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【メルハバ通信】 新実 誠さんのHPより
アルゼンチンのガララペス移住地に入られた同船者、薩見幸太郎さんと懇意にしておられたと云う現在トルコのイスタンブールにお住みの新実 誠さんが『私たちの40年!!』メーリングに参加されたのを機に同氏のHPよりメルハバ(トルコ語でこんにちはを意味するそうです)通信という私には遠い世界のお話をメーリングリストで紹介させて頂きましたが本文を寄稿集にも収録して置くことにしました。新実さんの自己紹介文を下記して置きます。
1960年、東京の生まれ。現在、トルコはイスタンブールに滞在中。トルコでの滞在期間は、2003年12月の時点で、通算8年となりました。海外には、この他韓国で1年半暮らしたことがあるだけという「井の中の蛙」です。
写真は、イスタンブールの知人宅で御馳走になっている時のもの。食卓には、ヤプラックドルマスという葡萄の葉でピラフを巻いたもの、ヨーグルト、サラダといった家庭料理が並んでいます。
イスタンブールでは、こういう卓袱台を使った食事風景もなかなか見られなくなりましたが、トルコも伝統的には、このスタイルであり、絨毯の必要性もこういったところから生じたのではないかと思います。ところが、西欧化が進められる中で、テーブルを使って椅子に座るスタイルが都市部では主流となりつつあるようです。


誤解されるトルコ
 イスタンブールで貧乏旅行している日本の青年に、「トルコ風呂ってどこにあるんですか?」と訊かれたので、つい、「吉原にあります」なんて最低な冗談を言ってしまったら、きょとんとした顔をされてしまった。彼は、ハマムと云われる蒸し風呂の所在を知りたかったのだろう。年を訊いてみると、23歳。トルコ風呂が「ソープランド」と改名されたのは、16〜7年前のことだから、もう今の若い人達はトルコ風呂で妙なものを連想したりはしないのかも知れない。逆に私たちの世代になると、「ソープランド」なんて言ったのではイマイチ淫靡な感じが湧いて来ないのである。
 もちろんトルコに、日本のソープランドのようなものはない。なんであれを「トルコ風呂」などというようになったのか判らないが随分ひどい誤解と言える。トルコは、戒律の厳しいイスラム教の国、そんなものがあるわけはないのだ。しかし、こう言ってしまうとこれがまた誤解のもと。そう思って来た人はトルコに公娼が存在するのを見て驚くことになる。
 考えてみると、トルコほど様々に違った形で誤解されている国はめずらしいのではないか。まずは、イスラム教についての誤解があって、4人まで妻が娶れるとか、女性は外出ともなると黒いベールで顔も隠さなければならず、奴婢のように虐げられているなんて思われたりする。確かに、イスラム教では4人まで妻帯が認められていて、一部のイスラム教国を見れば、社会の中で女性の地位がかなり低いのは事実。しかし、イランのようにイスラム法を適用している国でも、2人以上の妻帯には第一夫人の許可が必要となり、周囲からは白い目で見られるとのこと。これなら、勝手に2号を囲える日本よりはましかも知れない。
 この辺りの事情もトルコでは、また大分違って来る。1923年に世俗主義を国是とする現在のトルコ共和国が成立して以来、西欧化政策により、女性の顔を覆うベールや一夫多妻の禁止など一連の改革が行なわれた。現在、ベールどころか髪の毛を覆うだけのスカーフにも種々の規制が加えられていて、例えば、女性が頭にスカーフを被ったまま国会に入場することはできない。また、日本に先駆けて1934年には早くも婦人参政権が認められている。トルコのマスコミで、一部に未だ残っている一夫多妻の風習や妻に暴力を加える男達のこと(未だに部族社会が残っている東部地方に顕著)が話題になったりはしているが、全般的に女性の地位はかなり高いと見ていいだろう。
 国民の98%がムスリム(イスラム教徒)であるトルコだが、1928年にイスラム教は国教の地位を失い、政教分離が進められた。しかしこれには、未だに宗教庁というものがあって、イスラム教の活動を国が管理していること等、矛盾した点がないわけではない。
 トルコの場合、イスラムに対する信仰の度合いは地域によってもかなり差がある。アナトリア(トルコ共和国でアジア側の部分)の東部、中でも黒海沿岸地方であるとかクルド系やアラブ系住民の多い南東部、西部でもアダパザル県一帯などは特に信仰が盛んな地域と言えるだろう。反対にアナトリア西部のエーゲ海沿岸地方やトラキア(ヨーロッパ側)では、イスラムの雰囲気を全く感じさせないような所もあって、両者の違いは甚だしいものになっている。
 また、ムスリムではないユダヤ教徒やクリスチャンのトルコ国民も少数ながら存在。ユダヤ人は、1492年にスペインを追放されオスマン・トルコ帝国へ逃れた人達の子孫等で、トルコを代表するファッション・ブランド「ヴァッコ」のビタリ・ハッコ氏や大企業「アラルコ」の会長で政治的発言も多いイスハック・アラトン氏のようにトルコの社会で指導的な立場にある人もいる。クリスチャンは、ギリシャ正教徒、アルメニア正教徒、シリア正教徒等であり、オスマン朝の末期に至るまでトルコの各地域に暮らしていたそうだ。現在は、スリヤーニと呼ばれるシリア正教徒がアナトリア南東部に未だかなり残っているものの、他の殆どはイスタンブールに住んでいる。
 ユダヤ人と同様に、各界で活躍するクリスチャンのトルコ国民も少なくない。しかし、非ムスリムであることが必ずしも話題になっているわけではないようだ。トト・カラジャという著名な女流演劇人の訃報がテレビのニュースで伝えられた時、一緒にいたムスリム・トルコ人の学生は、「とても残念」と言った後で、アナウンサーが続けて「カラジャ氏の葬儀は、某アルメニア教会で執り行われました」と伝えるのを聞いて、「あっ、アルメニア人だったのか」と驚きを隠さなかった。
 さて、ムスリムのトルコ国民、いわゆるトルコ人だが、単一民族とは云い難い彼らの民族構成は極めて複雑で一口に「トルコ人とはこういう人達である」と言うわけにもいかない。
 最近は日本でもトルコにおけるクルド人の問題などが報道されていて、「クルド人というのは、日本で云う在日コリアンのような差別を受けているのですか」と訊かれたこともある。しかし、日本では、コリアンや日本人がどういう民族であるかはっきりしているものの、トルコでは、これがそう簡単に行かないのである。トルコは、このクルド人問題でも大分誤解されているように思えてならない。
 トルコ民族のややこしさについては、またあとで触れることにして、ここでは、90年代にトルコ共和国で外相や国会議長を歴任したクルド人ヒクメット・チェティン氏の言葉を紹介しておくことにする。
「ある社会の中で差別があるかどうかは、家の賃貸と婚姻が行なわれる時点で明らかになります。クルド人に関しては、いずれの場合もトルコの社会で問題となることはありません」(在日コリアンに関しては、いずれの場合も日本の社会で問題となっている)

「トルコ人と言える者は幸せである」
 94年、イスタンブールに居た頃、現地の一般紙で、こんな記事を読んだことがある。
「20世紀になって新たに民族を作り上げようとした国がある。アメリカ、ソビエト、そしてトルコである。しかし、巧くいったのはアメリカだけで、ソビエトは既に崩壊、トルコもその過程にある」
 トルコというのは中央アジアを起源とする民族の名であり、それを考えるならば、アメリカやソビエトと並べて扱うこと自体、少し無理のような気もするが、ここではトルコ民族という概念も新しく作られたものと見なされていたようだ。
 確かに、現在のトルコ共和国におけるトルコ民族には、何か人工的なものを感じさせるところがある。
 トルコ共和国の初代大統領ムスタファ・ケマルは、トルコ語で「父なるトルコ人」を意味するアタトュルクの尊称により、民族統合の象徴的存在として半ば神格化された。現在でも至る所に肖像画が掲げられ、その下には「トルコ人と言える者は幸せである」という彼の言葉が記してあったりする。しかし、その雰囲気は、トルコ人に対して民族意識を覚醒させる為というより、他の民族に向かってトルコ民族への同化統合を要求しているような感じだ。
 1923年に、世俗主義・トルコ民族主義を柱とするトルコ共和国が成立する以前、イスラム教を統治原理とする多民族国家であったオスマン帝国の時代には、ムスリム(イスラム教徒)であるのか、キリスト教徒やユダヤ教徒のような異教徒であるのかが意識されることはあっても、民族としてトルコ人であるとか、クルド人であるということが自覚されることはなかったと言われている。
 それが、共和国の誕生と共に、異なる民族の人達もムスリム(イスラム教徒)である限りは等しく中央アジアを起源とするトルコ民族ということなってしまった。アルバニア人の移民も、元々はその地がオスマン帝国の領土であった時に移り住んだトルコ人の子孫であり、クルド人に至っては山の中で暮らしていたためにトルコ語を忘れてしまった山岳トルコ人ということにされてしまったのだ。
 また、中央アジアにいる元来のトルコ系民族の多くが日本人や中国人のような風貌で、西洋風なトルコ共和国のトルコ人と外見上異なることについては気候の変化によるものであると説明された。とはいえ、こんなことを信じた人がどれほどいるのだろう。
 あるトルコ人の友人は、「トルコ民族の歴史は共和国の誕生を紀元として始まったのであり、それ以前の各々のルーツは一切関係ない」と説明していた。彼はアタトュルクを賛美し、「トルコ人と言える者は幸せである」を正に地で行くような青年。ところが、彼自身のルーツはコーカサス地方を父祖の地とするチェルケズ人であり、ヨルダンに多いチェルケズ人の住民にも少なからず親近感を抱いているようだった。彼にとってトルコ人でありながらチェルケズ人であるということは、あるニューヨーク市民が自分をアメリカ人と考え且つイタリア人と意識しているのと同じようなものだったのだろう。しかし、アメリカでは未だにアングロ・サクソンが中心的な民族となっているのに比べ、トルコでは特定のルーツを持つ人達が支配層を形成しているようなことはない。
 「アタトュルクはアルバニア人だった」と自慢気に言うアタトュルクの賛美者もいた。アタトュルクと共に共和国革命の立役者であった第2代大統領のイスメット・イノニュがクルド人であることを認めるトルコ人も少なくない。つまり、「トルコ人と言える者は幸せである」と言えば、その人はトルコ人であるということなのだ。
 94年、クルド人の住民が大半を占めるアナトリア南東部を旅行した際、街路に掲げられた横断幕を見ていると、中学生ぐらいの男の子が寄って来て、「何と書いてあるか読めるか?」と言う。「トルコ人と言える者は幸せである」と読み上げたら、ダメダメというように手を振り「クルド人と言える者は幸せである」と言い、ケタケタ笑いながら立ち去った。
 イスタンブール在住の熱心なムスリムである南東部出身の知人にこの話をしたところ、
「あの辺にトルコ人なんていやしませんよ。私も勿論クルド人です。本当は、ムスリムと言える者は幸せである、と言うべきなんだと思います」
「そうなると、今度はクリスチャンやユダヤ人の国民が困るのではありませんか?」
「だからといって彼らがテロリストになるってことはないでしょう。この方が害は少ないはずです」
 結局、近年になって、自己の民族意識に目覚めたクルド人等が、母語による教育や公共放送のような民族的権利を要求し始めたことにより、トルコ民族という作られた概念は今その見直しを迫られていると冒頭の記事では言いたかったのかも知れない。

脱中東入欧
 「ディスカバリーワールド」というテレビ番組。多分アメリカで製作されたものだと思うが、トルコでもトルコ語の吹き替えで放送されている。この前、トルコの友人達とテレビを見ていると、ちょうど、この「ディスカバリーワールド」が日本の仏教について紹介していた。
 日本のどこか禅寺みたいな所を取材しているのだが、奇怪な難行苦行に精出す僧侶の姿を見れば、何やら新興宗教のような感じがしないでもない。友人達が、「仏教って云うのも凄いもんだな」と冷やかすので、「これは何か特殊な教団で、通常こんなことはしない」とムキになって説明したら余計笑われてしまった。
 しかし、この一件により、「海外のマスコミはトルコやイスラム教の実状を正しく伝えていない」と不満をもらすトルコの人達の気持ちが良く解った次第だ。
 多くのトルコ人は、海外でトルコがアラビアやイランと一緒に扱われるのをとても嫌がる。トルコには4人妻も黒いベールで顔を覆った女性もいないことを強調して止まない。それで、女性が頭にスカーフを被っているだけでも「近代的なトルコに相応しからぬ風俗」として非難したりするのである。
 トルコ共和国は正に「脱中東入欧」を目指したわけで、1928年には文字革命が断行され、トルコ語の表記はそれまでのアラビア文字からローマ字へ改められた。それと同時に、トルコ語からアラビア語起源の単語を減らして行く運動も始められたのだが、依然としてトルコ語にはかなりのアラビア語が含まれている。
 面白いのは政府が中心となってアラビア語駆逐運動を行なったわりには、公的な法律用語等にアラビア語が氾濫していること。日本語で漢語を使うと固い表現になるのと同じように、オトゥルヨル(住んでいる)と純然たるトルコ語で言うより、イカーメットなるアラビア語を使って、イカーメットエディヨル(居住している)とした方が公的な雰囲気になるのだと思う。しかし、これを頑として否定するトルコ人もいて、「アラビア語の単語を使ってもニュアンスは全く変わらないから同義のトルコ語があればアラビア語は廃棄すべし」と主張していた。
 当然、そういう人達にとって、かつてトルコがアラビア文化の恩恵に浴したなんて云うことは絶対に有り得ない。一応はムスリムであるにも拘わらずイスラムを嫌悪し、その影響さえ認めようとしない人達もいる。「トルコ人には中央アジアから維持して来た固有の文化習俗があり、イスラム文化の否定はトルコの文化に何の影響も与えない」と言い切った人もいた。その人自身はクルド系のザザ人で、偏狭な民族意識からそう言ったのではなく、トルコの近代化を熱望するあまりのことだと思われる。しかし、そうすると、近代化に乗り遅れたイスラムの問題を自分たちの問題として考えてはいないということなのだろうか。
 もちろんトルコでも、イスラム主義者に限らず、こうした脱イスラム志向に疑問を呈する人は少なくない。例えば、エティエン・マフチュプヤンというジャーナリスト。この人は名前からも明らかなようにアルメニア人なのだが、イスラム系ザマン紙のインタビューに答えて次のように語っていた。
「私の自己を構成している文化的蓄積の中には、もちろんアルメニアの要素があります。また、それほど信心深くはありませんがキリスト教の要素もあります。さらに、ムスリムでは全くありませんが、間違いなくイスラムの要素もあるのです」

エピソード〜93年、トルコ、旅は道連れ
 「向こうへ直進して行くバスは皆イスタンブール行きのはずだから、手を振って見てください。席があればひろってくれますよ」と車掌に言われて、真夜中に辺鄙な所でバスを降ろされた。夏休みが始まってごった返す黒海地方のシノップから、急用でイスタンブールへ戻ろうとした時のことである。
 「直行バスの席は取れないが乗り継ぎで何とか行けるでしょう」という話が、こういうことであるとは知らなかった。それはないだろうと思ったがすでに遅い、乗ってきたバスは直ぐにイズミルへ向かって走り去ってしまった。気を落ち着けて辺りをうかがって見ると、夜中だというのにイスタンブールの方へ向かう車線は結構な交通量である。少し先には、4〜5階建てビルが数棟立ち並んでいて、階下では飲食店のようなものがまだ商売をしているようだ。これにひとまず胸をなでおろして、バスが来るたびに一生懸命になって手を振り始めた。ほんの10分ぐらいの間に何台も来たが、どのバスも減速する気配さえ見せない。手を振る元気もなくなりかけた頃、中年の男が近づいて来た。
 「どうです。イスタンブールへ行くバスは来ますかね」と当然のことながらトルコ語である。「さあ、バスが来ることは来るんですが、全く止まってくれそうもないですよ」と答える私の下手なトルコ語を、彼は気にする様子もない。「よし、それなら二人で頑張って見ましょう」と私に協力を求め、バスが来るたびに脱いだジャケットを振り回して奮闘し始めた。しかしバスは止まってくれない。彼は過ぎ去って行くバスに何やら罵りの言葉を浴びせていたが、顔は笑っている。そして、私の方を振り返ると、一緒に罵れというように合図をする。少し前までの憂鬱な気分はどこかに行ってしまって、何か快活な空気がみなぎってきた。そのうちに、もう二人、やはり中年の男がやって来て戦列に加わった。いよいよ盛り上ってきたのだが、肝心のバスのほうは、パッタリ来なくなってしまった。
 先に来た方の男が、諦めてホテルを捜すと言って、その場を離れた直ぐ後、ドルムシュと呼ばれる10人乗りぐらいの大型乗合タクシーが目の前に止まった。「イスタンブールへ行く人はどうぞ。格安でお送りしますよ」と助手席に座っている男が言う。中年の二人連れは私の方を見やりながら「もう一人はどうしたんだ。呼んであげたほうが良いんじゃないか」と言った後で、助手席の男に「ちょっと待ってくれ。さっきまでもう一人いたんだ」と頼んでいた。見れば、彼はまだほんの数10メートル先を歩いている。私は小走りに走りながら、トルコ語で何と呼びかけていいのか分からず、「車が来たよー、イスタンブール行くよー」と叫んだ。彼はすぐ気がついてくれた。走って戻って来ると、まず私に、大きな声で「ありがとう」と言って満面に笑みを浮かべた。二人連れも、私のトルコ語がおかしかったんだか、慌てぶりが滑稽だったのか、とても愉快そうだ。車に乗り込む時には、「ご苦労さん」とでも言うように私の肩をポンポンと叩いた。
 乗合には二人先客がいたが、どうやらタクシーとして営業している車ではなく、アンカラの自動車工場からイスタンブールへ回送する新車のようである。シートにはまだビニールが張ってあった。回送要員の二人が小遣い稼ぎに客をひろっているのだろう、本当に格安だった。彼らにしてみれば、稼ぎはもちろんのこと、旅路が賑やかになるのも結構なことだったのかも知れない。
 一息つくと、挨拶もそこそこに、今一緒に乗り込んだ連中同士、お互い何で夜も夜中にあんな所でバスを待つ羽目になったのかを説明し始めた。皆だいたい私と同じような状況だったようで、盛んにバスの便数の少ないことやバス会社の応対のまずさを非難していた。「君はどこからですか」と危うく乗り損ねるところだった男が私に訊く。「シノップからです」。彼は大袈裟に驚いたように手を広げて「シノップからも席が取れないなんてどういうことだろう。今時シノップへ行く人がそんなに多いとは知らなかった。シノップがそんなに良い所ですかね」。私が何か言おうとする前に、先客の内の一人が「なかなか良い所ですよ」とひとくさりシノップについて説明してくれた。もう2時をまわったというのに一眠りしようとする人はいない、皆おしゃべりに夢中である。私には会話の内容が全て聞き取れる分けではなかったから、中に割って入るのは無理だったが、一生懸命聞き取ろうと耳を傾けていた。
 15分ほど走っただろうか、助手席の男が後ろを振り返りながら「皆さん、この先に美味しいイシュケンベ・スープの専門店があるんですけど、どうです寄って行きませんか」と提案した。皆、口々に「それはいい、ちょうど腹が減ったところだ」と言い、異議を唱える者はいない。初夏とはいえ、夜になって少しひんやりとしていたから、温かいスープはなによりだろう。
 イシュケンベ・スープとは、羊の胃袋を煮込んだ白濁したスープで、供する前にニンニクの刻んだのを落とし、銘々が塩で味を調え、好みによっては酢をちょっと垂らして食する。韓国料理のコムタンを想像してもらうと良いかも知れないが、トルコでは白飯ではなくパンが添えられてくる。その韓国料理との近似性からいっても、私には、このイシュケンベが中央アジアからトルコ人によってもたらされた固有の食文化であるように思えてならない。
 そんなことはともかくとして、イシュケンベ・スープがとても美味しいというのは紛れもない事実。私もこの提案には大賛成だった。私たちが店に入って行った時、真夜中だというのに、店内には数人の客がいた。幹線道路に面したこの店は、長距離ドライバーが立ち寄れるように、こうして夜中も営業しているのだろう。
 あまり流行っていない店だと、お客の顔を見てからスープを温めているような所もあるが、この店では大釜にモウモウと湯気を立ててイシュケンベが煮立っていた。これを見ただけでも、「ここは期待できそうだな」と思った。間もなく私たちの前に熱々のイシュケンベ・スープが運ばれて来た。刻みニンニクが食卓の上に置かれていて好きなだけ入れることができるのも嬉しい限りだった。食事中はおしゃべりも中断、皆もくもくと食べていた。腹がちょうど良いぐあいに減っていたのと、見知らぬ同士が旅は道連れ何とやらで、こうして和気あいあいと集まっている雰囲気とで、このイシュケンベ・スープは最高に美味しかった。トルコで一番美味しい店と断言したいくらいだった。
 車に戻ると、満腹したせいか、何人かはうたた寝を始めた。ここに至って、初めて誰かが私に、「君、トルコ人じゃないよね。いったいどちらから?」と訊いてきた。日本人であることが分かると、少し考えてから「やっぱりトヨタとか、そういう関係で来ているのですか?」なんてことを言う。「えっ、そんな風に見えますか」と驚いて見せたら、「つまんないことを訊いて済まん」といった感じで笑ってくれた。それから少しだけ日本のことが話題になった。
 イスタンブールにさしかかる頃には既に明るくなっていた。アジア側でほとんどの人が降りてしまい、結局、市内の中心部まで行った私が最後に降りることになった。新車をどこまで回送するのか分からなかったが、どうやら私一人の為に大回りしてくれたようだった。
 この日のことは、あのイシュケンベ・スープの味といい、何かとても素晴らしいものとして思い出に残った。異邦人ではなく、当たり前のトルコ市民になれたような感じがしたからなのかも知れない。



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