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インディオと秘境生活=青年隊員の山木源吉さん=結んだ友情を育み続ける
2012年度の1月1日付ニッケイ新聞の新年特集号に『私たちの40年!!』、あるぜんちな丸第12次航681名の同船者の内、お二人が話題の人として取り上げられていました。その内のお一人山木源吉さんは、33人いた産業開発青年隊のお一人で40周年祭にも参加されていました。
『私たちの40年!!』寄稿集の写真集に下記記載と共に山木さんの写真が貼り付けられていました。
【40年の集いで撮った産業開発青年隊の皆さんの写真。山木源吉さん山形県出身1943年1月3日生まれ。昔はトカンチンスのインヂオ部落に住んでおられたとかお聞きしており是非詳しい話を聞かせて頂きたい同船者のお一人です。】
くしくも元日のニッケイ新聞で詳細をレポートして頂いているのでそのままお借りして寄稿集に収録して置きたいと思います。写真はほぼ10年前のものですが、5月にはお元気な姿で着伯50周年祭に参加して頂きたいと願っています。



ニッケイ新聞の1月1日付新年特集号で取り上げられているもう一人のユニークな同船者仲間、産業開発青年隊の山木源吉さん(同船者名簿で調べてみたところ1943年1月3日生まれで明日が誕生日のようです)です。40周年記念祭でお会いして以来御無沙汰していますが、5月の着伯50周年には是非参加して貰いたいかたです。

ニッケイ新聞 2012年1月1日付け

インディオと秘境生活=青年隊員の山木源吉さん=結んだ友情を育み続ける

 南米産業開発青年隊員で、インディオの部落で原住民と生活を共にした人物がいると聞き、聖州カンピーナス市の自宅を訪ねて話を聞いた。その名は山木源吉さん(69、山形)。青年隊員としてグァタパラ移住地で半年間働いたすぐ後、インディオの部落で4年間を過ごした。部落を離れて40年以上が経つが、インディオ保護区となった部落の住民に今でも親しまれ、年に1、2回は彼らを訪れ交友を深めている。

憧れのインディオの地へ

 中学生の頃に読んだ1冊の本が人生を方向付けた。本の名は『裸族ガビオン』(杉山吉良、光文社、1958年)、アマゾンに住むインディオに関するルポルタージュだった。「こんな未開の土地に住んでみたい」との夢を抱いた。
 当時のインディオ保護機関「SPI」(Servico de Protecao aos Indios)はキリスト教会と協同でインディオの生活支援を行っており、同書には様々な部落の言葉を操り新しい部落と第1コンタクトを取るフレイ・ジル(フレイはFreireの略で、修道士の意。本名は不明)という人物が登場した。「この人に会えば、インディオの部落に連れて行ってもらえるかもしれない」と期待を胸に地元の農業高校を卒業後、南米産業開発青年隊に入隊した。1962年に来伯、グァタパラ移住地で約半年間用水・排水路の据付に携わった。
 64年、ジル修道士に会える保証はないが、貯めた資金と彼の名を書き留めた紙切れを鞄に詰め込み、一路、パラー州マラバ市を目指した。青年隊らしい冒険旅行だ。1週間かけて約2千キロのベレン・ブラジリア街道を通過、ヒッチハイクでマラニョン州インペラトリス市、更に船に乗り換え同市へと向かった。
 有名人だったというジル修道士は容易に見つけることができた。「ろくにポルトガル語も話せなかったけど、辞書を引いて単語をつなげて来た理由を説明したら、喜んで歓迎してくれた」と懐かしそうに目を細めた。しばらく留まる内に、「一緒に部落にいくか」と念願の呼び出しがかかった。

シッキリン族との出会い

 初めて訪れた部族の名はシッキリン(Xicrin)。ジル修道士が連絡を取り、後の支援をカロン神父が引き継ぐことになっていた。マラバ市を流れるイタカイウーナ川の支流に集落があった。普段は急流で船が通れず、雨季で増水する年に1、2回だけ訪れることができる〃秘境〃だ。
 船で川の分岐点まで上ると、シッキリン族がカヌーで迎えにやってきた。歩いて来たグループも次々に川の対岸に現れた。侍のように頭に刈り込みを入れ、一糸纏わない大柄の体を戦闘用に赤黒に塗りたくり、手には弓矢を握っていた。顔立ちは東洋人そっくり。その猛勇な姿に「こりゃすごい」と胸が躍った。
 上流へはカヌーで行くが、同伴者全員が乗り切れず、若さを買われてか「お前は歩いていけ」と言われた。「言葉も通じないし、全く初対面なのに」とためらうが他に選択肢はなく、部族と歩いていくことになった。
 「案内される方なのに、彼らは俺を先頭に立たせようとした。『道も分からないのに、何で』としきりに抗議して一人を前に押しやると、怖がって後ろばかり見ていた」。部族での略奪が日常茶飯事のインディオにとり、密林で仲間以外に背中を見せることは命とりになる。「生き延びるためのルールに違いない」と、異なるルールが支配する世界に訪れたことを実感した。

口と尻からブクブク泡が

 夜は安全な場所に野宿を構えた。道中捕まえた猿を皮もはがず丸ごと焚き火に豪快に放り込み、焼いたもので夕食をとる。「腸が内部で破裂する、ボンボンという音が聞こえた。口と尻からぶくぶく泡が出て、顔が焼けて歯がむき出しになったのには参ったよ」と、当時の光景が未だに忘れられないというように苦笑いを見せる。
 遠征の時は部落から食料を携えるが、「蓄えるという習慣がなくて、腹が減ると満腹になるまで食べてしまう。食料は数日でなくなって獲物が見つからず腹が減ることもあるが、『なければ仕方がない』という考え」。今、食料にありつけることが全てなのだ。
 1日半後、部落に無事到着。椰子の葉で葺いた屋根を、木の柱で支えたものが住居だった。
 ポ語は通じなかったが「『これは何?』という意味の『マナカミジュク』を繰り返して部族の言葉を覚えた。雨も川も水も全部『ナ』だった。語彙が少なくて、色んなものを同じ言葉で呼んでいた」。
 女がマンジョッカやバナナを植え、男は原始林を拓き、狩りをした。狩から帰ると、豚、バク、猿、鳥など捕れた獲物ごとに異なる歌を歌い、部落にたどり着く前に仲間に獲物を知らせた。
 獲物は椰子の葉の硬い葉脈をナイフ代わりにしてさばき、地面に穴を掘って火を起こし、中で熱した石で調理した。「調理といっても塩もない。だから肉は絶対洗わず、そのまま焼いて肉の塩分を摂取する。物事はうまく出来ている」。
 食料が不足すると椰子の実を食べた。落ちて何カ月も経ち、腐りかけたものなら割ることが出来る。「白い幼虫が入っているのに当たると大喜びしていた。こんな虫…と始めは思ったが、あんなに喜ぶんだから美味しいのだろうと思って試してみた。噛むと口の中でパンッとはじけて、椰子油を濃厚にしたような味がして意外とうまかった」。彼らが食べるものは何でも口にし、狩りにも参加し生活になじんでいった。
 神父たちが年中訪れることができるよう、猛暑の中、テコテコが離着陸できる飛行場整備が引き受けた仕事だった。仕事を終えて集落へ戻る度、昔戦争で鳴らしたというベッカロチ族長が木の実やマンジョッカを振る舞い、労働をねぎらった。
 山木さんは「部落を出る時、友達の印に族長がくれたもの」と、祭りで使用する頭飾りや弓を見せてくれた。アララの羽は鮮やかな色を保ち、弓にも当時の張りが健在だ。(次ページにつづく)

タピラペ族の部落へ潜入

 シッキリン族と暮らして4カ月、「怖がりもせず、インディオと一緒に生活する男がいる」との噂が修道士内に広まった。パラー州とトカンチンス州との州境にあるマット・グロッソ州サンタテレジーニャ市のフランシスコ・ジェンテル神父から、タピラペ族の部落に同行してほしいとの依頼があった。
 依頼を引き受け、カロン神父に4カ月分の報酬を求めると、「神が報いてくれます」との返事。「一銭ももらえないのか」と愕然とするも夢は金銭に換えがたい。無給を覚悟でタピラペ部落へと向かった。
 「文明人が入り込んで風邪や肺病がはやり、カヤポ族の襲撃もあって大勢が死んだと聞いた。俺が行った時は、人口72人しかいなかった」。元々アラグアイア川の支流タピラペ川の上流に集落を形成していたが、1950年代から始まった人口減を機に教会関係者らが説得、部族の半数がSPIの活動拠点があった下流に移動していた。
 タピラペ族も東洋人と良く似た風貌で、子供の頃は蒙古班があった。裸の手足には綿を寄って作った糸をびっしりと巻き、男女とも木の実で作った耳飾りをつけていた。男性は下唇に穴を開け木の棒をはめ込んでいたので、いつも涎がたれていた。独自の言葉があったが、片言のポ語も話した。

興味深い儀式の数々

 「特に興味深かったのは儀式だった」と、男女の成人式の様子を説明した。「女の子は初潮が来ると、暗い部屋に1カ月隔離されて、食べ物を持ってくる親以外とは誰とも会うことが禁止されていた」。
 男の子は狩りが上達しある程度の年齢に達すると儀式を行なう。「カショッハという魚の針みたいに鋭い牙で、太ももの付け根から足下まで血が流れるまで裂いたり、大木を持ち上げたり、色々な項目で勇敢さや力が試された」。
 男女共に儀式を終えると改名し、12〜3歳で許婚と結婚し子供を産んだ。出産年齢が低く子沢山のため、人口の回復も早かったという。
 葬式も重要な儀式の一つだ。「仕切りのない広い土間だけの家の床に穴を掘ってハンモックに遺体を寝かせ、丸太を敷き詰めてバナナの葉をかぶせた上に土を盛った。死んだ人がかわいがっていた犬も『一緒に行くから』と殺して、持ち物と一緒に埋葬していた」。
 葬式には部落の住民全員が参加、夕方から夜が明けるまで墓の上を飛び跳ねながら死者の人生や人柄について歌い続けた。「明け方には墓が踏み固められてツルツルになり、時間が経っても臭いがしなかった」という。部族の伝統には様々な知恵が隠れていた。
 乾季でも土中で持ちこたえるマンジョカなどイモ類と、バナナを家族ごとに植えた。冬のないアマゾンではどちらも年中収穫できたため、蓄えるという習慣はなかった。焼畑農法で畑を作り、雑草が生えだすと場所を転々とするやり方に、フランシスコ神父が「もっといい畑を作り、同じ場所で連作する方法を教えてほしい」と依頼。部落の畑を一カ所に集め、全員に食料が行き渡るように指導をするのが4年間滞在したタピラペ部落での主な役割だった。

今も語り継がれる武勇伝

 一番の思い出の一つは、タピラペ族の仲間の救出劇だ。
 「神父たちの働きかけで部族が二手に分かれたせいで、下流に残った仲間が『向こう(上流)に自分の親戚が残っている。きっと苦労しているはず』と言い始めた。それで皆で会いに行こうということになった」。
 しかし遠征には危険がつきもの。他部族の攻撃に遭えば捕虜になる。「初めは大勢志願したけど、最後に残ったのは俺と5人のタピラペ族だった」。鉄砲と弓で武装し、カヌーで上流へと向かった。
 襲撃を免れ無事に到着した昔の部落には、僅か3人の生存者が残るだけだった。生き残った仲間は「昔は少なくとも100人はいたが、部族が半分に分かれた後、他の部族に何度も襲われ子供も全て連れて行かれた」と悲劇を明らかにし、救いの手を喜んだ。
 当時、文書に記録する文化がなかったタピラペ族には語り部がおり、部落内で起きた出来事を記憶し後世に伝承した。「彼らは部落の中で起きたことを何十年経っても決して忘れない。悪いことをすれば絶対部落に入れてもらえない。だから今でも、一度も顔を会わせたことのない幼い子供までも俺のことを知っていて、『ヤマキ、ヤマキ』とって言って寄って来るよ」と嬉しそうだ。

妻が育てたインディオの子

 25歳の時に結婚し、部落で新婚生活を送った妻のルイザさんと二人で部落を訪れると、喜んで駆け寄って来るもう一人の人物がいる。カラジャ族と結婚したタピラペ族の女性タイパの子、イパレという名の男性だ。
 山木夫妻の長男が誕生した同時期に生まれたが、母親の母乳が出ず、ルイザさんが2人の赤ん坊を両腕に抱えて母乳を与えた。「タイパは子供に『ルイザの乳がなければお前は死んでいた。お前の母はルイザだ』と教えて育てた。イパレは今もルイザを母として慕っている。人にしてもらったことをすごく大事にする、義理堅い民族なんです」と、彼らへの深い親愛を込めて語った。
 長男が就学年齢を迎えたため、山木夫妻は聖市に移り住んだ。仕事や子育てに明け暮れ何十年も部落を訪れることができなかったが、退職後は年に1、2回部落を訪ね、懐かしい仲間との友情を今も温め続けている。




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