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【あるぜんちな丸の想い出】 沖縄にお住みの宜保 安彦(ギボ ヤスヒコ)さんのBLOGより。
『私たちの40年!!』のメーリングリストのメンバーのお一人に宜保安彦(ぎぼやすひこ)さんが居られます。宜保さんは、1969年(昭和44年)2月27日に神戸を発たれたあるぜんちな丸第32次航で当時9歳で御両親、お姉さんの二人、弟さんの家族6人でパラグアイに移住され、その後アルゼンチンに移り住み、1991年に日本帰国。お姉さんお二人はアルゼンチンで結婚して現在もアルゼンチンにお住みだそうです。帰国後、宜保さんは結婚され奥さんと御嬢さん3人、息子さんお一人の家族6人で沖縄に住んでおられます。
移住船あるぜんちな丸での生活、パラグアイでの移住地での生活と当時9歳、小学生の時の生活を良く覚えておられ興味深い思い出を丁寧に語っておられます。アルゼンチンに移ってからの思い出も継続して綴って行きたいとの事ですが、あるぜんちな丸での船旅、パラグアイの移住地での思い出の部分をお借りして寄稿集に収録して置きたいと思います。BLOGには興味深い写真が掲載されているのですが、あるぜんちな丸船内で撮って貰った云う9歳の安彦さんの写真を使わせて頂きました。


総トン数 10971トン・全長 156.485メートル・全幅 20.4メートル・船客定員1054人。
1969年(昭和44年)2月、私がまだ9歳の頃である、私たち家族、そして沢山の南米移民たちの夢と希望を乗せて、あるぜんちな丸は四十日余の長い航海に出発する、初めて乗る豪華な客船のようなこの移民船に私と弟は嬉しくて、いつにともなくはしゃいでいた、まだ見た事もない異国の地が、とてもすばらしい国のように私たちには思えたのだ、いよいよ、新たなるドラマの始まりだ。その頃、那覇に移民研修センターがあり、そこで父は、移民に関する研修を何日か受けたようである、その頃、父は建設業を営んでいて、ある程度生活には余裕があったようである、しかし父の夢は、広い南米大陸で牧場を経営する事だった、そして、いよいよ南米パラグアイへ開拓移住を決意したのです。その年、沖縄からもう一家族パラグアイへ開拓移住者として参加した家族がありました、中城村出身のその方たちは8人家族で、そして私たちは6人家族、その他にもボリビアやブラジル、そしてアルゼンチンへの移住者たちもいました。

父が移民を申し込んだ1969(昭和44年2月)年には、パラグアイ行きの私たち家族の他にも多くの日本人がブラジル、アルゼンチン、ボリビアを目指して海を渡っている。政府が支度金を出して移民を奨励していたことも、移民にとって経済的安心感があったと思う。当事、沖縄が日本復帰するというニュースが流れていて、「沖縄を返せ〜♪」という復帰の歌を歌いながら、あっちこっちでデモ行進が行われていた、そんな時代背景も、父の南米行きを後押ししていた。私と九つ上の長女、三つ上の次女、一つ年下の弟と父と母の六人家族。那覇港を出て、あるぜんちな丸が出港するまで、約一週間泊まる神戸の収容所に着いた時は雪が降っていた、始めてみる雪に私と弟は大喜び、雪だるまを作って遊んだり、そして家族で神戸の町並みを観光しながら買い物などを楽しんだ。

1969年(昭和44年)2月あるぜんちな丸は神戸港を出港した(当時の写真がないので、大阪商船より乗船記念として各家庭に配布された1962年{昭和37年}4月2日神戸港を出港したあるぜんちな丸の記念写真を引用しました)、見送りテープがちぎれてお互いの姿が見分けられなくなると、皆それぞれ船内に入り、各自の部屋に入った、私たちの部屋は6畳間くらいの広さで2段ベッドが二つと、洗面所とトイレがありました、父と母そして私と弟はこの部屋に寝泊りする事になり、姉たち二人は同じくパラグアイ移民として沖縄から乗船した仲村家の娘さんたちと同じ部屋であった。40年前の事なので記憶もあいまいであるが、聞くところによると、その日の夕食は門出を祝ってかすごいご馳走だったそうだ。翌日は長い船旅の間、船内で行われる行事の説明や、自治組織の準備がはじまりました。行事:映画会約1週間に1、2回、演芸大会、運動会、赤道祭など、自治組織:ニュース班(船内新聞)、図書係、連絡係、船内学校(保育園と幼稚園あった気がする)。私と弟もなぜか船内学校に入学させられた、でも下級生?2、3歳の子のお世話をさせられたが、翌日からは船内学校に行くのをやめて、船の中を毎日遊びまわった、そして沖縄から乗船した少年グループと一緒に船内探索をしたり、外人の子供たちと戦いごっこをやって遊んだりした。

沖縄から同行した青年が撮ってくれた私が9歳の頃の写真です。当時何枚かの写真を撮ってもらったのだが、私の手元に残っているのはこの一枚だけである。アルバムに張ってあるのを携帯のカメラで撮ったものですが白黒写真のためか画質はなかなか綺麗です。私たちが乗った船は日本から南米へは東回り(大阪商船パナマ運河経由)で、船内の1階の部分にダイニングルームがあり、そこで毎日食事を頂きました、2階部分に劇場(映画の上映等)や喫茶店、そしてくつろぎの場所があったような気がします。最初の寄港地はハワイで、そこでは物資と燃料補給のために何日か滞在しました、皆そこで観光や買い物を楽しみ、そしていよいよ出港の日、買い物に行った父母と姉たちがなかなか帰ってこない、あと一時間で出港だというのに、私と弟は心細くなってきた、刻一刻と出港の時間は迫っている、とうとう船の出港の合図の汽笛が鳴ろうかという時、船の桟橋を慌てて駆け上がってくる父母と姉たちの姿があった、そしていよいよ船は出港、次の寄港地はロサンゼルス港!

船の中での食事は洋食が主で、ゴージャスなダイニングルームではバラエティー豊かなお食事と決め細やかなサービがありました、朝食はパンとコーヒー、ミルク、そしてフルーツ等、昼食と夕食も豪華な西洋料理、たまにステーキも出た、毎日美味しい料理を頂くのもとても楽しみだった、ところが出港してから何日かして、日本人は和食に変更になりました、そして外人は洋食の方へ、日本人は和食の方へとダイニングルームが二つに分かれてしまった、洋食のほうが良かったのにと思い、洋食の方へ行く外人がうらやましくなる時もありましたが、和食もとても美味しかったので愚痴はいえません。また週に一度くらいだったでしょうか、デッキランチがあり、デッキの上にいくつかの屋台がでて、焼き鳥等、色んな料理がでました、そして好きなものをお皿に入れてもらって頂くことができました、それもとても楽しみの一つでした。画像は日本丸のダイニングルームですがあるぜんちな丸のダイニングルームもこんな感じでした。

早朝ロスアンゼルスに着くと、多数の船客が降りた、あの外人の子供たちも降りてしまったので、ちょっぴり寂しくなった。私たちは市内を歩いて観光に行き、その帰りにスーパーマーケットで買い物をして、アイスクリームも買った、初めて食べるアメリカでのアイスクリームはとても美味しかった。
数日後ロスアンゼルスを出港、すっかり暖かくなり穏やかな航海、そしてアメリカ、メキシコの国境の沖合を通過、かなり暑くなっている、一挙に夏へ、船員の服装は白の夏服へ衣替え、船にはプールもあったので、私たちはプールで泳いで遊んだ。翌朝バルボア着(パナマ運河入り口)、通過は客船優先なので少しも待たされずに最初の閘門ミラフローレスロックに入り 午後大西洋に出る、この航海の最大の見せ場なので一日中甲板に出て見学していました。

数日後キュラソー着、オランダ領の小さな島である、精油所が多い、ベネズェラの対岸約60キロ、多分給油に寄港したのだろう。翌日、ベネズェラのラガイラ港着、家族で歩いて市内見物に行き衣料品店に入り、そこで緑色のシャツを買ってもらった、船に戻ると出港まで時間があるのでデッキの上に出てみた、民芸品や果物を売りに来た人々が沢山いる、そして子供たちが船の乗客に向かってコインを海に投げ入れるようにと、せがんでいた、そして乗客がコインを海に投げ入れると、子供たちは海に跳びこんで上手にコインを拾ってくるのだった、また、ワニの剥製を売りに来ている人(それを買っている人もいた)等、色んな光景を見るのはとても楽しいものだった、そしていよいよ次の寄港地へ出発!
船はアマゾン川に入った、アマゾン川は泥水のように茶色で、そして海のように広い大河だった、ブラジルのベレン港に着いた頃は辺りも薄暗くなっていた、なぜか船は岸には着かずに少し沖合に停泊した、そしてベレンで降りる数名の移民の人たちは、船に残る乗客に最後の別れをして、小船で岸に向かって行った。
ブラジル北部の赤道直下に位置するベレンはアマゾン河口に開けた街である。1616年、未開のジャングルであったこの地に要塞が築かれ、ポルトガル植民地基地としての開拓が始まった。その後アマゾン河流域の商業、貿易の中心地として発展を続け、19世紀末から20世紀初頭にかけての空前のゴム景気に街は最盛期を迎える。しかしその繁栄も東南アジアにゴムのプランテーションが出来ると、あっけなく崩壊していった。歴史の波に翻弄されたベレンの街には今、市場の喧騒と近代的なビル、コロニアル風の建物、そしてマンゴー並木が混在している。 ベレンの魅力の一つは、船着き場に隣接するベール・オ・ペーゾの青空市場と魚市場。市民の一日は毎朝ここから始まる。中には4mにもなる世界最大の淡水魚ピラルクや山積みの猛魚ピラニア、大ナマズの輪切りなど初対面の顔ばかりが並ぶ魚市場。一方、野外ではテントを張った屋台が軒を並べて、野菜や果物、乾物、薬草、調味料、日用品や手工芸品に至るまで実に様々な物を売っているが、果物にせよ見知らぬトロピカル・フルーツが多い。赤道直下に暮らす人々の食の豊かさとインデイオの知恵が感じられる市場だ。

最後の寄港地
ベレンを出港し、いよいよ目的地に近づいて来た船は、ブラジル国北端の褐色のアマゾン河を下り、サントス港に寄港した、ここでもアマゾン地域に入植する移民たちが下船していった、かなり沢山の移民たちが、そこで下船していったような気がする、何故かサントス港でのことは、あまり記憶に残っていない、そして残った数名の家族を乗せた船は、最後の寄港地であるブエノスアイレス港に向けて出港した、当時、どのようにブエノスアイレス港に寄港したのか、最終目的地に着いて、どんな気持ちで船を降りたのか、あまり私の記憶には残っていないが、おそらく新天地に着いて、緊張と不安な気持ちであったに違いない、当時のブエノスアイレス港の写真がないので、昔のブエノスアイレス港として使用されていたと思われる現在のマデロ港の写真を幾つか載せてみた。

あるぜんちな丸を降りて、ブエノスアイレス市の在亜日本人会館に数日間滞在した後、大型バスで目的地のイグアス移住地に向けて出発する事になった、20時間くらい走ると、ミシオネス州のポサーダス市に到着、ミシオネス洲ポサーダス。アルゼンチン北部の中心都市であるポサーダス市はミシオネス州の州都であり、またパラナ河を挟んでパラグアイ・エンカルナシオン市と向かい合っている、ポサーダス市自体は観光都市ではないようで、特に有名な見所も無いようだが街の中心には観光用のポニーとラマで商売をしている人が居る。
パラナ河、向こう岸に見えるのはアルゼンチン側のポサーダス。ポサーダスからパラナ河を渡ってパラグアイ・エンカルナシオン市に到着、そこで数日間滞在、パラグアイにとって特にエンカルナシオン市を中心とするイタプア県にとっては非常に重要な都市である、エンカルナシオンを中心とするイタプア県には多くの日本人移住者が住んでいます。そこから、パラグアイの首都アスンシオンに到着、日本人の経営する旅館に一泊し、いよいよ目的のイグアス移住地に向けて出発。

アスンシオンを出発し、約6時間バスに揺られ、最終目的地のイグアス移住地に到着、首都アスンシオンの東約280



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