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≪キリマンジャロ登頂記録≫  前田久紀さんのBLOGより
九州は鹿児島県、霧島にお住みの前田久紀さんは、ブラジルの製鉄工場COSIPA(サントス郊外のクバトンに製鉄所がある)に技術指導員としてサントスに住んだ事があるとの事でブラジルとの付き合いは長い方です。ブラジル国花のイッペーの苗を育てその普及にも尽力されておられ霧島のお宅には霧島ツツジが1300m2のツツジ畑があるとの事です。珍しケラマツツジの種を送って頂き現在実生の苗を育てておりケラマツツジをブラジルに広げたいとの気持ちで指導を受けております。今回5月初旬に鹿児島まで出掛け御一緒に南九州を数日御一緒に旅をする積りにしており楽しみにしております。今回前田さんの紹介も兼ね2002年に登頂された≪キリマンジャロ登頂記≫を寄稿集に収録させて頂く事になりました。
写真はTOP PAGEにあるキリマンジャロ(5895m)をバックにしての得意顔の前田さ
んです。


はじめに
2001年11月に、ヒマラヤのカラ・パタール(5,545m)に登頂し、すぐに次の目標をキリマンジャロに決めた。前回、事前のトレーニングで15Kg減量したが、今回は更に5Kg近い減量を行なった。全国から集まった12名のメンバーとの6日間に亘る登山となった。
6名が頂上のウフルピーク(5,895m)迄、5名がギルマンズ・ポイント(5,682m)迄登頂し
た。
帰路、ンゴロンゴロ及びセレンゲティ国立公園で5日間のサファリを体験した。
連日天候に恵まれ、素晴らしい旅行になった。旅行の十ヶ月後の2003年7月に記録をまとめた。
1.旅行期間:2002年9月2日〜9月16日(15日間)                 
      (登頂期間:9月4日〜9月9日の6日間)                 
2.ツアー催行会社:アルパインツアーサービス
ツアーリーダー:鈴木 達夫氏 

3.キリマンジャロ登頂ルートマップ
 キリマンジャロ登山の登頂日は、1日で標高差約1,200mを登り約2,000mを降る。この山は、世界で一番高いフリースタンディング(独立)の火山である。
 登山口のマラングゲートからの往復に、通常登り4日、降り2日を要する。ギルマンズ・ポイントが最初に現れる火口縁である。そこより約200m高いウフルピークが頂上であり、火口縁に沿った道をさらに約2時間登らねばならない。
 人間の高地における居住限界は、標高約5,400mである。キリマンジャロ登山では、酸素が平地の45%前後の6,000m近い場所において無酸素で3時間以上行動できる身体能力が要求される。赤道から約200Km南に位置するが、氷河がある。残念なことに、年々やせている。氷河が溶けた地表に「ひからびて凍りついた豹の屍」がまた現れるかも・・・。

4.参加者:日本全国から合計12名が参加。以下に皆さんのプロフィルを記す。
 N.Mさん:男性、67歳、茨城県。ギルマンズ・ポイント(5,682m)迄登頂。写真が趣味。終始カメラが重そうだった。元、村の助役。
 Y.Tさん:男性、40歳、長野県。世界中を自転車等で旅行するため脱サラし、白馬村のおばさんの別荘に独居中。独身。姫路市の実家は勘当状態。かなり遅れて最後尾で悠々と登頂。富士山に登ったことがないとのこと。ビックリ!
T.Hさん:男性、54歳、愛知県。酒屋勤務。 日本百名山を全て登頂。中国の大姑娘(タークーニャン)にも登ったが、素晴らしかったとのこと。足が速く、2番目に登頂。
 F.Yさん:男性、54歳、埼玉県。防衛庁東京本部勤務。マラソン選手。モンブランにも登頂。足が速く、トップ(自分より5〜6分前)で登頂。帰国したら職場の席がないかもと言っていた。
 F.Tさん:女性、F.Y氏婦人。海外は初めて。ギルマンズ・ポイント迄登頂。気
の毒にも、そこで吐き気があったようであとを断念。
S.Tさん:女性、自分と同年、静岡県。元先生。世界中トレッキングしている。
2年前、ヒマラヤのヤラピーク(5,520m)にピッケルを使って登っている。猛烈に足が速かった。鈴木リーダーに、ギルマンズ・ポイントでリタイアを奨められたようだが、行けるところまで行かせてくれとの願いを聞いてもらい、ゆっくり頑張って登頂成功。自分より10分ぐらい遅れたかな。草花好きの猛女。いつも片手にビデオ。
F.Mさん:女性、静岡県。ギルマンズ・ポイント迄登頂。
M.Hさん:男性、64歳、東京都。会社役員。長期の海外勤務経験あり。英語は流暢。ギルマンズ・ポイント迄登頂。前年、カラ・パタールにご夫婦で登頂したとのこと。
M.Tさん:女性、浩氏夫人。英語は流暢。ギルマンズ・ポイント迄登頂。道中、「鹿児島では最近でも相変らず島津さんがお強いのですか?」ときた。情報を持ち合せなかったので、生返事しかできなかった。今後、島津勢の動向に気をつけておくことにする。お二人とも元貴族の出とお見受けした。 
N.Aさん:女性、大阪府。日本百名山全部登頂。頂上アタック日、5,000m付近で指示によりリタ-イア。登山開始後2時間前後のことで本人はまだ頑張ると言ったが、1回だけそれを認められた後、間もなくガイド一人をつけて強制的に下山させられた。「下山はイヤダイヤダ」と言っていた。どう見ても登頂は無理に思えた。
N.Tさん:男性、70歳、神奈川県。 元、ゼネコン会社勤務。日本百名山を、自宅近くの一山を残してすべて登頂。写真はかなりの腕前。ギルマンズ・ポイントで鈴木リーダーに下山を奨め られたが、何としても頑張ると言って登頂を了解してもらった。古希の記念登山で、後に引く気は無かった。最後は、捨て身の頑張りを見せ、頂上付近で自分を追い抜いた。何事かと思って後で理由を聴いたら、鈴木リーダーに強いところを見せたかったからとのことだった。下山はかなりマイっていた。以後の旅程はズッと嬉しそうな顔をしていた。
前田 久紀:4番目に登頂。快調であった。頂上で饅頭を二個食べた。

5.トレッキング体制(合計46名)
    ガイド 5名(ガイドリーダー:JOSEF、ガイド:ANTON、CRISTY、THOMAS、JHON)      
ポーター 26名(客1名につき2名づつ)
コック   2名
客    13名(内リーダー1名)
   合 計 46名
その他、すべての移動及びサファリ時の  運転手   2名

6.行程
 大阪出発の3名以外成田空港に集合した。バンコックで全員集合となり、9月2日から15日間の旅行が始まった。全行程の概要を以下にまとめる。
9/2 朝、鹿児島発。19時過ぎ、NWで成田からバンコックへ。23時過ぎ着。乗り換え。
9/3 早朝、ETで、バンコックからエチオピアのアジスアベバへ。ここでの5時間の待ち時間中、カゼ気味で疲れを感じる。いつもどおり出発前から風邪薬を飲み続けたのに!
乗り継いでキリマンジャロ国際空港へ。サファリ車2台でキリマンジャロ山麓のマラングホテル(標高1,550m)へ。ここで飛行機でトランクの鍵が破損していたことに気づく。取り出した登山装備一式以外を閉じ込めたまま、鍵が開かなくなった。
9/4 朝方、体調は快調。サファリ車2台でマラングゲートへ。入山手続きの後、ガイド達の紹介を受け10時10分マンダラハット(2,727m)へ向けて登山開始、14時35分着。
7.9Kmの歩行。ロッジ泊。四人部屋で、各人自分のシュラーフに寝る。グッスリ!
9/5 8時00分マンダラハット発、14時55分ホロンボハット(3,720m)着。10.5Km。体調は良いが、最後疲れた。夜、咳あり。ロッジ泊。
9/6 滞留日。高所順応のため、マウェンジ峰の途中迄訓練登山。8時20分発、13時30分帰着。
 朝、顔を洗っていたら日本語のうまい外人がやたら話しかけてきた。元気だ。又、我々を一昨日追い抜いた単独行の二十歳代の日本人男性が、昨日登頂に成功したと、嬉しそうに報告してくれた。
 大変羨ましく思えた。こちらには不安がある。夕方、ロッジ付近でシートに覆われ一輪車に載せられて下山する人を三人(三体?)見たと、阪尾さんたちが言っていた。ホロンボハットのロッジ泊。
9/7 (登頂前日)。8時03分ホロンボハット発、15時35分キボハット(4,703m)着。
裏山を高度差200mぐらい訓練登山。好調だったので、かなりハーハー言いながら登っていたら鈴木リーダーに叱られた。「ゆっくり登れ!富士山で訓練しているワケではない…!」。頂上アタック開始数時間前に、この無駄で危険な行動をとったことをしみじみ反省している。正常な判断ができなくなっていたのかもしれない。ロッジに帰る頃には、曇っていたこともあり薄暗くなっていた。ロッジの大部屋に全員で泊。眠れない。昨夜も4時間しか眠っていない。カラ・パタールの時は、4,910mのロブチェで充分眠れたのに…。その時のような、少人数のテントもいいなと思った。
9/8 0時00分起床、睡眠時間は約1時間。軽い朝食?の後、1時05分登頂開始。ギルマ ンズ・ポイント(5,862m)7時15分着、7時42分同発、ウフルピーク(5,895m)9時17分着。万歳!所要時間は、ほぼ標準タイムどおり。9時49分頂上発、ギルマンズ・ポイント10時37分着、10時47分同発、キボハット12時00分着、15分の仮眠後13時30分同発、ホロンボハット16時30分着。
登頂の出発は全ての登山隊がほぼ同時刻となる。登山者は、ガイドを含めると全部で百名以上だったろう。自分の隊は、後方からの出発となった。自分は、その中でも最後尾の吉田君の前で進むことにした。
  半分も登らないハンス・メイヤーズ・ケーブ付近で、リチウム電池のヘッドランプが急にきれた。あまりにも早かったので、電球切れだと思い(後で調べたら電池切れだった)電球の交換をトライしたが、あるはずの予備電球が見当たらず、予備の手持ち式の懐中電灯をリュックからとり出し、ガムテープでヘッドランプに固定した。これが、夜明け迄ギリギリでもった。月はなく闇夜だった。気温が−10〜−15℃であり、水筒の水がシャーベット状に凍った。予備の水筒はリュックの背中の部分に入れてある。最後尾で出発したため、途中十数人を追い越さないと時間的に苦しくなりそうだったので、かなり無理をした。狭い登山道で一人追い抜くことすら大変である。息が上がる。あまり遅いと鈴木リーダーにリタイアを命ぜられる恐れがある。
ギルマンズ・ポイントで体力には余裕があり、ウフルピークまで行く自信はあった。
ここからは、鈴木リーダーを先頭に体力に余裕のある順番で進むことになる。流石に福来さんと都築さんは早い。その後を必死で追った。酸素不足が充分にスピードをコントロールした。決して無理なスピードにはならない。歩幅は靴の長さ程度である。随分時間がかかったような気がしたが、標準タイムの約8時間で頂上についた。鈴木リーダーがニッコリと握手をしてくれた。とうとうやったと言う喜びと充実感で涙はなかった。
腹が減ったので、出発時貰った饅頭一個とウィダーゼリー一袋を食べた。鈴木リーダーも何か食べていた。食べたのは二人だけだった。下山は砂走りをザーザーと走り下った。
キボハットからホロンボハット迄の帰路は、距離を長く感じた。とうとう最後の1時間ぐらい、JOSEFに重くもないリュックを持ってもらった。大変疲れたが体調は良好。
ビールを飲みたかったがやめた。まだ、標高3,720mにいるのだ。ホロンボハット伯。
第1表  体 調 管 理 表   血中酸素飽和度、脈拍数の測定時間:朝食前)

 期 日 血中酸素
飽和度(%) 脈拍数**
(回/分) 宿泊地の
標高(m) 当日の夜の
宿泊地(ロッジ泊) 睡眠時間
(時間)
 9/3  93  64  1,550 マラング  11
 9/4  88  85  2,727 マンダラハット   7
 9/5  80  77  3,720 ホロンボハット   7
 9/6  86  84  3,720 ホロンボハット   4
9/7*  75  85  4,703 キボハット   1
 9/8  84  89  3,720 ホロンボハット   9
 9/9  94  73 約1,200 アルウシャ   9

 *9/7は夕食前に測定  **平地での脈拍数は49回/分 

9/9 8時00分ホロンボハット発、往路宿泊したマンダラハットで昼食(昼食は全て弁当)をとり、13時50分登山口のマラングゲート着。途中山火事(ブッシュファイアー)を突っ切ることになった。前日、ホロンボハットのロッジから遥か下方に火の手が見えていた。それが燃え続けていたのである。隊はま
とまって火事を突っ切ることになっていた。かなり遅れてしまった長岡さんは後ろのガイドに怒鳴られたらしく、慌てていた。鈴木リーダーに化繊の衣服は脱ぐよう言われが、すべて化繊で、脱げなかった。火の粉を被りながら約200m
を全力疾走した。後ろを振り向き、「Suzukisan Let’s go!」と叫んで走り出すガイドリーダーのJOSEFの後に自分が続き、最後を鈴木リーダーが守った。長身で40歳前後のJOSEFは身軽で、火煙が吹き付ける道を外れて走った。自分にはそんな余裕はなく、道なりに走った。風が強く、火煙は地を這った。皆、真っ青! 淑女達の足の速いことにはビックリした。                   登山口のマラングゲート到着後、登頂者の表彰式とお別れの合唱の交歓。12名全員元気で登山は終った。ヒマラヤでのネパール人ガイドとの別れはつらかったが、今回はそんな感情は湧かなかった。サファリ車でアルウシャへ。8日ぶりにシャワーを浴びた。アルウシャ泊。                      トランクの鍵が開かないので、日本のメーカーにファックスで開け方を問い合わせ、以後、登山装備のままで過ごすことにした。靴やビデオカメラとデジカ
メの電池、着替えで困った。買える物は買った。
9/10〜9/14 ンゴロンゴロ及びセレンゲティ国立公園でサファリを体験した。想像以上の光景の連続だった。数百頭のヌーの群の移動、水飲み場に集まる50頭ぐらいの象の群や、子象を間挟んで移動する30頭ぐらいの象の群、ガゼ
ルを襲うライオン、倒したキリンに群がるライオン達……。夢のような世界だった。帰国してから、この夢のような世界からライオンが現れて、自分が襲われる本当の夢を何回も見る。9/9,14アルーシャ伯。
9/15〜9/16 帰国。トランクのキーが開かないので、鈴木リーダーに壊してもらい使った。キリマンジャロ国際空港からアジスアベバ、バンコック経由で成田に到着した。
アジスアベバでは5時間ぐらい売店めぐりをさせられ(・・・・・)た。
アジスアベバを出発して間もなく、何のアナウンスもなく小さな飛行場に着陸した。スチュワーデスに「なんと言う飛行場か」と聞いたら「ジブチ」とだけ答えた。貨物の運搬か何かの都合らしかった。実にいい加減である。

7.体調管理
  第1表に体調管理表を示す。前年のカラ・パタール登頂の経験を生かし、ほぼ同様のトレーニングとなった。自転車、ウォーキング、トレーニングジム、スイミング、霧島登山を連日繰り返した。前年の韓国岳登山32回に続き今年は27回登るなど、体重減と心肺能力の向上に努めた。登頂に際しては、ブドウ糖300g、カンロ飴300g、チョコレート250gを持参し、ほとんど食べた。また、水を毎日3リッター以上飲んだ。ホロンボハットからダイアモックスを毎日半錠ずつ呑んだ。

8.費用 旅行代金 : 616,720円(成田発着分)

9.感想および印象に残ったことなど
 (1)鈴木リーダー 良い天候と仲間に恵まれ、素晴らしい旅行ができた。
特に、鈴木リーダーは、優れた技術と人格で隊をリードしてくれた。全員を疲
れさせないために、自分の前には絶対に客を歩かせないなど、完全にコントロ
ールしていた。感謝!
(2)キリマンジャロ頂上 頂上付近には東側と西側に氷河がある。西側はウ
フルピークの200mぐらい下から氷河が続いている。頂上から大声で「オ
ーイ」と叫ぶと、はっきり木魂が帰ってきた。皆で面白がってやった。氷の高さは30〜40m位だった。頂上には豹の屍などはなく、小さな石を記念に持ち帰った。
(3)ガイド  皆さん献身的に対応してくれた。勿論、意思疎通には十分な英語を話す。
タンザニアは元ドイツ領で、ロッジなどはドイツがODAで建設したらしい。このあたりの影響もあるのか、ガイドの態度が対白人と対我々とでは違うように感じた。ここのガイドは、アジア人でも南米人でもないヨーロッパ人スタイルという感じである。
(4)マサイ族  マサイ族は、国立公園内に居住することを許されており、放牧などで生計を立てている。着飾った若者がサファリ車に記念写真を撮るようアピールしてくる。道路で止まると「ワンシャッターワンダラー!」と言いながら寄ってくる。1ドル札を片手に握ってシャッターを切り、それを渡す。まず、金を見せないと持っているヤリで衝かれそうな気がする。決してフレンドリーではない。60ドルで1ケ月暮らせるとのことで、なんとも言いようがない「商売?」である。
(5)運転手のモシャさん  左の写真はサファリ車の運転手のモシャさんである。サファリ車を2台使ったが、自分はほとんど彼の車に乗った。最初から助手席に乗れと言ってくれたり、デジカメの電池を自分の家から持ってきてくれたりした。3日目あたりに「なぜ俺にこんなに親切にするのか」と聞いたら「自分にはMAEDAという名前の息子がいる」という。MAEDAは、Moshi(キリマンジャロ山麓のかなり大きい都市)から東へ40Kmぐらいの所にあるHimoという町の金持ちのGreat Family(豪族?)の名前なので、息子にも付けたとのことだった。自分の帽子に書いてある「MAEDA」を初対面時に見たらしい。モシヤ前田家のルーツはアフリカでは?モシかして「MAEDA」と「前田」は赤いヒモで繋がっているのかも・・・。
 モシャさんは、1983年に美智子皇后がンゴロンゴロ国立公園を訪問された際、皇后の乗用車の運転手を務めたと言った。皇后は、白い小さな花(今回も咲いていた)に格段の興味をもたれ、車を止めたとも言った。その花の名は「Princess Michiko」だという。「誰がその名前をつけた?」と聞いたら「自分だ・・・」。
(6)食事  登山中の昼食は、毎日パン、ゆで卵、ソーセージ、固いみかん、パックジュースと決まっていた。ロッジの夕食はこれにスープがつく程度。サファリ中のロッジでは、ホテル並みのバイキングで、牛肉が特にうまかった。一気に体重が回復する感じがした。
最後に「地球の歩き方」に次の文章があるので、自分の戒めとして引用する。この文章は勿論のこと、手持ちの高所における運動生理学に関する本を読み返して旅行に出発した。

−怖い高山病−
1999年の大晦日からの「ミレニアム登山」で、1,000人もの登山者があったが、
内3人が死亡。(中略) 地元警察情報として毎月2〜3人の死亡者が出ている。
(中略) ここ3年で日本人死亡者2人の遺体を収容、また1人の発狂による行方不明捜索に大使館員があたっているのだ。ガイドでさえ高山病にかかったケースがあることに注意。

今回も周囲の皆さんに大変お世話になりました。ありがとうございました。
全ての皆さんに深謝!                          以上                           
付録:写真集                                         
写真は全て、望遠なしの小型デジカメで撮影した。カメラ、CPUとも進歩したものだ。下のマウェンジ峰(5,151m)の中腹に、この山の登山基地のロッジの明かりが写っている。直線距離で約20Km離れている。登山中、肉眼では見えなかったもの。




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