HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




あるぜんちな丸第12次航着伯50年の集いを開催するにあたって(冒頭挨拶文)
2012年5月12日(土)にあるぜんちな丸第12次航着伯50年の集いを開催しました。『私たちの40年!!』HP開設から丁度10年間の助走期間を設けての50年の集いは、80席の略、一杯を占める盛況で実行委員長としては、ホットしました。各行事の会計報告も別途公開予定ですが、先ずは、セレモニの冒頭挨拶文を下記に公開して置きたいと思います。
通常の挨拶文とは一風変わったもので私の熱い思いを伝えたいとの気持ちの表れで、東京OFF会、神戸での移住と文化の交流センター(旧神戸移住センター)での講演会でも披露した「大砲としゃれこうべ」の歌を先に逝かれた同船者への鎮魂歌として熱唱させて頂きました。私の歌は、マイクなしで通用するものですが、ブラジル稲門会の相田会長夫人から発声練習をすれば上手くなるとのコメントを頂きましたが、これまでもこれからも歌う機会は少ないのでこれで満足しているとお答えしましたが、人様に聞いて頂くには練習した方が良いのかも知れませんね。
写真は、長女弥生が撮って呉れた物を使用します。


お早うございます。あるぜんちな丸第12次航の着伯50周年の集いを開催するに当たり実行委員長として一言ご挨拶させて頂きます。
あるぜんちな丸第12次航の681名の同船者は、1962年5月11日にサントス港に到着、昨日で丁度50年を迎えました。
戦後移住者に取ってこのあるぜんちな丸は、姉妹船のぶらじる丸と共に忘れられない名前です。処女航海の1958年6月2日842名を乗せて初航海の途に付き、1971年10月29日に127名を乗せて第40次航で移民船としての役割を終えています。国策として日本政府より10万2千円の渡航費の貸付を受けて移住者を合計10817人を運んで来ました。
私たちの第12次航は、700名以上を運んだ処女航海、4回,5回、6回、7回、9回に次いで681名を運んだ第7番目に位置し600名以上を運んだ最後の大型移民船でした。
第12次航の681名の70%弱の473名がブラジルに入植、残りの30%がアルゼンチン40名、パラグアイ68名、ボリビア100名に入られました。
本日ブラジル入植者では、アマゾンのトメアス移住地から三宅昭子さん、べレン近郊から田代恵美子さんご夫妻、マセオから黒田順子さん、サルバドールから谷千穂さん、リオのフンシャル移住地からは岩本洲さんご夫妻、ブラジリア近くのサンごダルトからは、コチア青年の青柳さんご夫妻、ベロオリゾンテから青木さんご夫妻、アラサツーバから丸谷さん、クリチーバから青年隊の坂本円二さん他の皆さんが参加下さっています。遠くボリビアのサンファン移住地からは85歳を超える高齢者の方3人を含む合計11人の方が参加して呉れています。パラグアイからは、園田義人さんが参加して下さっており、海外からもアメリカ在住の森 啓一さん、大阪から今回の50年の集いに合わせて井ノ口宏さんが駆け付けて呉れています。
最近、50年を超す同船者会の開催通知が邦字紙に報道されていますが、私たちの第12次航の同船者会は、40周年と45周年に開始され今回が多分最後となる50周年の集いを迎える事が出来ました。
この50周年の集いは、実に10年間の助走期間を経た催しで3日間に渡る特別な同船者会として位置付けています。この10年の準備期間は、『私たちの40年!!』と云うホームページ(現在234万回のアクセスがある)、『私たちの40年!!』関連BLOG、『私たちの40年!!』メーリングリストを通じて日々の動きを同船者全員の共有財産として分かち合うシステムを構築し情報交換をしながら今日の式典を迎えました。
4各国にまたがる横幅の広さとコチア青年、産業開発青年隊、花嫁移住、豊和工業の野球移民、南伯呼び寄せ雇用農、単身移民に海外協会連合会(現JICA)が経営する計画移住地としての第2トメアス移住地、JK移住地、フンシャル移住地、グアタパラ移住地、ジャカレー移住地等に入植された多様性は、まさに戦後移住者の総ての形態を網羅する戦後移住の縮図とも云える集まりでした。これら同船者移住受け入れ国における定着の過程を戦後移住史の一部として残して置きたいとの私の願いは、志に反して遅々として進んでいませんが本日、皆さんからお話を伺い一つでも多く『私たちの40年!!』ホームページに収録させて頂ければと念願しておりますので宜しくお願いします。
私自身が、50年前のあるぜんちな丸第12次航で早稲田大学海外移住研究会と云うサークルのメンバーとして東京都の保谷町で農業従事証明書を頂き東京都の農業移住者として大学を休学してあるぜんちな丸に意気揚々と乗り込んだ次第ですが、既に船側の資料でばれていたのかどうか分かりませんが、船内新聞斑の班長に指名され仲間の皆さんと船内新聞 【さくら】を発行しました。船が寄港中にも発行していましたので40部近く発行したのではないかと思います。リオ郊外のフンシャル移住地に入植、その後引っ越しもなく現在もフンシャルにお住まいの岩本家にこの幻の船内新聞が現存している事を発見し今回もその一部を飾っておりますのでご覧下さい。
40年祭の準備段階で39年振りに初めてお会いした杉島秀樹さんが開口一番『お前まだブラジルに居たのか?』でした。私は当時、現役の学生でしたし移住船にはそぐわない雰囲気を持っていたと思うしどうせブラション組で直ぐに帰国してしまう者と見られていたようです。事実2年でそれ以上休学が認められないとの理由で1964年の東京オリンピックの年に帰国、早稲田卒業と共に1965年にブラジルに戻って来ました。
現在東京にお住みの同船者、稲見正二郎さんが一別後初めてお会いした時に『神戸では沢山の若者がお宅に押し掛けて大変お世話になりました』と云われ理解出来なかったのですが、良く聞くと横浜を出港したあるぜんちな丸は、名古屋より西の同船者迎えに神戸港に寄港しました。横浜から乗船した若い者を10名以上に声を掛け我が家に連れて行って歓待したそうです。私はそんなことは全く覚えておらずそんな事が有ったのかな?と不思議な事実に驚きました。
アルゼンチンの同船者の田上英昭さんにお会いしたくて電話を掛けた所、『お前の声は直ぐにわかったよ』と云われキョトンとしてしまいましたがその理由を聞くとあるぜんちな丸がパナマ運河を通過中マイクを離さず色々解説?しゃべっていたのが耳に残っており電話の声と共鳴したとの事でした。
40年祭、45年祭に今回の50年祭準備の段階での幾つかのエピソウドを紹介しましたが、話がだんだん脱線して行きそうですので原稿に沿って話して行きたいと思います。
今回の50年の集いが多分最後になるとのコメントをしましたが、当時家長さんだった方々は、50年の歳月で殆ど亡くなられた方が多いと思います。当時35歳以上の方で今回参加頂ける方には会費免除の措置を取りましたがボリビアから3人、サンパウロ近郊からお二人と5人の85歳以上の方が参加して下さっています。
最長者は、吉田カツエさん1918年8月25日生まれで現在93歳です。男性では、ボリビアから来られている障子博忠さん1922年6月22日生まれで現在89歳です。長寿者の皆さんに拍手をお願いします。
一方、同船者681名の皆さんの中で着伯後一番早く亡くなられた方は何方だと思いますか?アマゾンのトメアス移住地に入られた海谷千恵子さんです。小雨降るべレンの港でトメアス移住地に向かう小舟に乗り換えて元気に発って行かれた千恵子さんがトメアス到着早々マラリアに罹り僅か2ヶ月に満たない7月5日に亡くなられています。あたら21歳を迎える前でした。トメアスの移住地内にあるお墓にお参りした時にさぞや無念のお気持ちが私の胸にも込み上げて来ました。『生きている我々が頑張らなどうする』と御母堂のコトさんに肩をドンと叩かれて励ましてくれた海谷コトさんも2003年に亡くなれました。櫛の歯が抜け落ちて行く寂しを感じます。
船内学校の中学生クラスの仲良しグループの生徒の中に現在県連会長として活躍している園田昭憲さんが居られます。吉田和子さん、龍川いく子さん、小原美香さん、城島サユリさん等に何時も囲まれている園田さんですが、着伯47年の5月11日に皆の人気者だった最愛の龍川いく子さんが乳がんで還暦を迎える前に亡くなられました。40年の集いに元気な姿を見せておられたいくちゃん、高野泰久さん、佐藤陽明さん等がこの席に一緒にいて貰えない寂しさは一入です。
少し型破りの挨拶になってしまいましたが、その序にと云う事で挨拶にはそぐわないのですが、訪日時に神戸の移住と文化の交流センター(旧神戸移住斡旋所)での講演会を開催して頂きましたが、その時の締めと同じく先に逝った同船者の皆さん、103年の日本人移住史の移住者の先達へ捧げる鎮魂歌を聞いて頂きたいと思います。「大砲としゃれこうべ」と云う私が学生の頃に歌声喫茶で良く歌った歌ですが、歌詞の4番は、私が付け加えたものです。

1.大砲の上に しゃれこうべが
  虚ろな目を 開いていた
  しゃれこうべが  ラララ云うことにや
  鐘の音も  聞かずに死んだ
2.雨に打たれて 風に晒され
  空のはてを 睨んでいた
  しゃれこうべが  ラララ云うことにや
  お袋にも 会わずに死んだ
3.春が来ても 夏が過ぎても
  誰も花を 手向けて呉れぬ
  しゃれこうべが  ラララ云うことにや
  人の愛も 知らずに死んだ
4.ブラジルに来て  早40年((よとせ))過ぎ
  夢かなわず 故郷を憶う
  しゃれこうべが  ラララ云うことにや
  祖国の土も 踏まずに死んだ

故郷を思いながら異郷の地で死んでいった多くの同船者、ブラジル
の土に返る私自身の思いを込めて鎮魂の歌をお聞かせしました。
長く成りますのでこの辺で失礼させて頂きますが、今日一日楽しく皆さんと過ごさせて頂きたいと思います。宜しくお願いします。




アクセス数 7565739 Copyright 2002-2004 私たちの40年!! All rights reserved
Desenvolvido e mantido por AbraOn.
pagina gerada em 0.0202 segundos.