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JK ジュセリーノ クビチエック移住地を訪問しました。
これまでも仕事で度々サルバドールには出かけているのですが、サルバドール郊外のマッタ デ サンジョアンにあるJK ジュッセリーノ・クビチエック移住地を訪問する機会がなかったのですが、今回恵子も一緒にサルバドール、アラカジュに出かける機会があり念願のJK移住地訪問を果たせました。タクシーで移住地まで出掛けただけでしたが、それでも石井拓雄さんと田沢行雄さんのお二人にお会いしてお話をお聞きする機会がありました。
JK移住地にはあるぜんちな丸第12次航の6家族34人がサルバドールで下船、入植されており私も47年前の63年に一度訪問させて頂いていました。当時の事が良く思い出せなく一度は再訪したいと願っていただけに大変嬉しく思いました。
BLOGに写真と共に3回に分けて報告しておりますので纏めて寄稿集にも収録して置くことにしました。
写真は沢山あるのですが、お話を伺った石井さん、田沢さんと一緒に恵子が撮って呉れた写真がありますのでこれを使用する事にしました。


JK ジュセリーノ クビチエック移住地を訪問しました。

サルバドール2日目も天気はすぐれず小雨が降ったり止んだりでしたが、10時から12時半までカマサリ地区のBRASKEMのポリエチレンプラントで会合を持ち技術面での問題点の相互認識と来年7月に予定されている定修の際に必要な部品のCHKと手当て等を話し合い効率の良い会合を持てました。午後からこれまで実現していなかったカマサリの隣町になるMATA de SAO JOAOまでタクシーの運転手さんに連れて行って貰いました。
48年前にあるぜんちな丸第12次航の同船者、龍川さん、長谷川さん、田村さん、新谷さん、深沢さん、安藤さんの6家族34名がこのJK日本人植民地に入植されました。私が訪問した時には既に龍川さんのご家族はサンパウロの国内移動された後でしたがまだ残っておられる方がおられましたが今はどうなっておられるのでしょうかね。
その昔移住地の入り口にあったポルトン(門柱)を何とか見付けだすことが出来ましたが殆ど覚えていない状況でした。昔からあったと云う病院には今も沢山の人が押し寄せていました。海協連の職員が住んでおられたと云う家も如何にも貧しそうな家で現在も残っている組合の建物等もこんなものだったかなと時の流れを感じました。
病院前でお会いした石井拓雄さん新潟県出身、1960年あめりか丸でJKに10歳でご家族と入植され今年で50年になられる60歳の現在もJK移住地で野菜、レモン、マラクジャ等を作っておられる方に色々お話を伺いました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/20545468.html

(コメント集)
10歳でブラジルに移住。大変だっただろうなと思いますが、とてもいい顔をしてらっしゃいますね。あや子

あや子 さん
コメント有難う御座います。石井さんともう一人田沢さんと云う方にもお会いしておりますのでご紹介します。移住者の持つ独特の雰囲気をお持ちの方でした。


JK ジュセリーノ クビチック移住地を訪問しました(その2)

JK移住地に道を何度も訪ねながら出掛けましたが組合の場所、病院がある昔の移住地の中心地で果物を積んで車を止めておられた石井さんにお会いしてお話をしていたら大きなトラックが近くに停まり降りて来られた方が田沢行雄さん青森県弘前市出身の何と私たちより1航海前の第11次航で1962年1月にサルバドールに着かれた方で当時15歳、現在63歳とのことで恵子と粗同じ年齢で同じ頃に着伯、マナウスの亡くなられた高橋さんと同様同級生のような親しみを覚え立ち話でしたが色々話が弾みました。
石井さんも田沢さんも48年ー50年ずっとバイヤ州のJK移住地内にお住みでお二人とも日本に一度も帰っておられないとの事でした。望郷の念は当然御持ちだと思いますが、「貧乏暇なし」機会がなかった訳ではないが行きそびれてしまったと笑っていました。何度も泥棒に狙われたりして日本に引き揚げようかと思った時に郷里の弘前城の警備員の仕事があったが月給15万円とのことでとても喰って行けないと判断しブラジルに留まり現在の野菜、果物等の仲介業をしておられるそうで石井さんが持って来られたレモンとマラクジャを3人の屈強なブラジル人の従業員にトラックに積み込ませていました。
お忙しそうで直ぐに立ち去ってしまうのではないかと思いましたが、日本語での昔話に花が咲き30分以上話込みました。お二人とも現在はお一人の生活を強いられているとのことで苦労されている様子でした。石井さんは奥さんを失くされ日本に出かけている奥さんとの別居生活の弟さんとお二人だけの生活をしておられ田沢さんは、これまでずっと独身を続けておられるとの事でした。
JK移住地にはまだ30家族近く住んでおられるようですが、田沢さんが作物を集めて廻る日本人の移住者家族は15家族程おられるとの事でした。
JK移住地内には新教のプレスビテリアーノの教会(この日曜日に教会が出来て丁度50年になるとのことでお祝いをするとの事でした)と途中の道標が各曲がり角にあったSEICHOUNOIE(生長の家)があるようで時間があれば立ち寄って話を聞きたかったのですが時間がなく残念でした。
田沢さんの写真を掲載させて頂きます。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/20551061.html

(コメント集)
和田さんの言う移住者の持つ独特のもの、私にはわかりませんがそういうものって確かにそなわるだろうな〜と思いました。こうして写真入りで現実のレポートを見られることは、このサイトのすばらしさだと改めて思いました。ありがとうございます。あや子

あや子 さん
『私たちの40年!!』のHPは、戦後移住者の私たちの移住先国での定着の歴史を書き残して置きたいと云うのが趣旨ですのでJK移住地訪問の記録等は一番書き残して置きたい話題です。
訪問出来て良かったと思っています。

JK ジュセリーノ クビチック移住地を訪問しました(その3)

私が一番書き残したいのが矢張り同じ頃に移住して来られた方たちの移住先国としてのブラジルの入植地(最初に入られた計画移住地)でどのような生き方をして来られたかであり今回仕事でカマサリの石油化化学プラントの旧COPENEに出掛ける機会がありこれまでにも何度も訪問したいと思っていた念願の隣町、マッタ デ サンジョンの郊外にあるJK移住地を訪問する機会に恵まれました。
同船者6家族、43名がこの移住地に入植されましたが龍川さんの家族が一番先にサンパウロ州に引っ越され、その後も次々と転住又は日本に帰国されたようで現在は、移住地残っておられる方は見付けることができませんでした。
石井さん、田沢さんのお二人にお会い出来て移住地の現状を聞かせて頂くことができましたが、入植以来50年近くJK移住地で頑張っておられるとの事で頭が下がる思いでした。
御苦労されたと思いますが、少なくともご本人達は、その苦労を苦にしておられず現在の生活を肯定しておられ屈託なく現在の生活を語って呉れる姿に救われる思いをしました。着伯以来、移住地での過酷な生活を強いられ日本においてもブラジルに置いても充分な教育を受ける機会が少なく完全な日本人でもないし完全なブラジル人でもないと云った中途半端な位置に甘んじていた事に対する御不満、結婚相手を見つける機会が少なく時を過ごしてしまったのは残念であったとの田沢さんのお言葉に胸が痛みました。生きると云う事は何なんだろうと自問してしまいました。それでもお二人と別れてからも現実を見据えて元気の生きておられる姿を思い出しこれで良かった、移住と云う選択を少なくとも否定しておられなかったことに安堵しました。

48年前にあるぜんちな丸第12次航でサルバドールの港で下船、JK移住地に入られた同船者を訪ねてJK移住地を訪問した時は、確か同船者のご家族の所でお世話になったと思うのですが、船内新聞班で手伝って呉れていた龍川一恵さん、いく子さん達の御家族が既にサンパウロに移転されていたので何方の所でお世話になったか思いだせません。移住地の入り口にポルトン(大きな門)があったのを覚えており馬で移住地内のケブラコッコ(椰子を割る)地区を訪問し夕刻の帰路、この門を入ると直ぐ馬が帰り道を思い出し手綱を引いてもスピードを緩めず走り出し振り落とされないようにたてがみにしがみ付いて死ぬ思いをした事だけは覚えてました。
JK移住地に内にあった海協連(海外協会連合会)の事務所があった場所は、さびれたBARに成っており薄暗いみすぼらしい建物でした。当時からあったと云う病院は今でも沢山の患者さんで賑わっていました。近くに当時から使用されていた組合の建物も残っていました。
ポルトン(大きな門)があった所には、日本の日の丸の旗を壁に描いた日本学校で子供たちが勉強をしていました。現在は街から来る乗り合いバスの停留所として道標と共に残っており近くで美味しいパステルを食べさせてくれる店があり石井さんとグアラナを飲みながらパステルを頂きました。
関係写真を掲載して置きます。

マッタ デ サンジョアンの街の入り口。

48年前と変わらないJK移住地の中心地の写真ですがブラジルの田舎行けば見られる土埃が上がる普通の風景ですが昔はもっと違った感じが私の頭の中に残っているのですが。。。最後のタイルを張ったバールが海外協会連合会の支部があった建物とか説明を受けましたが違和感を感じました。病院は50年前からあったそうで今も変わらない役割を果たしているようです。市役所の車が新しく明るい街のシンボルと共に此処にも進歩が届きつつあるのかなと感じました。

昔、移住地の入り口があった場所で夜は締める大きなポルトン(門)があったそうです。今は乗り合いバスの停留所としてJK移住地のとしての指標と農場ホテル、教会の指標等がありました。
この次はもっとゆっくり時間を掛けて50周年記念式典を10月24日(日)に行うと石井さんが云っておられたプレスビテリアナの教会とか移住地内にある成長の家等を訪ねて色々お話を聞かせてもらえれればと願っています。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/20989347.html

(コメント集)
和田さん
クビチェック移住地と言えば、1959年7月、岸総理がブラジルを訪問したときの大統領が同氏でした。
岸さんは滞在中、建設中のブラジリアを訪ねています。
51年前の話ですが、クビチェック移住地は59年以降、できたのでしょうね。
富田

富田 さん
そうでしたね。岸首相は、クビチエック大統領とお会いしているのですね。前世紀から憲法に歌われブラジル地図にも明記されていたブラジリア連邦区を実現させたのはクビチエック大統領です。
JK移住地は、今回お会いした石井さんが50年、田沢あんが48年と云っていましたので59年以後の移住地である事は間違いないですね。コメント有難う御座います。



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