【似顔絵描き】 神戸1中、岡本春樹先輩の寄稿です。
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私が所属しているHSLN(Happy Senior Life Net)というメーリングリスト(現在メンバー500名前後)のメンバーは多士済々で活発な話題が飛び交っていますが、メンバーの中に私が卒業した神戸高校の前身神戸一中43回生(昭和17年卒業)の大先輩が居られます。最近この大先輩の岡本春樹さんが掲題の【似顔絵描き】を投稿されていました。お願いして『私たちの40年!!』のHPに収録させて頂くことにしました。
岡本さんご自身が書かれた略歴は『一中卒業後熊本の第五高等学校、大阪大学電気工学部を経て三菱電機で電子機器(特に自動車に装備する)の開発生産を担当しました。』との事で退職後は悠々自適、趣味の人として人生を楽しんでおられます。今回は、掲題の書き込みに【春樹の雑記貼】からも一部お借りして一緒に掲載させて頂きました。
写真は、画家として岡本さんの作品をとも思いましたが、神戸港に停泊している豪歌客船を眺める海外への夢を語る若いお二人を配した写真をお借りする事にしました。幸あれと祈りたいですね。
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【似顔絵描き】
皆さん はるき@神戸です
私事で恐縮ですが、絵にかかわるちょっと面白い私の思い出話をご披露します。
地震の後、神戸北野の町おこし運動の一つで、北野ストリート絵画展というのがありました。
新聞で知って私も参加し、出展しました。そしてこの運動の会長だったTさん(フランスレストランのオーナーマダム)と知り合い、以来今も付き合ってます。
そのレストランは元異人館ですが敷地は500坪あり、広い広場がありました。
彼女の依頼で私が企画し「画家の広場」なる催しをしました。
3,4個の大型パラソルを立て、数人のプロ・アマ絵描きが似顔絵を描き、油彩画の展示即売もするというもので、或るシャンソン教室の生徒さんたちの歌やテラスカフェも開きました。
そこそこの成績でしたがやはり店の敷地に入る人は限られますので、もっと人の集まる広場(神戸の看板みたいな風見鶏の館の前の広場)に似顔絵描きの露店?を開いてみようと思い立ちました。
同時に私が描いた神戸と南欧のスケッチをPCで絵葉書にしたものも並べて売ることにしました。
5月と10月頃の観光シーズンの週末、広場の片隅の木陰に店開きしました。
絵葉書は一枚120円で一日50枚前後は売れました。最高は100枚でした。
一方似顔絵はA4位のパステル画なら1000円、水彩は1500円ですが、最低20分くらいの時間がかかるせいか注文は少なかったです。
しかし一人描き始めると人だかりができ、終わりに近ずくと次お願いしますと予約が入ります。
或る時2,3人の予約が入ったので、ちょっとトイレに行ってきますと5分ほど席を外して帰ってくると皆そのまま待っていて、ある人が今絵葉書が売れましたと言って売り上げを渡してくれました。店番してくれたのです。
或る時大阪から来たと言う女性が車椅子の重度障害の子供(といっても20前後の)を描いてくれということで描きました。肌は黒光りして性別も判らなかったのですが、娘なんですと聞き、ちょっとかわいく娘らしく描いたらすごく喜んで大事にしますと言って帰られました。5,6歳の子供を描いてくれと言う人が多いですがジットしてないので描きずらいです。
沖縄から来たと言う米空軍士官と婚約中と言う日本人のガールフレンドを描いたときは二人の頬をぴったり付けて並べて描いてやりました。
東京の英国大使館の従業員と言う若いカップルの白人の美人女性だけ描いたことがありました。青年は色浅黒くインド系みたいですがハンサムでした。20分位はかかるからその辺を回っていらっしゃいと言いましたが、気になるのか5分おき位に帰ってきて様子を見てはチュして行きました。
或る時はタイのどこかの大学教授と言うフランス女性を描きました。そして描き終わると、私の車で町を案内しました。お昼は蕎麦屋で鴨ナンバをご馳走しました。けど一寸お粗末なのでしゃれたカフェでケーキとコーヒをご馳走しました。
又或る時は夕方近く店仕舞いしようとしてたら30くらいの女性がわたしの写真を撮らせてほしいと言ってきました。
大阪のある大学の事務員で三宮まで車で送ってあげ、以来メール交換し月1,2回は神戸に来たのでドライブや食事も何度かしたのですが原因不明の病気になり岐阜の実家に帰ったきり音信不通になりました。
ピアノがうまくよく一人で欧米に旅行するきれいな子でしたが残念です。
周辺では2,3人の同業者!?もいて、神戸の或る水彩画グループの会長と言う人は小さな額に入れた風景画を5千円で一日数枚は売っていました。又メモ位の大きさの紙に鉛筆で5分くらいでカリカチュア化した似顔絵を描いてる青年は300円ですが女子学生に人気で何十枚も描いてました。
初めに話したレストランのマダムはパリに長くいた人で、モンマルトルのテルテル広場みたいに
画家が集まるところにしたいと言っていて私もその片方を担ぎましたが、まだそこまではいってません。
このTsannha 去年東京に支店を出しました。麻布の白金で店名は「パラディ白金」と言います。とても雰囲気の良い店で値段もそう高くはないのでお勧めします。
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岡本春樹 --Haruki OKAMOTO--
hokamo@nifty.com
「南欧スケッチ旅行」
http://homepage2.nifty.com/nannousketch/
「春樹の雑記帖」
http://homepage3.nifty.com/harukinote/
「雑記帖−2」
http://homepage2.nifty.com/zakkityou-2/
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【春樹の雑記貼】よりの抜粋。
★ 神戸空港 (H18年2月19日)
昨年はこの「気まぐれ日記」もすっかり、手抜きしてしまった。色んな事が多過ぎて一人ゴマメの歯軋りしながら、世の行く末を心配してました。
さて、去る16日に開港した神戸空港について、或るMLに投稿した記事をここにも載せて、皆さんのご参考にしたい。
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この空港は、元々国が国際空港として建設したいと神戸市に打診して来たのに、何でも反対の社会党に基盤を置く当時の市長が拒否した為、泉州沖に決まった経緯があります。
そのくせその市長は後になって一生の不覚だったとして神戸にも空港作ることを決めたのです。視野狭く先の見えない旧社会党の弊害の一つです。(今はあまり言われませんが、関空は建設工事に地域の漁業権が絡み1兆円で出来るところが1・5倍も掛かり、地盤の沈下は今も続き、赤字経営です。)
騒音問題で毎年国から対策費百億も出させている伊丹を廃止する前提で関西空港は建設されたのですが、伊丹から関空に国際線が移って寂れて来ると周辺地域からは増便して欲しいなどの声が出て、とにかく国か関西全域を見据えた論議でなく、狭い地域のエゴむき出しの結果が今の3空港時代です。
元々伊丹は住宅密集地域にあり、拡張の余地は全く無く、一旦事故が起きれば大きな災害になります。
都心に近くて便利なようだけど、アクセスに地下鉄も鉄道もなく、バスかタクシーしかありません。駐車場も殆ど無きに等しく、実際は不便です。
3空港合わせて滑走路がやっと3本。関空の増設があっても4本。アジア各地の1空港にやっと対抗できる有様です。できてしまったからにはこれらの連携を上手くとって欲しいものです。
NYにも3空港あります。昔シカゴからNY経由ロンドンに行った時、夕方のラッシュでラ・ガーディアからJFKへの移動は無理とわかり、ヘリコプタ
・サービスの手配をしてもらい、マンハッタンを一跨ぎしたこと思い出します。
まー何十年か先になれば3空港で良かったと言ううことになって欲しいです。
しかし総合的に再検討して2空港にすることも考慮すべきでしょう。これ、勿論私見ですが。
小生宅からは目の前に神戸空港が見えます。離着陸の音も殆ど聞こえません。
海上空港の良さでしょう。
★ 国旗・国歌 (平成16年4月13日)
この頃、イラクで人質になった3人を巡る報道で騒がしい。この3人とその親たちの言動を見ると、良く言って平和愛好の理想家。
悪く言うと無責任で自分勝手な人達。そして根底にあるのは反政府(権力)思想。
テロと同調して自衛隊の撤退など政府に政治的圧力を掛ける。いうなれば反政府の策動家のくせに命が危うくなると政府に救助を求める。なんともみっともない甘ちゃんと思う。
考えてみればこう言う輩がのさばるようになったのも朝日系メディアの影響と思う。
今日たまたま外出先で朝日新聞を見ていたら面白い記事に出会った。ここ数日前から朝日が社説に取り上げた論説。「小、中学校の卒業式での国旗・国歌についての東京都の条例に従わなかった教員の処分を批判した」論説に対し、読売・産経が批判し、更に朝日が応酬するなどしていたが、朝日の読者からも賛否の批判が寄せられたとして記事にしていた。
朝日の言い分は国旗・国歌に反対してはいないが、それを強制することは反対だと言う。これは一寸おかしい。もともと朝日は「日の丸・君が代」に反対の論説を張っていたが、政府はそれに対し、広島での某校長が自殺(日教組系教員と県教育委員会の指示の板ばさみに悩み)してから法的にはっきりさせるために国旗・国歌法を定めた。
しかし学校現場では相変わらず法を無視する教員が多かったので、東京都がやむなく式の詳細(起立して国歌斉唱)を決め、従わない教員は処分すると言う通達を出したが、やはりそれを破った教員がいたので処分したのが実態である。
ところが朝日は今では「元々国旗・国歌に反対していたのではない。それを強制するのがいけない。個人には思想信条の自由がある」と摩り替えて言い出している。この変貌とおかしな主張には開いた口が塞がらない。
個人の思想信条の自由は誰にもある。しかし職場における公務員にもそれが在り、通達に従う必要は無いというのは間違っている。
一般社会の職場を考えても判る。どんな思想信条も制約はされないが、会社の規則や社命にそむけばどうなるか。
ましてや将来の日本を担う純真無垢な子供たちを育成すべき教員が自分のイデオロギーを吹き込み、自ら範を示して反社会的・反国家的教育をするのを擁護するとは。
記事の中で朝日に批判的な投稿をした読者は社会的に成熟した人で皆まともと思えた。一方、朝日に同調する読者は高校生であったり家庭の主婦だった。勿論皆日本人だからその意見を全て拒否しようとは思わないが、私から見るとなんとも青臭い。しかも在米の在るレストラン経営者は「アメリカで国歌を強制されたことなんか一度も無い」と言っているが、一般国民と教員を混同したおかしな意見だ。こんなことも朝日の編集者は解らないのだろうか。
★平和教育 (8月14日記)
明日は終戦(敗戦)記念日、例年のようにマスコミには戦争からみの記事が多い。
その中で今朝の読売新聞の社説は私の思っていることをズバリ書いている。下に貼りつけます。
8月14日付・読売社説
[平和教育]理念と方法の見直しが必要だ
「戦争は恐ろしい」だけで終わらせてはならない。明日は終戦記念日。平和について、一人ひとりが思いをめぐらすべき時である。
平和は、学校教育においても重要なテーマだ。だが、平和教育の形がい化が指摘されて久しい。
日本の平和 にとって今最大の問題は、北朝鮮の核であり、拉致問題だ。それなのに、この問題について深く考えさせる授業は、ほとんどない。
平和教育が、情緒的な反戦意識の形成に主眼を置いてきたことが、その背景にある。平和教育の理念と方法について、抜本的な見直しが必要だ。
日教組は、先の大戦について、東京裁判の判決などに依拠し、日本の「侵略と加害」ばかりを強調する立場をとってきた。また、「資本主義国は好戦的、社会主義陣営は平和勢力」という図式を、戦後、長く固持してきた。
地方自治体の平和博物館などで、日本軍の残虐さを強調するため、事実に反する写真が展示されたこともあった。
平和教育に、歴史や国際状況の認識、子供の感受性への配慮など多くの面で、誤りと偏りがあったことは明らかだ。その現状は、戦後長く続いた「進歩派」主導の平和観と無縁ではない。
見直しの機会は何度かあった。
日教組教育文化政策局が一九九六年に出版した「もうひとつの『平和教育』―反戦平和教育から平和共生教育へ」は、従来の平和教育が、国民の支持を得てこなかったことを認めている。
先の大戦についての考え方は多様であるとの見解も示し、教師が自分の歴史認識を子供に押しつけることを戒めた。
自社連立政権の樹立など、当時の政治状況を反映する提案だった。だが、今、そこに示された平和教育の転換が学校で進んでいるとは、とても言えない。
平和教育で目指すべきは、現在の価値観で歴史を断罪することではない。子供に、戦争の災禍や恐怖を教えるだけでなく、戦争に至るまでの経緯を冷静に分析し、教訓をくみ取る力を培うことだ。
先の大戦に至るアメリカの対日政策などの調査を基に、どの時点でどうすれば日本が戦争を避けられたのかを話し合う授業をしている教師がいる。新たな角度で戦争を考える教材特集を組んだ教育雑誌の発行も予定されている。
沖縄では、残虐な写真によって子供が人間不信に陥る恐れもある、とする平和教育の手引を県教委がまとめた。読書や植物栽培などを組み入れた、総合的な平和教育が広がりつつある。こうした取り組みを大切にしたい。
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これは、私も全く同感だ。「反戦・平和」は誰もが望むことで、所謂進歩派などの独占的主張ではない。ところが朝日などはこれを黄門様の印籠のごとくかざして情緒的に唯々戦前の日本は悪いと云う風潮を作ってきた。読売のこの社説のような冷哲な思考には好感がもてる。
★映画 「たそがれ清兵衛」 (11月6日記)
今日は久し振りに日本映画「たそがれ清兵衛」を見ました。山田洋二監督の作品で久し振りに宮澤りえも見ました。幕末の山形鶴岡藩の侍達の物語で、武士社会の出来事・非情さを巧く描いています。藩と言う公の組織の非情に従わざるを得なかった武士たちの個。とても戦後の人には理解できないようなことがつい1世紀ちょっと昔の日本にはあったのです。豊かな現代社会しか知らない若い人にはどう映るでしょうか。私の父の生家は九州のある都会の街中で、西南戦争で焼かれその後建てたわら葺きの家が前の戦争の空襲で焼けるまで残っていました。敷地は広く建て増した瓦屋根の離れに私は高校時代の2年を過ごしましたが、この映画の武士たちの住まいと雰囲気が何処か似ていました。押さえの効いた渋い大人の映画だと思いました。決闘場面の立ち回りも迫力がありました。(うそ臭いチャンバラではありません)
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