ポーランド通信 松川特派員からのお便りが届きました。(後篇)
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ポーランドのワルシャワに2ヶ月間お仕事で滞在しておられた松川範正さんにポーランド通信を連載で『私たちの40年!!』のメーリングリストに送って頂いていましたが、4月12日(月)に帰国するとの最後のお便りの直ぐ後に4月10日(土)の10時50分にポーランドの大統領専用機が西部ロシアで墜落、大統領ご夫妻はじめ政府の閣僚等全員が亡くなられたとのニュースが入り、追加情報として現地の生の様子を知らせて呉れています。
ポーランドの歴史に付いても松川さんが知らせて呉れていますが、その歴史に残る1ページとも云える現役大統領の航空機事故による死亡と云う稀有の出来ごとに現地で遭遇された松川さんは、一生このポーランド出張を忘れる事が出来ない大きな人生経験として心に残して行かれる事と思います。
写真は、ショパンの生家を訪問された時の松川さんです。雪の残る景色、立派な家ですね。
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ポーランド通信 その12 松川特派員からのお便りです。
松川です。
この日の午後は国立博物館と併設の軍事博物館を見学しました。
軍事博物館には前庭に第二次大戦からの各種兵器が展示されています。無料で見学できます。
博物館内は10ズウォティ(=約330円)の入館料が必要です。
中世の騎士の鎧兜や剣・槍などが時代を追って展示されています。
各国のコーナーもあり、日本コーナーには日本の鎧兜の展示がありました。
(見たところ戦国時代以降のものと思いました)
日本コーナーの柱に”丸十字”の家紋が描いてありましたが、丸十字と言えば島津です。
きちんと許可を取っているのでしょうか?商標権の侵害の恐れあり!?
国立博物館は土曜日だけは無料で開放されていて、私もその恩恵に預かりました。
考古学や歴史学、宗教学の各種展示に加えヨーロッパの巨匠の絵画・彫刻を多く収蔵しているとのこと、
展示室が1階から3階まで多くあり見ていて飽きないところです。閉館近くまでいて足が棒になりました。
私は博物館や美術館を見て周るのが好きです。と言っても別に絵画に造詣が深い訳も何でもありません。
色の違いも大して分かりません(さすがにインテルナシオナウとグレミオの違いぐらいは分かりますが・・・)
ワルシャワの目抜き通りの夕暮れの写真をつけます。これでも繁華街です。
(コメント)
松川 さん
写真添付有難う御座います。
ポーランド通信その12を下記BLOGに掲載して置きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/11347813.html
ポーランド通信 その13 松川特派員からのお便りです。
松川です。
今日はワルシャワ市内北部にある”ツィタデラ監獄要塞跡”を見に行きました。
『地球の歩き方』にも掲載されているのですが、旧ロシア領ポーランド時代に起きた反ロ暴動に対して、帝政ロシアが建設したものです。主に政治犯(ポーランド独立を目指した)を収容していました。
ポーランド独立の英雄、ユゼフ・ピウスツキ元帥も収容されていたことがありその部屋が残っています。
ところで市内の移動にはホテルの近くを路面電車(トラム)が走っているのでこれを利用します。
乗車券は乗り物の中では売っていないので、キヨスクで買います。日本の切符サイズです。
1回券から1日券、3日間券などがあります。トラム、バス、地下鉄共通です。
地下鉄は自動改札に通しますが、バスやトラムでは社内で刻印機を通さなければなりません。忘れると罰金の対象です。
今日はトラムの他、地下鉄にも乗りましたので駅のプラットホームの写真をつけておきます。
ホテルの部屋で書いていますが、窓の外に目をやると雪が久しぶりに降っています。
ポーランド通信 その14 松川特派員からのお便りです。
松川です。
ポーランド国内フットボールリーグ”エクストラクラサ”は終盤戦に入ります。
2大都市のクラブ、ヴィスワ・クラクフ(クラクフ)とレギア・ワルシャワ(ワルシャワ)が人気・実力の点で双璧です。
インテルナシオナウとグレミオの関係みたいなものです。
現在、ヴィスワがリーグ首位、追うレギアが2位です。この両雄は5月8日に直接対決を残しているため、特にレギアは勝ち点3点差以内で食らいついていきたいところです。
しかしながらここ3試合、両チームの試合ぶりは”酷い”の一言で日本のJ2みたいな試合をしています。
・ゴールのないところをあえて狙ってシュートする。
・パスは相手に渡す。
・相手が3人向かってくるところにあえてドリブルで突っかける。
・手でも足でもとにかく相手を倒す。
・安全第一ですぐにタッチの外に蹴りだす。
首位を争う2チームがこのていたらく、目も当てられません。
(むしろ第3位のレフ・ポズナンというチームが良いフットボールをしています)
2位のレギアが最悪なのが、首位のヴィスワが転んでくれているのに、余計にも”お付き合い”しているところです。最近3試合の両チームの星です。
1.ヴィスワ ●●△ 2.レギア○●●
4試合前までは両者の勝ち点差は5でしたが、2に縮まり、先週末で3に開きました。
特にレギアは先週末最下位にチームに敗れました。
これをポルトアレグレに置き換えてみて、例えばグレミオが首位でインテルナシオナウが2位で追いかけているとき、上記のような成績だったらファンが暴動を起こすのではありませんか?
(コメント)
松川様 前田です。
楽しいポーランド通信、いつも興味深く拝見しています。ポーランドサッカー事情、知らないことは恐ろしいこと。大変貴重な情報です。
食べ物と遊びの話はいつでもどこでも楽しいですね。どんどん書いてください!
ポーランド通信 その15 ヨーロッパ国名クイズ 松川特派員からのお便りです。
松川です。
私は地図を見るのが好きです。
こちらでもヨーロッパの道路地図を買いました(但し自分で運転するわけではありません)。
MARCO POLOのEURO ATLASですが、面白いことに各国のページは自国の言語で表記されています。
我が国も海外では“JAPAN”などと表記されても自国では“日本”と書きます。
と言うわけで、今回は国名クイズを出します。その国では自国をそう標記します。
(表音記号は省略しています)
1.Deutschland
2.Osterreich
3.Suomi
4.Ellada
5. Eire
6.Crna Gora
7.Hrvatska
8.Magyarorszag
9.Shqiperia
10.Polska
答えはこの後送ります。
ポーランド通信 その15 ヨーロッパ国名クイズ 答え
【答え】
1.ドイツ
2.オーストリア
3.フィンランド
4.ギリシャ
5.アイルランド
6.モンテネグロ
7.クロアチア
8.ハンガリー
9.アルバニア
10. ポーラアンド
いくつご存知でしたか?
松川
(コメント)
松川様こんばんは。
ポーランドには5年ほど前に仕事でワルシャワ、クラクフ、カトヴィツェ、ブロツワフを訪れました。私も現地でチェコ語、スロバキア語はポーランド人には面白おかしく聞こえる言葉が多いと聞きました。チェコに有名な機械メーカーのシュコダという会社がありますが(自動車部門はVWの傘下に入っていますね)、どうもポーランド人にはへんてこな風に聞こえるらしいです。
ところでヨーロッパの国名ですが、これはわかりますか。
Confoederatio Helvetica
この国のインターネットのドメインは頭文字を取って.chです。
かつて知り合いから.chのドメインのメールアドレスでメールをもらった際、「はて、これはChinaからのメール?確かChinaのドメインは.cnのはずだし。。。」と思ったら、実はスイスからのメールでした。
スイスの正式な国名はラテン語でConfoederatio Helveticaなのだそうです。
大内
大内様
ご返信ありがとうございます。
スイスの正式国名は知りませんでした。ためになりました。
シュコダ(szkoda)という単語はポーランド語では”残念”という意味だそうです。
ポーランド人には”残念”社とシュコダ社のことを思うのでしょうね。
ちなみに今のシュコダ社のTVコマーシャルにはなぜか日本の空手家が瓦を割ろうとするシーンが出てきます。
松川
ポーランド通信 その16 ポーランド語 松川特派員からのお便りです。
松川です。
ポーランドで話される言語はポーランド語です。
ポーランド語はスラヴ語のうちの西スラヴ語に属します。
西スラヴ語には他にチェコ語やスロヴァキア語などがあります。
そのためチェコやスロヴァキアの人とはお互いの母国語でも意思の疎通を図れます。
ポーランド人に言わせると、スロヴァキア語は“赤ちゃん語”みたいに聞こえるので、こみあげてくる笑いをこらえるのに必死だそうですが。
ヨーロッパは各国陸続きなのによくよく見てみると、フランス〜イタリアの線からオーストリア〜ドイツ、そしてポーランド〜チェコ・スロヴァキアの線で言語が完全に変わってしまいます。ラテン語系→ゲルマン語系(こういう言い方をするのか分かりませんが)→スラヴ語系ということなのでしょう。
例えば“Ja”という単語ですが、これはドイツ語では“はい(Yes)”ですが隣国のポーランドでは“私(I)”という意味です。ポーランド語での“はい(Yes)”は“Tak(ターク)”です。またイタリア語で“Droga”は“薬物”という意味ですが(英語の“Drug”に似ていますね)、ポーランド語では同じ綴りで“道(Road)”となります。
ポーランド語は習得の難しい言語といろいろな本に書いてありますが、私はそうは感じていません。まずは英語をきちんと一通り勉強した人ならじゅうぶん対応可能です。外国語を勉強する方法を分かっていればやり方は同じです。
ちなみに現地語で話しかけてみて相手が喜んでくれるのは万国共通。ポーランドも同じ。
と、以上偉そうに書きましたが訪問先の会社は米国系なので、普段の会話は英語です(ポーランド語は出退社時の挨拶だけ)。
(コメント)
松川 さん
ポーランド通信有難うございます。サボッテいた訳ではないのですがBLOG掲載が遅れていました。
写真がない分も含めてポーランド通信13,14,15,16を一挙掲載して置きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/11819963.html
上記URL記事にトラックバックを掛けていますので順次遡ってご覧頂けます。
ポーランド通信 番外編 * プラハに行ってきました。
松川です。
先週末の土日はチェコのプラハに行きました。
ワルシャワ〜プラハは飛行機で1時間ほど、羽田〜伊丹のようなものです。
ドイツのライプツィヒで生活している妹がプラハまで来てくれました。
(彼女の場合は鉄道で4時間半かけてやってきました)
妹はもう5年ドイツで生活しています。現在ライプツィヒ大学に在籍中です。
会うのは2年ぶりです。
チェコはドイツの隣国ですからドイツ語で話すのかと思っていたら、チェコ語を話したのでびっくりしてしまいました。
ライプツィヒ大学での第一専攻はピアノなのですが、第二専攻でチェコ文化を学んでいる関係でチェコ語を話せるようになったようです。
ところでなぜチェコ語と分かったかというと、先般のポーランド通信に書きました通りポーランド語とチェコ語は同じ西スラヴ語に属するため、お互いよく似通った言語だからです。いや、そっくりと言った方が正しいかも知れません。
市内へ向かうバスの運転手や商店、レストランの店員の話す言葉は私がワルシャワで耳にするものとほぼ同じでした(偶然の連続で彼らがみなポーランドからの出稼ぎ者だったということはないでしょう)。案内板などの標記もポーランド語と同じような綴りでした。非常に興味深かったです。
プラハの共和国広場で妹と待ち合わせ、そこから有名どころを歩いて回りました。
プラハはワルシャワの何倍も大きな街だと思いました。確かにワルシャワにはドイツに破壊されてしまったという不幸な過去があったことも確かですが、プラハは一時期神聖ローマ帝国の首都であり、オーストリア・ハンガリー帝国時代には首都に準じた扱いだったようですから、その差も歴然といったところです。
共和国広場から旧市街広場へ行きました。来週はイースターですからちょうどその準備もしていました。ここで食べたお菓子(クルクル回しながら焼き上げるパンのような)が美味しかったです。
この広場の近くでハードロックカフェを発見し、もちろん入ってみました。
そこからかの有名なカレル橋に向かいこれを渡って対岸のプラハ城へ行きました。プラハ城は現在一部を大統領府として使用しています。
プラハ城のある丘を降りてからもう一度川を渡り(書き忘れましたが、この川があの“モルダウ”川です。チェコ語ではヴルタヴァ川と言います。“モルダウ”はチェコの生んだ作曲家スメタナの代表作の名前でもあります)、それから川沿いを国民劇場まで進みそこで曲がりしばらく行くと、ヴァーツラフ広場に出ました。ヴァーツラフ広場は1968年のチェコ事件“プラハの春”のときにソ連の戦車が突っ込んだところです。“プラハの春”のときは私はまだ生まれていませんが、チェコの民主化をワルシャワ条約機構軍が軍事介入して葬り去った事件ですね。
この晩は「地球の歩き方」に載っていた“MIYABI”という日本料理店で夕食を取りました。チェコ人シェフということでしたが、味付けも盛り付けも良いところでした。下手な日本人の店よりよほど良かったと思います。
次の日(3/28)はまずドボジャーク(ドボルザーク)記念館に行ったのですが、開館時間が遅かったので断念。新市庁舎を見たりしながらまた旧市街広場へ出て行きました。途中でHusova通りにあった“CRYSTAL GLAMOUR”というボヘミアンガラスの店に立ち寄り(飛び入りです)、ワンショットグラス6個のセットを買いました。
旧市街広場には旧市庁舎もありここは上のほうに上がっていくことができます。そこから見た景色は本当に素晴らしいものでした。何時だったか覚えていませんがちょうど正時にあたり、ファンファーレを演奏するトランペット奏者を見かけました。
旧ユダヤ人街のシナゴーグを見てから、妹お勧めのレストランに行きましたがここで通称“棺桶”と呼ばれるデザートを食べました。カルメ焼きのようなブロックに生クリームが乗っています(すみません、名前が分かりません)。
その後は空港へのバス乗り場の近い共和国広場に戻っていく形で、途中でチェコの名門カレル大学のグッズを買ったりしながら、ぶらぶらしていました。
共和国広場のバス乗り場で妹と別れ、私はプラハ空港に向かい妹はまた鉄道でライプツィヒへ戻って行きました。
ワルシャワからプラハ空港に着いた直後には、バスに乗ろうとしたところ運転手が釣銭を持っていないという理由で乗車を拒否されもしましたが、プラハで驚いたのは物の値段の高さです。もちろん観光客の多いところばかりにいたのですが、感覚的に東京と変わらない感じがしました。ワルシャワでは市街の中心地でも価格帯は東京の半分ぐらいです。また、これは私の不勉強ですが、チェコもまだユーロに切り替わっていなかったことも知りませんでした。
プラハからワルシャワに戻ったときは何となく“帰ってきた”ような感覚にとらわれました。「住めば都」という言葉があります。私もワルシャワに慣れてきたということなのかも知れませんね。
(コメント)
松川 さん
ヨーロッパでの妹さんとの再会、良かったですね。ポーランドとドイツの中間点?チェコのプラハので待ち合わせロマンチックです。
妹さんはドイツに留学専門のピアノと共にチェコ文化も学んでおられるとの事。2年振りの再会さぞや和まれた事と思います。
そろそろ帰国でしょうか?工事が遅れがちとの事でしたが。。。
ポーランド便り第1部は既に寄稿集に収録して置きました。
番外編は、最初に届いた写真3枚と共に下記URLで掲載しております。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/12439264.html
松川 さん
プラハの写真楽しみました。下記にアルバム編その2として残りの8枚を掲載させて貰いました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/12553048.html
ポーランド通信 その17 日本人の知らないポーランドの歴史(1)(2)(3)
1918年11月11日、現在のポーランド共和国が成立しました。
11月11日は今でもポーランドの独立記念日です。
日本とポーランドとの最初の出会いは日露戦争です。
1904年当時ポーランドはロシア領ポーランドでしたので、ロシア軍にはポーランド人兵士もいました。
すでにポーランドではロシアからの独立を求め何度か蜂起が起きていました。
日露戦争時にはポーランドから2人の独立指導者ドモフスキとピウスツキが来日しています。
ロシア軍の中のポーランド人部隊の内応を申し出ていますが、当時の日本政府は断っています。
ピウスツキはポーランド独立後は最高権力者となりました。
ところで日本ではポーランドの歴史を”正しく”習うことがありません。
第一次大戦後ようやく独立したのに、第二次大戦でドイツとソ連に侵略された国との印象だと思います。
私もそうでしたが、今回ポーランドに行くにあたりポーランドの歴史に関する本を2冊ほど読んでみました。
1冊はイギリス人、もう1冊はポーランド人が書いたものの邦訳です。 その(2)へ続く
まずポーランドがいつも”被害者”だったかというとそんなことはありません。
第一次大戦が終結してポーランドが独立することが決まりましたが、国境線特に東側は未定でした。
そこでポーランドはロシア革命後で国内政情が不安なソビエト連邦に戦争を仕掛けます。
これをポーランド・ソビエト戦争といいます。フランスの支援もありポーランドが勝利します。
この結果、今のリトアニア、ベラルーシ、ウクライナの一部も含む領土を獲得しています。
1930年半ばまではピウスツキが存命だったこともあり、ポーランドのほうがドイツよりも充実していました。あのヒトラーもポーランドと開戦することはまだ考えていませんでした。
1938年には英仏の宥和政策で有名な”ミュンヘン会談”があり、ドイツの要求通りチェコスロヴァキアは解体されます。
このときのどさくさに紛れてポーランドがチェコから領土を奪ったことは意外と知られていません。
そして1939年の開戦時にポーランドがドイツに敗れたのは、ポーランドとしてドイツを仮想敵国とみてはいたが実際に戦争になるのはまだ3年ぐらい先であろうとの予想で何の備えもしていなかったからです。さらに軍隊の装備も旧式のままで、特に機動力はドイツがクルマに対してポーランドは騎馬だったと言います。
東側の対ソ連については仮想敵国とすら見ていませんでした。 その(3)へ続く
最後に、両大戦間の日本とポーランドの関係は極めて良好でした。
文化交流だけでなく軍事交流も盛んに行われています。
ポーランドはドイツとソ連に挟まれているという地理的条件に加え、当時暗号解読力の最先端を行く国だったのでドイツとソ連の情報収集のためにもポーランドとの関係を重視していたのです。
しかし1930年代後半には日本政府はドイツとの関係を重視する方針に転換します。
「地球の歩き方」にも紹介されていますが、”ポーランドと日本をつなぐ善意の歴史”に関するエピソードがあります。
これら先人による功績は日本人として誇るべきものですが、現代の我々は我々の側から触れない方がいいでしょう。
なぜならば、同じ日本がポーランドを切って、ポーランド人にとって”憎き”ドイツと組む選択をしたからです。
つまり国家レベルでは、ポーランドにとっていちばん苦しいときに日本は”善意”を示さなかったのです。これはあくまでもポーランドからの見方ですが。
ポーランド通信 その18 ”ポーランド通信社”店じまいのお知らせ
松川です。
おかげさまで来週月曜日4月12日に日本に帰国することになりましたので、「ポーランド通信」は今回の号で終わります。もっと定期的にお送りすることができれば良かったのですが、出張先の仕事の進捗状況もあり果たせなかったのが残念です。
またポーランドにはワルシャワ以外にもクラクフ、ポズナン、グダンスク、ウッチ、トルン、ヴロツワフなど見て回ることのできるところがあります(街の規模自体は大きくないと思いますが)。またかの有名なアウシュヴィッツ(ポーランド名オシフィエンチム)収容所もあります。そういったところへも足も伸ばしたかったのですが、日程ならびに交通機関との兼ね合いでうまく行きませんでした。
皆様もぜひどうぞポーランドへ!!!
(コメント)
松川 さん
愈々、お仕事を終え帰国日が決まりましたか。『私たちの40年!!』ポーランド特派員としてのレポートご苦労さまでした。
私にとっては未知の国でしたが、サッカーだけでなく現地の様子、歴史の一部、観光スポット等を写真を通じて知ることが出来て良かったです。ポーランド通信(後篇)として残りを寄稿集にも収録する作業を週末にでもして置きます。
帰国後お忙しいでしょうが、18日の銀座のOFF会に参加されて続きを皆さんにも直接話して頂けると嬉しいです。2次会も面白そうですよ。
4月29日(木)の宇都宮に置ける栃木―千葉戦の観戦に付き合って呉れると助かるのですが。宇都宮は初めてですので。。。
和田さん
お世話になっております。
お誘いありがとうございます。
18日と29日の件ですが、日本に帰った上でいちど予定を確認させて下さい。
問題なければぜひ参加させていただきたく思っております。
松川
松川さん
帰国前に大変な事故が発生していますね。
NHKニュースを見て驚いています。帰国直前の出来事ですが現地の様子等を追加として報告して頂けると嬉しいです。
ポーランド大統領機墜落 大統領夫妻ら死亡
4月10日18時53分配信 日本テレビ
ロシア西部で10日午前、ポーランドの大統領専用機が墜落し、カチンスキ大統領夫妻をはじめ、乗客・乗員計132人が死亡した。
ロシア西部のセーベルニ空港で10日午前、ポーランドの大統領専用機が墜落した。専用機にはカチンスキ大統領夫妻をはじめ、乗客・乗員計132人が搭乗していたということだが、ロシア・インターファクス通信は全員が死亡したと伝えている。
専用機は旧ソビエト製のツポレフ154型機で、着陸する直前、滑走路手前の木に接触して大破したという。搭乗者はポーランド軍将校が虐殺された「カチンの森事件」の慰霊祭に向かう予定だった。
ポーランド通信 19 追加 大統領夫妻墜落事故で死亡
松川です。
ポーランドのカチンスキ大統領が飛行機事故で亡くなられました。
カチンの森事件七十周年追悼式典に向かう途中の悲劇でした。
こちらではテレビ全局この報道一色です。
カチンスキ大統領は最近人気を落としていると聞いていましたが、やはり一国の元首ですし、大統領官邸の前には多くの人々が集まっているようですね。
前述のカチンの森事件と合わせダブルのショックがポーランドを襲ったことになります。
ロシア嫌いの大統領が、そのロシア製のツポレフに乗って命を落としたのも、本当に皮肉な巡り合わせです。
事故機には大統領夫人も乗っていましたし、軍隊や銀行のトップ、政府高官も含まれていました。
トゥスク首相が立派な方なので政治的な混乱はないでしょう。
私も2ヵ月ワルシャワに滞在して、最後にこのようなニュースに接し本当に複雑な心境です。
在日ポーランド大使館にはお悔やみのメールを送りました。
(コメント)
松川 さん
大変な歴史的事件に遭遇されましたね。ロシア製の飛行機でしたか。2ヶ月のワルシャワでの仕事終了、帰国日の前日の事故ですので一生忘れないポーランドと成るでしょうね。写真を撮られたら又別途送って下さい。
Boa Viagem e Bom Retorno !!
Ate a vista.
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