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戦後66年の証言記録(1)から(7=終) サンパウロ新聞WEB版より転載
第2次世界大戦が終わってから今年で66年になります。終戦は私が5歳の時だったのですね。神戸の元町で防空壕に入ったり近くの家に焼夷弾が落ちたりとおぼろげな記憶しか残っていませんがブラジル日系社会にもまだ終戦を経験した方がお元気にしておられるとの事でサンパウロ新聞で5人の方の生き証人を取材して7回に分けてレポートしています。『私たちの40年!!』のメーリングリストにも転載させて頂いた所、吉田さんから台湾人の黄振欽さん(75)へのコメント、荒木さんからは、ベロオリゾンテにお住みの島袋 実さん(83)の最近の写真を送って頂きました。より身近な存在としてこれらの戦争体験者のお話に耳を傾ける機会がありました。コメントも含めて寄稿集に収録して置きたいと思います。
写真は、荒木さんに送って頂いた島袋 実さんの近影を使わせて頂きました。


戦後66年の証言記録(1)
1945年8月に第2次世界大戦が終結してから、今年で66年を迎えた。日系社会でも戦争体験者は年々高齢化し、数少なくなっている。今年は特に3月に東日本大震災が発生し、その影響で福島第一原発事故を誘発するなど、日本をはじめ世界的に放射能の脅威にさらされている。本紙では、戦争の悲惨さと平和の大切さを訴えるとともに、戦乱の時代を生きてきた人々の貴重な記録を後世に残すことを目的に、各記者がそれぞれ取材を行った。(編集部)
長崎で被爆した本多宣皓さん
地元バストスで原爆写真展も開催

1945年8月に第2次世界大戦が終結してから、今年で66年を迎えた。日系社会でも戦争体験者は年々高齢化し、数少なくなっている。今年は特に3月に東日本大震災が発生し、その影響で福島第一原発事故を誘発するなど、日本をはじめ世界的に放射能の脅威にさらされている。本紙では、戦争の悲惨さと平和の大切さを訴えるとともに、戦乱の時代を生きてきた人々の貴重な記録を後世に残すことを目的に、各記者がそれぞれ取材を行った。(編集部)

聖市から北西に約600キロ離れた人口2万2千人のバストス市に、長崎に落とされた原子爆弾で被爆した本多宣皓(のぶあき)さん(75)が住んでいる。
本多さんは10歳の時、爆心地から約3キロ離れた長崎市桶屋町で、両親が営む旅館の裏庭で兄弟と遊んでいた時に被爆した。その瞬間を「ものすごい光と音だった。慌てて家の中に逃げ込んだよ」と振り返る。

1960年、24歳の時に一家8人で渡伯。以来、同市で30年魚屋を営んできたが、65歳の時、一緒に働いてきた弟たちに次いで一人息子を交通事故で亡くし店をたたんだ。
本多さんは長男だが5人の弟と両親は渡伯後に他界した。「末っ子から順に死んでいった。原因不明の死に方もあった。原爆のせいじゃないだろうか」と静かに話した。

ブラジルで自らの被爆体験を語る機会はほとんどないが、時々日本やブラジルのテレビ局が取材に来ることがあるほか、一度だけ同市にあった南米銀行の2階で原爆写真展を開いた。
本多さんは、3年に1回は帰国し、長崎市の長崎大学病院で検査を受ける。3月に発生した東日本大震災の際は、ちょうど検査のため帰国しており「原爆で被爆し、原発でも被曝してはたまらん」と思い、予定を早めてブラジルに帰ってきた。 また、終戦50年の平和記念式典では南米在住の被爆者を代表し出席。当時の村山富市内閣総理大臣らと共に原爆犠牲者に花を手向けた。
現在、本多さんは本紙の取次店を再婚した妻と営む傍ら、バストスカラオケ愛好会の会長として活躍している。会員は約100人。そのうち子供は 20人で、歌謡曲を通じて日系の子供たちに日本語や日本文化を教えている。週に2回練習会を開き、週末は各地のカラオケ大会に会員を連れて行く。妻の京野 寿美さんもカラオケ好きで、現在パウリスタカラオケ連盟の会長を務めている。

同市で7月14日から3日間行われた「卵祭り」の演芸会の ステージでは司会を務め、会場をにぎわせていた。本多さんは「カラオケするしかないからなあ」と笑いながら話すが、「現在の日系のイベントではカラオケが ないと人が来ない。あっちに走りこっちに走り忙しい」と多忙な日々を送っている。
好きな歌は「男の一生」と「津軽海峡鮪船」。卵祭りでは平尾昌晃の「ダイアナ」を熱唱すると意気込んでいた。

日本国外に住む在外被爆者に対しては、ようやく2005年より在外公館での手当申請を受け付けているが、在外被爆者からの医療費などの支給申請が却下され るケースが相次いでいる。10年に広島、11年には大阪地裁でそれぞれ訴えが起こされており、住み慣れた土地で検査や治療が受けられるといった在外被爆者 の願いは戦後66年過ぎてもかなっていない。(つづく、植木修平記者)
2011年8月6日付


戦後66年の証言記録(2)
2世被爆者の鮫島義隆さん

現在ブラジルで数少ない日系2世の被爆者と言われる鮫島義隆さん(82、2世)は1928年、ブラジルに生まれた。11歳の時、戦前で日本語教育が受けられないことを理由に父の故郷、鹿児島県坊津町(現・南さつま市)へ。転校した坊泊尋常小学校では同級生と日本語の習得度が異なったため、3学年下の3年へ編入した。その後志願して入隊した海軍では、針尾海兵団竹村部隊に所属、第2次世界大戦を経験した。

長崎に原爆が投下された45年8月9日午前11時2分、鮫島さんは軍艦で朝鮮沖にいた。船はその日の正午、次の航海へ出発するため午前45時に帰港する予定だったが、エンジンが止まり沖へ流された。「予定通り港へ戻っていたら今頃生きていない」。まさに運命とも言える船の不具合によって鮫島さんは直接被爆を避けることができた。
翌10日と11日の2日間、爆心地の後片付けに当時16歳だった鮫島さんら新兵が送りこまれた。原爆投下直後の長崎を「街は全滅し、火傷を負った人は皮膚が溶けて見る様もなかった」と振り返る。
防毒マスクと雨がっぱ、雨靴を着用しての作業だったが、暑かったためすぐ脱いだという。食べ物が食べられず酒を飲んで気を紛らわし、1週間で体重が5キロも落ちた。

当時は「被爆したことが知れたらバカにされ、嫁がもらえなかった」。さらに被爆者に近付くと火傷がうつる、などといった風評被害から原爆投下直後の長崎にいたことは誰にも言わず、妻のサワ子さん(79、宮崎)にも告げぬまま結婚した。
その後、家庭の事情で妻と2人の子どもとともに60年に帰伯。ブラジルに戻ってから13回訪日したが「原爆投下直後の様子を見ているから、それだけが頭にある。足が向かなかった」と、その間長崎へは一度も行っていない。
60歳を過ぎたある日、黒くなった腕を見た医者の息子から「パパイ、これはおかしいから血の検査を」と勧められ、ブラジルの病院で検査を受けるも、専門医のいないブラジルでは原因が分からなかった。
2006年夏、半袖の下の腕を見たブラジル被爆者平和協会役員から「長崎にいたらしいが、いついたのか」と尋ねられた。この時初めて、原爆投下直後の長崎にいたことを人に話した。同氏から長崎にある専門医の受診を強く勧められ、61年ぶりに長崎へ向かった。

被爆者への医療を提供している長崎大学病院で検査を行った結果、左足の小指はすでに手遅れの状態で切断したが「行って良かった。あと1か月遅ければ足はなかった」と胸をなで下ろした。
現在15種類の薬を服用するも、痛み止めが切れると眠れないほどの手足の痺れに悩まされている。「たった1発であれだけ壊れる原爆の恐ろしさは、実際に見ないと分からないだろう。原爆のない、平和な時代へ向かってほしい」と鮫島さんは願ってやまない。
(つづく、鮫島由里穂記者)
2011年8月9日付


戦後66年の証言記録(3 と 4)
震洋特別攻撃隊の芦原学さん

聖州エンブー市に住む芦原学さん(83、長崎)は第2次世界大戦末期、鹿児島県鹿屋市の第106震洋特別攻撃隊に配属され、1945年8月21日に同市の入り江から爆弾を積む小型高速艇「震洋」に搭乗し、沖縄近海に跋扈(ばっこ)する敵艦に体当たりする特攻出撃命令が出ていた。
しかし、予定されていた特攻出撃日より前の15日に日本は連合国軍に降伏したため、芦原さんが実際に出撃することはなかった。無条件降伏を決定付けたとも言われる広島と長崎の原子爆弾は両市を合わせて約20万人以上の命を一瞬で奪ったが、芦原さんはその原爆投下によって「特攻」出撃を免れたとも言える。

芦原さんは長崎県東彼杵郡の川棚尋常小学校高等科を卒業し、志願して教育訓練部隊である大村海軍少年航空隊員となる。16歳の時だった。入隊した芦原さんを待ち受けていたのは、厳しい訓練の日々。上官の命令には絶対服従で殴る蹴るは当たり前。「学科の勉強量も相当多かった」と当時を振り返る。
ある日、練習機で大村湾上空を上官と2人で飛行訓練を行っていたところ、突如操縦不能となり飛行機は湾に墜落。飛行機前方の席に座っていた上官 は操縦レバーが胸を貫き即死だったが、芦原さんはどうにか水中から自力で脱出し生還できた。「整備不良だったのか、エアポケットに入ったのか」事故原因は 分からない。

九死に一生を得た芦原さんを待っていたのは厳しい尋問が続く軍法会議だった。芦原さんは「当時、軍法会議にかけられた者は 話がこじれると死に追いやられることもあったため、周りはとても心配した。とても恐かった」と話す。軍法会議は無事に済んだが、芦原さんが航空隊に戻るこ とはなかった。代わりに配属されたのが震洋特別攻撃隊だった。

「震洋」は船の後部に250キロの爆薬を装着した木造の小型高速艇で、海軍は体当たりによって敵艦を沈めることを目的に開発。戦争末期は日々悪化する戦局を挽回するため44年、臨時魚雷艇訓練所を横須賀から川棚町小串郷に移し、魚雷艇隊の訓練を行っていた。
「震洋」は実戦に配備された2年間で硫黄島や激戦地となったフィリピンのコレヒドール島などで戦果を上げたが、2557人の若者が南洋の海に散った(震洋会記録)。(つづく、植木修平記者)
2011年8月10日付

芦原さん「戦争中は生き地獄」

出撃を待つ芦原さんは長崎に原爆が投下された1945年8月9日、慰労休暇をもらい親元の川棚町に帰省していた。午前11時頃、同町の大村湾に面した海岸にいた時、対岸に当たる約50キロ離れた長崎市の方向で大きなきのこ雲が上がるのを見て「これは大変な事が起こったに違いない」と感じたという。

軍から11日の朝に長崎の復興作業を手伝うように指示が出され芦原さんらの部隊は長崎に向かった。そこで見たものは地獄そのものだった。長崎市内中心部を流れる浦上川に浮かぶおびただしい数の黒焦げの遺体を消防隊員と協力して引き上げ、幾重にも積み上げ何度も火葬した。食べ物も寝る所もなく、2日間遺体と瓦礫の撤去に追われた。「人の体が良く燃えるのが不思議だった」とあまりにも日常からかけ離れた悲惨な光景が今も頭から離れない。芦原さんは「戦時中は何もかも狂っていた。生き地獄だった。戦争は絶対にいけない」と強い口調で平和を訴える。
戦後、芦原さんは佐世保市内で理容店を経営していたが、中学校の授業でブラジル移住のことを知った長男の正人さんの強い勧めで38歳の時に一家7人でブラジルに移住。1967年10月14日サントス着の「ぶらじる丸」だった。
さまざまな職を経験したが、庭師として独立。現在も庭に飾る石塔などの注文があれば造ることもあるという。長崎県人会創立40周年記念式典の際には県知事らが聖市イビラプエラ公園内日本庭園にイペーの木などを記念植樹したが、その苗は芦原さんが提供した。

渡伯後、1か月以上鼻血が止まらないことがあった。「原爆のせいじゃないかと不安になった」という。在外被爆者手帳は長く申請していなかったが4年前にようやく承認された。
「子どもたちに戦争の話はしたくない。毎日、妻と2人で亡くなった方の霊に祈りを捧げている」と話す。日本にはデカセギで2回、旅行でも2回帰った。福島 第一原子力発電所の事故について聞くと「日本人は絶対に原子力に携わってはいけない」と大きなメッセージを投げかけた。(つづく、植木修平記者)
2011年8月11日付


戦後66年の証言記録(5)
日本語教育受けた台湾人の黄さん

聖市リベルダーデ区の岩手県人会サロンで毎週金曜日、日本人がカラオケを歌っている同じ時、同県人会2階の「東京クラブ」(重松輝男社長)では、十数人の台湾人が日本語や北京語の歌をカラオケで歌い、曲に合わせてダンスを踊っている。毎週妻と休むことなく通う「かつては日本人の心だった」と語る台湾人の黄振欽さん(75、新竹州苗票縣卓蘭庄(現、苗票縣卓蘭鎭))は、1942年から3年間、卓蘭国民学校で日本人になるための教育を受けた。
黄さんだけではない。黄さんと同年代、あるいは黄さんより年上の台湾人は日本の統治下で国民学校に通っており、今でもその時に習った日本語を話す人がいる。

今年、中華民国(台湾)は建国100周年を迎え、聖市リベルダーデ区のハッカ・プラザでは、10月に記念式典が行われる。
ハッカ・プラザ内にある「台北経済文化事務所聖保羅文化中心」でボランティアの受付員を務めている黄さんは、日本の統治下で習った日本語、入学前に話していた台湾語、終戦とともに日本人の代わりにやってきた中国人に教えられた北京語、そして、ブラジルに移住してから覚えたポルトガル語を話す。

昭和11年(36年)、7人兄弟の3番目として生まれた黄さん。生活は実に厳しく、親戚が所有する畑の小作農として働きながら、親戚の家を借りて住んでいた。
台湾は明治28年(1895年)の下関条約で、当時の清朝(現中国)から日本に譲渡されて以降、ポツダム宣言で中華民国に編入されるまでの間、日本の統治下にあった。昭和12年(37年)に日中戦争が勃発すると、台湾人の日本人化運動である皇民化運動が開始され、黄さんも国民学校で日本語の国語教育など日本人になるための教育を受けた。
黄さんが入学したのは、昭和18年(43年)。卓蘭国民学校には、1学年に1クラス40人前後の3クラスがあり、女子のみ、男子のみのクラスと 男女のクラスが1クラスずつ用意されていた。1クラスに1人の教師が付き、日本語で授業を行った。日本人の教師が中心だったが、中には日本語を教える台湾 人の教師もいたという。
黄さんによれば、国民学校ではラジオ体操や遠足、運動会も行われ、日本地図や世界地図で都道府県や国の場所を覚える授業もあったが、日本語以外は話すことが禁じられていた。

また、台湾では日本式の姓名に変える「改姓名」も行われた。黄さんの記憶では、周囲の女友達の名前は、ほとんど日本人の女の子の名前だったという。台湾で は強制ではなかったため、朝鮮人よりも改姓名を行った人は少なかったが、日本式の姓名を持つことが社会的地位の上昇に有利に働いていたことで改姓名をする 人もいた。

黄さんにとって、学校生活とは統治下の国民学校での生活でしかなかった。統治時代が終わってからも、しばらくは自分のことを 日本人だと思っていた。なぜ、日本語で勉強していたのか、その理由に気がついたのは11歳の頃で、その時に初めて台湾が日本の植民地であったことを理解し た。 日本の統治が終わると、黄さんの日本語を話す機会はなくなった。台湾が中華民国に編入され、12歳まで北京語の義務教育を受けた。卒業後は学校には 通わず、19歳までは親戚の家で小作農として働き、その後に病院の下働きなども経験しながら、26歳で結婚した。

10年後に3人の子どもを連れて、飛行機で3日間掛けてサンパウロに移住した。台湾を出る時、父親から「国民学校しか出ていない人間がブラジルで何をするつもりなんだ」とまで言われたが、それでも意思を曲げなかった。
ブラジルではパステラリアやウエディングドレス製作などの仕事で3人の子どもを育てた。現在では孫が5人、その内2人は日本の長野県で生活している。黄さんもすでに4度日本に旅行した。旅行に行く度に日本の教育の良さを感じ、日本に好印象を抱くのだという。

現在の黄さんの心は、ブラジル人だ。「ポルトガル語を使って、ブラジルで生活しているからね」と飄々(ひょうひょう)と言い切れるのは、移民としての強さ なのか。黄さんの顔には、日本移民と同じように、それまでの苦労が皺となって、眉間ににじみ出ている。(つづく、山崎功祐記者)
2011年8月12日付
(吉田さんのコメント)
岩手県人会館で台湾人のカラオケダンスパーティーに参加したことがあります。ほとんどが日本の演歌で懐念日本曲と言われ、潮来笠、北国の春などを中国語で歌います。赤と黒のブルース、別れのブルースなど古い曲は日本語で歌います。皆日本の音楽をとても好きみたいでした。私も悲しき街角、涙のムーディーリバーを歌い拍手してくれた人がいたので、よせばいいのに、調子に乗って、なみだの操を中国語で歌ったところ、日本人だということがバレてしまったことがあります。
一番印象に残っている歌は李紅蘭が歌った何日君再来をナレーション入りで歌った方がいたことでした。中国語がわからない私でも切ない男女のわかれを感じさせるすばらしい歌でした。

丸木で〜す
北米でも西海岸在住の台湾の方々が日本の歌謡を歌ってる様子が土曜のテレビジャパンクラブで放映されました。その時の輪唱の美しい「花のまわりで」が印象深く、トロント歌声喫茶の会の夏の集いで僕がリクエストし一緒に楽しく歌いました。以前は日本の歌曲が禁止されていた韓国でも若者が日本の歌を歌うようになったとか。音楽は国際共通語、日本の歌も外国の歌も大いに歌いましょう。


戦後66年の証言記録(6 と 終わり)
少年飛行学校経験の2世、島袋実さん

ミナス・ジェライス州ベロ・オリゾンテ市に在住する沖縄県人子弟の島袋実さん(83、2世)は、少年時代に兄とともに日本に行き、大分陸軍少年飛行学校に入校した体験を持つ。
1928年、サントス市で次男として生まれた実さんは、5、6歳の時に聖州マリリアに家族で転住し、父親は同地でバールを営業していたという。
日本生まれの長兄が故郷を懐かしく思っていたこともあり、両親は当時11歳だった実さんと兄を沖縄県国頭村の親類に預けることを決意した。

両親、特に父から日本のことを伝え聞いていた実さんは、大きな夢と憧れを抱いて日本に渡った。国頭村の尋常小学校に入学。当時の物資の欠乏などに違和感もあったが、同級生たちと学習や運動に励み、実さんは自然と日本の修身教育が身に付いていった。
県立第3中学校に合格し、勉学の合間に数か月間、船で約5時間かかる伊江島飛行場の建設作業にも取り組んだ。日に日に戦時色が増していた当時、大分陸軍少年飛行学校への入学を志願して合格。その頃の日本の青少年の多くが夢見たように、「戦闘機に乗って御国のために戦いたい」との気持ちが強かった。実さんはブラジル生まれの日系2世ではなく、「日本人」としての気持ちが勝っていたという。
同校の操縦整備通信3科で戦闘員としての訓練を受けた実さんの日課は、毎朝午前6時にラッパの合図で起床。整列点呼、当直将校の訓示、清掃の後 に学習し、午後からは軍事教練、夜は10時の消灯まで自習という生活を送った。約50人の同期生の中にはペルーの日系2世も2、3人おり、日本人と同じ兄 弟のように過ごしたという。

45年に入って滑空訓練が追加されたものの、飛行学校があった大分市は当時の日本最大だった「八幡製鉄所(福岡県)」の爆撃通路となっていたため、米軍による空襲が頻繁に発生。そのたびに実さんたちは防空壕に身を潜めざるを得なかった。
そのため、飛行訓練は思ったように進まず、約2年間の同校での生活の中で滑空できたのは、「指導教員に同乗してもらって、地上2メートルほどを飛行しただけだった」という。
同年8月15日、生徒全員が校庭に召集され、終戦の発表を聞かされた。当時17歳だった実さんの夢は破れ、「何のためにこれまで御国のために尽くしてきたのか」と、がくぜんとなった。(つづく、松本浩治記者)
2011年8月13日付
道徳的な思いがなくなった日本

大分陸軍少年飛行学校は武装解除で閉校となり、途方に暮れていた島袋実さんを心配した地元出身の上司が声を掛けてくれ、同氏の農村で田畑を耕すことに。沖縄県の親類とも手紙で連絡を取り合ったが、経済的に苦しかったために戻ることができず、4年ほど各地を転々として暮らした。その間、大分と別府間の電車の運転士に応募して採用され1年ほど勤めたほか、土木作業員として関西や中部地方などにも足を運んだ。

49年にようやく沖縄に戻ることができ、国頭村の地元高校に編入。卒業当時に琉球大学が創設されたこともあり、同大学を受験したところ見事合格し、1期生となった。しかし、同年の2学期に入った時、実さんはブラジルに戻ることを決めた。
「日本で住み続けるより、ブラジルの家族に会いたいという思いが強かった」

両親はマリリアからアンドラジーナに転住しており、十数年ぶり帰伯した実さんは故国の変わりように戸惑いを覚えた。ポルトガル語はすっかり忘れていたため、実さんは「これからの人生をここで歩むなら」と地元の中学校に入った。日本で鍛え上げた持ち前の頑張りで卒業し、働きながら夜間高校にも通った。
その後、単身サンパウロ市に出て製造会社で働いていた時、ウジミナス製鉄所に通訳兼翻訳者として採用され、働きながら私立の夜間大学で土木科の勉学に励んだ。

ウジミナスの工場が本格的に始動した頃から現在のベロ・オリゾンテに住まいを移し、90年に定年退職するまでの30年間を同社で働いた。その間、技師の通訳や研修などで何回か訪日した経験もあったが、実さんは戦後の経済成長した日本を自分の目でじっくり確かめたいとの思いが強かったという。ウジミナス退職後、出稼ぎとして単身日本に渡り、1年間過ごした。

ブラジルに戻ってからもウジミナスの依頼などで通訳として日本をたびたび訪問した実さん。現在の日本について、「戦時中に日本で過ごした自分にとっては、道徳的なものがなくなり、嘆かわしい状況になっていると感じる」と率直な思いを話す。
その一方で実さんは、「日本は技術やそのほかの面で大きく成長してきた。ブラジルも日本の技術を大いに学ぶ必要がある」と、自身が日伯間を歩んできた経験から日本の良さを実感している。(おわり、松本浩治記者) 
2011年8月16日付
(荒木さんのコメント)
和田さん、ベロ・オリゾンテにお住まいの島袋実さんの記事拝見しました。
以前から、第二次大戦の少ない生き残りと聞いていましたが、記事を読んで良く分りました。
去年でしたがサン・パウロで友達の娘さんの結婚式があり、島袋さんも息子さんと同席して写真に写っていましたので添付します(写真の左側に座っています)。83歳といっても至って元気です。
先程、電話でサンパウロ新聞記事について聞きましたがまだ見ていないとの事でしたので、
「私たちの40年」のコピーを届ける旨伝えました。それに昨年撮った白髪の写真も公開しますよ、との了解を得ています。

荒木さん
島袋実さんは、ベロオリゾンテにお住みなのですね。サンパウロ新聞の記事を手渡して頂けるとの事、喜ばれることでしょう。
又貴重な写真を添付頂き有難う御座います。島袋さんの記事と共にBLOGにも掲載させて頂きます。
83歳との事、お元気そうですね。お会いする機会があれば宜しくお伝え下さい。
有難う御座います。

荒木さん
午前中のメールの続きですが、島袋さんの記事は、2回に分けて松本浩二記者が書かれたもので最終回の分が抜けていました。
2回分を合わせて送って頂いた写真と共に書き『私たちの40年!!』関連BLOGに掲載しておきましたので出来ればこれをCOPYして島袋さんに手渡してあげて下さい。宜しくお願いします。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/27074850.html



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