学長になれた。子供たちにもそう教えています」と話した。
 式典が終わり昼食会の時間になると、代表団は一行と合流。15日の夕方に出発した第2陣の姿も見え、ようやく全員がそろったようだ。
 80周年記念の俳句コンクールで特選に選ばれた三宅昭子さん(66、秋田)が、ポルト・アレグレ在住の和田好司さん(69、兵庫)、恵子さん夫妻と話している。和田さんと三宅さんは62年のあるぜんちな丸の同船者だ。一行で7人、トメアスーには11人の同船者がいるという。
 和田さんが同船者の近況をたどった「40年目のビデオレター」の取材で訪れて以来7年ぶり。この間に亡くなった人もあるが、「元気な姿が見られてうれしい」とお互いの再会を喜ぶ。
 会館の前ではミナス州カルモ・ド・パラナイーバでカフェ栽培に従事する下坂匡さん(72、福島)夫妻と、パラー州パラゴミナスでマホガニー植林などを手がける岡島博さん(67、群馬)、トメアスー文協元会長の穎川幸雄さん(74、熊本)が談笑する。
 「僕の胡椒栽培は下坂さんのカフェが模範」と話す岡島さん。「あんちゃん」と呼ぶ下坂さんとは30年以上の付き合いだ。03年に下坂農園を訪れたという穎川さんも「時間があれば家に連れて行きたい」と話す。
 189人の日本人から始まったトメアスー移住地。市制施行から50年が過ぎ、今では人口5万人の町へと育った。
 式典では、クアトロ・ボッカスで約40年間雑貨店を経営するジョゼ・サルストリアーノさん(73)も、文協行事へ協力してきた貢献により感謝状を受けた。父親の代から変遷を見つめてきたサルストリアーノさんは、「昔この辺りは全部森とピメンタ畑だったけど、今ではビラからカピタルになった」と歳月を振り返った。
 午後3時過ぎ、一行のバスが出発する時間が来た。会場を出ようとしたところで、地元の久保田忍さん(75、宮崎)と話した。68年に第2トメアスーへ入植、今は息子が農業を継いでいるが、自分でもピメンタを栽培する。
 「トメアスーはいい所ですよ。自由だし、友達も多い。ここにきたら苦労なんかふっとぶよ」と話す久保田さん。「良かった。こうして色んな行事をするのはいいこと」と式典を振り返り、笑顔を浮かべた。(続く、松田正生記者)
写真=式典当日の朝、トメアスー文協前で記念撮影するトメアスー文協関係者と地元来賓、ウー連議、サンパウからの慶祝団。(左端は柴田アゴスチーニョ空軍少将)


県連ふるさと巡り=アマゾン80周年式典へ=過去最多の211人参加=連載《3》=「世代交代の節目に」=ベレンでアマゾニア祭り
マンゴー並木が延々と続くアマゾン河口の港町ベレン。19世紀中頃から20世紀前半にかけてゴム積出港として栄え、今は人口150万人を有する東部アマゾンの中心都市だ。
 1616年にマラニョン州サンルイスから移ったポルトガル人により開かれたこの町には、今も外部からの侵略に備えた要塞の跡が残る。
 日本人が同地に残した足跡はトメアスーより早く、1900年代初頭にペルーからアンデスを越えて入った「ペルー下り」までさかのぼる。15年にはグレーシー柔術の生みの親コンデ・コマ(前田光世)が移っている。現在の日系人口は約1万2千人でサンパウロ、クリチーバに次ぐ国内3番目の集住地だ。
 トメアスー式典終了後、16日夜にベレンへ戻ったふるさと巡り一行は翌朝から市内観光へ。アマゾンの動植物を見ることができる自然公園「エミリオ・ゲルジ博物館」を散策した後、港の近くにあるカテドラル、要塞の跡に石器時代からの出土品を展示した「Museu do Forte do Presepio」などを見学した。
 続いて市中心部にあるナザレ教会(Igreja Basilica de Nazare)を訪問。毎年10月第2週に行われるカトリック行事「ナザレ祭(Cirio de Nazare)」の時には、カテドラルから6キロ離れたこの教会までナザレ像を運ぶパレードが行われる。アパレシーダに次ぐ同祭には各地から約200万人が訪れるという。
 午後5時からベレン式典会場となるコンベンションセンター「HANGAR」で祭典委員会による来賓・慶祝団の歓迎会が開かれた。
 日伯議員連盟を代表して来伯した井上信治衆議、福岡県慶祝団、島内憲大使や名井良三ベレン総領事などが出席し、一行もバスで会場へ。
 今年3回目となる日本文化イベント「アマゾニア祭り」でにぎわうセンターへ入ると、着物姿の女性たちが迎える。
 最初に歓迎委員長の山本陽三さん(74、香川)があいさつ。「遠方からたくさん来ていただき感激している」と一行を歓迎し、「戦前移住者は六世、戦後でも三世が生まれている。80周年を次世代にバトンタッチする意味も含めて祝っていきたい」と述べた。
 続いてサンパウロの慶祝団を代表して、ふるさと巡りの山田康夫団長が一行を紹介。生田勇治ベレン祭典委員長は先駆者への感謝とともに、「100周年、200周年に向けて日本文化のいい所をブラジル人に、ブラジル文化のいい所を日本人へアピールしていきたい」と決意を表した。
 この日ベレンに到着したという井上衆議は「開拓者の魂が子孫に受け継がれ、すばらしいアマゾン日系社会になっていると思う。皆さんの活躍を目に焼きつけて帰国したい」と述べ、80周年に祝意を表した。
 今村忠雄・日本海外協会会長の発声で乾杯。食事の間には、マラジョー島の民族舞踊「カリンボー」のグループが出演し、華やかな踊りで歓迎会を盛り上げた。
 1954年に19歳でトメアスー入植、現在パラー日系商工会議所副会頭を務める山本委員長。「たくさんの人に盛り上げてもらえ、心から嬉しい」と笑顔を見せながら、「世代交代が進み、80周年は節目だと思います。私も最後のお手伝いですよ」と語った。(続く、松田正生記者)
写真=エミリオ・ゲルジ博物館でふるさと巡り参加者たち


県連ふるさと巡り=アマゾン80周年式典へ=過去最多の211人参加=連載《4》=ベレン=平和劇場や市場を散策=「二、三世の時代ですね」
ベレン滞在3日目も午前中、平和劇場(Teatro da Paz)へと向かった。道すがら、栃木県人会長の坂本アウグスト進さん(64)と話す。
 終戦直後1945年8月15日に聖州グァラサイで生まれたという坂本さん。昨年まで聖市で薬局を経営、ふるさと巡りに参加するのは初めて。
 ベレンの名所のひとつである平和劇場が完成したのは、ゴム景気の最盛期だった1879年。劇場周囲を走る馬車の音を防ぐため、石畳の代わりにゴムを敷き詰めたというエピソードは当時の繁栄ぶりを偲ばせる。一行は内部を見学、97年に天皇皇后両陛下歓迎式典が行われた際の観覧席に入ることもでき、記念撮影をする人も。
 その後は、昔の刑務所を宝飾品工房・販売所に改修した「Museu de Gemas do Para Joias」、自然公園「Mangal das Garcas」を訪れた。ニワトリの先祖ジャクチンガを眺めていると、「昔食べたことがあるよ」と、隣にいたふるさと巡り参加者。「オンサも蛇もアンタ(バク)もね。今では考えられないな」。
 思い思いに園内を散策する一行。89歳で同旅行に参加した林田豊さんは、「忙しいけど、いい旅ですね」と話す。父親はグァタパラ耕地に入った第5回移民。東京植民地で生まれた林田さんは戦前に父親と帰日、日本の学校で学んだ。再び渡伯中に戦争が始まり、父親は当地で亡くなったという。アララクアラ線終点のサンタフェ・ド・スールで20年間バールを営み、今はリベイロン・プレットに住む。
 ホテルへ戻り、ベレンの式典会場へ。今回は全員が参加し、80周年祭典の節目を見届けた。
 式典終了後は階下のアマゾニア祭り会場で食事を取る。最終日で金曜日ということもあり、かなりの混雑だ。
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 19日は朝の時間を利用して県連の伊東さん、長崎県人会の野口圭三会長とベル・オ・ペーゾ市場へ向かった。重さを量る「ver o peso」がそのまま名前になった同市場は、庶民の台所だ。
 塩をまぶして山盛りにされた海老、ピラルクーなど川魚の塩漬け、アセロラなどの熱帯果実を扱う店が所狭しとならぶ。その横にはマンジョッカから作るトゥクピーを容器に移す女性たちの姿。野口会長は、さっそく海老を一山購入した。
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 ベレン空港に到着した一行の中、1回目から同旅行に参加している和田一男さん(85、二世)は、95年のふるさと巡りで訪れて以来のアマゾン訪問。「今回は人数が多くて誰が誰だか分からないですね」としながらも、トメアスー訪問を振り返り、「町も新しくなったし、組合もきれいになった。皆さん苦労したでしょうけど、もう二、三世の時代ですね」と話していた。
 同じくふるさと巡り参加者の押切壮(つよし)フラビオさん(71、山形)は叔父が戦前トメアスーに入植しており、55年から3年間同地で暮らした。「当時はピメンタが一番すごい頃。会館の周りは整然と畑が広がっていたけど、今では面影がないですね」。
 敗戦後の日本から移住した押切さんの目には、ピメンタ景気に沸く移住地は「生活レベルが違うな」と感じられたという。また、ベレンへ進学した子弟と戦前移民の親たちとの間で言葉の問題も出ていたそうだ。
 押切さんはサンパウロに出て日系企業で働き、現在は弁護士として活動する。「80年の開拓はたいへんだったろうと思います」と今回の訪問を振り返り、「あまりにも時間が過ぎてしまって、年をとったな、と実感します」と話した。
 一行を乗せた飛行機は一路マナウスへ。アマゾン東部から西部へ、1600キロの距離をたやすく飛び越える。約90年前のペルー下りの日本人は、どれだけの時間をかけてベレンまでたどり着いただろうか。(つづく、松田正生記者)
写真=ベレンの平和劇場前でふるさと巡り参加者たち


県連ふるさと巡り=アマゾン80周年式典へ=過去最多の211人参加=連載《5》=マナウス=活気溢れる成長都市=慰霊碑に花たむける
西部アマゾンの中心地マナウス。1669年にポルトガル人によって開かれ、19世紀後半にゴム景気を謳歌したこの町は、1967年のゾナ・フランカ(免税地域、Zona Franca)設置以来、今も企業進出が続く。20世紀前半のゴム衰退後、企業進出時代までの隙間を埋めたのは高拓生らに代表されるジュート(黄麻)栽培だった。
 人口は約180万人。現在2014年のサッカーW杯に向けて州が600万レアルかけて施設を整備する計画もある。落ち着いたベレンの町並みとは対照的に、マナウスは成長を続ける都市の活気にあふれていた。
 ふるさと巡り一行はトロピカルホテルへ。その途中、アマゾナス劇場を訪れた。
 ゴム最盛期の1896年に完成したイタリア・ルネッサンス様式の同劇場。ベレンの平和劇場では石畳の代わりにゴムが敷き詰められたが、こちらでは演奏の音が外に漏れないよう、当時の有力者が壁の間にゴムを入れて音を遮断するよう提案したというエピソードもあるそうだ。
 劇場の向かいにはサンセバスチョン広場。中心に立つ記念塔は四方に船の彫刻が施され、各面にアメリカ、アジアなどと刻まれている。マナウスから世界へーという当時の活気を感じさせる。
 宿泊したトロピカルはとにかく広い。受付から記者の部屋まで200メートル近くあり、その奥にも部屋が続く。敷地内にはビジネスホテルや動物園も。ネグロ川沿いのプライアの端にあるリゾートホテルだ。
 その日の夕食は、市中心から離れた川魚料理のレストラン。ピラルク、タンバキと、アマゾンの川の幸が供され、にぎやかに過ごした。
   ▽   ▽
 マナウス市には約5千人の日系人が暮らす。高拓生など戦前移住者の子弟や、戦後アマゾン各地へ移住した後に出てきた人、日系企業の駐在員や企業進出とともに国内から移ってきた人たちなどだ。日系人口が少ないこともあり、駐在員との交流は盛んだと言う。
 マナウス式典の会場となった西部アマゾン日伯協会の敷地には、同協会とアマゾナス日系商工会議所、ATSツールのほか、アマゾン高拓会の事務所も同居する。会館から2ブロックほど離れたところにはマナウス総領事館。同地の80周年記念行事も、これらが協同して進めてきたものだ。
 当初は空調が働かず、汗がにじむ中で式典は始まったが、やがて復旧し無事に終了。各地の参加者、一行はその後、同文協が運営する市内「憩の園」へ向かった。
 マナウスでは昨年の日本移民百周年を記念して空港入り口に鳥居が設置された。それが80周年にあわせて同園敷地の慰霊碑の入り口に移設されている。この慰霊碑はアマゾン移住50周年を記念して建立された。揮毫したのは故橋本龍太郎厚生大臣(当時)だ。一行も鳥居をくぐり、階段を上って碑に献花し、手を合わせた。
 鳥居の手前で一行に花を手渡していたのは、同日伯協会で働く辻田三千子さん(65、奈良)。辻田さん一家はベラ・ビスタ移住地より早い53年2月、戦後第一回ジュート移民としてイタピランガへ入った。
 ジュートの刈り取りで水に潜っていたことで「今でも少し耳が悪いんですよ」と話す辻田さん。4人の兄弟はマラリアや農薬で亡くなった。「56年は走馬灯のよう。苦労したかと聞かれても夢のようで、実感がないですね。残念だったのは、山の中で教育が受けられなかったこと」。
 炎天の下、麦わら帽子をかぶり、慰霊碑を訪れる慶祝団の一人一人に一輪の菊の花を手渡す。80周年を迎えて「感慨無量」と喜ぶ辻田さん。「家族が生きていたらと思います。私一人だけで、嬉しいけど寂しいですね。でも、皆さんが花をたむけてくれるからありがたいですよ」と言葉を継いだ。(つづく、松田正生記者)
写真=マナウス市内にある慰霊碑に手を合わせるふるさと巡り参加者たち


県連ふるさと巡り=アマゾン80周年式典へ=過去最多の211人参加=連載《終》
=混ざらない謎の合流点=日系進出企業が続々と ブラジル新聞メルマガ版より
マナウス市で慰霊碑を参拝後、ふるさと巡りの一行は碑の近くにある「アマゾン自然科学博物館」(橋本捷治代表)を見学。日本移民80周年の1988年に礼宮文仁親王殿下(当時)ご出席のもと開館した、国内で数少ない民営自然科学博物館だ。貴重な蝶や昆虫の標本、魚の剥製のほか、巨大な水槽ではピラルクーが悠々と泳ぎ、訪れた人を引き付ける。
 偶然見学中だった井上信治衆議にベレン、マナウスの両式典の感想を問うと、「気持ちがこもった手作りの式典と感じた。出席した皆さんも、苦労した昔を思い出して来ているのが分かった」。5度目の来伯で初アマゾン。「思った以上に発展している」と語り、「我々も協力できたら」と話していた。
 帰路、園田昭憲副会長が憩の園に県連40年誌を寄贈。バスはその後、ネグロ河畔に向かい、ソリモンエス川との合流地点を訪ねる船に乗り込んだ。「黒い川」を意味するネグロ川と、ソリモンエス川との合流地点に到着すると、茶色と黒、2色の水が混ざらないまま続いている。
 森に覆われた対岸を見ながら、参加者の中野文雄さん(88、福岡)は、少年時代に開拓へ挑んだ自身の体験と重ね合わせ、「今思えばあの頃は夢があったから、道なき道を20キロも30キロも歩いて作物を売った。今の人はできないでしょうな」と一言。
 船は川を上って水上レストランへ。この辺りの水上家屋は流木を組み合わせた上に建てられており、増水時にはそのまま浮かぶ仕組みだ。
 帰路は船でホテルへ。途中で作りかけの橋を通り抜けた。ベラ・ビスタ移住地の人たちを悩ませ続けたネグロ川、マナウスから対岸のマナカプルーまでの約3キロを結ぶ橋だ。来年に完成の予定という。
 次第に陽が沈み始める。陸地を見るとマンションが転々と建つ。「20年前にはホテルまで全部森だったけどね」、ビデオカメラを手に畑勝喜さんは感慨深げ。やがて船はホテルへ到着、ボイ・ブンバのショーを見ながら最後の夜を過ごした。
   ▽   ▽
 いよいよ最終日。午前中は、日系進出企業の工場を訪れることになった。フリーゾーン設置から42年。マナウスにはホンダやヤマハ、パナソニックなど大手をはじめ30以上の日系企業が進出している。
 今回は、園田副会長ら8人ほどで、バイクのキーセットを製造するホンダロック社と、バイクのチェーンを製造するDID社を訪れた。
 その一つ、ホンダロック・ブラジルは宮崎県に本社があるホンダ子会社の車・バイク部品メーカー。3年前にマナウスへ進出し、現在は同地のモトホンダ・アマゾニア社向けのバイク・キーセットを年間100万セット以上生産する。従業員は約300人。
 工場長の藤本明さんに説明を受けて見学。藤本さんに従業員の様子を聞くと、「いろいろと『痛い』と言って休む人もいるし、真面目な人は真面目。来る前に調査しましたが、来てみていろいろと分かります」と話す。
 同社では進出に当たって在日ブラジル人を採用。日本で研修後、帰伯したブラジル人が現在、工場運営の中心に携わる。進出に伴う現地側でのコミュニケーション問題も、この方法によって乗り越えているようだ。今後もブラジル人を日本で育成し、伯国の工場で雇用することを検討しているという。
 工場見学後、ホテルへ。やがて一行を乗せたバスは空港へと出発、同日夜、無事にサンパウロへと到着した。
 アマゾン3カ所、計9千キロを移動した今回のふるさと巡り。参加者たちは共に80周年の節目を祝い、共に先人の苦労へ思いをはせた。
 前夜開かれたマナウスの祝賀会で与儀団長は、「これからも全伯で交流を強めていきましょう」と呼びかけた。ふるさと巡りの200余人によって蒔かれた種も、いつか芽生え、育っていくのかもしれない。(おわり、松田正生記者)
写真=アマゾンに沈む夕日とふるさと巡り参加者たち



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