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『海外派遣の先駆者、支倉常長を想う』 横内 正毅
私の学生時代に所属していた早稲田大学海外移住研究会と云う泥臭いサークルには、多士済々日本の高度成長期を支えた戦士たちが数多くいた。海外移住を人生の一つの選択肢として移住を目指しそれを実現、ブラジル始め海外に移住し日本を祖国としながら海外に軸足を置き50年以上海外に住み既に鬼籍に入っている先輩もいる。これら海外組と違い一部は、日本で就職、日本の高度成長期を生き抜いて来た残留組も多い。現在早稲田海外移住研究会OB会は、これらの戦士たちが守って呉れています。訪日時にはこの残留組の皆さんとの交流が一つの楽しみと云える。残留組の戦士の一人横内さんは、YKK入社後一貫して海外勤務が多く海外派遣経験者として海外派遣の先駆者は誰か?との命題と取り組み見付けだした先駆者は支倉常長だったと語る。
横内 正毅さんの支倉常長を想うとの一文を移住研BLOGよりお借りして寄稿集に収録して置きたい。
写真は、東京での移住研連中の集まりの際に撮った記念写真を使用した。筆者の横内さんは右端に写っています。


『海外派遣の先駆者、支倉常長を想う』 
1.支倉常長との出会い                                    
長い海外勤務の間には多くの出会いを経験するが、とりわけ最後の勤務国となったイタリア・ローマでの出会いは衝撃であった。
1988年にミラノに赴任し、初めての夏休みをローマで過ごした。ローマの夏は暑く、炎天下での観光に疲れ、気軽に涼むつもりで入った宮殿の、ひんやりとした入口から大広間に入ると、1枚の絵が目に止まった。 それは、等身大の正装した侍姿の肖像画であった。それが支倉常長との最初の出会いであったが、当時の私には彼についての知識は殆ど無く、宮殿の名前も、何故そこに彼の肖像画があるのかも判らなかった。 しかし、その時の疑問が、その後の探究心をあおる事となった。 
1995年にイタリアより帰国、翌年より、社外活動の一つである日本在外企業協会の機関誌「グローバル経営」編集委員会のメンバーとして、編集に参画する中で、海外派遣員の在り方、教育に関心を持つ様になった。そんな時、ふと海外派遣の先駆者を特定できないだろうか? 若しかすると支倉常長がその人物として相応しいのではないか?、との想いが膨らんだ。

2.支倉常長の足跡
時代考証については、大泉光一、五野井隆史両先生他の歴史書及び、仙台博物館、サンファン・バティスタ博物館の資料を参照させて頂いた。要約すると、
○ 1613年、伊達政宗の命を受けた支倉常長は、石巻の月浦港より欧州に向けて出帆し た。 責任者の彼に、宣教師ルイス・ソテロが全行程に同行。 乗員は支倉常長他伊達藩士12名、幕府船奉行、向井将監の家臣10名、他に商人等、日本人計140名、ソテロ他南蛮人40名、合計180名。 船名はサンファン・バティスタ号、500屯の初の国産超大型帆船であった。
○ メキシコ、キューバ、スペインを経由、スペイン国王臨席のもとで洗礼を受け、2年 後にローマ教皇パウロ5世の謁見を許された。 日本への帰国は7年後の1620年。
○ローマ市は一行を大歓迎し、支倉常長はローマ市民権を与えられ、貴族に列せられた。
○ 私が偶然出会った肖像画は、一行の代表者として描かれたもので、日本人として初めて描かれた肖像画と言われており、現在もボルゲーゼ宮に保管されている。

385年前に、これ程大規模な海外派遣団が組織された事も驚きであるが、彼は帰国後2年弱で病死、その子息も、キリシタン禁制の煽りを受け、斬罪死、支倉家は断絶した(1670年に再興)。 それ以降、遺欧の事実は明治の初め迄、歴史の表舞台から封印された。
                                    
3.先駆者とする根拠
時代も背景も大きく異なるが、その根拠を、敢えて独断と偏見で以下に列挙する。
1) 鎖国時代以前の海外派遣は、天正遺欧使節(1582〜90年)と支倉常長の慶長遺欧使節の2例が史実に残されている。表敬訪問や宗教上の訪問使節と異なる点を重視し、後者が相応しいと判断した。
2) 国の代表でなく、一大名による派遣であり、宣教師の派遣要請のほか、スペインとの通商(ビジネス)を意図していた。
3) スペイン国王、ローマ教皇に会う立場の責任者としては、身分が低く(600石の下級藩士、企業の係長〜課長職相当)、万一失敗した場合の捨石的な役割も担っていた。
4) 主君の密命(?の社命に相当)の実現と言う使命感を胸に、複数の国で長期間滞在した。
5) 彼の立場、苦労が、社命で派遣される現代の海外派遣員にも共通するものがある。

4.支倉常長の評価
渡欧中の7年の間に日本の歴史は激変した。キリシタン布教の理解者であり、協力者であった伊達政宗は、その後徳川幕府の中枢に上り、幕府のキリシタン禁制、弾圧の側に立場を変えた。 こうした時代の波と共に、彼の努力は報われる事無く、悲運の生涯を終えたが、渡欧中に示した誠実な人柄と、使命に対する一途さは、国籍を越え、当時の欧州の王室、貴族、宗教関係者に強い印象を与え、大きな信頼を得た。 それは当時、初めて目にする日本人のイメージを植え付ける上で、計り知れないインパクトを与えたに違いない。

歴史から封印された支倉常長の足跡が、明治新政府が派遣した「岩倉具視使節団(明治4年)」によって見出され、再評価されたのは、近代国家を目指し、海外に目を向けた明治新政府が、200年以上も前に海外に雄飛した支倉常長の足跡を参考にした為と考えられる。

5.21世紀の海外派遣員に示唆するもの
郵便、電信、電話等の通信手段や情報も無い時代、主君の密命実現の為に、未知の国に船出する当時の人々の心情は、死も覚悟した想像を絶するものだったと思われる。
時が過ぎ、企業が本格的に海外進出を始めた1950〜60年代に変わっても、尚情報は乏しく、本国との連絡には大変な時間を要した。 その為、事業の成果は派遣員の資質に頼る事が多く、個人の判断力、決断力が求められる事が多かったであろうと推察される。
現代の有余る情報、瞬時に伝わる情報伝達手段や交通手段の発達により、派遣員に求められる資質は変わっても、企業と企業との信頼関係を築くのは人間同士の信頼である。
語学力、実務能力、交渉力等の資質以前に、人間性の在り方の大切さを示しており、グローバル時代の海外派遣員に示唆するものは少なくない。
                                    
6.後世に残したもの
支倉常長の足跡は、380余年を経て文化交流へと実を結んだ。1971年、石巻市とチビタベッキア市(ローマの外港都市)の間に姉妹都市協定が結ばれ、同市のカラマッタ広場に支倉常長像が建てられた。 同市は又、日本人画家、長谷川路可の描いたフレスコ画の日本人殉教者聖堂がある事でも知られている。 一方、石巻市にはサンファンミュージアムが建てられ、実物大に復元されたサンファン・バティスタ号が係留・展示されている。 又2001年、ローマ県と宮城県も姉妹県協定を結んでいる。
更に2001年、文化庁は支倉常長が欧州から持ち帰った貴重な資料、ローマ市から授与された「公民権証書」、肖像画等を一括して国宝に指定し、現在仙台博物館に展示されている。
380余年前を想い、先駆者、支倉常長の残した足跡に触れるたびに、現代の恵まれた派遣環境の中で仕事が出来る事の幸せを感じる。 足跡探訪を是非お勧めしたい所以でもある。

追記
2001年は「日本におけるイタリア」年として日本各地で催しが開催され、「サンファンミュージアム」でも10月に特別展が開催された。 最終日に同館を訪れたところ、13年前、ローマで出会った『支倉常長の肖像画』が展示されていた。 この特別展の為、ローマ市から借りたもので、明日の終了後、ローマに空輸されるとの事、13年振りの予期せぬ感激の再会となった。


横内 正毅(よこうち まさき)
S40年早大(法)卒 早大海外移住研究会所属
1965年、YKK((株)入社。1968年よりYKK海外現地法人に出向[英国社、フランス社、ギリシャ社、イタリア社(現地法人社長)]、1995年帰国、2003年3月同社定年退職。1996年より日本在外企業協会、月間「グローバル経営」編集委員。1998年同委員長。2003年3月同退任。



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