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フジモリ元大統領 禁固25年に物申す(5)−(7)その2 サンパウロ新聞WEB版より
サンパウロ新聞の連載記事【フジモリ元大統領 禁固25年に物申す】は、連載記事の本文だけで有ればぎりぎり1万語に納まりそうでしたが『私たちの40年!!』関連BLOGにコメント頂いた皆さんの書き込みを一緒に(コメント集)として収録して置きたいとの意向から2回に分けて収録することにしました。
「とかく一方的にマスコミだけの記事をうのみにしがちな私ですが、あらためて考えなおす機会を与えてくれました。このプログのおかげで世界がすこーし広くなったように感じます」との嬉しいコメントもありました。
5月の連休に九州に出掛ける予定にしており元気な丸刈りの坊主頭の吉永記者に博多の駅だけでも会えると嬉しいと思っています。連絡して見ましょう。
写真は、同船者の中にもいそうな普通の日本人として通用するぺルー大統領を目指すフジモリ元大統領のご息女ケイコさんの写真をお借りしました。大統領になられたらこの写真は、削除する必要があるかも知れない素朴な信頼感を馴染ませた大変気に入っている写真です。


フジモリ元大統領 禁固25年に物申す(5) 愛娘の大統領選出馬を支援 サンパウロ新聞WEB版より
 政府監視下にあるフクオカ学校
 ディノエス軍事施設の中でフジモリ氏から次に案内された部屋は、正真正銘の物置部屋。ここにはオレンジ色した選挙Tシャツが束になって置かれていた。
 このTシャツは、2011年のペルー大統領選挙に出馬表明している同氏の長女・ケイコさんの選挙PRに使うものだった。
 フジモリ氏も「ケイコは必ず大統領選に勝つ」と嬉しそうに語っていた。
 記者の目を引いたのは、選挙Tシャツの横に置いてあった500冊ほどの学習ノートだ。フジモリ氏にこのノートは何に使うものなのか聞いた。
 「これは傷物で市販ができないノート。私に面会してくれた人たちに2冊5ソル(約150円)で販売している」
 そして、次の言葉を耳にして心が揺さぶられた。
 「ノートを売ったお金は、ケイコの選挙資金に充てています」
 フジモリ氏はとても子煩悩であり、これまでの発言からも常にペルーの平和と子供たちの教育を心配していた。
 力なき今となっては、学習ノートを売ってわずかなお金をつくり、元大統領として、父親として娘を精一杯応援してあげていた。
 確固たる犯罪の証拠がない者に罪を押し付け、無理やりに罪を認めさせ、牢獄にぶち込んだペルー政府。そのような行為を平然とやってのけ、自身は何食わぬ顔で天皇陛下に謁見したガルシア大統領。果たしてそこには正義が存在したのだろうか。
 面会の最後に記者はフジモリ氏に対して「一体なぜ日本を離れたのか」と質問した。するとたった一言でこう答えた。 「私はペルーが好きですから…」――。
    ◎
 記者はディノエス軍事施設を出た後、そこから200キロ先にあるフクオカ学校を訪問した。
 平日午後1時ごろの運動場では、全校生徒約4千人が集合し、それぞれ日本国旗を振りながら記者の到着を歓迎してくれた。
 生徒たちの大半は、貧しいインディオ系の子供たちである。記者は運動場で全校生徒と教職員たちに挨拶をした。
 はじめは生徒たちが拍手を送ったり口笛を鳴らしたりとお祭りムードだった。
 だが、記者が挨拶の途中から「この学校はフジモリ元大統領の尽力によって建てられたものです」と説明をはじめたとたん、それまで騒がしかった校内が一気に静まり返った。それは不思議な現象として記者の目に映った。
 挨拶の後で、スペイン語の通訳をしてくれた日系人からこう注意を受けた。
 「記者さん。あの場所でフジモリさんの話をしては駄目ですよ。校内にはちゃんと政府の監視員がいるんですから気を付けて下さい。下手するとアナタ、日本に帰られなくなるよ」
 日系人の話によると、このような公の場で学校側がフジモリ派を支持すれば、政府からの支援が得られなくなるという。もはや国家の理念である民主主義をも無視したペルー政府のあり方に、記者は落胆するばかりだった。
 その後、フクオカ学校があるイカ県の副知事から招かれ県庁へと行った。そこで記者は思わぬ光景を目の当たりにすることになる。県庁前で待ち構えていた大勢の教職員たちが、ペルー政府に対する不満を口にしながら、記者のもとへドッと押し寄せてきたからだ。(つづく、吉永拓哉福岡支局長)
写真:フクオカ学校の起工式に出席したフジモリ氏(大統領時代)
2010年3月6日付

(コメント集)
和田さま 井川でーす!
お元気そうで何よりです。ご無沙汰してます。
吉永拓哉君の記事転載していただき、有難うございます。その文章の中に9年前の『フジモリ元大統領の激励会』が出てきますが、その会を主催したのが小生でしたので、拓哉君の記事は実感として的を射たものだと思います。フジモリさんとは直接いろいろお話させていただきましたが、非常に質素・誠実な性格の方で、とても収賄で蓄財したり、殺人を容認したりできる人ではないと思います。
彼の救出を日本の政府に期待するのは無理でしょう。麻生さんがいみじくも指摘されたように、日本は腑抜け国家だと思います。今日も安保にまつわる日米密約がうんぬんされていますが、それは昔から公然の秘密で、いまさら・・ということではないでしょうか。要するに、日本政府は重要なことはすべて先送りして何もしないのが伝統になっているのです。北方四島の問題も、竹島問題も、米軍基地の問題も、消費税問題も、老人医療問題も、少子化問題も、自殺3万人問題も、財政赤字の問題も何も解決できないで、ほったらかしです。これでは法治国家ではなく「放置国家」です。フジモリさんも日本をあてにはしていないでしょう。彼はちゃんと自己を守り解放する手段を用意してあると私は信じています。
さて、別件です。『イッペーを浜松市で咲かせる』件です。
お忙しいのに恐縮です。浜松市はご承知の通り、日本でいちばん日系ブラジル人が多い町で、(現在3万人を上回るそうです) その浜松市の市議会議員の一人に以前イッペーと和田さんの話をしていたのですが、今年同市にブラジル領事館がオープンすることになったので、数名の議員さんたちがその気になって、私にあっせんを依頼してきました。市役所の前や領事館の庭にぜひイッペーを植えたい、とのことです。まだ非公式な話なので、詳しいことは訊いていませんが、浜松市には優秀な植木屋の団体もあって、受け入れる技術はあるそうです。
そこで、和田さんにお尋ねしますが、
1.この話、いかがですか? 前向きに検討していただけますか?
2.もしYESの場合、時期、数量、方法、費用、などについて、概略を教えていただけますか?
必要でしたら浜松へ行って現地を見てきますが、とりあえずこの段階でご検討ください。
実は、どこで聞いたのか、群馬県のある町からも同様の引き合いがあります。これはビジネスがらみのようなので、いまのところ無視していますが、これからもあるかもしれません。
よろしく・・・。 (完)

上記井川さんのご提案大変嬉しく思います。
基本的には大賛成で是非実現させたいと思います。
私は草花と云うかポルトアレグレに咲くイッペーの花の種を採集し有隅先生に送っただけで現在ポルトアレグレのイッペーの花を育てて下さっているのは有隅先生(元鹿児島大学園芸科教授、JICAのシニアーボランタリーでアルゼンチンに出向しておられた)でメーリングリスト、BLOGを通じてご指導を受けている立場で有隅先生の御意向次第だと思います。一応100本前後の苗を今年の春過ぎ5月頃には引き取りどこかで後2-3年育てて頂いてから街路樹として公園その他に植える計画に成っています。6月の神戸の移民祭に有志に配る計画もありますが、浜松で組織的に引き取り育てて頂けるのであれば全量、浜松に引き取って頂いても結構だと思います。
その他にイッペーロッショも現在前田さんに育てて頂いておりこれも引き取って下さる先がはっきりしておれば前田さんにお願いして浜松で育てて頂いても結構だと思います。
今年の訪日時に仕事を終わらせた後、4月末からの連休時に是非鹿児島、霧島に出掛け有隅先生、前田さんにお会いしてお礼も述べさせて頂きたいと思っていますのでその時に詳細を打ち合わせさせて頂く積りにしています。費用は原則掛からないようにしたいと思っており有隅先生、前田さんには苗の送料その他は私が負担させて頂くことで引き取り出来るようにお願いしたいと思います。
日本にイッペーを咲かせる会と云うのを一応組織?していますので有隅先生、引き取り窓口の杉井さん、前田さん等関係者のご意見をお聞きしたいと思います。
それにしても嬉しいお話を有難う御座います。是非話を前進させましょう。
和田 IN ブエノスアイレス。

井川様 静岡の松田です
イペーの件ですが、 以前(去年) 当地(袋井市) でもイペーの木の件で 働きかけたときに 浜松のフルーツ パークで 入手できることが わかり 中止した経過を報告したしたことがあります。
本日 浜松のフルーツ パークの 果樹園芸課 収景グループの村上様に確認したところ 苗はあるそうです。
浜松フルーツパークは市の施設であり 浜松市議の情報不足から起きた話だと思います。
一度 市議の方達に 確認してもらったら どうでしょうか?

松田 さん
そうでしたね。現在育っている鹿児島の有隅先生の所にあるイッペーの植栽場所設定の際に静岡県の袋井市他も検討して頂いた時の結論が浜松のフルーツ パークにイッペーの苗があるとの事でしたね。これを入手するには1本幾ら程度の経費がかかるのでしょうか?公の市の施設との事ですがまさか無料配布ではないでしょうね。関係者の村上さんに供給可能本数と共に聞いて見て置いて下さい。参考になると思います。

フジモリ元大統領 禁固25年に物申す(6) 首都集権主義のガルシア政権 サンパウロ新聞WEB版より
 ペルー政府に不満の地方住民
 イカ県の県庁で記者を取り囲んだ人たちは、貧困地域にあるさまざまな小中学校の校長や教職員だった。
 「地震で学校の校舎が崩れたんです。これでは子供たちに勉強をさせる場がありません。どうか日本の力で私たちに新しい校舎を建てて下さい…」教職員たちは記者の袖を引っ張りながら必死になって訴えていた。
 イカ県では07年8月、マグニチュード8規模の大型地震が襲い、多くの死者を出した。その時に小中学校などの公共施設も崩れてしまったという。
 県庁を出た後、自動車を走らせてイカ県内を調査して回った。するとどうだろうか。
 地震から2年以上が経過しているにも関わらず、国道沿いには瓦礫が散乱しており、町には倒壊しかかった建物がたくさんあった。国教であるカトリック教会の壁までもが、一部ごっそりと崩れ落ちている始末だ。
 ペルー政府は地震に対する復興支援を怠っていた――。
 一方で、首都リマの都心部はというと、以前にも増して道路は綺麗に整備され、信号機も増え、街路に美しい植物が植えられている。近代的なショッピングセンターが軒並み建ち並び、国際空港もリニューアルされた。
 このような豊かなリマを訪れた外国人であれば「ペルーは発展している」と思うに違いない。しかし、それは国のごく一部だけで、繁栄したリマ都心部から一歩外へ出れば、そこには政府から見捨てられた民たちが暮らす、貧しいペルーの姿がある。
 ガルシア大統領の政治方針は80年代とまったく変わっておらず、首都集権主義を行っている。これでは地方の住民たちが、ペルー政府に対して不満を募らせるのにも頷けよう。
 一方でフジモリ政権時代はどうだったか。フジモリ氏はヘリコプターを使って頻繁にアンデスの村々を訪ね、貧しい住民たちの支援を行ってきた。
 村々には水道や電気を通し、下水を整備させ、10年間で約4千校の小中学校や幼稚園を建設し、医療設備を充実させた。
 フジモリ氏は常に弱き者の味方となって政治を遂行した。だからこそ地方の住民たちは、今でもフジモリ派を支持しているのだ。
 この国におけるテロリズムは、首都と地方の極端な貧富の格差が生じさせている。ここ最近、一度は壊滅に追いやられたテロリストたちが、再び活動をはじめているという。これからまた、ペルーは暗黒の時代に逆戻りしてしまうのではないかと、不安を感じてならない。
     ◎
 記者はペルー訪問をしたことを機にフジモリ氏の長女であるケイコさんとコンタクトを取り、リマ市内にある彼女の自宅を訪れた。
 ケイコさんは06年の国会議員選挙にリマの選挙区から出馬。約60万票を獲得し全国最多票で初当選した。
 現在、34歳の若手議員として活躍しており、2011年の大統領選挙には父親の意思を受け継いで、自身が党首を務める『フエルサ2010』から出馬を表明している。
 当選すればペルー史上初の女性大統領となり、世界初の日系人女性の大統領が誕生することになる。
 そのような期待を背負ったケイコさんにインタビューした。(つづく、吉永拓哉福岡支局長)
写真:首都リマの都心部
2010年3月10日付

フジモリ元大統領 禁固25年に物申す 終 フジモリ氏の無罪を主張  サンパウロ新聞WEB版より
 大統領出馬表明のケイコ
 飾り気のない服装に薄化粧。ぽっちゃりとした体形に少女のような笑顔。ケイコさんはとても温厚な人柄だった。
 日本語は挨拶程度しか話せないが、少女時代は1世である祖父母やフジモリ氏から日本的な教育を受けたそうだ。
 「家庭で教わったことは、責任のある行動をすること。勉学に励むこと。嘘をつかないこと。この三つを厳しく躾けられた」というケイコさん。
 リマのカトリック系高校を卒業後、アメリカへ渡り、ニューヨークの国立大学、ボストン大学、コロンビア大学で経営学を学んだ。
 また、19歳からは母親に変わってフジモリ大統領のファーストレディー役を務め、父親とともにアンデスやアマゾンの貧困地域を視察して回った。
 「貧しい農夫たちの話を真剣な顔で聞いていた父親の姿が、とてもまぶしく見えた」という。
 その傍らでペルーの子供たちを支援し、96年には心臓病を患った子供たちを救うための医療グループを組織した。
 その後、フジモリ政権が倒れ、父親が日本へ亡命した後もペルーの地に踏みとどまり、反フジモリ派から非難されながらも父親の無罪を市民に訴え続けた。
 04年にアメリカ人男性と結婚。現在はケアラちゃんという2歳になる娘がいる。
 父親の背中を見ながら育ったケイコさんは、フジモリ氏の意思を100パーセント受け継ぎ、06年に国会議員となった。
 ケイコさんはフジモリ政権時代を振り返り「父親の大統領時代はテロの撲滅を最も優先しなければならなかった。それが父親の使命だった」という。
 「父親からバトンを受け継いだ今、私が最優先でやるべきことは、ペルー経済を活性化すること。数字だけの経済ではなく、遠い地方の人々が豊かに暮らせるペルーにしたい」と熱く語っていた。
 2011年の大統領選挙に出馬表明しているケイコさんだが、最新のペルーの世論調査によると、有力候補1位はカスタニェダ現リマ市長(25・3%)、2位はケイコさん(18・1%)、3位はウマラ氏(10・6%)の順となっている。
 しかし、この世論調査は主にリマ市民から統計を取ったものであり、実際はケイコさんが最有力候補ではないかと思われる。地方住民は圧倒的にフジモリ派が多いからだ。
 そのため現在、反フジモリ派は、あらゆる手段でケイコさんの政治的な人気を落とそうとしている。
 フジモリ氏にいわれなき罪を着せ、禁固25年の刑に処したのもすべて反フジモリ派の策略である。
 ケイコさんは30代の女性でありながら、真っ向から反フジモリ派と闘っている。
 ペルー発展の礎を築き、日本大使公邸人質占領事件の際には防弾チョッキを着て日本人を救った「アルベルト・フジモリ」。彼の名を我々は忘れてはならない。
 日本国民から見れば、フジモリ氏は南米諸国の日系人の「顔」である。その顔に泥を塗っているペルー政府の行為を今一度コロニアでも検証していただきたい。
 大統領選にあたり、ケイコさんは堂々とマニフェストで公約している。
 『父親の無罪を主張するとともに、恩赦で釈放する』と。
(おわり、吉永拓哉福岡支局長)
写真:2011年のペルー大統領選に出馬表明しているケイコさん
2010年3月11日付

(コメント集)
サンパウロ新聞の福岡支局長の吉永拓哉汽記者の力作連載が終わりました。吉永さん有難う御座いました。
また寄稿集にも収録させて貰う積りです。
最終章の藤森ケイコさんの笑顔素敵ですね。大統領候補と云うイメージからは程遠い雰囲気ですが是非とも応援したいですね。庶民的な雰囲気が漂ってきます。ケイコさん頑張って下さい。

とても貴重な情報ですね。陰ながら応援したいです。あや子



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