【パタゴニア紀行】 バテパッポの早川 清貴さんのお便りをお借りしました。
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サンパウロのブラジル日本商工会議所のメーリングリストBATE PAPOの論客のお一人早川さんの書かれた掲題の【パタゴニア紀行】(全6回の連載)の全文のお借りして『私たちの40年!!』寄稿集に収録させて頂くことにしました。早川さんの歌人としての秀歌が彼方此方に散りばめられた紀行文は、格調が高い読み物と成っております。先年私もほぼ同じ箇所を(ウシュアイが先で順番が違う)周りましたが、私の紀行文は、散文的なレポートに終わっています。それでも4年前の66歳の誕生日を白夜のウシュアイア出迎えた感激は【ビーグル海峡で迎える壮大な年越し!最果ての町USHUAIAへの旅!】として残っています。対比して読んで頂けると面白いのではないかと思います。
今回、早川さんからは、ぺリット・モレーノの氷河から落ちた大きな氷塊の神秘的な写真等も送って頂いているのですが、早川さんの近影を使わせて頂くことにしました。以前にも早川さんの写真を送って頂いて掲載していますが身分証明書用の小さな写真でしたので今回の近影が早川さんとしての公式写真になります。有難う御座います。
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バテパッポの皆さん 早川です。
人間とは己の近辺に素晴らしい自然が横たわっているにも係わらず<何時でも行ける!>と云う安易な考えから其の素晴らしさを実感せずに逝ってしまう経緯が多々あるようだ、小生がパタゴニア紀行を思い始めて丁度5年目にして漸く実現した、パタゴニア地方の名所に就いては雑誌、新聞、TV等で特別番組を構成した内容を何回となく拝見しているが、やはり現地に在って実際に己の眼で確認することが最大の収穫であると、今現在、旅から戻りて過ぎこし方を振り返りながら痛感している次第である、此処に寄稿する小生の拙文に一人でも多くの皆さんが触発されて新たな旅立ちが実現することを願う者です。
其の一)ブエノスの夜
一行26名を乗せたアルゼンチン航空機 、B/737-500、が平坦な湿地帯すれずれに飛んで日曜日の現地時間13:10にブエノス国際空港に着陸した、空港でブラジル人女性ガイドの出迎えを受けバスで一路ブエノスの指定ホテルに向かう、車窓から眺めるブエノスは休日のためか、はたまた、未だに、世界金融危機の遺産を背負っているのか、活気が無く初夏と云うのに何か寒々とした雰囲気を感じさせる、小生はブエノス訪問は前後して三回目となるが半世紀以前にブエノスと云う其の名を世界に知らしめた、正に、繁栄の象徴であったこの都会は荘厳な二十世紀初頭の建築物が往時を偲ばせる、其の間隙を縫って近代建築のクレーンがブエノスの空に高く映えていた、初夏を迎えた南都ブエノスはジャカランダーが濃紫の花弁をはらはらと散らし眠りから覚めた陽光が暖かくベンチを包み其処に人々は憩いを求める、子供の甲高い声何処も日曜日の公園は市民の憩いの場所であるようだ。
−晩春の小雨が糸引くブエノスに初夏を告げるや『ジャカランダー』濃紫
ブエノス第一夜は名物”タンゴショウ”の見物となった、大きな劇場”ポルテーニョ”には開演前から長蛇の列であったが、予約券のため素通りして舞台の<齧り付き>に着席した、淡い卓上の蝋燭の光を受けて甘さを感じさせるパン、特上のビーフ、名産メンドンサのワイン、イタリア風タリャリンとアラビアンコーヒーで豪華な夕食を終えると開演となり、タンゴ<カミニート>のリズムを背後に踊り子一座の紹介を終わり、間もなく、オルケストラチピカの演奏に乗って男女三組でタンゴが始まった、滑るが如く、絡みつくが如く又はねるが如く自由自在に踊り合う男女はバンドネオンに乗りながら時には満面に笑みを湛えて、時には切ない面を見せて踊る、暫し、時を忘れさす芸術的な演芸であった二時間余のショウを終えて<本場のタンゴはかくありぬ>と感激が残す余韻と共に外に出ると初夏の雨がその胸の熱さを覚ますが如く降り注いでいた。
−踊り子がバンドネオンに絡み舞う妖艶の白き二脚(あし)夜目に浮き立つ
ー初夏の雨煙る街角ブエノスのタンゴがくねて夜も更け行く
雨降る夜更けのブエノスは静寂(しじま)が包み自動車の轍の響きが音を奏でるのみ、ここには盗人、人殺しはいないのあであろうか、この夜中にご老人夫婦が寄り添って雨に打たれていた姿は印象的であった、ホテルに戻り未だ抜け切らない疲れに苛まれて眠りに落ち行く。
<アンデス山脈の神秘> アルゼンチン、サンタクルス州
南米大陸は、実に、面白いと思う大陸西岸から始まったアンデス山脈が9000kmを南に走りチリー最南端まで継続している、この大陸はブラジルが一番大きな顔をして大部分を占めてチリーに至っては、辛うじて残された平坦な土地に済まなそうにしがみついている格好である、地球創世期に地殻変動で東から西に追いやられて出来た<皺>がアンデスではなかろうかと小生は勝手に想像している、しかし、この山脈にはペルーの古代文化が生まれ、農作物もジャガイモ、玉蜀黍等が世界で始めて栽培された土地と聞く、この山脈の最高峰はアルゼンチンとチリーに跨る<アコンカグア山>で標高6960mで南米大陸の最高峰である日本の早稲田大学の登山隊も登頂を極めている。
さて、ブエノスで一夜を明かした翌日は、いよいよ、パタゴニアの中枢である氷山の見学となる、ブエノス国内空港より、中型旅客機DC−11にて出発した、眼下に海と違えるラプラタ河が広がるこの河が見られるのはこの空港近辺のみとはガイドの説明である、川幅220km、一番狭い処で14km、ブエノス市300万有余市民に給水するダムの役割も果たしている、遠く水平線は天に交わり其の手前に貨物船が動くともなく点となり浮かぶ、漣が陽光にきらきらと反射する水鳥が上空を翔ける、水源を辿れば遠くブラジルはマットグロッソまで行くであろう。
−ブエノスの天に届くかラプラタの川幅五十里母なる大河
アルゼンチンのサンタクルス州は南緯45度、東経70度に位置したアンデス山脈寄り殆ど最南端の州である、この州は前、現大統領キッシネールの出身州で原油生産では全国一で、国家の収入を支える重要な州であるようだ、大統領が出る所以である、ブエノスを昼前に発ち、バリロッチェ経由して午後の5時近くパタゴニア空港に到着した、初夏と云うのにアンデスの山々は雪を頂き剣が峰が蒼穹に聳え映えていた、身を切るようなアンデス下ろしに草木も生えぬ一種の砂漠状態である、車内暖房の効いたバスで一路ホテルへ。
−そそり立つ鋭き峰に雪は映え吹く風身を刺すアンデス下ろし
ガイドによるとこのカラファッテ一体は数百万年以前は全体が氷河で覆い尽くされていた由、其の氷河はアンデスの山頂を分水嶺として方やチリー、方やアルゼンチンへと分かれ流れた、その時期に出来上がった湖が<LagoArgentino>で湖水面積1800km2最大水深700m、汚れの無い水質は正に群青の海と云った感じである、この湖に数箇所氷山が流れ込み現在も継続して
流れ落ちている、氷塊がけたたましい雷と違う<轟音>発し周囲の山々に反響静寂を汚して水没する姿は旅に来た<醍醐味>の瞬間であろう。
−氷塊が飛沫舞い上げ水没す悠久の旅此処に終わりぬ
このアルゼンチン湖には合計四箇所に氷河が流れ込んでいる、この氷河は一日20〜50cmの幅を移動して最後は湖の藻屑と消えるかと思いきや、摂氏1〜2度の水温で氷解はならず氷山の如く湖面に浮遊して吹く風次第で東西南北移動している、遊覧船はこの数千トンもあると思われる浮遊氷塊に接近するサーヴィスを提供してくれる、氷の色は白が常識であるが此処では数百万年前に閉じ込められた空気が陽光を受けてコバルトブルーに輝き、そこから何だか宇宙人でも生まれそうな神秘的情景を醸している、大自然の雄大にして神秘性を思わざる得なかった。
<掛け替えの無い大自然>
カラファッテ地区の氷河見物は第二日目を迎えた、其の前に『氷河』とは一体どうして出来たのであろうか、ものの本によると<降雪量が融雪量を上回る地域では、残雪が万年雪となり、更には圧縮されて氷になる、氷河は自重により低き方へ徐々に流れるこの流動する氷塊を氷河と呼ぶ
そして、氷河時代は5,4億年から5,0億年のカンブリア時代より現在まで、少なくとも、三回程訪れている、最近の氷河時代は第四紀>と説明されている。
我々の訪れた氷河はアンデス山脈の麓724.000ヘクタールに亘り13箇所に区別されいてそれぞれ異なった景観を出現させている、例えば;Upsala,Spegazzini,Mayo,Perito
Moreno等、これらの中で最後のPeritoMorenoが最も雄大で観る者を惹きつけて止まない氷河の湖水に流れ込む河口幅は凡そ6km、高さ100〜150mの絶壁が鋸の歯の如く天空を刺して毅然と林立する、起立した氷河の壁には黒い横線又褐色の横線などが見えるが、これ等は何百万年前にこの部分が氷河の表面で空気中の塵が蓄積した形跡であるとはガイドの説明であった、遊覧船上は常に氷河を亘り吹き下ろす寒風に晒されて身が切られる思いであった、この氷河は18世紀初頭スペイン人”Francisoc Moreno”なる探検家により発見されたその後同氏の渾名をつけて”Perito Moreno”と呼ばれる所以であるそうな。
この氷河の特徴として、此処数年間、流動していないことのが判明している、これは”GPS”による測定の結果であるが、何故かその本当の理由は不明である由。
翌日はこの氷河を、別の角度から、山の中腹展望台より眺めたその姿は幅5/6kmに及ぶ白い布を谷間に帯状に広げた如く文字通り<凍てついた河>が展望出来た、山間を覆う濃霧に帯状の河は其処から一瞬に飛び出して大自然の演技を見せる踊り子の如くである。
大自然の満喫には二通りあるようだ、其の一つは日本の如く四季を通して其の自然の趣、情緒を味わう方法、残りは粗野にして雄大且つ神秘性に富んだ生まれ出た在りのままの姿を味わう方法である、この氷河”PeritoMoreno”は疑いもなく後者である、毅然として粗野の其の姿は畏敬的で、正に、人間の人間たる矜持等無きに等しい、威厳さを保ち辺りを律して側に寄せ付けい雰囲気を醸している、崇高なる美であるかな!
パンフレットによるとこの氷河地域は1937年に自然保護区域と制定されて、その後1971年氷河国立公園(Parque Nacional Los Glaciares)に指定された、そして1981年にはブエノス政府の申請によりUNESCOの世界遺産に登録されている。
このカラファッテ地帯の山肌は至る処に引っかいた如き爪痕が観られるが、これはその昔氷河に覆われていた証拠で氷河が流動すると同時に、其の圧力で、引っかいた痕跡との説明があった。
−氷山に向かいて悟りぬ人間の驕りの虚しさ自然の驚異に
−爪痕を残して消えぬ凍り河思い馳せれば氷河期其処に
さて、我らの旅も氷河を満喫した処で後半に向かう、カラファッテより飛行機で略一時間一寸の地域に南緯25度、東経55度の地点に南米大陸最南端の町<Ushuaia>がある、この地域はアルゼンチン領なれどマゼラン海峡で切断された”Tierra del Fuego”島で東側が大西洋、西側がチリーと国境を区分するベーリング運河となっているが島のど真ん中がチリーとの境界線である、この町の住民は彼らの居住地を”Fin del Mundo”呼んでいるがこれはブラジル語で<Fim do Mundo/世界果てる街>となり何か差別的な解釈が出来るが、小生は<世界最果ての街>と呼びたい。
飛行機はこの最果ての街向かう上空でマゼラン海峡を横断する、窓から眺める下界に白い荒波を立てた海峡が見える、突然女房が<半世紀有余の再会と言い出した>、女房は先の大戦勃発寸前の1941年に家族移民として4歳で渡伯している、当時日本船籍はパナマ運河の通行禁止の状態で謂わば最後の移民船として喜望峰を回りマゼラン海峡を経てブラジルに辿り着いた過去を思い出した、しかし本人の記憶の程は疑わしいが父母からの実話であろう。
−マゼランの荒波超えてブラジルへ我が妻の回顧半世紀有余
最果ての街<Ushuaia>の豪華なホテルはビーグル運河に面した前面総ガラス張りの絶景を望む部屋が仲間全てに宛がわれた、この”Beagle”とはダーウインが南米大陸一周の折に使用したイギリス海軍の軍艦名である由。
ホテルの部屋で旅装を紐解き窓越しに眺めるビーグルの海、其の昔進化論立証を目指して南米大陸を駆け回ったダーウインもこの運河を航行したのであろうか?郷愁をそそる一時であった。
−ビーグルの海は朝凪カモメ舞ひ初夏未だ寒し雪のアンデス
最南端の街”Ushuaia”
此処で<ウシュアイア島>を一寸ご紹介します、南米大陸は赤道直下アマゾン地方が頭のおでこのように最大の地理的な幅で南に下がるに従い槍の穂先の如く細くなっている、このウシュアイア島はその槍の穂先の場所南緯50度の地点にチリーと仲良く?領土を分け合った形で存在している、そしてアルゼンチン側は”Provincia de Tierra del Fuego”(炎の島)と呼ばれています、このウシュアイアなる呼び名は原住民である”Ya’manas”(註)から由来しているようであるが何を意味するのか、つい、聞き落としてしまった、いずれにしても10.000万年以前から人類ががこの地に住み着いていた模様でずうっと下って1800年から1900年初頭に当時の原住民への布教のためにヨーロッパ系の宣教師それに伴う探検家などが頻繁に出入りするようになり同時にこれ等外国人が領土に対して興味を見せ始めた結果、往時のブエノス政府は主権保持のため最も効果的な方法としてアルゼンチン国民を同島に居住させる政策を採用した、そして、1853年に同地区へ刑務所を建設重要犯罪人を送る、要するにオーストラリアに対するイギリスの政策を見習ったとしているが、、、、、流刑の地とした由来この島流しの地は1910年廃止されるまで継続した。
現在では人口60.000人の観光港街で大型外国観光船、貨物船等の停泊で賑わいを見せている、街のど真ん中に二本の”MainStreet”が貫通してそれを碁盤の目の様に横に道路が交差している、街はアンデス山脈の麓に張り付いて片側は港、道路を下ると港に出る情景は日本の北海道は函館を彷彿とさせる、我々が滞在した三日間は毎日厳しい寒風に見舞われて分厚い冬物のジャンバー、襟巻き、手袋等を必要とした、街にはヨーロッパ人の観光客が溢れていた、1960年には<炎の島国立公園/Parque Nacional Tierra del Fuego>に指定されている。
(註)
処で上記、アジア系の、原住民(Yamanase)であるが、ヨーロッパ系が持ち込んだ<疫病>又探検家等によって抹殺されるなどして其の子孫は現在はほんの一握りである由、この厳寒の地方で、略、裸で生活した、ガイドによると皮下脂肪が厚く獣の皮一枚羽織るだけで十分生活が出来たとしています,食料は野獣の確保と海産物に頼っていた。
其の昔ユーラシヤ大陸からベーリング海を渡り(或いは地続きだったかも、、、、)アジア人の移動があった、南、北アメリカの西海岸沿いに南下してここ地果てる処まで来たのものであると随分と昔に何か人類学の本で読んだことがある、しかしその内容の信憑性には確信は無いがそれでも民族の大移動と云う点で大いにロマンを掻き立てられる話である、其の結果北極でイヌイットなるアジア系のエスキモー人、北米はインデアン、アマゾンにはアジア系のインヂオ、それに南米大陸の西海岸は原住民としてアジア系のインヂオで何れも出産した幼児にはメラニン色素の<蒙古斑点>が出て来ると聞いているブラジルはアマゾンのインヂオにはこの斑点は昔から知られている。
今回は話が逸脱して申し訳ないが、蒙古斑点に就いては小生の友人で”JoseCarlos”なるブラジル人の会社々長がいるが、同氏は一見全くの白人であるしかし同氏曰く何代か遡った先祖にはアマゾンのインヂオの血があったとして同氏の子供さん達、生まれた折に、アジア系の特徴としての<蒙古斑点>をそれぞれお尻に確認たと話してくれた。
さて、ウシュアイアに到着した初日の夕暮れは何時までたっても闇の到来はなく、<白夜>現象に出っ会した、二十二時未だ辺りは明るく街のレストランは客が一杯で賑わっていた、二十時過ぎに食事を終え定刻に寝ようとしたが寝付かれずに、何か、食べないと物足りない感じでホテルのレストランでサンドイッチを食べる羽目になった、体内時計の悪戯か?
翌朝は鈍よりした寒空ホテル前のアルゼンチンの国旗は吹き付ける強風にはためき、かもめが風に逆らって上下して飛ぶビーグルの朝であった、未だ温かみの残る、本場の小麦で作った、パンに動物性のバターをたっぷりつけて、当地の果物で出来たジャム、搾りたての牛乳、美味しい輸入コーヒー等が食卓に並ぶレストランはドイツ語、スペイン語、日本語様々で彼方此方から笑い声が聞こえる、残雪で化粧したアンデスの山々、寒風に怒り狂うベーリングの海をガラス越しに見ながらの朝のカフェーで当地二日目が始まった。
<ビーバーに荒らされる国立公園>
ウシュアイアの第二日目はランドクルーザー(4駆)から始まった、今日の予定は国立公園内をジープで探索と徒歩によるハイキングコースの漫遊であった、この国立公園は水上面積220.000m2と云われる南米最大の広大な”Fagnano”湖を中心にアンデスの山岳地帯に広がっている、この湖はアンデスの雪解け水を受けて群青に染まり何か不気味な様相を呈していた、クルーザーは林の中道無き轍を踏んで前進する、林は一面”Lenga”と云われる日本の山椒の木に似た樹木で一杯である、この木はアルゼンチン全土に群生している寒冷地帯に生え、育ちは遅く肉は硬いので家具等に使用されている、朝食べたものが吐き出されるような道無き道を進むとやがて川沿いの開けた場所に出た、どうしたことか川に沿って一面大木が枯れ木なって立ち木又倒れている、其の数は夥しく十キロ近く続いていた、運転手兼ガイドによると”Caster”(ビーバー)が幹を食い倒したものであるとのことカナダから持ち込んだこの海狸(かいり)は瞬く間に繁殖して、とうとう、人間の手で絶滅することが出来ずに放置状態である由それにしても斧を入れたような歯で幹を刻んだ跡はどうであろうか。
氷河国立公園又この国立公園共に、当然ではあるが、塵捨て厳禁小石一つ持ち帰り厳禁となっている、我々一行も所定の場所で焚き火をして暖を取りながら昼食をしたが紙一枚放置できず持ち帰った、辺りには塵は一切見当たらずこんなところに当国の教育水準を垣間見た思いがした、この国立公園は秋には”Lenga”の林が燃えるような紅葉に化け、冬には枝もたわわな積雪とそれぞれ四季折々に季節の装いを見せてくれるようである、林が切れる空間には陽光を浴びて<タンポポ>の花が最盛期で黄色い絨毯を敷き詰めた一角が見られた、アンデスの麓は未だ寒しと云えども、こんな所に、確実に季節の移ろいが伺える。
−アンデスの寒気漂う林間でタンポポの花に心は温む
午後には先に述べた<島流し>の刑務所跡を見学に出かけた、刑務所跡を基点にトロッコの線路が山間に向かって約5km程延びて、現在では其の路線が観光客を乗せる五両連結の蒸気機関車用鉄道となり登山列車に代わっている、ガイドの歴史的説明を受けなら機関車はしんどい音を立てながら傾斜をよじ登る、車窓から見えるアンデス麓の広大な傾斜に無数の腐りかけた樹木の切り株が目撃出来るが、ガイドによると1900年代に服役囚により、厳冬の暖炉、刑務所蒸気発電用に伐採された株であるそうな切り株の高低は冬には雪の積もった高さより、夏には地面より伐採されたものと説明があった、何か当時の伐採の斧音が林間に木霊して響いて来るような情景でもあった。
−林間に響く小鳥のあの声は己うらむか咎人(とがにん)の嘆き
かくしてウシュアイアの二日目も暮れたと云っても白夜が訪れ一向に夜の気配が感ぜられぬ、ホテル裏のサウナに出かけた5/6人がタオルに体を巻いて瞑想するもの玉の汗を流すもの、会話なくだた蒸気の噴出す音とのみである、されど此処は文字通り<裸の付き合い>場所である、サウナを出た後の冷たい水のシャワーはえも言われぬ爽やかさであった。
夜長の手持ち無沙汰に街に何かお土産にと出かけるが寒さは一入で暖房の効いた店先から出る気持ちがしない、長い冷やかしの時間が過ぎた、外は満月が天中に昇り光を失った丸いお盆のようにぽっかりと浮いていた。
−寒風の吹き下ろす街最果てに白夜訪れ白き満月
三日目の早朝は小雨模様で海は荒れていた、其の波頭を蹴って遊覧船はペンギン島へ進む
約二時間の航行で現場に着いた、小柄なペンギンの群棲するこの島はビーグル運河の出入り口で、ほぼ、外海に面している離れ小島で外敵は無く豊富な魚に恵まれて自然増は毎年数百頭とはガイドの説明であった、願わくば未来永劫にこの環境が継続されんことを祈る。
この晩の夜行でウシュアイアを発ちブエノスの国内空港へ帰る予定、遅くにホテルに戻り明け方の便に間に合うようにホテルの部屋内の整理に取り掛かった、些か疲れが滲み始めた。
完
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