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【アフリカの旅】オランダにお住みのあや子さんの紀行記です。
『私たちの40年!!』のメ―リングリストのメンバのお一人オランダにお住みのあや子PHILIPPOさんが昨年アフリカに行かれた時の様子を纏めて送って呉れました。ご主人のArnoud Philippoさんが撮られた写真も送って頂いているのでBLOGに何度かに分けて掲載させて頂きます。字数が9300語程度ですので丁度寄稿集に一度に収録出来ますので先ずは寄稿集に収録後BLOGで写真と共に3回程でゆっくり紹介する事にします。
写真は沢山送って頂いており選ぶのに苦労しますが、この1枚となると矢張りご主人も入った写真を選ぶべきでしょうね。BLOGには多分あや子さんらしい写真を選び数葉貼り付けて置きますが、見事にアフリカに同化されたあや子さんの写真は、もしかするとご本人でないのかも知れません。間違っていれば教えて下さい。とにかくあや子さんらしい笑わせて呉れる読みものです。一読に値します。


アフリカの旅
2010年12月3日、オランダを出発、トルコ経由でタンザニアの首都ダル、エス、サラムに着いた。
空港にある2台の現金支払い機が作動せず他の人が、すでに出払って現金がないといといっていた。
アルは信じていないようだが、ここはアフリカなのだ!

モザンビークの友達に頼まれたものを先に渡したいのですぐモザンビークのビザを取る手続きをしに行くが、一週間かかるのでしばらくはのんびりと街を見学することにした。
街の中は日本の中古車がたくさん走っている。
「川越幼稚園」「・・・老人ホーム」「・・・温泉旅館」と書かれた車の中に黒人の人たちがぎゅうぎゅうに乗って走っているのがユニークでした。

一週間後モザンビーク大使館にビザをとりにいき、申し込みをしたときにモザンビークのお金と換金してくれる話になっていた大使館員は、病気で今日はいないという。銀行では取り替えてくれないし、バスで通る国境は小さな村なので銀行はないだろうし、大きな町に行けば銀行があるけどそれまでのお金がない。
が、まぁなんとかなるだろう、で出発!

翌朝4時45分にタクシーを予約しておいたが来ておらず・・・イライラ。
たまたま通りかかったヨーロッパ人と話すと、こういうのは日常茶飯事だといって彼女の携帯から知人の白タクを呼んでくれた。朝早くてタクシーは見当たらず、助かった。
アフリカのバスは朝が早く、バスターミナルはバスと人でごったがえしていた。
白タクのお兄ちゃんは白い目で見られながらも、手当たり次第に私たちのバスの場所を聞いてくれ、目的のバスまでつれていってくれた。

6時に出発したものの道は悪いし、しょっちゅう修理の為に止まっては1,2時間かかって修理。誰も文句を言うわけでなく何することもなくただ外に出て待っている。これがアフリカ!
途中バスの中でケーキとジュース、水が配られた。
外はどんどん暗くなり、たどり着いた時には外は真っ暗。
修理で外に出ている間に知り合ったモザンビーク人のサイデといっしょなのが救われる。
彼と共にホテルを探すが外灯もなく真っ暗、いやに暗いな~と思っていたら、町中が停電、断水だったのだ。
400Kmほど首都から南下した街、スワヒリ語を話す彼のおかげで食事にもありつけ、隣のガソリンスタンドのわずかな明かりで夕食を食べた。

朝6時に出発。国境まで120Kmぐらいとのことだが、バスが一向に来る様子がない。
数時間してミニバスが来たのでリュックをのせると、出発まで時間があるから朝食を食べに行こうと彼に言われ、心配だね〜とアルと目くばせ。サイデは大丈夫と自信ありげなので、同行することにした。
彼は朝食の鳥のスープと何かアフリカの朝食をおいしそうに食べていたが、我々はタマゴと紅茶とケーキ。
ミニバス(日本のワゴン車)に戻ると車の上にマットレスや大きな袋がいっぱいのっていた。ミニバスの中は日本で3人座る所を4人がけで、太っていてもやせていてもこれが決まり。文句を言っている旅行者と乗り合わせたことがあったが、アフリカ、アフリカと言ってみんな明るく笑っていた。

10時半に出発、国境に向かう。
14時半に国境の村に着くが、今日のバスはないのでここに泊まるしかないといわれ、「エー、ここじゃホテルもないでしょう!」と唖然とするが、サイデが男の子と話をして部屋を空け渡してもらったようだ。
セミダブルのベッドとサイデの荷物と私たちのリュックで部屋はいっぱい。
「あなたはどこに?」
と聞くと自分は外でも寝られるからとあっけらかんとしている。
そんな彼に文句は言えない。ここはアフリカなのだ。

昨日のうちに出国手続きを済ませ、今日は入国手続きに数時間費やしている。
3人のインド人の入国を拒否されているようで、太陽のギラギラふりそそぐなかミニトラックの荷台に乗って待っている
我々は日陰でいつ出発するかもわからず、ひたすら待っている。
「荷台の人たちは直射日光であついでしょうに、どうして降りないの?」とサイデに聞くがわからないと言ってワハハと笑う。
この笑いもアフリカ独特の大好きな笑いでした。
今思うと、彼はこの旅行で一番誠実なアフリカ人でした。

サイデと私たちの行く街は同じなのに、ここから彼は大型バスで行き私たちはミニトラックだと言う。ミニトラックの荷台はいやだというと、外人特別待遇で前の助手席を確保してくれた。
外人特別待遇で申し訳ない気持ちがするが、
「すみませ〜〜ん、慣れないものでー。」と心でつぶやく。

私たちがなぜミニトラックに乗せられたかは後でわかったことだが、お金を換金したいとサイデに言っていたのでこの運転手と話をつけておいてくれたのだ。
小さな村の中を走りながら、反対側から来たミニトラックと合図をしてとまった。
彼らが先に換金してから私たちと換金するようなので、車の中で計算した紙 を彼に渡そうとしたが、「ちょっとまって、ちょっとまって。」と言って行ってしまった。

運転手が札束を持ってもどってきての換金。
私が10,000Tsh を出すと彼が200Mtc を出す。
しまいに200Mtc がなくなり100Mtcを2枚くれる。
それが無くなり500Mtc と100Mtc がみえたので
600Mtc で取り替えようとしたが「まて、まて。」と、彼。

彼が500Mtc を出し、私たちが両替の200Mtc を2枚と100Mtc を1枚出す。
そして再び繰り返す。彼の頭には1から5までの数字しか入っていず、6という数字は存在していないのだ。
それでも正確に換金出来ることにえらく感心した。
束ねたお金をどこにおこうかな~と考えているようなので、プラスティックの袋をあげると袋にいれ、無造作にくるまの一角においた。

悪い道を避けるように運転しているが、時々ねむりこけ穴に落っこちた時は目をさましゴメン、ゴメンとあやまっている。
「怖いな~〜〜」と思いながら眠らせないよう、通じないことばで話しかけた。
子供と赤ちゃんを抱えた女性がたっている。まさかここに・・・?無理でしょ〜〜
と思っていたら、運ちゃんが赤子を取り上げ私の腕にボン!母と子は後ろの荷台に。
アルはオランダの子供なら泣き出すだろうなぁと言っていたが、この子は数分後には眠ってしまった。こういうのは普通に行われており、バスで子供がおしっこの時などは窓から外にいる人に手渡し、おしっこを道端でしてあげてまた窓から親にもどすなど、当然のようにおこなわれていた。
これがアフリカなのだ。

街に着くと突然ドライバーがいなくなり、女性が窓ごしに赤子を渡せと手まねをしているが預かり物だからそう簡単にはあげられないと無視をした。
すると反対側に回りアルに何か言いながらしつこい、早く運ちゃんもどってくれないかな・・・と思っていたら、この人のスカートのすその布を思い出し赤子のママだというのに気がつきあわてて返した。その後は二人で大笑いをした。
ジャドーという名をつけた小さなクマを車にぶるさげて、共に走る喜びがうかがえるチャーミングなドライバーでした。

国境から1000kmも南下した2番目に大きい都市、バイラにむかう 。
ここに友達夫婦が2年ほど住んでいて、ご主人が大学で英語を教えていた。

彼はまじめなオランダ人の先生で、授業の時間にはきちんと来るので他のアフリカ人の同僚からは煙たがられていると嘆いていた。30分1時間遅れて先生が教室に来るというのが平常に行われているので、一人まじめに時間で始める人がいるのは他の人には迷惑なのだ。

ここで一週間ほどお世話になり再び同じ道を700kmほど北上したNanpulaという街に行き、そこから電車とバスで西に進み隣国のマラウィに行くことにした。

翌日切符を買いに駅に行くが5分前になっても誰もいず。本当に買えるのかうたがいながらも50mほど離れた日陰で、30cm四方の鉄格子の後ろの戸が開くのを見ていると、突然人がどこからともなく並びだしたのであわてて行く。
なんと男女別々に並ぶのです。夫婦ですので、同じ所に・・・なんていってもおかまいなし。男女交互に切符を売っているようだ。とにかく切符が手に入った。

バスに比べると電車はずーと楽だった。終点まで行くとその続きがないのでそこに宿泊し、翌日の朝のバスで次の地点までというので目的地まで行くのに何日も
かかる。モザンビークとマラウィの間にある南北500kmぐらいある大きな湖のマラウィ湖の湖畔に泊まり、明日の土曜日にここに来るという船でマラウィの島に渡ることにしていた。

船が一週間かけて何箇所か止まりながらくるという。私たちのいるメタンガルには土曜日に来ることになっていたので、前日に出国手続きをして待つが、一向に来る様子がない。村人は頭に荒い物の食器や洗濯物をのせ、この湖で食器を荒い、洗濯をし、それを草の上に広げて干している。はるか向こうでは車を半分湖にいれ、洗車をしている。またある人はお風呂として、身体を洗っている。
乾いた洗濯物をたたんで頭にのせて帰っていく。
直射日光はかなり強く、靴下とズボンの間が陽に当たっていたアルは、数時間でひぶくれしていた。

日陰でそんな風景を何日も見ることになるとは、思ってもいませんでした。

自分の友達が船長と友達で明日は出発できるとか、もっともらしい話をするのでついつい期待をするがここはアフリカ、信用は禁物。
船は修理の為ドッグいりしており、毎日いう明日来るということばも信用できず、ビザもきれるし、陸路だと2,3日必要になる。月曜日に来ないのを見届けて陸路でマラウィにはいることにした。

バスをホテルに回してもらい、とにかく行けるところまで行く事にした。
リッシンガに着くと客取りで車どうしが争って、私たちの荷物を取り合っている。
とにかく2時に出発するという車に決めるが、街中をぐるぐる回り結局3時すぎに街を出て、夜の8時半に国境まで4,5kmのところまできた。

翌日自転車の後ろにのり、国境を越える。
私は荷物も私もかるいけど、アルの自転車の人は全部で100kg近くあるので大変だと思い、私は年寄りの自転車にのる。
けっこう坂道もあったが、この自転車でマラウィのバスに乗れる所まで走ってもらった。といってもバスはなく、小型トラックの荷台にすわる。後からどんどん人が乗ってくるので荷物、人、子供、赤ちゃんがごちゃごちゃ。

このトラックでマンゴッチに向かう。
今にも雨が降りそうな雲行きをみながら、とりあえず自分の身の安全をはかりレインコートを着ると、おおきなビニールを広げて頭の上にのせられた。
広げたと思うと、ザーと大雨が降ってきた。
穴だらけで上を見上げると夜空の星のようで、雨がどんどん入ってくる。ビニールを上にもちあげて、なるべく外に流れてくれる事を祈る。
大変だけれど何かみんないっしょの楽しい雰囲気があるのは、やはりアフリカなのかもしれない。

マラウィは英語を話すので、ことばの問題はなくなった。
小学生はユニフォームをきている。
久しぶりにここで数日ゆっくりすごすことにして、数日前に洗った洗濯物を干し、シャワーを浴び、8時すぎにはバタンキューでねてしまった。

予定では湖をつっきってマラウィに入る予定だったが、船が来ないので湖に沿って南下してモンキーベイから北上、イギリス人夫婦の住むブランタイヤーに向かう。

私たちの部屋の前が砂浜でまるで海を思わせるが、大きな湖なのです。
モンキーベイというだけあって、野生のサルがたくさんいてケンカなどをしながら人間と共存している。

先週の土曜日から月曜日まで船が来るのを待っていたが、今日金曜日にモンキーベイのドックに、イララという私たちが待っていた船がいるかどうか見に行こうということで出かけた。いました、いました。修理しているということでまだここに!
陸路ここに来たのが正解。アフリカ人10人ぐらいが外で寝ながら、明日は出発すると言って待っている、のどかなものです。

次の街で知り合ったおじさん。彼はすべてを笑い飛ばす、アフリカのワハハの笑いが湧き出る源のような人で、街の中央のバス停のそばのお店の前でミシンを踏んでいました。十代の男の子が一人彼のもとで働いている。使わなくなった服を他の物に作り直す、今の時代には考えられないことでしたが、少年はお客のオーダーに答えてお店の前のコンクリートの地面の上に古いズボンを置いてメジャーではかり、再生をしている。
この街で国立公園の船のツアーが出ているというので人に聞くが、誰もしらない。こういうツーリスト的なものは誰も乗らないので無理もない。南アフリカの船長とアシスタントと私たちのみで、20人位のれる大きな船で3時間位かけてゾウ、カバ、ワニの生息地を船の中から眺めた。国立公園の中で魚を獲るのは禁止されているが、
捕まっても罰金は払えないし魚を獲らないと生活できないので平然と行われている。

イギリス人夫婦の友人は、ご主人がインターナショナルスクールの先生をしており、学校の敷地内に住んでいる。大きな敷地で、常時ガードの人がいて門の開け閉めをしている。彼女がいろいろな所に案内してくれた。再生紙の工場は昔の日本の町工場のような所で、ゾウのふんと古い紙でメモ帳を作って売っていた。女性がいねむりをしており私たちがきても眠り続け、起きたと思うと驚いた様子もなく食事にいったようだ。のどかなアフリカ。

友人宅に毎日のようにやってくる男の人がいる。彼は2年前に親子3人でサファリーに行き、ゾウに奥さんと娘が襲われ亡くなったそうだ。案内人が拳銃でうったがとめられなかったそうだ。いつでも話したいときにはいらっしゃいとオープンドアーにしているという。6歳から13歳までの4人の娘を持ち、2人のアフリカ人の男の子を学校に行かせ成人させた、すごいパワフルなあったか~い女性です。

彼らの庭にシャワー、トイレ、台所のついた家が建っており、そこを提供してくれた。別の所に女中さんが住んでいた。庭番のお兄さんが一人いて、この人が家の門の開け閉めもやっている。
今日は朝から友人がカリカリしていると思ったら、女中さんを車でドクターに連れて行ったら、疲れたので3日ほど休みたいと言ったという。そして庭担当のお兄ちゃんが無断で休んでいる。女中さんも午後には街に出かけており、どこまでが本当に具合が悪いのかわからない。アフリカ人を使うのもなかなか大変なようです。

ここの家には全自動洗濯機があるのでここの女中さんは楽だなと思うが、彼女はわかっているのかどうか疑問である。私の出した洗濯物、なかなか戻ってこないと思っていたらここの家のものといっしょにしまわれていました。洗剤を買うように言われ買ったが、女中さんが休みの間に台所の戸棚を掃除をしたら同じものがあるわあるわといった具合でした。言われた事はやるが、考えてやるということができないという。勉強を教えてあげようとしたが、全くやる気がないのでやめたと言ってました。

ここに一週間ほどお世話になり大雨の中バス停まで送ってくれ、ミニバスに乗せてくれたが他のが直行なので乗り換えるようにいわれた。ところがバス同士で私たちの荷物の取り合いとなり大騒ぎになった。それをみた彼女は怒り、手と足でくってかかた。私たちは2ヶ月もアフリカを歩きそういうのは良くありましたが、彼女は長くアフリカにいても自家用車があるので知らないのでしょう。手でくらいつき、足でキック、やられた黒人もびっくりのようで周りの人は笑っていましたが、彼女のすべてのものに体当たりであたる姿勢に敬服しました。
母国語で通用するからこういうことができるのだろうか・・・・???などと思ったりしました。理論や道理なんてことは通用しないのがアフリカ。

ここからはしたすら北へ北へと進み、マラウィ人の若いご夫婦と一人息子の家にいった。ここは街中から40kmほどはなれていて、バスとタクシーを乗り継いでたどりついた。彼は看護士で夜勤の時にちょっと病院をのぞかしてもらいました。この部屋はマラリアにかかっている人の部屋とか、すべてが大部屋。何の病気の部屋かわからなかったが右と左にずらーとベッドが並んでいて、20台ぐらいはあったと思うが、その間の床にも寝たり、座っている人でいっぱいでやっと通れると行った状態でした。診察室で説明をきいていると9時すぎに4人ほど人が入ってきた。それで廊下に出るとそこにも一人マットレスを抱えた人と共に3人ほどいる。この人たちはみんな応援団で病人は一人だという。病棟の床で寝ているのはみんな家族で、ここではこういうのが普通なのだそうだ。
オランダ人の高齢の医師や、アメリカ人の若い男女が働いていました。平屋のバラックのようなたてものでしたが、この国ではけっこういい病院だとのこと。

この家では朝と夜に圧力鍋でお湯をわかしてタライにいれて身体を洗うように用意をしてくれた。私達は一回でいいと朝は遠慮した。三時のおやつにはお茶と食パン食事は覚えていないが、簡素なものだったがとても暖かい人たちでした。
こんな風に普通のアフリカの生活を味わえたのが、なによりもうれしかった。

オランダでは義母の具合が悪いので早く帰ってくるよう言われているので、少し速度を速めて北上、タンザニアに入るとすぐに首都のダル.エス .サラームに向かう電車の切符を買いたいと探すが買う手立てがわからない。プライベートの旅行会社に行ったがどうもあやしげで、信用できない。毎日出るわけではないので、結局自分で駅に行って確かめるしかない。この街とホテルが気に入っていたのでここにいたかったが、荷物をまとめ2時間近くバスに乗ってムベヤ駅のある町に向かう。
途中のバナナ畑の広大なことに目を見張る。

地元なら誰か知っていると思ったが、旅行会社は閉まっているしホテルの人も定かでないので翌朝早く荷物をまとめてバスで駅に向かう。
今日は出てないと聞いてがっくり。明日のエキスプレスのチケットを買い、再び同じホテルに戻る。

翌朝は電車の中で食べる物を買い、13時すぎの電車に乗るので昼頃に駅にきた。駅前には出店が8件ぐらいでていて、高い石段を上った所が入り口。
もうそろそろ来るかと構内に入ると、21時に変更になったという張り紙が出ていて再びガッカリさせられた。まるで教会のように長いすが整然と並んでいる構内に電車が遅れたせいかテレビが備えられみんなでみているが、我々は外で子供たちの写真をとったりしながら、ボケーと時間のたつのをまっていた。6時ををすぎ暗くなってきたので中にはいると、けっこう人でいっぱいで床の上に寝ている人もいる。電気は通っていず、大きな構内のあちらこちらにロウソクがたてられている。百人以上はいると思うが、静かなものである。実際にはよるの11時すぎに改札が始まり、40分ぐらい寒いプラットホームで電車が来るのを待ち、0時ごろに出発。
ながーい一日でした。

電車は男女別だったが、乗る前に話しておいた係りの女性が迎えに来てくれ、2つほど先のワゴンに移動した。女性と息子の二人と私達で、すぐにみんなベッドにはいる。
翌朝食堂車に行き、タマゴとパン、お昼は鶏肉とフライドポテトとシンプルだがあたたかいものが食べられるのはありがたかった。電車は中国製のようでガタガタとゆれはすごく、走り出す時もびっくりさせられる。枕木が全部に中国製と刻印されているのをみて驚いた。それでも快適な旅で、夕方には国立公園の中を突っ切り、キリン、鹿、シマウマ、などが電車からみられた。

昼すぎに着く予定が大幅に遅れ11時すぎに着きネオンもなく、電気が通っている家に住んでいる人も少ないアフリカでは外は真っ暗。おまけに一等車のある後方の車両はプラットホームからはみ出しているので、線路の上に飛び降りなければならない。いっしょにいる子供は迎えに来た家族に窓から渡していた。
とにかく首都のダル、エス、サラムに着いたので、明日は飛行機の変更をしてなるべく早く帰ることにした。
電車を降りタクシーに乗り込むと、すでにドイツの青年が乗っていた。彼とは食堂車で少し話しをしているので、顔を知っておりほっとした。

発車すると同時に助手席にも一人すわり、真っ暗な中を走り出した。前回泊まっていたホテルに行くことに決めていたのであと一息。アルと青年は楽しそうに話をしている。助手席の男はしきりに携帯電話で話しながら運転手と話しをしているが、スワヒリ語でことばがまったくわからず。ドイツの青年が「近道は遠い道」などと冗談を言っている。それから間もなくどこかの村の真っ暗な所で止まった。そこで数人の男にタクシーのまわりを囲まれ、前の男と入れ替わりに筋肉もりもりの男の人が乗り込み、後ろにももう一人無理やり乗り込んできた。叫んでも誰もこない。騒ぐと殺すぞと言われ、筋書きどうりだといやに冷静な自分。いざとなったらアルがこの前の男を首締めにしてとか、一人で頭の中で考えていた。お金を出したが足りないと言われ、カードを出すようにいわれた。タクシー強盗だ。

頭が悪いのか暗証番号が覚えられずお金が出てこないと、うそを教えたとほざく。銀行によっては使えないので携帯で話しながら次から次へと銀行を渡り歩く。どうも私達の車の後ろからもう一台後をつけてきているようだった。私達がいつも下ろす銀行をいうが、街中なのでいきたくないようだ。クレジットカードではなくオランダの銀行の口座から落ちるので、一日の最高金額は防犯の為タンザニアでは最高500ヨーローぐらいしか下ろせないのでしょうがないとあきらめていたが、うまく出てこずむこうがイライラしはじめた。ドイツの青年が自分がいっしょに行って下ろすというが、「おまえの指図は受けない。」と変なプライドがある。

お金を引き出せたせいか、突然一人の男がタクシーをひろい私達の荷物をそっちに移して、私達にもわずかなお金をくれて去っていった。ホテル代にも満たないが、彼らにしたら大金なのでしょう。パスポート、カードも全部返してくれ、おまけに前のタクシーの運転手の靴まで次の運転手に移動してあり、後で大笑いをした。
次のタクシーにもお金を渡し、我々を送り届けるようにと。
ドイツの青年はかなり動揺してお、数日眠れぬ日がつづいてたが、私はなぜか平静でした。年を重ねたせいか、「平常心これ道」これを自分のモットーとして39年生きてきた成果か、あるいは単ににぶいのか。。。。

アフリカの強盗は至れり尽くせりで、こういうのを親切と言うのかな~〜〜
アフリカでは!

あや子



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