川越 しゅくこさんの【アメリカン青春グラフィティ】 Honey FM 記載記事 (その6−その10)
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川越しゅくこさんの【アメリカン青春グラフィティ】のその8とその9が届きましたので第2部として纏めて収録して置くことにします。スペースの関係もありますのでその10が届けばこの同じ場所に掲載する事にします。
乗せて貰っていた自動車事故で同乗者保健金を貰いそれで自家用車をガソリンポストに並んでいた中古車のピンクのポンティアックを50ドルで購入してガソリンを振りまきながら疾走したそうですから如何にもアメリカらしい話ですね。まさにアメリカン青春グラフィティの真骨頂です。
川越さんは、小説として『ひとりぼっちの楽園』を書かれており読ませて頂いていますが、矢張り小説の方は想定が違っていますが、実生活に基づいて書かれているこの【アメリカン青春グラフィティ】の方が川越さんの青春を語っているように思います。あるぜんちな丸の第13次航でロスに渡られた同船者として1962年と云う年を移民船あるぜんちな丸を介して共有した仲間としての親密感を感じています。
写真は車庫に鎮座する淡いピンクのポンティアックの写真を使わせて頂きます。こんな車が存在しそれを駆使していた川越さんの青春に乾杯したいです。
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アメリカン青春グラフィティ Honey FM 記載記事
その6 「誕生日の課外授業」
「シュクコ、家と大学だけを往復しているだけでは、アメリカを知ったことにならないよ」、ホームステイ先の夫妻はそういって私をどこにでも連れていった。
1962年、あるぜんちな丸で渡米してまもなく、私の20才の誕生日をサンフランシスコで祝ってくれることになった。オリンダという静かな郊外に住んでいたので、車で40分くらい西のサンフランシスコは、私にとってはじめての大都会であった。
夜の高層ビルの谷間に流れる色とりどりのイルミネーションが、行きかう人びとのどの笑顔にも反映し、華やいださんざめきが通りにあふれていた。
私は、ワンピースの裾が夜風に膨らむたびに踊りたくなり、夫妻の3人の子どもたちとじゃれあい、わけもなく笑ったり、はしゃいだりして、ただそれだけで十分に幸福だった。
坂道の真ん中をゆっくり下りてくるケーブルカーから、半身をはみだしている
人たちにも手を振った。肉の焼ける匂いやコーヒーの香りがとても贅沢に思えた。
戦後の貧しい時代を生きてきた私には、この時の幸せ度数は頂点に達していたと思う。
予約してあったチャイニーズ・レストランは格式のある人気店らしく、着飾った客でその周辺も華やいでいる。その時だった。私の目は異様な姿をとらえた。脇の路上に1人の痩せた白人の老婆が首を折るようにして立っていた。黒衣に包まれた身なりは悪くはない。その手にはしっかりとプラカードを掲げている。 そこには太文字で 「 I AM LONESOME. TALK TO ME (私は孤独です。話しかけてください)」 とあった。この言葉に私は動けなくなった。彼女の視線が目の前の私の足もとからゆるりとあがってきて私たちは目が合った。土色の顔は深い皺を刻んで干からびていたが、その灰色の瞳には途方にくれた様子も恥ずかしげもなく、ギョッとするほど人を突っぱねる力があった。公衆の面前で、「だれでもいい、話しかけてください」 などと心をさらけだせる心境とはどんなものなのか。 ストリート・パーフォーマンスを演じているにしては、孤独というカビの生え方がすさまじすぎる。
はじめて目にしたアメリカの厳しい断面だった。
しかし、私の心をもっと強く捉えたこと、それは老婆でもその言葉でもなかった。
ある種の空気である。通り過ぎる人びとのなかに彼女に話しかける人はいない。けれども無関心とか冷ややかというのとはかなり違う、彼女の存在をどこか容認している器の大きい空気感だった。日本ならちょっと避けるようにして通り過ぎるか、遠巻きにひそひそと耳打ちする光景があるかもしれない。その違いが空気のなかに顕著にあった。
それから3年余りのアメリカ生活でこんなプラカードを持つ老人を数回目撃した。そのたびに、表現の自由を受けとめる側の器の大きさを感じた。それまでの私は、感情をもろにさらけ出すのは醜く、はしたない行為です、抑制することこそ美徳です、・・と教わってきた。
帰国して半世紀近くたつ。日本ではあのような老女に一度として出会ったことがない。ご多分にもれず私も死を身近に感じるほどに年を重ねた。あの夜のように、スカートの裾をひらりとさせ、坂道でスキップでもしようものなら、たちまち捻挫か転倒をしているお年頃だ。 ときとして、あの老女のように 「私は孤独です。はなしかけてください」、とプラカードをかざして見たくなることもあった。
しかし幸いにして、日本は孤独の厳しさ度がまだゆるい社会。1人で海外に行って帰ってきた時など、近所の鍋の触れあう音にホッとする。「あ、うん」で通じる村的環境がまだ残っている。
甘えて、もたれあって生きていくのも悪くない。でも、ときどきあの老女のように、自分自身をいさぎよくさらけ出せる息のしやすい社会、そして、そんな他者の表現をも大きな器で受け入れることのできる社会に、いとおしい思いを馳せることもある。
アメリカン青春グラフィティ Honey FM 記載記事
その7 「忘れられた足」
1962年8月、神戸港を発った「あるぜんちな丸」は、太平洋を横断し、2週間後にカルフォルニアのロスアンゼルスに着いた。今は2週間の船旅なんてあっと言う間だと思うかもしれないが、当時20歳だった私には、その旅はえらく長い日々に思えた。当時、留学とか海外旅行がまだ珍しく、私もご多分にもれず、アメリカは遠い遠い異国だった。最終寄港地のブラジル・サントスまで乗って行く移住者たちに別れてタラップを降りた時は不安でいっぱいになった。拉致されたような気持ちでホスト・ファミリーの迎えの車に乗せられサンフランシスコ郊外へと北上した。
しかし、若いということはなんと不思議で素晴らしいことだろう。私は新しい環境を恐ろしいスピードで吸収していった。半年くらい過ぎる頃にはアメリカはもう私の体の一部になっていた。ハンバーガーやホットドックが大好きな、週末には友人たちとツイストやゴーゴーを踊る普通の若者と変身していた。キャンパスでは、当時珍しかった日本人留学生に対して、教授たちはなにかと気にかけてくれた。そのおかげで、授業に行くのも楽しみだった。
ホームステイ先の住宅地域にはバスも電車も走っていなかった。けれども、ホスト・ファミリーの父親は私の通う大学で教えていたので、毎朝一緒に通学できる。学生たちは私の知る限り親から払い下げてもらった車で通学している。どんなに親が裕福でも彼らは自分の車の出費は自分のアルバイトでまかなうという精神に徹していたので、貧乏留学生である私が車を持たないのは当然であった。必要があれば誰かに便乗させてもらうか、たいていは頼まなくても誰かが手配をしてくれている。そんな至れり尽くせりの毎日なのに、生活に慣れるに従って私はなぜか満たされないものを感じはじめていた。車を持っていないというのが理由ではなかった。日本にいた時、当然のように受けていた自由― 気のむくまま、好きな時に、遠くなくてもいいから自分の足でふらりと出かけられる、―そんな自由がなかったのだ。
その日、クラスがなにかの理由で休みになり、私は友人の車に乗せてもらい、一足先に帰ってきた。家にはだれもいない。いつものように幸せな気分だったが、心の中にどこかシンとした静けさがあった。みんなが帰宅するまでに数時間はある。ふとよく連れていってもらう、車で10分くらいのショッピングセンターまで歩きたい衝動にかられた。それくらいの自由は許されてもいいだろう。私の忘れられていた足は、まるで意志を持ったかのようによみがえった。カリフォルニアの空は高く澄み、車のほとんど走っていない広い道路には解放感がある。道路沿いの並木の下を歩きながら足裏に土を踏みしめ、乾いた風の匂いを胸いっぱい吸った時、原始的ともいえる喜びに満たされた。20分近く歩いたであろうか。木立に囲まれたショッピングセンターはまだ現われない。立ち止まって辺りを見回すと、半分くらいしかきていないことに気付いた。途方に暮れた時、一台の車がいつのまにか横に停まっていた。パトカーだった。「ここは車専用の道路です。人は歩けませんよ。どこにいくつもりですか?」窓が開いて、サングラスをかけた巨漢のポリスが顔を出した。私は一瞬キョトンとして、なーんだ、この国にはこんな小さな自由さえないのか、とがっかりしたのを覚えている。「日本からきたばかりで、知らなくてごめんなさい」若者のしたたかさと言おうか、私は無意識にわざとらしい片言で話していた。「家まで送って行きましょう」 ポリスが出てきて、親しげに笑いながらドアを開けてくれた。留学生に対して寛容な時代だったせいか、カリフォルニアという土地柄のせいか、親切に送り届けてくれた。その夜、私はこのハプニングをホスト・ファミリーと面白がって話していたことを思い出す。その時、彼らがどう感じたかなど推し量ることもせずに。余談になるが、帰国してからオーストラリアからの娘さんをステイさせた。彼女が三田から大阪まで1人で遊びに行きたいと言った時、私は彼女が帰ってくるまで気がきではなかったのだ。預かる方の立場はこんなにも違う。ここにホームステイの難しさがある。
私はおとなしく勉強ばかりしていればよかったのかもしれない。が、そうはできなかった。忘れられていた私の足が叫び声をあげはじめた。
その後まもなく、私はひょんなことから車を手に入れることになる。そして、とりあえずは、鳥かごから飛び立ち、念願の自由を満悦することになるのだが。 (つづく)
No. 8 「あるぜんちな丸を下船して、その後・・・。 忘れられた足 (2)」
川越しゅくこ
1962年夏、あるぜんちな丸に乗船し太平洋を横断。2週間後ロスアンゼルスで下船し、そのままブラジルへ移住していく乗船客たちと別れた。あのときの心細さはいまでも覚えている。落ち着く先はサンフランシスコから車で東へ4-50km離れた郊外。バスも電車も走っていない。好きな時間にふらりと出かける自由はなかったけれど、ホストファミリーや大学に慣れるのに必要な時期だったかもしれない。
しかし1年がたった頃、忘れられていた私の足は自己主張をし始めた。
あれは大学主催のダンスパーティの夜だった。友人に車で送ってもらっていた帰り道、後続の酔っ払い運転に追突された。車は近くのフェンスに激突し、運転していた彼はフロントガラスの破片を浴びて救急車で運ばれた。助手席の私は自分の足もとに投げ倒されて単純な打撲症。当時はシートベルトの装着を義務づけてはいなかった。思いがけず彼の入っていた保険会社からかなりの保険金が私に支払われた。そのお金をどう使うか。 迷うことなく私は車を買うことに決めた。
思えばホスト・ファミリーのビル夫妻はまだ30代半ばで兄、姉的な存在。私のドキドキ、わくわく感の話にいつも気楽に乗ってくれていた。ある意味、無防備で無責任だったかもしれない。しかし、それこそ若さの持つエネルギー源ではなかったろうか
私たちはさっそく最寄りのガソリンスタンドに向かった。並ぶ中古車の中にそのポンティアックが私を待っていた。車体は淡いピンク。白い屋根。
「こんなの、ぼくなら買わない。ガソリンは食うし、きっと故障ばかりだよ」とビルは言った。そのやりとりを聞いていたガソリンスタンドのお兄さんは、自動ボタンを押して屋根がゆっくり開いて畳まれていくのを私に見せ、「君は留学生だから$50でいいよ」と言った。当時の円に換算して約1.8万円。これで話は決まった。
ビル夫妻が家の前で運転の仕方を教えてくれた。その日の空はとりわけ青く朗らかだったと記憶している。「カリフォリニア州では仮免許が15才から取れる。16才の事故が一番多いが、君はもう21。立派な大人。やりたい事はやってみれば」
私は1時間もしないうちに運転の仕方を習得。それから、公民館のような古い試験場に行き、視力テストと筆記試験を受け、15分くらいで結果が分かった。その肝心な部分については記憶にない。というのも、1960年代のアメリカで車の免許を取ることはたいしたことではなかったからである。かくして私の足はよみがえった。
ある日、屋根を全開にして夫妻の2人の息子を乗せ、小さな入江に遊びに行った。岩に囲まれた光の中に子どもたちは歓声をあげ水しぶきをあげている。私は砂浜に体を投げだし目を閉じた。机から解放された無為な幸せな時間。瞼の中に光のかけらがキラキラする。その時、一瞬の影のようなものが頭をよぎった。私はいったい今なにをしているんだろう。私の足はいま自由になったというのに、読書や論文提出が立ちはだかっている。とりあえず私はその影を追いはらい、束の間のやすらぎに身をゆだねた。
No. 9 「あるぜんちな丸を下船して、その後・・・忘れられた足(3)」
川越しゅくこ
ピンクのポンティアックは、カリフォルニアの青い空の下を快調に走っていた。屋根を全開にしホームステイ先の子どもたちを乗せて近くの入江にはよく遊びに行った。途中、私の赤いスカーフが風に吹き飛ばされたりすると子どもたちの喚声が弾けた。アメリカにきて1年、私は足と自由を手に入れた。それにつれてアルバイトは面白いほど増えていく。ベビーシッター。ウエイトレス。簡単な翻訳や通訳。小学校や公民館での日本の紹介など。どれも喜び勇んで出かけて行った。その上、留学生むけの返済不要の奨学金は厳しい審査にもかかわらずたいてい授与されて財布はうるおった。1962年といえば、敗戦国の日本からきた学生に対してある種の好意的な感情が、とくに大学の教授連の中にはまだ静かに存在していた。キャンパスでたった1人の日本人であった私がその恩恵を受けたのは偶然とはいえ感謝である。
さて、最初は貴婦人のように澄ましていた愛車は、1年もたたないうちにホスト・ファミリーのビルが言ったとおりそのご老体ぶりを露呈しはじめた。ワイパーが折れて飛ぶ。バッテリーはあがる。ガソリンは垂れ流し、等々。その修理のためにアルバイトに励んでいたような毎日。一方大学では必須科目が多くなるにつれ、アメリカの学生と同じように読書量、論文提出が沢山課せられた。時間が足りない。クラスにいくのが辛い。英単語の群れは追いかけても追いかけても冷たい顔をして逃げて行く。
置き去りにされた私は途方にくれることが多くなった。
新たな学期が始まってキャンパスに戻ると、仲間の顔がいくつか欠けていた。成績の悪い者は強制送還されていたのである。茫然とした。私はみんなと一緒にずっと愉快な留学生活を続けるものだと脳天気に思いこんでいたのだ。
はじめて目前に立ちはだかったアメリカ社会の容赦なさだった。
ある日、運転中に突然車の下でアルミ製のバケツを引きずっているような音がした。車は自然に減速し、床がガタンガタンとなんどか揺れて路肩に停まった。その間の抜けた音が陽気な老婆の咳払いに聞こえて、腹の底から可笑しさがこみあげてきた。心ゆくまで笑うと気がすんだ。そしてようやく目がさめた。
廃車になったときはちょっと胸がつまった。アルバイトに夢中にさせてくれた私の足、老ポンティアックとの付き合いはこれで終わった。
当然のことだが1日は24時間しかない。どだい、私のような凡人には勉学と仕事の両立は無理な話であった。その後、大学の方で、私のためにボランティアの家庭教師をつけてくれた。当時の人気男優、トロイ・ドナヒューばりなハンサムな学生だった。けれどもそんなことで「気が散る」なんて、もう寝言を言ってる場合ではない。
ビルの車に同乗しておとなしく通学する毎日に戻った。そして、やはりホッとした。
No.10 「はじめての短編小説」
川越しゅくこ
夏休みのアルバイトが終わってキャンパスにもどると、驚く事実が待っていた。成績の悪い留学生がなんにんも本国へ強制送還されていた。いつも一緒にいた仲間である。この事実は私を震えあがらせた。私は大慌てで机の前に座わり、本来あるべき姿の留学生にもどった。ページを開くと知らない語群がたくさんでてきて、冷たい顔で敵対するように立ちはだかった。とくに心理学の授業は難解だった。たくさんの文献を読まなければならない。論文の提出がひかえているというのに手がつけられない。広い階段教室は有名大学に編入する学生たちで埋まっていて、居眠りなどしている者は一人もいない。講義はさっぱり理解できないままどんどん進んでいく。我慢して座っていると足もとから何かの生き物が体をかじるようにして這いあがってくる。そんな気持ちに見舞われ、大声をあげそうになり教室からこっそり逃げ出す有様だった。私は病んでいた。ボランティアで家庭教師をしてくれた青年も、私の論文をどうしたものかと頭をかかえたに違いない。「自分の言葉でなにか書いてみたら?」。ふとなにげなくつぶやいた彼の一言が、その時の私の心の中にストンと納まった。同時に一人の少年の姿ひが浮かび上がった。
少年の母親は離婚して働いていたので、その夏の間中、小6の一人息子と一緒にいてやってほしいという住み込みのアルバイトだ。少年はほとんどしゃべらなかった。かといって私を避けているわけでもない。朝食に作ってくれる少年のパンケーキはとりわけ美味しかった。そのとき以外、日中まったく無口だった。雑木林に囲まれた屋敷は森閑としていた。そこに母親の再婚相手が出入りしはじめた。突然現れた母の恋人に少年が複雑な感情をいだいたとしても不思議ではない。毎朝母親が出勤すると少年は黙って庭にサンダル履きで出て行く。それから日課のようにもくもくと庭の虫に殺虫剤をふりかける。夏休みなのに友だち一人として遊びにくるわけでもない。近所からの物音一つしない。草いきれだけが息苦しいほど庭に充満していた。少年の念入りな作業ははじめは奇異に見えたが、そのうち彼の太った丸い背中がやり場しょのない気持ちをじっとこらえていることに気づいた。夏が終わったが少年の心模様は私のどこかにひっかかったままだった。
キャンパスに戻った私は現実に戸惑いは、将来の自分の居場所にも見通しがつかつなかった。心理学の論文のかわりにその少年の心の動きを小説仕立てで書こうと決めたのは、その時の私の気持ちと少年の気持ちが呼応したのかもしれない。驚いたことに、いったん書き始めると、自分の脳のどこか違うところのスイッチが入った。まるで突破口が見つかったようになんにちもタイプライターを叩き続けた。知らない単語を夢中で調べた。その時、あれほど冷たかった英語の群れは、きさくな友人たちように私のまわりにいる。気づくと窓外に夜が白んでいた。まもなく聞こえる小鳥のさえずり。私は新しい力の生まれるのを感じていた。書きあげた論文(?)の表紙には母子が向き合って座っている土偶の写真を雑誌から破って貼り付けた。少年の心の葛藤を綴ったつもりだった。教授の部屋のドアをあけた瞬間のことはよく覚えている。私は自信満々で誇らしげな笑顔を隠せなかた。彼は気さくにそれを受け取ってくれた。1カ月ほどしていくばくかのうしろめたさを覚え始めたころそれが戻ってきた。表紙の上端に走り書きしたGood try ! という字が目に飛び込んできた。最後のページには及第点のCがついている。「こんなもの論ではありません」、と落第点をもらったとしてもおかしくない。しかし、アメリカはチャンスを惜しげもなく与えてくれた。できないことでもできるという可能性を信じさせてくれた。人を生かすも殺すも、ちょっとした発想の違いかもしれない。
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