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【65年前の空襲の回想】麻生悌三さんの寄稿です。
お馴染みの『ブラジル不思議発見』を毎月寄せて呉れているサンパウロにお住まいの麻生悌三さんの7歳の小学生の頃の疎開地の沼津を襲ったB-29の空爆の想い出を生々しく綴っています。もう65年も前に成るのですね。それにしてもすさまじい収束焼夷弾を使い日本本土焦土の無差別爆撃を立案し、それを実施したルメイ少将が佐藤内閣の時に日本の最高栄誉勲章である、勲1等旭日代勲章を授与したと云う驚くべき事実に唖然とします。忘れて終いがちな悲惨な戦争の事実を実体験に基づいて記録して置くことが重要だとの観点から麻生さんが書かれた渾身の寄稿です。麻生さん有難う。
私も神戸の元町で防空壕から出てきたらすぐ近くに焼夷弾が突き刺さっているのを目撃しましたがそれは5歳?の時でした。それから福井県の武生に疎開していましたが良く覚えていません。
写真は、麻生さんが送って呉れたB-29です。


【65年前の空襲の回想】
また7月17日がやって来る。1945年(昭和20年)7月17日午前1時、マリアナ諸島テ二ヤン島を発進した重爆撃機B−29の編隊130機が静岡県東部の要地、沼津を襲った。収束焼夷弾(一束39本の焼夷弾を1機当たり、30束―約9トンを搭載する。上空700メーター位で、束がはじけ、焼夷弾は四方に散り、落下し、1発の焼夷弾は30メーター四方を火の海にするナパーム弾で、木造建築の多い日本焦土作戦の為に開発された)を9077束(約1038トン)を3千メーター上空より投下し、全市の略9割、9500戸を焼き払い、住民274人が焼き殺された。その時、小生は7歳で小学校に入学した1年坊主で、半年前に叔母を頼って、東京から疎開してきた、疎開家族だった。入学した沼津第二国民学校の正門の横に御真影(天皇)をまつる、祠があり、校門を入る児童が、お辞儀をして通るのを覚えている。千本松原に近い新居で就寝中、叩き起こされ、表に出ると、煙が充満しており、数軒先の家から、赤い炎が噴出していた。どこを、どう逃げたか記憶がないが、海岸に家族6人揃っていた。夜が白々と明けると、海岸には、黒山の人がいるのに気がついた。皆、火に追われ、空間のある浜辺を目指したのだ。寝巻き姿、パンツ1枚の男、腰巻だけの女等、まともに服を着た人はいなかったようだ。皆、寝ているところを、飛び起き、逃げ出したのだ。 火災が収まった頃を見計らって、家のあった所に帰ると、まだ、所々で煙が上がっており、焦げた匂いが一面に広がっていた。B−29とは、米陸軍が第二次大戦の始まる、4年前から、開発に着手した空の要塞と呼ばれた重爆撃機で、乗員11名、爆弾搭載量最高9トン、巡航速度350km/Hr、航続距離6500km、で戦中3800機作られ、1944年7月、絶対国防圏と云われた、マリアナ諸島のサイパンが陥落し、続いてテニヤンが落ち、8月にはガム島が制圧された。サイパンー東京の距離は2350kmであり、台湾から青森までB−29の空爆圏内に入った。往復15時間の飛行時間をかけた、本土焦土作戦の始まりである。当初50機余りが終戦の時には、1千機が配備されていた。テニヤンに2飛行場、サイパンに1飛行場、ガムに2飛行場の5箇所を建設し、5飛行集団を配備し、統括する第21航空団の司令部はガムに置かれた。沼津を空襲し、俺の家を焼いた部隊は、テニヤン島西飛行場に基地を置く、陸軍第58飛行団である。当初、B−29は高度5千―7千米の高さから、軍需工場を目標に爆撃した。高度が高いと、高射砲の命中率もさがるが、爆弾はジェット気流の影響を受け命中率も低くなり期待された効果が上がらなかった。1944年1月第20爆撃機集団司令官として、欧州戦線で勇名をはせた、爆撃隊のエース、カーチス ルメイ少将が着任した。ルメイ少将は、今までと戦術を変え、日本本土焦土の無差別爆撃を立案した。それは、
1) 高度からの爆撃を止め、高度1800メーター程度の低空爆撃とする。
2) 爆弾は焼夷弾のみとし搭載量を最大とするため、燃料は最小限とし、場合によっては銃座も取り外す。
3) 爆撃は夜間を主体とする。(日本は夜間戦闘機が殆ど無かった)
この無差別焦土作戦は大成功を納め、日本の136都市を焦土化し、全焼戸数221万戸焼死者50万人、負傷者30万人の一般市民を犠牲にした。この鬼畜ルメイは広島、長崎に原爆を落とした、直接の司令官であり、日本人一般市民の大量虐殺の下手人である。この鬼とも蛇ともつかぬ殺人鬼に、こともあろうに、日本政府(佐藤栄作総理)は1964年に日本の最高栄誉勲章である、勲1等旭日代勲章を授与した。航空自衛隊の創設に功労があったとの表向きの理由だが、強力に授与を推し薦めたのは源田実参議(元海軍大佐。真珠湾攻撃作戦の航空参謀)と当時の防衛庁長官であった小泉純也(小泉純一郎総理の尊父)であった。この最高位勲章の第一号授与者は明治天皇。戦前810名、戦後410名合計1220名にしか授与されていない勲章である。ルメイも源田、小泉も、あの世に行っており、この3人の間で何があったのか、真相は闇の中である。ルメイの遺族に今でも、勲章返還要求の運動がある事は言って置きたい。この勲章は、天皇が直接手渡すしきたりだが、流石に、昭和天皇はルメイと会わなかった。
沼津空襲の半年位い前から、白昼、空に浮かぶ、ジュラルミンの銀色の機体を輝かせた巨大魚のようなB−29に、メダカのような日本の戦闘機がキラキラ光りながら、反復攻撃をかける空中戦を防空壕の入り口から毎日見れた。B−29はマリアナ基地を発進し、駿河湾を目指し、富士山を眼下に見る地点から、右に旋回すれば、横浜、東京方面、左に曲がれば、浜松、名古屋方面と来襲コースが決まっており、編隊が駿河湾に近かずくと、サイレンがなり、警戒警報発令と怒鳴り声が聞こえてくる。数十分後に、特有の爆音が近かずき、B−29の編隊に、高射砲の撃つ、黒い弾幕が空にはじけ、警報解除になるまで、防空壕で息を潜めているのが日課だった。一日に2回も3回も警報が響く日も珍しくなかった。
1945年3月マリアナと東京との中間地点(1200km)の硫黄島が玉砕して飛行場が使用可能になると、戦闘機のB−29の護衛が可能になり、昼間の爆撃も容易になり、日本の迎撃戦闘機が日増しに少なくなる中、護衛のムスタングP-51戦闘機が来襲し、暇になると、パイロットの顔が判別できる位の低空に降下し地上の目標を機銃掃射をするのが見られた。沼津が何故、爆撃されたかは、海軍工廠等の軍需工場があったと云う以外に、米軍の本土上陸作戦の一環だった。米軍は本土上陸作戦ダウンフォール(滅亡)作戦を準備中で、その作戦は、オリンピック作戦(大隈、薩摩半島及び宮崎に兵力25万を上陸)決行日は1945年11月1日とコロネット作戦(相模湾と九十九里浜に兵力54万を上陸させ、東京を挟み撃ち)決行日は1946年3月1日である。アメリカの沖縄戦までの第二次大戦の犠牲者総数は50万だったが、本土決戦があったら、更に60−100万の犠牲者が出たと予想されていた。日本本土には、無傷の45万の日本軍がまだ健在だった。米軍は沖縄戦の教訓から、地下陣地にこもった日本軍に手を焼いたので本土戦では、毒ガスを広範囲に使用する計画だった。そうなったら、日本側の一般市民を含めた犠牲者は数百万に上ったであろう。コロネット作戦の一環で駿河湾にも米軍が上陸してきて愛鷹山や香貫山の麓一帯に陣地を構築していた、日本軍と交戦していたとしたら、小生を含め、沼津の一般市民の大多数はお陀仏になっていたかもしれない。そして、8月15日の終戦。千本松原の木に登ると、数キロ離れた沼津駅あたりまで見渡せ、東海道線を汽車が走るのが見えた、あたりは、一面の焼け野原だった。小学校が再建されたのは2年後ぐらいだった。それまでは、焼け跡の青空教室と焼け残った倉庫で授業が行われた。空襲警報のサイレンも鳴らない、B−29の飛行機雲の大空の直線も見られない、当たり前の、沼津の8月の炎天の空が眩しかった。
写真は投弾中のB−29とルメイ。
2010年7月10日
麻生



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