「太く長い絆を今後も」=あるぜんちな丸12次航=50年目の同船者会開く=4カ国約80人が一堂に
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『私たちの40年!!』あるぜんちな丸第12次航、着伯50年の集いを取材しておられたニッケイ新聞の田中詩織記者がいち早く5月15日付で同船者会の様子を伝えて呉れています。同日帰国されるボリビアから参加された11名にもこのニッケイ新聞をお土産に持って帰って貰ったようです。
「太く長い絆を今後も」とのメッセージ大事にして行きたいと思います。
多分これが最後の大きな会合となると思いますすが、生きている限りこの5月11日のサントス到着の日は、私たちには特別の日として今後も大事に守られて行くと思いますので何らかの形で銘々が集い祝って行ければと願っています。今回沢山の同船者、『私たちの40年!!』のMLのメンバーの皆さん、私の個人的な関係者等多くの皆さんと共にこの日を祝えたことに感謝したいと思います。
田中詩織さん取材に感謝します。
写真は、15日付のニッケイ新聞を伊豆山さんがスキャナーに掛けて送って呉れたものです。
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1962年5月11日にサントス港に到着したあるぜんちな丸第12次航の『着伯50年の集い』が12日、聖市内のホテルで行われた。同船者会の開催は40周年、45周年に引き続き3回目。今回は国内各地にとどまらずボリビアのサンフアン移住地から11人、米国ロサンゼルス、パラグアイからも参加者を迎え、約80人が一堂に会した。また前夜祭、翌13日はサントスへ日帰りバスツアーも組まれ、絆を確かめ合った。
同船は481家族(681人)の移民を乗せ、4月2日に神戸港を出航した。下船後はそれぞれ伯国に473人、ボリビアに100人、パラグアイに68人、亜国に40人が入植し、乗船者の3分の1は当時15歳未満だったという。
会場では過去2回の同船者会の写真、あるぜんちな丸の写真や模型、船内新聞「さくら」や乗船者名簿など貴重な資料を展示。「長崎出身の人がこんなにいたのねぇ」などと口にしながら、参加者は興味津々で眺めた。
開会宣言は司会の吉田栄一さん=スザノ在住=によって行われ「出身県や年齢、学歴、職歴が違う人同士が同船者ということだけで50年後も集まるのはすごいこと。これからも太く長い絆を保ちたい」とあいさつ。
当時船内新聞を編集していた実行委員長の和田好司さん=ポルト・アレグレ在住=は、40周年時に開設したHP『私たちの40年』の閲覧数がこれまでで235万回を超えたと報告。「移住史として乗船者の生き様を残し、共有財産として分け合いたい」と参加協力を求めた。
南米産業開発青年隊出身で牧師の丸谷良守さん(73、広島)=アラサツーバ在住=、ボリビアから訪れた修道女の障子多美子さん(59、長崎)による物故者への慰霊、1分間の黙祷が捧げられた後、「私の50年」と題し、数人がこれまでの人生を交えて自己紹介した。
「人生は常に前向き風車」―。趣味の俳句を披露したトメアスー移住地から訪れた三宅昭子さん(秋田、69)は、入植1年以内に友人、婚約者の父をマラリアで、妹を自殺で亡くすなど、苦難の連続だった。
「生きる希望を失ったこともあったが、苦しい道を通ってきたから今がある。今はブラジルが良かったと思えますね」と笑みをこぼした。
終始和やかな笑顔で会場を見渡していた初参加の深沢泰之さん(71、山梨)=ジャカレイ在住=は着伯後、バイーア州サルバドールから約80キロの「JK植民地」に入植した。
60年頃、州政府によりサルバドールに野菜を供給する目的で造られた同植民地は、最盛期で約120家族がいた。
しかし、土地が悪かった上に移住者同士のトラブルもあり、深沢さん一家は一年で出た。「将来性がなかった。親は苦労したでしょうね」と振り返った。その後はグァラレマの桜高森植民地に移り、花卉栽培で成功。現在は一線を退き余生を楽しんでいるという。
その後一同は昼食を囲んだ後、賑やかに記念撮影を行い、最後まで懇親を楽しんだ。
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