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麻生 悌三のブラジル不思議発見 (14) ブラジル犬(別名ブラジルマスチーフ)
昨年1月1日より開始した麻生悌三さんのブラジル不思議発見は、臨時発行1件を含めて13回の掲載がありましたが、2011年度の最初の寄稿集収録は、今年も1月1日の麻生さんの寄稿となりました。まだ2-3年は継続出来る話題を集めておられるとの事ですので安心して今年もブラジル不思議発見を楽しめそうです。正月号はブラジルの猛犬のお話です。何時も付録までついており勿体ない気もしますが1回で2件分楽しめることになります。麻生さん今年も宜しくお願いします。
『私たちの40年!!』ホームページも話題が豊富で今回の寄稿で1247件になりますがこれらの話題が一つ一つ検索に引掛かり毎日1000件平均のアクセスが記録されており明日、1月2日には180万回アクセスを記録する事になります。麻生さん初め皆さんの寄稿の御蔭と感謝しています。
写真も麻生さんに送って頂いたものです。


ブラジルにフィーラブラジレイロ(Fila Brasileiro)と呼ばれる、大型犬種ブラジル犬がいる。れっきとした、国際公認犬種であり、日本の土佐犬に顔、体格は、そっくりだが、体格は土佐犬よりも一回り大きい。土佐犬は明治時代に、闘犬好きの土佐で、地元の四国犬(中型日本犬に一種)にブルマスチーフ、グレートデン等を交配させ作出した闘犬である。、フィーラブラジレイロもマスチーフを土台にブルドッグ、ブラッドハウンドを交配し作り出した犬種である。マスチーフは原産地はイギリスだが、元は、イラク辺りで、ライオン狩りや、ライオンと戦わせる闘犬ショウを見せたりしていた大型犬をイギリスで改良した犬らしい。性格は獰猛で闘争心が強く、頑健で番犬、闘犬にはお誂え向きの犬種である。ブラジルにマスチーフ種が入ったのは、1630年頃で、オランダが東北伯を占領した時代に、オランダ人が持ってきたと云われている。その当時、砂糖栽培は隆盛期で、農園と製糖工場の数も300を越えていた。アフリカから奴隷を移入して来たが、労働力不足は益々深刻になった。そうした時代、スペインと敵対していた、オランダが東北伯に侵攻して来た(1580年にスペイン国王がポルトガル国王を兼務し事実上両国は合体している。1646年にポルトガルはスペインより離れ独立している)。1630年にオランダは砂糖栽培の中心地ペルナンブコ州を占領した。1654年に撤退するまで、同地を支配した。ポルトガル人農園主とオランダとの内戦状態で、奴隷の逃亡が続出し、キロンボと云う逃亡奴隷の集落が増加した。ただでさえ、奴隷不足の折に、オランダはブラジル向け奴隷の供給源である、アンゴラを1641年に占領し、供給源を断った。こうした状況下、少しでも、奴隷の逃亡防止、追跡逮捕、監視を強めようと、ブラジル犬を活用した。特に、逃亡奴隷の追跡には、嗅覚が特に優れ、今日でも追跡犬として、アメリカでも活躍している、ブラッドハウウンド種を交配し追跡能力を飛躍させた。この犬種は100時間経過した臭いを、キャッチし、100マイル追跡する能力があり、この能力に、頑健で、闘争心旺盛のマスチフ種に移入したブラジル犬は、奴隷にとって、一大脅威であったに違いない。(ブラッドハウンドは追跡、発見するだけだが、フィーラは追跡し、発見すれば、単独で攻撃する)バンデイランテス探検隊(1580−1670年に南ブラジルで活動)のインジオの奴隷狩りでパラガイ方面から、ガラニー族30万人(推定)を連行し奴隷にした。インジオ狩や黒人奴隷の監視活動で、この犬に夥しい数の奴隷が咬み殺されたに違いない。成犬の大きさは、肩高65−75cm、体重 70kg、、顎の力も強く、骨を噛み砕く。興奮すると、しばしば、制御不能になる欠点も持っており、ブルテリヤ系のピッツブルグとロットワイレル(ドイツの牧羊犬)の3犬種は、ブラジルでは危険犬種に指定され、屋外で歩く際は、口輪と引綱、犬舎は頑丈な檻での飼育等が市条例で決められている。この3種は咬害、襲撃等の事故が他犬種に比べ圧倒的に多いい。ブラジル犬は今日では、農場や牧場の番犬としての評価が高い 放牧の牛の群れの移動、管理にも牧牛犬として使用され、ジャガーの襲撃に対抗できる唯一の犬種である。(皮膚、特に首部分の皮がたるむ為、牙が筋肉に刺さらずダメージが少ない)
写真はブラジル犬フィーラブラジレイロ


付録=キロンボ(Quilombo)と逃亡奴隷捕獲隊(Capitao do Mato)
オランダが東北ブラジルに侵攻した1624−1654年は特に逃亡奴隷が増え、いたる所に、隠れ奴隷の集団地キロンボが作られた。奴隷はアフリカで弱小部落を武装黒人部隊に襲撃させ、捕虜として捕獲した黒人を、アラブ人が多く携わっていた奴隷商人が買って、
港のある、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスの商館に売り、北、中、南アメリカのプランテーションに労働力として売るもので、劣悪な船内の環境から、45−90日間の海上輸送中の死亡者も多く(1/3位は死んだらしい)奴隷貿易の後半期には死亡の対する船荷保険が掛けられた。最初の黒人奴隷導入の1532年から奴隷制廃止の
1888年の356年間にブラジルだけで、約350万人の奴隷を移入した。
当時の奴隷の価格は、ブラジルのサルヴァドール市場で今日の価格にして、一人当たり
1000−2000USドル位の価格だったらしい(奴隷の性別、年齢、体力等個人差により価格は変動する)。高い買い物をして、労働力を確保しても、逃亡されては、元も子もない。アラゴヤス州のパルマスと云う最大のキロンボは、1630−1694年まで存続し
最盛期の逃亡奴隷の人口は2万も数えた。奴隷の逃亡を阻止すると同時に捕獲する専門の
警察部隊(カピトン ド マット)を創設し、任務に当たらせた。(平隊員の多くは黒人の混血人)逮捕した逃亡奴隷の処罰は凄惨を極め、捕獲されそうになると、拷問の恐怖から、自殺が相次いだらしい。この部隊でも奴隷の監視、逃亡奴隷の追跡、捕獲にブラジル犬が大活躍した。パルマスのキロンボの殲滅には、サンパウロで組織された、インジオの奴隷狩り部隊バンデイランテス探検隊が派遣され戦闘を行った。尚、原住民インジオも捕獲し、奴隷として売買されたが、労働力としては黒人に比べて、能力が低く(農耕作業の経験も社会性も無い、体力も弱く罹病しやすい)価格は黒人の1/5、つまり一人当たり200−400USドルぐらいだったらしい。サンパウロの農場の多くはインジオ奴隷を使用し、東北ブラジルの砂糖の農場は黒人奴隷を使用した。バンデイランテスはパラガイのガラニー族(農業経験あり)に着眼ししばしば、ガラニー族部落を襲撃し、捕獲インジオを奴隷としてサンパウロに連行した。奴隷化したインジオの数は総計20万―30万人と見られている。バンデイランテス探検隊は、ガラニー族と敵対するインジオ、ツピー族を兵士として起用し、戦わせた。
(写真は奴隷警察に捕らえられ連行される逃亡黒人奴隷)
2011年1月1日
麻生



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