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フジモリ元大統領 禁固25年に物申す (1)−(4)その1 サンパウロ新聞WEB版より
サンパウロ新聞福岡支局長として郷里の福岡に住みながら日本と南米の懸け橋として活躍している吉永拓哉記者が渾身の力を込めて書き挙げた連載記事は、彼でないと掛けない貴重なレポートであり現地取材(フジモリ元大統領の母親、牢獄に繋がれているフジモリさんご自身、次期大統領候補のケイコさんとの単独取材等)長い時間を掛けての記者としての目で見た【フジモリ元大統領の禁固25年に物申す】は、説得力がある。また2重国籍問題、一国の元首としてのあり方、日本の移住者のあり方、その栄光と禁固と云う2面性、光と陰、英雄か国賊?色々な考えさせられる話題を提供して呉れています。フジモリの今後の行くへは、ご息女の大統領候補としての今後の動きと共に吉永記者に追い掛けて貰いたいテーマです。
写真も豊富にありますが、第1回の自転車に乗って貧困地域を励ますフジモリ氏(大統領時代)をサンパウロ新聞からお借りしました。


フジモリ元大統領 禁固25年に物申す(1) 誤算だった3選出馬  サンパウロ新聞WEB版より

 福岡支局長が疑惑の真相に迫る
 「正直、勤勉、向上心」日本民族の特徴ともいうべきこの三つをスローガンに掲げ、日系人としてはじめてペルー共和国大統領になったアルベルト・フジモリ氏。90年から2000年までの政権時代には国内テロの撲滅、経済の回復、エクアドルとの国境紛争の終結など、当時のペルーが抱えていた数々の難題を解決した。このような業績から本来ならば「名将」として称えられるはずのフジモリ氏が、今なぜ犯罪者として禁固25年の刑に服すのか。本紙はこれまで世論で騒がれていたフジモリ疑惑の真相に迫った。【吉永拓哉福岡支局長】

 連載をはじめる前に、まずはフジモリ氏と本紙記者の関係を説明しなければならない。
 記者の父親は95年に福岡県内でペルー支援のための募金活動を行い、集まった寄付金で同国の貧困地域に小中学校と幼稚園を建てた。
 その時の起工式に参列した父親は、式典に駆けつけた当時のフジモリ大統領と顔を合わせ、以後、親しい間柄となった。
 一方、記者は98年にペルーを訪れた際、首都のリマ市近郊で蜜柑農園を営んでいたフジモリ氏の母親(熊本県出身)のもとへ挨拶に行ったことがある。
 その当時は、フジモリ氏が3度目の大統領選に出馬する意向を示していた頃だった。
 記者の記憶に残ったフジモリ氏の母親の言葉がある。
 「私が息子を説得して次の大統領選挙には出馬させんよ。今度大統領になったら、息子は殺されてしまう」
 後日談だが、もしその時にフジモリ氏が母親の忠告に従っていたならば、歴史的な名大統領となっていたのかもしれない。だが、フジモリ氏は憲法を改正してまでも3期目の政権を握ってしまった。
 この判断がアメリカを筆頭とする国際社会から「独裁的だ」と見なされ、国際的にフジモリ氏の人気を落とす結果となった。
 その末路となったのが、当時の国家情報局顧問であり、軍部の最高幹部だったブラディミロ・モンテシノス氏の収賄事件である。
 同事件の様子はビデオ映像として証拠が残されており、ペルー国民に衝撃を走らせた。
 その結果、フジモリ氏は訪問先だった日本からFAXで大統領職の辞任を表明。ペルー国民の反感を買いながらもそのまま日本へ亡命した。
 このように大統領三選はフジモリ氏にとって大誤算だった。
 しかし、フジモリ氏が政権時代に遂行した政治政策は、あわや国家を乗っ取る寸前にまで迫っていたテロリストを壊滅させ、年率7600パーセントにまで上ったハイパーインフレを数パーセントに抑えた。その業績は称えられるべきである。
 02年、フジモリ氏が日本へ亡命していた折に、福岡県の有志らが同氏を県に招いて激励会を行った。
 同会を手伝うこととなった記者はこの時、羽田から福岡空港までの航空券を手配するため、都内に滞在していたフジモリ氏とコンタクトを取った。
 むろん大統領職を務めたフジモリ氏に配慮して、飛行機の座席はビジネスクラスを予約するはずだったが、同氏は電話先で記者にこう述べたのである。
 「私は福岡の皆さんに余計なお金を使わせたくはない。エコノミークラスにして下さい」
 その言葉を聞いて、記者はフジモリ氏の母親のことを思い浮かべた。
 たとえ大統領の母親であっても豪華な邸宅で暮らすわけではなく、当時はもんぺ姿で蜜柑畑に出て働いていた。
 そのような質素な日本移民らしい母親から教育を受けてきたフジモリ氏には、とても倹約的な一面があった。(つづく)
写真:自転車に乗って貧困地域を励ますフジモリ氏(大統領時代)
2010年2月27日付

フジモリ元大統領 禁固25年に物申す(2) 証拠立証のない不正蓄財 サンパウロ新聞WEB版より
 国際社会に反する二重国籍問題
 福岡県の有志らとともに福岡空港へ出迎えに行った記者は、そこではじめてフジモリ氏と会った。
 皺がよった背広に安物のネクタイ。フジモリ氏は高価な物など一切身に付けてはいなかった。
 同氏の激励会は、北九州市に在住する企業家の自宅で行った。宴席ではフジモリ氏自らカラオケマイクを握り、『同期の桜』を歌ったのには同席した有志たちも目を丸めていた。
 「私は頻繁に靖国神社を参拝している」フジモリ氏の口から出た意外な言葉だった。
 激励会も終盤を迎えた頃、有志たちがそれぞれ出し合った支援金をフジモリ氏に手渡した。その時、同氏は深々と頭を下げながらこのようにお礼の言葉を述べた。
 「この支援金は私が受け取ることはできない。いま長女のケイコが、ペルーで心臓病を患っている子供たちの医療ボランティアをしている。いただいた支援金は、ケイコの活動費として使います」――。
    ◎
 あれから8年の歳月が過ぎた。その間、フジモリ氏は05年に突如日本を離れ、チリへと渡った。そして同国で身柄を拘束され、07年にはペルーへと送還された。現在は殺人罪および人道に対する罪で禁固25年の刑に服している。
 ここでフジモリ氏が関与したとされる一連の疑惑について検証してみたい。
 まずはフジモリ氏が大統領職を放棄した2000年から疑惑が持たれている不正蓄財問題である。
 これは同氏の側近だったモンテシノス国家情報局顧問が収賄で逮捕されたことに端を発しているが、フジモリ氏の場合は、いまだかつて1セントたりとも不正蓄財が発覚されていない。
 また、賄賂を受け取ったという確固たる証拠が立証されていない。
 フジモリ氏はこの疑惑が世間で騒がれていた当時、自らアメリカの調査会社に依頼し、自身の銀行口座をすべて公開して身の潔白を示した。
 さらにはフジモリ氏の不正蓄財を隠していると疑われていた銀行も「そのような事実はない」と公言している。
 にもかかわらず、ペルーの報道機関は『フジモリ大統領収賄疑惑』と大々的に報じておきながら、その後の経緯はほとんどニュースにしなかった。
 これでは世間からフジモリ氏が収賄を受け取った犯罪者だと誤解されても不思議ではない。
 モンテシノス国家情報局顧問が賄賂を受け取ったのは確かな事実だ。その責任はフジモリ氏にもある。しかし、結果論を唱えれば、軍部で最も実力があったモンテシノス氏とフジモリ氏が手を結んだからこそ、あの凶悪なテロリストを壊滅に追い込むことができた。
 モンテシノス氏が受け取った巨額の収賄よりも、テロの恐怖から平和を取り戻したペルー国家の国益のほうが、はるかに上回っているのではないだろうか。
 次にフジモリ氏の二重国籍問題を挙げる。
 ペルー国憲法では、二重国籍者は大統領になる資格が得られない。しかし、注目に値するのは、この憲法には「例外」があることだ。
 かつてスペインの植民地支配下にあったペルーにおいては、スペインとの二重国籍者のみ大統領になれる権利がある。
 言い換えれば、「同じ二重国籍を有するペルー人でも、スペイン系なら大統領になれるが、日本移民の子孫は大統領として認めない」という、人種差別とも捉えられかねない憲法である。
 従って世論はフジモリ氏の二重国籍を責める以前に、いまの国際社会に反したペルー国憲法のあり方を問う必要がありそうだ。(つづく、吉永拓哉福岡支局長)
写真:もんぺ姿で畑仕事をする大統領時代の母親
2010年3月2日付

フジモリ元大統領 禁固25年に物申す(3) 反フジモリ派の報復 サンパウロ新聞WEB版より
 矛盾が多いペルー政治裁判
 連載



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