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豊歳駐日パラグアイ大使 早稲田大学海外移住研究会OBによる歓迎会 富田さんのBLOGより 
9月初旬に富田 真三さんのBLOGにスクープ的な情報として早稲田大学海外移住研究会の先輩豊歳直之(73歳)さんが次期駐日パラグアイ大使に決まったとの情報に湧きましたが、10月に正式に大使として着任されお忙しい中を11月4日母校早稲田を訪問、白井総長から「早稲田の誇り」の赤白のワインセットを送られた後、移住研究会の仲間による歓迎会に参加されたそうです。豊歳さんのパラグアイに置ける事業展開のVIDEOの紹介等もあったようで帰化パラグアイ人の豊歳大使の今後の日本に置けるパラグアイの紹介、両国の橋渡しとしての役割が期待される所です。青春の一時を同じ思い、同じサークルで過ごした仲間の活躍には大変嬉しい思いをさせて頂いております。写真は、富田さんのBLOGから挨拶をしておられる豊歳パラグアイ大使と右端は筆者の富田先輩です。


Toyotoshiパラグアイ駐日大使 歓迎会
 11月4日、豊歳駐日パラグアイ大使は忙しい日程の中、母校早稲田を訪問した。
この日、大使は白井克彦早大総長の招きに応じて母校を訪問、総長から大使就任のお祝いを受け、赤白ワインセット「早稲田の誇り」が贈られた。総長との会見後、校友会館に於ける、我々後輩が主催する歓迎会に顔を出してくれたのである。
着任早々、各所への挨拶廻りに忙しい大使は、文字通り席の温まる暇もないほどの忙しさだが、しばし昔の仲間たちとの再会にリラックスした表情を見せていた。

先ず、PARAGUAYの豊歳さんが総帥である、TOYOTOSHI、S.A.紹介ヴィデオが大隈記念タワー15階の校友会館会議室で上映された。
ヴィデオは豊歳氏自身が完璧なスペイン語でご自身の事業を紹介している。英語のスーパーが入っているのは、カナダでも二店のTOYOTAディーラーを経営しているからである。
本拠地のアスンシオン(首府)では、TOYOTAのディーラーの他に、SONY, SUZUKI、HINO、商船三井等々の代理店を経営している。その傍ら、日本・パラグアイ学院と言う、日本人学校は先輩が私財を投じて設立したのだから、立派なものである。
一同、拍手喝采して、先輩の偉業を讃えたのだった。続いて、一階下のレストラン「西北の風」の歓迎会場に移った。
仲間のFelicitaciones(お祝い)が一通り終わったころ、次のような大使としての挨拶があった。

PARAGUAY ここにあり日本とパラグアイとの付き合いは1936年に始まった。1935年、ブラジルへの日本人移住が一時中断したことを受けて、パラグアイへの移住が開始された。その際パラグアイ政府は広大な土地を日本人移住者に寄贈してくれた。
以後、日本とパラグアイの関係は日本人の同国への移住という形で推進された。
現在、パラグアイ日系人は7,000名を数え、大部分は大規模自作農として農業に従事している。
パラグアイは日本から多くの援助を受けており、戦後の1958年から今日に至るまで、日本政府が行ったパラグアイへの有償、無償、技術援助等の経済協力は2300億円に達している。
他の国々の日系人と同様に、パラグアイの日本人は「勤勉、正直、優秀」である、との高い評価を獲得し、パラグアイ人の信頼を勝ち得ている。
 
スピーチする豊歳大使           大使と移住研OBの記念写真


パラグアイも日本の政界と同じ時期、政権交代があった。豊歳氏は前大統領が指名した大使であったため、新大統領による追認が必要だったが、問題無く追認を受けた。
豊歳氏に対する大統領からの指示の一つに、日本に於いてパラグアイのPRを行うこと、があるが、事程左様にパラグアイは日本にとって縁遠い国である。会う人毎に、大使はパラグアイが何処にあるか、から話を始めなければならない。
御多分に洩れず、パラグアイも世界経済危機の波をもろに被っている。事実パラグアイの日系人、2500人が出稼ぎに来日している。
パラグアイは日本企業の同国への投資を歓迎すると共に、パラグアイ産品の輸出振興に協力を要請したい、と熱っぽく語った先輩はすっかりパラグアイ大使に成りきっていた。

「都の西北」を歌った後、散会してタワーを出ると、大使は同方面に帰る後輩二人とTAXIで帰途に就いたのである。これには驚いた。この大使は公私混同を嫌い、この日の早大訪問は私的なものとして、大使公用車は使わなかった、のである。中々出来ないことである。
兎に角、パラグアイはファースト・クラスの人物を大使として送り込んできたのである。

移住研OBからの大使へ我が研究会のテーマ短歌、
「不思議なる縁を持ちて生れし我 大和の外に数多なる友(菅間五郎作)」が贈られた。

PARAGUAYはこんな国! 
南米地図、パラグアイはブラジル、アルゼンチンとボリビアの隣国である。

では、ここで簡単にパラグアイを紹介したい。正式名称はパラグアイ共和国。
人口:6,349,000人(2008年)で世界100位。 
国土面積:406,750km2で世界58位
首都:アスンシオン。共和国は17の県(Departamento)より構成される。
位置:北はボリビア、東はブラジル、西はアルゼンチンと国境を接する内陸国である。
同国はパラグアイ河によって東西に東パラグアイと西パラグアイ(グラン・チャコとも呼ばれる)の二地域に分れる。東部は森林に覆われた丘陵地帯であり、西部は乾燥した低地や沼地からなる。国の南西部はパラナ河が国境となり、この河でブラジルと世界最大の水力発電所を持つ、イタイブー・ダムを共有している。またアルゼンチンともジャズレー・ダムと発電所を共有している。二つの発電所の余剰電力を輸出するパラグアイは、世界有数の電力輸出国である。
気候:概して亜熱帯性で夏(10月〜3月)は暑く、摂氏40度をこえることもあるが、冬(4月〜9月)は温暖で平均気温は10~20度。年降水量は800~1300mmで東に向って多くなる。
産業:農業及び林業が主。世界三位の大豆輸出国。小麦も輸出余力がある。
民族:国民の90%がモンゴロイド系であるグアラニー族のインディヘナ(インディオは差別語)の血が濃いスペイン人との混血である。南米諸国中、同国は先住民とスペイン人との混血の割合が最も高い国である。
移住者としては、ドイツ、イタリア、スペイン、日本、朝鮮、中国、アラブ等の出身者がいるが、社会に及ぼす影響としては、ブラジル人とアルゼンチン人の二グループの存在が大きい。

なお、豊歳氏の人となり、経歴についてはこのBLOG、2009年9月9日付けの「豊歳氏駐日パラグアイ大使に任命さる」を御参照下さい。


豊歳氏、駐日パラグアイ大使に任命さる

先輩、友人である、パラグアイ在住の豊歳直之氏(73才)が、同国大統領の要請により、今回駐日パラグアイ大使を引き受けることになった。
豊歳さんは早大学時代、海外移住研究会で共に活躍した、私の一年先輩である。
48年前、私がブエノス・アイレスに新婚早々の先輩を訪ねて以来、お会いしていない。
先輩は来月早々東京に着任されるので、再会が楽しみである。

日本生まれ、日本育ちの同氏が自分の生れ故郷に大使として赴任する、と言うことは、非常に稀有なことである。これは外国人を妻に持つ、外交官が妻の生国に赴任することすら、まれなことを見れば、分かる話である。如何に豊歳氏がパラグアイ政府、パラグアイ国民から信頼されているかが分かる、と言うものだ。

 豊歳氏は二年前、日本政府からの「旭日小綬章」受賞の際、母校早稲田大学で「我が人生のパラグアイ<校歌の心を我が心に>と題して講演を行った。
以下、氏がアルゼンチンに渡ってからの奮闘の足跡を語った部分をお伝えしたい。
豊歳氏の熱血漢ぶりがひしひしと伝わる、名スピーチが新任のパラグアイ大使の人物を知る、よすがになれば幸いである。


写真:早稲田大学で講演する豊歳氏 
我が人生のパラグアイ(早稲田学報 2007・4より転載)
日系人大会で知り合ったブエノスアイレスの現地会社の人に呼び寄せを依頼し、卒業後も約二年間、毎月手紙を出し続けた。大阪商船(現在の商船三井)に入社し、移民船の事務員を希望したが、配属先は陸上勤務で東京支店ニューヨーク航路であった。
その後、東京本社に異動してからしばらくして、待ちに待った呼び寄せ許可が来た。
勿論、家族も会社も大反対。それでも学生時代からの夢を実現することに優るものはなく、決断した。
そして「スペイン語四週間」を手にブラジル丸でアルゼンチンに渡り、その後パラグアイに移って、南米生活ははや四十七年が過ぎた。

 思えば、若さと校歌の「進取の精神」そのままの前向きな好奇心に突き動かされのスタ^トであった。経済成長が始まったばかりの日本の物産を輸入・販売するという事業家の夢を持っての移住で、これといって基盤となるものはなかった。
日本から輸入した玩具。雑貨を担いでの訪問セールスの途中に小屋同然の安宿で高熱に一人うなされたり、旅費不足で公園のベンチで南十字星を眺め遠い故郷に思いを馳せながら一夜を過ごすなど、苦闘の連続であった。そんな思いも今となっては懐かしい。
日本向けの鯛の輸出での失敗や、1982年の南米の経済危機も乗り越えた。
トヨタ車の輸入販売と修理事業や純正部品としての自動車用レザーシート製造が軌道に乗り、KDDIと提携しての携帯電話事業の成功と相まって、気がつけばパラグアイに九社、
カナダに二社、アメリカに一社、フランスに一社、1000名以上の従業員を抱えるパラグアイでは屈指の企業群を形成するまでになった。

日本パラグアイ学院創設


写真:パラグアイの首都アスンシオンの日本パラグアイ学院
事業もそれなりに一段落を遂げてからは、日本人会会長を十四年間勤め、約7000名の日系人の地位向上に努めた。移住五十周年記念祭典と六十周年記念祭典の責任者として、常陸宮ご夫妻やパラグアイ大統領などのご来賓の歓迎にあたる栄誉にも恵まれた。
日本とパラグアイの文化をともに理解しパラグアイ社会の指導者を育成する目的で日本パラグアイ学院を創設したのもこの頃だ。
アスンシオン国立大学の教授を招いてスペイン語教科の充実を図り、日本からもボランタリーの日本語教師を招き、日系人子弟三割、パラグアイ人子弟七割のバイリンガル教育も、まいた種が育ちつつある。
これも教育こそがパラグアイの未来を切り開くと確信しているからである。

「好奇心」で始まり「信用」で基盤を作り「教育」で未来を開くという三つのキーワ^ドで貫かれた人生。まだまだ人生はこれからと思っている。
日本パラグアイ学院の将来を見届け、妻の名をつけた「ケイコ牧場」の4000頭の牛が10000頭を越え、日本への輸出事業に発展するまでは生涯現役の心構えで前進したい。
声高らかに「我らが行く手は極まり知らず」「進取の精神、学の独立」を歌いあげ続けるだろう。

最後のご奉公
今回の大使任命を受けて、豊才氏はToyotoshiグループを二人の息子と娘婿の手に委ね、「パラグアイに最後のご奉公をするつもりです」と私へのメールでその決意を述べている。後輩の我々も73才の熱血漢に声援を送りたい。



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