学移連創立55周年=海外雄飛を夢見て=羽ばたいた学生たち=連載《7》―《11=終》
|
|
鹿児島県人会の実習生、金剛仙太郎ニッケイ新聞記者の情熱を掛けて綴った日本学生海外移住連盟の歴史【海外雄飛を夢見て=羽ばたいた学生たち】の後篇《7》―《11=終》を収録して置きます。
戦後移住史の特異な一面として語り継がれ今なお息づいている開拓精神、未知の世界への挑戦、この学移連の仲間の心意気を次世代にバトンタッチして行きたいものである。
『現在、ブラジルでは日比野亘さん(神奈川大)を代表に学移連OB会を組織し、年に数回OB会という形で親睦が図られている。
学移連で青春時代を過ごした人たちは大学は違っても、若い頃「異国の地に夢を求め、切磋琢磨した我ら学移連の仲間」という意識が非常に強い。』と金剛記者は最後を締めていますがこの日伯を繋ぐ仲間意識が継続する事を望みたい。
写真は、第16次海外学生総合実習調査団として来伯した金原正幸さん(第10回紹介)をお借りする事にした。金原さんは、ブラジル日本交流協会の研修生受け入れの仕事を引き受けておられ順送りのバトンを次から来る若者に渡し続けておられる。
|
|
学移連創立55周年=海外雄飛を夢見て=羽ばたいた学生たち=連載《7》=第6次調査団の日下野さん=ブラジルを夢見続けて
日下野良武さん(66、熊本、熊本商科大)=聖市在住=とブラジルとの出会いは偶然だった。中学生の時、同級生がプールに電池で動く模型の船を浮かべていた。それが全長1メートルほどの「ぶらじる丸」。そこからブラジルを目指す人生が始まった。中学、高校時代の先生から「こんな狭い日本に居てどうするんだ。セルバス、パンパは広かぞー。行ってみてみぃ!」と聞かされたことも影響した。
熊本商科大に1962年に入学。熊商大の前進は東洋語学専門学校だったこともあり、附属機関として中南米事情研究所という研究機関があり、よく出入りしていた。「ブラジル関係の本は特に少なくてね。来てはラテンのレコード聴いたり、ブラジル関係の人がくると話をしてもらっていた」と当時を振り返る。
そんなとき、63年に第1回県費留学生が同大に入学した。これがブラジル人との初めての接触だった。仲良くなり、あちこち連れて回り一緒に飲み、ブラジルの話を聞いた。同研究所で彼とは共著「ブラジル工業の進展」を執筆するほど親密になった。
ある日、研究所から「君たちはスペイン語が出来るし、何かサークルを作ったら」と言われ、中南米研究会が発足。肉付けがどんどんされていき、〃宿命〃だと感じた。
自分のことを「性格上、人がどんなに説明しても五感で体感しないと納得しない男」と評する。それでも1年の時は理屈ばかり言っていた。そこで、自転車で九州一周旅行をし「俺は理屈だけではないぞ」と自分なりに証明してみせた。
とにかくブラジルを見たかった。当時、サークルには40人ほど会員がいた。「何か無いかな」と過ごしていると、同じ九州の鹿児島大学・中南米研究会の新田栄六氏(第3次南米派遣)、宮本修氏(第5次南米派遣)らが学移連へ熱心に勧誘にきて、加盟を決め、また一歩ブラジルが近づいた。
鹿児島に出向いた時には学生寮に泊まり、宮本さんから「飲め!」と出されたのが芋焼酎のお湯割り。「美味しくて、あの時の気持ちよさといったらなかった」と語る。
学移連について、「エネルギーの固まりで馬鹿の集まり。理屈をこねる人もいたが、全国の学生と触れ合えたことが魅力だった」とし、全国合宿では「農大と拓大が怖かった。どこでも〃押忍〃の声が聞こえたよ。それにワーク(実地の農作業)では、彼らの植林を進める馬力の前には太刀打ち出来なかった」と思い出を語る。
合宿は多いときで200人を数え、活況だった。「高度経済成長時代にブラジルなんて、へそ曲がりだったかな」と語るが、「派遣団として絶対に行ってやる」と心に決めていた。
拓殖大で行われた第6次南米調査団の試験では50人が試験を受け、合格したのは10人。筆記試験と討論で、20キロのバーベルを担ぐ体力測定などもあり、拓大や農大生は片手で軽々あげていた。「何だかんだ言っても体力、チャリ(自転車)こいだり、腕立て伏せして鍛えたよ」と力こぶを作ってみせた。
合格後は大学から異例の補助金が出た。教授会では「これ以降、公の試験を経て渡航する時には10万円を援助する」と決まったようで、大学の期待を一身に背負い65年6月、第6次南米学生実習調査団・商業部門としてリオの「IHIブラジル」へ派遣され、テーマ「一日系企業の歩み」のもと事務仕事を中心に研修をした。
帰りの船では団員みんなで反省会。1人2時間くらい話し、「青二才の学生の身分で、世間知らずだと思った。派遣先では駐在員の努力やパイオニア精神が強く、会社を興すぞという迫力があった。人生は甘くないな」と感じながら日本へ帰国した。
日下野さんは「あれから『不惜身命』という言葉が好きになったよ。失敗を恐れず、体力と頭が続く限り、この精神で生きていきたい」と目を輝かせた。(つづく、金剛仙太郎記者)
写真=鹿児島・霧島での春期合宿(1964年4月1〜7日)前列左から5番目が日下野さん(日下野良武さん提供)
学移連創立55周年=海外雄飛を夢見て=羽ばたいた学生たち=連載《8》=変わる「移住」の位置づけ=60年代の規約改正問題
学移連の活動は派遣のほか、合宿や総会も定期的に開かれ軌道に乗っていたが、一方で全国にあるサークルの名称や内容など、少しの違いながら多様化が見られてきた。やがて主旨に合わず脱退したり、参加しない〃幽霊サークル〃が増えてきた。
そのような中、60年代中〜後半は連盟の意識統一、研究体制の確立を第一の目標として活動した。記念誌によると、学移連に加盟しているサークルを2つのブロックに分ける「ABブロック化」が66年、GLC(グループ・リーダーズ・キャンプ)で提案された。
Aブロックは移住を一義的に捉え、将来の移住を考えた「移住研究」。一方、Bブロックは海外諸国を研究対象とし、海外に対する興味、関心を満たす「海外研究」である。しかし、連盟本部は各サークルをまとめきれず、根本的な解決にはならなかった。
その後、67年に提案されたのが、「地域圏研究法」だ。記念誌によれば、世界を地域ごとに分け、各サークルの特殊性を発揮し、移住に焦点をあてながら後進国を総合的に研究するものだった。全国に散らばる各サークルの研究は、本部の研究部がまとめていた。
しかしこれも頓挫した。各サークルに研究に対する姿勢が出来ておらず、結局理論だけが先行し、形にならなかった。連盟本部が全国にあるサークルを、「移住」という概念でまとめようとこだわった結果であり、やがて学移連の目的から「移住」を外そうとする動きが生まれるのは自然だった。
翌68年の全国総会で規約第三条の改正案が関西支部から提案された。
規約は学移連創立時(55年)に制定されたもので、五章十九条からなる。話題として上がったのは「第二章、目的および事業の第三条」、すなわち「本連盟は海外移住に関する理念の研究および実践を通じ、海外移住思想の啓蒙並びに海外移住の促進を図ることを目的とする」の部分だった。
関西支部によれば、移住という言葉が学生を遠ざけ、この条文が学移連の発展を阻害するという。これに対し関東支部は、「現状の第三条を固守し、移住者減少の要因と現状を認識しつつ、今後の海外移住を真剣に見つめ、その価値を認識し一般社会に啓蒙し、また自ら実践すべく、今後の学移連活動を続けていくべきである」と主張した。
東北・北海道支部は「海外を媒体として研究会を構成し、海外諸問題の研究・実践をするためにも、規約の改正に賛成である」としている。
前年67年には南米第8次団と共に、カナダ第1次団が出発、徐々に派遣先は広まっていた。この問題は時代を反映しており、学生たちにとっては日々の活動に直結することで、合宿や総会で毎回話し合いがもたれた。
規約第三条は70年の全国総会で次の通り提案され、可決された。「本連盟は国際間における人間の移動について原因分析をなすとともに、広く海外問題を追及し、その中で正しい人間の移動のあり方を考察し実践することを目的とする」。
記念誌によれば、「新規約の意味するものは、『移住』の拡大解釈である・・・移住というものを永住だけに限定せず、技術指導、海外駐在をも含ませた・・・」とある。この改正をもって、イスラエル、オーストラリア、東アフリカへと派遣地域の拡大が行われた。
また、派遣団の名称も「海外学生総合実習調査団」と改められ、声明文では「移住とは移り住むことであり、それが長期であろうと短期であろうと、また永住であろうと、地域がどこであろうと、移り住むということは全て移住である」と述べ、「学移連はその、移住という行為を通して世界平和を実践せんとする」と打ち出している。
さらにこの時期、個人加盟制が導入された。今まで学移連はサークル加盟が原則だったが、連盟員の減少と、実際は個人参加に近いのでは、ということから、70年から変更となった。転換期を迎えていた学移連は、新しい一歩を踏み出すこととなった。(つづく、金剛仙太郎記者)
写真=弘前大学での総会の様子(1965年5月)(日下野良武さん提供)
学移連創立55周年=海外雄飛を夢見て=羽ばたいた学生たち=連載《9》=「移住」から「国際協力」へ=移民70周年で図書寄贈
1975年、学移連は紆余曲折を経ながらも20周年を迎えた。それを記念して6月21、22日に東京で式典が開催され、NHKの三木友直氏による講演会「二十一世紀の国、ブラジル」、移住関係者、有識者によるシンポジウム「国際協力時代における新しい移住のあり方」、そして第5次海外学生総合実習調査団の帰国報告会が行われた。
一方でこの年、カナダ国内の失業問題により、カナダ派遣は中止された。派遣地域の多様性は見られてきたが、同時に学移連内でも移住から国際協力がテーマに上がり始めていた。
ちょうど同年、海外移住事業団が国際協力事業団と改称。記念誌の中で岡野護氏(亜細亜大)はこの時のことを、「学移連は『移住を研究、実践する』団体として、その母体を失ってしまった」と述べている。社会全体の移住への関心度が低くなってきていた。
さらに当時、本部で書記局長も務めていた岡野氏は、「理念を打ち出して『連盟員について来い!』、と言っても仕方がなかった。そこで社会的にアピールする花火、つまり事業を打ち上げ、1つの大きな目標を作り、連盟員と学移連との関わりをもたせた」と述べている。当時(73年)の加盟校は東北・北海道支部、関西支部、関東支部、九州支部、本部直轄を合わせて29校で、新入生対象のキャンプでは100人ほど集まっていた。
世の中が移住から国際協力になっている時に、第22期の会田出委員長(拓大)、そして第23期の石井要委員長(農大)は、総会で共に学移連の目的を移住とすると明言した。すると九州支部など脱退校が出て大幅に加盟校は減少し、残ったのは東京農大、広島短期大、日本大、琉球大など少数になった。
日本人ブラジル移住70周年の78年3月、学移連もそれに合わせ記念事業を企画し、書籍寄贈活動を行った。この活動は三重県の日本フロンティアセンターから16日間かけて、東京にある国際協力事業団本部まで、第25期の二宮憲将委員長ら4人がキャラバン隊を組み、各県の新聞社や県庁、テレビ・ラジオ局などに書籍の寄付を呼びかけるものだった。
この活動により約1万5千冊が集まり、同年7月特別短期派遣の3人と後藤連一顧問会会長によりカンピーナス日本語学校やピニャール移住地など7カ所に寄贈された。さらに翌79年に約4万冊、81年にはボリビアのラパス日本人会やオキナワ、サンファン両移住地へ約1万2千冊の寄贈が行われ、高い評価を得た。
80年の第28期からは役員不足と卒業年次でも役員を務められることから、今までの1年から半年で1期の任期となった。この頃から学移連の基本方針の中には「国際協力」の言葉が入り、また活動の中心ともなっていった。当時の主な活動は公開講座や講演会で、国際協力に携わる専門家を招いて行われるようになった。さらに自主ゼミでは杉野忠夫初代顧問会会長の著書「海外拓殖の理論と教育」をテキストに行われたが、連盟員の参加は消極的だった。
83年の32〜34、38期と役員をした福井真司さん(48、東京農大、総合第14次)=聖市在住=は、「総会では学生の代わりに『委任状』が集まった。合宿は役員と数人の派遣団員のみで、一般の連盟員の参加は少なかった。当時は連盟本部と各大学の距離感があった」と振り返る。
当時は海外旅行が個人のレベルで行ける時代になり、国際協力事業団など派遣機関が増えたことなどから、学移連の制度を利用する学生は少数だった。第13、14次海外学生総合実習調査団の長期派遣は各1人、他は短期派遣(2〜3カ月)。しかし、2年後(85年)の30周年に向け、「南アメリカ縦走キャラバン」という、新たな動きが出てきていた。(つづく、金剛仙太郎記者)
写真=移民70周年記念事業キャンペーン歩行活動(東京〜三重550キロ)(1978年3月)(日本学生海外移住連盟創立50周年記念・記録写真集より)
学移連創立55周年=海外雄飛を夢見て=羽ばたいた学生たち=連載《10》=日伯で祝った30周年
ちょうど学移連が創立30年を迎えた年、第16次海外学生総合実習調査団として金原正幸さん(45、埼玉、東京外語大)がアニャンゲーラ日系クラブの日本語学校(森脇禮之校長)に日本語教師として派遣されていた。すでに当時、加盟校数は一ケタ代にまで減っていた。
金原さんは学移連を選んだ理由に「正直に言えば補助があったから」と語る。当時、飛行機の往復運賃は60万ほどで、十分自力で行ける時代だった。
金原さんが研修をした学校の生徒のうち9割は日系人で、子供だけでなく大人の夜学もあった。日本語熱が盛んでビデオやOHPを使って教え、「まだまだ日系の子供が多かった」と振り返る。
しかし、金原さんは経営上などの問題から解雇され、さらには学校内部の混乱から160人中、130人の生徒が辞めていった。その頃、森脇氏と共に新しい学校を始めようとなり「だるま塾」を開設、後半はその手伝いをした。
当時は〃移住〃の時代ではないことが明らかで、金原さんらは「学移連という名前だと学生が増えない、改名しよう」となり、盛んに論議をしていた。「ワールドハウス21」など次々に案が浮かび夜中まで話し込んだ。しかし誰が先輩やOBを説得するか、また、JICAから助成金がとれるかわからなくなる、といった理由でこの話は立ち消えになった。
帰国後は後輩を送り出すための企業回りをした。金原さんは「そういうこと(寄付集め)は好きだった。経済5団体から推薦をもらい、好景気のところや円高差益で儲かった輸入業は寄付をくれたね。面白かったのが、どこの会社も、他社が幾ら出したのかが気になり、金額を聞いてきた。結局200万くらい集まり、営業のように成績表をグラフ化したりした」と思い出を語る。
その前年の84年10月、外舘雅弘さん(農大)がオートバイによる南米縦走の旅をスタートさせている。1年半、中南米10カ国を訪ねるものだった。当時の連盟員は、国際化が進む世界で生きるパイオニアとしての日本人や、さらには学移連の存在意義や方向性を確認するために、それを海外に住む日本人や日系人に求めた。各地でアンケート調査をしながら旅を続けた。
創立30周年時には3つのイベントが開催された。まずは前述した南米縦走キャラバン、そして6月、2人の学移連OBが「優良移住者」として国際協力事業団の招待で訪日し、全国遊説で講演などを行った。
さらには9月、ブラジル側で、独立記念日に合わせて「学移連30周年記念南米大会」が開催され、ブラジルをはじめ、パラグアイからもOBが駆けつけ、80人で盛大に祝った。中にはブラジルに移住し、二世の夫人を同伴した元連盟員もいた。
また、総合第16次で派遣されていた4人の学生とOBとで討論がなされ、今後の学移連や南米について話し合いがされる一幕もあった。
このように、大変な盛り上がりをみせた30周年だったが、時代が進むとともに、その活動も縮小を余儀なくされていった。(つづく、金剛仙太郎記者)
写真=第16次団で派遣された金原正幸さん
学移連創立55周年=海外雄飛を夢見て=羽ばたいた学生たち=連載《11・終》=「世界に心開き続ける」=最後の委員長仲島さん
改正出入国管理及び難民認定法(入管法)が1990年に施行されたことが契機となり、ブラジルから日本へのデカセギブームが起こった。93年にはJICA移住事業部からの助成金がなくなり、調査団を出すことが困難になった。資金難の中、当時の津川安正顧問(東京農大)が私財を投じて学移連の活動を支えた。
第25次海外学生総合実習調査団として94年に渡伯した、第48期委員長の仲島尚さん(37、北海道、獨協大)らが最後の派遣となった。当時、サークル加盟はなくなり、連盟員はすべて個人加盟で10人弱にまで減っていた。これ以降(95年)調査団の送り出しは停止し、実質的に活動は行われなくなった。
仲島さんの時代は月に一度くらいの割合で勉強会を行い、それぞれがテーマを持ち寄って議論をした。貿易の話や農業の話もしたが、親睦会の要素も強かったという。さらに、連盟員のいる大学で帰国報告会をしたり、日系子弟の県費留学生との交流、会報の作成などを行っていた。
調査団の派遣が停止した後、97年に活動場所だった市ヶ谷の事務所をJICAに返還、自然と活動自体がなくなっていった。仲島さんは学移連の活動を振り返って、「たくさんの人たちと知り合えた。大学のサークル生活とはちょっと違った事を学んだ気がする。特に海外体験は今の自分に生きている」と語る。
さらに仲島さんは「私が派遣団で行った頃は農業移住した先輩方が働き盛りでしたが、移住という言葉にすでにリアリティのない時代だった。しかし、学移連の思想の中に『異文化に飛び込んで混ざりあって自己実現をはかる』というものがあり、学移連の伝統を感じることができた」と活動を振り返り、「私はどういう生き方が良いかなど問うつもりは毛頭ないし、現代日本批判をするつもりもないが、ただ学移連には今と違ったマインドを感じたし、『世界に心を開き続ける』という観念で貫かれていた」との思いを語った。
学移連はその後、目だった活動がなかったが、日本移民百周年の2008年、聖市で創立50周年(実際は53年目)を記念して盛大に記念式典を開催した。
日本やアメリカから元連盟員や現役の大学生ら約50人が集まり、久しぶりの再会となった。本体は既に無くなっているが、同窓会にブラジルまではるばるやってくるOBらの顔は明るく、心は学生時代の頃に戻っていた。
現在、ブラジルでは日比野亘さん(神奈川大)を代表に学移連OB会を組織し、年に数回OB会という形で親睦が図られている。
学移連で青春時代を過ごした人たちは大学は違っても、若い頃「異国の地に夢を求め、切磋琢磨した我ら学移連の仲間」という意識が非常に強い。
今月27日、神奈川県のJICA横浜で創立55周年の記念式典が開催される。当日は思い出をお土産に、たくさんの元学生達が集まることだろう。日本の移民事業の一端を担ってきた学移連、そのスピリットは日本でもブラジルでも力強く息づいている。(終わり、金剛仙太郎記者)
写真=仲島尚さん
|
|