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【東欧見聞録】 丸木英朗さんの紀行集です。
『私たちの40年!!』MLで御馴染みのトロントにお住みの丸木英朗さんが奥様と東欧の旅を楽しまれたようでその旅の紀行を沢山の写真と共に送ってくださっており『私たちの40年!!』関連BLOGに分けて掲載させて頂いておりますが、その第1部としてベルリン、プラハ、ブダペスト、ウイーンまでの10回分を纏めて『私たちの40年!!』寄稿集に収録して置きたいと思います。
写真は、沢山有りすぎて一枚だけを選ぶのは一苦労です。矢張りお二人が写っている写真を選ぶことにしました。残りの写真は、BLOGに掲載しておりますのでそちらでご覧下さい。


東欧見聞録


 30年ぐらい前にニューヨークのGE本社に勤めてた頃は東欧と中近東担当でしたが、どこに行ってもほんの数時間の滞在でしたから、街を歩く暇もなかったので、妻同伴の今回の観光旅行で、以前は通り過ぎた街並を満喫しました。団体旅行と異なり、自由気ままに歩き回るので存分にリラックス出来ました。ガイド無しでは、時にはハプニングもありますが、それも旅の醍醐味と思えば又楽しからずやです。
ドイツのベルリン、チェコのプラハ、ハンガリーのブダペスト、オーストリーのウイーン、ザルツブルグ、インスブルック、そしてドイツに戻りミュンヘン。最も楽しかったのは最終寄港地のミュンヘンでした。
 ブラジル人の妻と日本人の僕では文化的バックグラウンドも違い性格も正反対ですが、偶然にも不思議な事に美術館や博物館に興味が無いのが共通してます。もっとも、歴史の重みのある東欧各国は国自体が博物館のようで、ドイツやオランダが新興国のように感じます。
 旅の目的は二つあって、一つは現在シリアのダマスカス大使館に勤務してる同僚の亭主(ブラジルのバイア州サルバドルにある連邦大学教授)がチェコ人で十年越しで招かれていた事。二つ目の目的は妻の父方の先祖がチェコスロバキアとポーランドの国境あたりからオランダに流れ着いた流浪の民で、オランダで何世代か暮らした後にブラジルへ渡航してるので、先祖のルーツを訪ねる事でした。ちなみに、妻の母方の先祖はイベリア半島がスペインとポルトガルに分かれる前のマドリッド西北にある大きな村のコンデと判明してます。

ベルリン 

 前置きが長くなりましたが、ベルリン空港から20分足らずのノボテルチールガルテンはニューヨークのセントラルパークより広い公園の中にあり、郊外電車の駅前でベルリン市内で最もナウいところでした。広くて整然とした街路を十分ほど歩くと上品な商店街、反対側には大きなデパートや高級レストランやドイツ最高のケピンスキーホテルもあります。着替えに時間のかかる妻を待つ間、ロビー横のバーで生ビールを飲むことにしました。

久しぶりの本場のドイツビールはベルリネルキンドル、ベルリンの地ビールで、長旅の疲れがほぐれました。駅前の裏町の通りはハイドンストラッセとバッハストラッセの交差点、ハイドン街とバッハ街とはドイツに来た実感が涌いてきました。


商店街のデリカテッセンでスープとキッシュの軽食を食べただけで30ユーロ、物価の高い印象を受けました。

5月でも小雨降るベルリンは未だ風が寒く、トミーヒルガーで腕に1985星条旗マークのジャンパーを買いました。大雨に見舞われアーケードで雨宿り、ハンブルグから来たというお上りさんらしき老夫婦と英語で会話。大学で4年間もドイツ語を勉強した僕はヴァスイストダスぐらしか話せない有様。大学で一体なにしてたのか悔いても手遅れです。水泳の練習とアルバイトの他には学生自治会の会計ぐらいしかした覚えがないから仕方ないか。ベルリンは僕がビジネスで出張してた頃は東ドイツで、1989年に壁が崩壊されるまではソ連兵の居たので様変わりを感じました。国際都市ベルリンの中心ヨーロッパセンターのビルにあるモーベンビックで夕食を楽しみました。近くの北海で獲れる新鮮な魚のムニエルは美味で、辛口ドイツ白ワインの大瓶を空けてしまいました。
 翌日は15分置きに運行され20カ所で乗降自由の観光バスで、全く降りずに3時間かかる市内を一周して、所々撮影しましたが、戦後を思い起こすベルリンの壁や枢軸国だった日本の大島大使が松岡外相と暗号交信してた日本大使館趾等々、日本語で聴く史実は敗戦国人の僕には乗り心地の悪い観光バスでした。それでも、ヒットラー全盛時代のブランデンブルグ門には感銘を受けました。門から西側に広がる鉄道駅付近は未来志向の近代的なビルが立ち並びブラジルの首都ブラジリアの様相です。ふと、思い出したのはアメリカの医者を連れて韓国訪問した際に英語の観光バスに乗ると、日本軍の残虐行為を厭と言う程ありもしなかった事まで、これでもかこれでもかと次から次へと説明するのには辟易したものです。これを聞いた得意先の先生方は例外なく洗脳されてしまい、僕に向かって「お前の国は悪い国だ」と言われたことでした。
 バスでぐるぐる市内を見て回り疲れた僕達夫婦はホテルから徒歩で行ける公園内のレストランゼブラのテラスでリラックスし、ゆっくりと夕暮れのディナーをエンジョイしました。ドイツはイギリスと共に食べ物のまずい事で有名ですが、ここの料理はなかなか美味でした。公園内のフィルハーモニーには世界最高のベルリン交響楽団によるベートーベンの第五交響曲「驚愕」の看板が出てましたが、度の強いドイツワインの酔いで演奏中に眠ってしまうかもしれないので、あきらめました。


プラハ
ここからは汽車の旅、プラハに着くとユーロ圏外で両替。明るいうちにホテルに向かったタクシーが見晴らしのいい河畔で停まってくれたので写真を撮りました。カレル橋からプラハ城を望む国民劇場前で、ほんの少し垣間見た街並みでしたが歴史の重みを感じました。KKチェーンのフェニックスホテルは国立博物館や国立オペラハウスに近く、プラハの春にソ連が戦車を乗り入れたヴァーツラフ広場の傍。東欧では朝食にシャンペンを飲む習慣があり、朝っぱらからほろ酔い加減で心地がよろしい。妻が朝寝をむさぼってる隙に、朝まで営業してることで名高い隣のキャバレーにしけこむと、飲み代ただの上に女にも乗り放題。ホテルで妻は起きてましたが、僕が地図を持って河畔を散歩してたと信じてました。

 勝利のマリア教会(別名;幼児の教会)に行くのが妻の目的、道路を挟んで日本大使館の向かいです。偶然にも、ブラジル人の神父がポルトガル語でミサをしてました。教会の売店で安いメダルをブラジルへの土産に大量に買い込んでました。宗教的なバックグランドがなく、なんにも知らない僕も売店で日本語の小冊子を買いましたが未だ読んでません。直ぐ近くにアメリカ大使館があり、そこから路面電車でプラハ城の入り口まで行き巨大な城内へ、ところが見て回るには3日はかかると言われたので、城を外から眺めるだけで、帰路は昔には錬金術師が住んでいた黄金小路で土産物屋を観ながら坂道を降りました。途中、見晴し台があり塔の街として名高いプラハの全貌を満喫しました。路面電車で河畔の国民劇場まで来ると、観光三輪車が眼に止まり、坂道で疲れてたので市街見物に乗りました。学生アルバイトは英語で説明してくれ、狭い道を巧妙にくぐり抜け、興味深いユダヤ地区等を通り、橋を渡り対岸を走り抜けたまでは良かったのでしたが、対岸に戻る橋桁の麓の坂道で力が尽きたのか、降りて押してくれと言われ三人掛かりで橋の上まで汗をかきました。カレル橋のたもとで降ろしてもらい、チップを弾んで礼を言って別れました。有名なカレル橋には全聖人の像があり大勢の観光客が写真を撮り賑やかでした。ここから旧市街の中心にかけては、まるでサンパウロのディレイタ街のような混雑で軒並みの商店街にはTシャツや絵葉書が目立ちます。クリスタル店で妻が日本人らしい女性と話し合ってました。在プラハ大使館の外交官夫人で神戸出身の方で一時間近く話し込みました。ご主人からも富士山の印刷された名刺を頂戴しました。

4 
僕達夫婦がトロントに住んでると言うと、定年退官後はトロントで暮すつもりだそうで、生活情報が欲しいと申されました。そう言えば、銀行や商社マンはじめ日本企業のOBは日本に帰らずトロントに定住する傾向にあります。
 旧市庁舎の隣にある見晴らしのいいホテルの屋上テラスでビール発祥の地のビールを飲みながら、真下の広場の騒ぎを眺めてました。当地オリジナルのバドワイザーをアメリカのビール会社が商標盗用し、似ても似つかぬソフトドリンクまがいの味で、ビールの王様としてアメリカではベストセラー、アメリカ人はどんな料理でもまずく改悪してしまう天分があるようです。
ホッケーのチェコと隣国スロバキアの対戦の大画面に呼応する騒ぎでした。地元チームのジャージーを着たサポーターが大声で叫んでたから、チェコが勝ったのでしょう。最近の映画とテレビドラマでチェコでもロケされた「のだめカンタービレ」ツアーを地で行く今回のプラハ滞在は、想定外の楽しさで、数年前に読んだ「プラハの春」と「ベルリンの秋」で印象に残ったこの国の歴史をもっと知りたくなりました。その上、映画とドラマのモデルが、トロント猛虎会のパーティーに豪邸を会場に提供してくれるジェームス松本さんの甥で東フィル常任指揮者と言うのも奇遇。新宿の「ともしび」が、トロント歌声喫茶の会と日加歌声交歓会が出来たのも庭園を解放してくれた自称ジェームスボンドのお陰でした。
それはそうと、どうして父の先祖がこのような穏やかなボヘミヤの村から遠く離れた南米のブラジルくんだりまで流れ着いたのか妻は不思議がってました。それは、僕達ブラジル移民が太平洋から大西洋を越え一ヶ月以上もかけて移住したのと似たような事情だと思います。レシーフェ、リオデジャネイロ、リマ、パナマ、ロサンゼルス、羽田経由で大阪伊丹空港まで空路三十時間もかけてブラジルから日本へ嫁入りしたのを妻は忘れたのかな。いずれにせよ、現在EU本部のあるベルギーのブリュッセルのようにかつてはヨーロッパの首都でもあった重厚な雰囲気の都市でした。郊外も含め、再訪したい栄光の都プラハです。


ブダペスト
 ヨーロッパの歴史上では最強の栄華を誇ったオーストリーハンガリー帝国の王宮の丘を眺めながらノボテルセントラルにチェックイン。ドナウ川まで徒歩十分ほどの便利な立地でした。世界広しと言いえども、一国の首都が温泉街というのはブダペストの他に無いのでは。僕達はホテル推奨のセーチェニ温泉にホテル専属ハイヤーで行きました。途中、両側に各国大使館のある広い並木道を英雄広場まで行くと、温泉は公園の中のサーカス興行場の前にありました。このヨーロッパ最大の設備を誇る広大な温泉には度肝を抜かれました。オリンピックサイズの温泉プールの周りには、病状ごとの露天風呂があって、チェスをやりながらゆっくり湯治してる常連らしき老人達が大勢くつろいでました。野外の温泉プールや露天風呂は5月から10月迄で、屋内には医師の処方箋に従い、それぞれ効能書きに書かれた温泉に入るのですが、ハンガリー語の判らない外国人には不便ですが、適当に入浴してるようです。僕達夫婦は共に腰と膝に痛みがあるので、関節炎に効きそうな硫黄の匂いの浴槽に浸りました。
 存分にリラックスした後ホテルに戻り、夕暮れ近くでもあり、未だ土地勘が無いので、まるで劇場の貴賓席のようなホテル内のレストランで地元の料理を味わいました。温泉入浴後の生ビールで生き返った気分で、名物スープのグヤーシュで腹ごしらえ。
美しき青きドナウの流れの楽団の生演奏で浮き浮きして来たので、妻と輪舞しました。
 ホテルのフィットネスクラブでマリアがマッサージしてる間は、ジャクジーにでも入って待つように言われたので、これ幸いとばかり広いジャクジーの強弱いろいろな水流を試しリラックスしていると、ビキニ姿の若い金髪女性が入ってきました。はっと気がついたのは、日本と違って温泉やスパでは水着着用と注意書きがあるのです。そのオランダから来た女性は大股を広げ水流の刺激にうっとりしてるので、僕の伝家の宝刀が水面を叩きだしました。彼女が気づいたかどうか、こちらはふりちんでしたから浴槽から出るに出られず、フィットネスのワークアウトを終え彼女の亭主が彼女を迎えにくるまでに、僕は茹で蛸のようになってしまいました。日本と違って温泉では水着で入るのがヨーロッパの風習。日本の温泉で混浴の露天風呂に水着で入ってる女なんか見た事無いけど、郷に入れば郷に従えの教訓かな。古代のローマ風呂では、はたして水着着用だったのか知りたいものです。公園では素っ裸で寝そべってるヨーロッパの女性が温泉では水着で入るとは、一体どうなってるのと言いたい僕でした。


 翌朝、東欧の習慣に従いシャンペンを一杯引っ掛け、ホテルを出て右側最初の右角のイルミネーションがトップレスと読めました。あまりにも近いので気が引けたけれど、据え膳喰わぬは男の恥とばかり、ドアマンに恭しく迎えられました。しっちゃかめっちゃか、ダニューブの波間に揺られる心地でしたが、このまま書き続けるとML映倫監察官のお叱りを受けるかもしれないので、オアトがよろしい様でという事にしておきましょう。早朝の散歩?で腹が減っていたので、シャワーを浴びハンガリーの美味しい朝食をむさぼり食いました。妻も朝っぱらからシャンペンを飲み既に出来上がってたので問いつめられる事も無く事無きを得ました。
 
 ハンガリーに着いた初日には、ゆっくりと湯治でリラックス出来たので体調が回復し、ブダペスト随一の繁華街である歩行者天国ヴァーツィ通り82番地に向かいました。この日本へ発送してくれるアンティーク店では「地球の歩き方」読者には2割引なので、日本人バックパッカーに人気があります。結婚式には出席出来なかったので、先月に再婚した岡山に住む甥夫妻宛にオーストリーハンガリー帝国ゆかりの置物を買って発送しました。今回の訪問国ではハンガリーが最も物価が安いので、土産物屋でTシャツや野球帽等々を買い込みました。
 ヴァツイー通りの突き当たりに来ると、明るく賑やかなヴルシュマルティ広場で観光用三輪車に乗り市内観光。英雄広場には昨日行ったと告げ、ブダ側には自分で行くことにして、ペスト側の川沿いの案内を頼み、いざ出発。大聖堂やオペラハウスも立派な建築物ですが、圧倒されたのは国会議事堂でした。モダンなデザインではブラジルの首都ブラジリアにあるオスカル ニーマイヤー設計の上下両院の議事堂でしょうが、壮麗さでは世界の首都にこれほどの建築はないでしょう。昔、印度でタージマハールを見た時のような心臓の鼓動が止まったかのような印象を受けました。
 くさり橋のたもとのルーズベルト広場で三輪車を降り、カナダ国旗が翻りトロントに本社のあるフォーシーズンホテルの前からブダペストの象徴とも言われる由緒ある「くさり橋」を徒歩で渡りました。眼下にはダニューブ側に浮かぶ観光船や水陸両用観光バスが見られましたが、マリアは「青きダニューブ?」と首を傾げ、南米のヴェニスと称せられる故郷レシーフェのリオカピバリーベのほうが奇麗とがっかりしてました。もっとも、ここは下流ですから水も濁っており、ウイーン近辺では「ダヌビオ アズール」が見られると期待することにしました。橋の上ですれ違う観光客の中にブラジルサッカーチームのTシャツに帽子のおっさんにビバ ブラジールと叫ぶと手を振って応えてました。対岸からはケーブルカーで王宮の丘へ登り、国会議事堂初めペスト側の景観が望めました。


王宮の庭園から見下ろす「くさり橋」に1956年にソ連の戦車が渡り、ハンガリー動乱を威圧したのを僕は今でも覚えてます。と申しますのはメルボルンオリンピックの水球試合でハンガリーチームとソ連チームが大乱闘を演じたからです。

 一日中買い物と観光を楽しんだ後、荷物を置きに帰ったホテルの勧めるレストランXOXOまで歩いて行きました。かなり名の通ったレストランなのか、フロックコートにシルクハットや広いフレアスカートの貴婦人気取りの紳士淑女が目につき、僕達のようなカジュアルな服装が逆に目立ちました。メニューの説明書きを読んでいた妻がレストランの意味がショショタを連想され笑い出したので、周りの客達が怪訝そうな顔つきでした。ブラジル在住の方々はご存知でしょうが、ここはオアトがよろしいようでとしておきましょう。日本人の僕には店名が糞々とも解釈出来ますが、糞どころかメニューに書かれてる通りフランスのリヨン仕込みの料理人の腕前にはほっぺたが落ちるほど美味でした。
 ウエイトレスの話ではドナウ川の夜景は素晴らしく、ヨーロッパの首都では治安が一番良いので、是非とも見ないとブタペストに来た甲斐かいがないと言われエルジェーベト橋のたもとまで涼しい夜風に吹かれ歩きました。聖ゲッレールト記念像もライトアップされイルミネーションに輝くドナウの橋はどれも夜空に映え、確かに観光の価値がありました。


ウイーン
 近代的な塵一つない清潔な駅に着き中世から現代に戻ったような気がしたウイーン。オーストリア語と言うものが無く、ドイツ語圏の国家ですがドイツ人とは異なるそうです。アメリカのミネアポリスに本社のあるホテル ラディソンブルーにチェックイン。二軒の貴族の館をつなぎ合わせ改装した6階建ての建物で重厚な感じのホテルでした。その裏通りには眼を見張るばかりの宮殿のような旧侯爵邸を改装したパレコーブルグ レジデンツがあり、ヴィクトリア女王が滞在されたそうです。ラディソンブルーには2年前にスエーデンでも宿泊したことがあり、快適だったのを思い出します。
 ホテル前の公園には金色のヨハン シュトラウスの像があり、その傍のクーアサロンでは毎晩ヨハンシュトラウスの名曲を演奏しており、翌日の予約をしました。公園の横のベートーベンプラザにはベートーベンの像が立っており、音楽の都に来た実感がします。その次の通りにはブラジル国旗の翻るブラジル大使館。
そこから大通りに出ると軍楽隊が行進してるシュヴァルツェエンベルグ広場。その角にある市内最古のカフェテラスで夕食。僕はウインナー シュニッツェルでマリアはツァンダーフィレ ムニエール。海の無い国での魚は主に淡水魚で味はは淡白でおいしかったそうです。ふと眼についたのは、真前のインペリアルホテルのカフェテラスでは着飾った紳士淑女がくつろいで談笑してました。旧公爵邸の改装されたホテルには天皇皇后陛下が宿泊されたとか。
 翌朝、コーヒーショップが満員で会員制のクラブに案内されましたが、朝食に68ユーロも取られて眼を剥きました、換算すれば百ドル以上ですよ。ヨーロッパでは中南米同様ホテルの宿泊料金は朝食込みなのですが、アメリカ系のホテルはアメリカ式なのです、あほくさ。
 ロビーの案内所によれば、直ぐ近くの新王宮よりも、離宮の方が見応えがあるとの事で、地下鉄でシェーンブルン宮殿へ行きました。地下鉄の駅は柵も無く自由に出入り出来るのですが、検察で見つかれば高額にお罰金を取られるので、自動販売機で切符を買いました。余談ですが、滞在中に何度も乗りましたが、一回も検察にはあいませんでした。離宮の正門からの宮殿の眺めは絵葉書通りの見事なものです。宮殿内部の見学は一日や二日ではとても無理と判り、庭園をパノラマバーン(ミニトレイン)で回りました。隣に座ったアメリカ人が阪神タイガースの野球帽でした。シアトルから来た夫婦で奥さんが大阪府羽曳野の方で、日本ハムからレンジャースへ移籍したダルビッシュ投手を子供の頃から知ってるそうです。奥さんは松葉杖をついており、展望台以外はどこにも降りず僕達と同じく一周しました。


 世界最古の動物園やヨーロッパ最大の温室を興味深く観光し、展望台からはウイーンの森を眺望しました。もっと時間があれば、ウイーンの森まで脚を伸ばしたかったのですが、何もかも見るより、またの機会の楽しみにしておきました。
帰りは地下鉄のオペラで降りたら、駅構内に韓国旗のデザインの寿司屋がありました。ヨーロッパでも自動車はじめコンピューターもテレビも韓国製が’普及してるようです。以前は、眼鏡をかけカメラをぶら下げた背広姿は日本人旅行者と相場が決まってましたが、今では韓国人ビジネスマンに取って代わられたようです。みすぼらしいバカブンドの僕のような老人や、若いバックパッカーの無銭旅行者が日本人???
 オペラ座の今日のプログラムは古典バレー「ドンキホーテ」、向いのザッハートルテの元祖カフェーでザッハートルテを食べながら雨宿りしてると、日本女性の一団がなだれ込んできました。彼女達は埼玉県川口市女性合唱団のメンバーででドイツの姉妹都市の合唱団との合同公演を終え、音楽の都ウイーンに辿り着いたとか。雨が止んだので、アルベルティーナ宮殿前の観光馬車乗り場から市街観光に向かいました。歩行者天国の周りを回り土地勘が出来たので降りて、めぼしい所をぶらぶらして安くてうまいセルフサービスのレストランを見つけました。この魚介料理のノルトゼーはオーストリア各地にあり、新鮮な魚を注文に応じて料理してくれます。
 マリアはオーストリー名産のスワロスキークリスタル店で日本人セールスレディーに割引させ買い込んでました。其の店の本店のあるインスブルックにも行くので価格表を比較して値切り倒してました。韓国国旗や中国国旗のバッジをつけたセールスマンも居て客筋が自ずと知れます。以前はアメリカ人がヨーロッパ製品を買いたたいてましたが、ドルの威力が無くなった今では、いっとき日本で言われた「昔陸軍、今総評」の感がします。驕れる平家なんとかですね。
  
 翌日、美しき青きドナウ川に期待し、地下鉄に乗り橋の上の駅で降りましたが水は青くなく、クルーズでヴァッハウ渓谷まで行けば流域で最も美しい青い川が見られると言われ、あきらめました。其の事はマリアの元上司で元トロント総領事で現在はオスロ在住のノルウエー大使の息女ニーナさん(絶世の美女)から聞いていたのですが、旅程に入れなかったのは惜しい事をしました。橋の上の駅から対岸の超モダン都市の国連シティーに渡り道に迷ってしまいました。どうやら河畔に聳えるモダンなアパートの敷地の様で、階段で会った紳士がアメリカ英語で地下鉄駅までの道順を教えてくれました。超近代的な国連ビルはニューヨークの他ジュネーブとウイーンにもあって、いずれもブラジルの建築家オスカル ニーマイヤーの設計と聞き及びます。

10
 ヨーロッパ人はイギリス英語を話すのですが、その方は道路を挟んだ向いのIAEA(国際原子力機構)ブラジル代表部参事官でマリアとは共通の同僚がバングラデッシュ大使をしてる事が判り、アルモッソに招かれましたが初対面でもあり、どんな人かも判らないので一緒に写真を撮って別れました。 夜はホテル前のクーアサロンでヨハン シュトラウスの曲を堪能しました。インターミッションではバルコニーでシャンペングラスを傾けながら、眼下のヨハンシュトラウスの像を見下ろすのは夢のようでした。
 例によって?翌朝はやばやと散策に出かけ、先ずは運河の船着き場でスロバキアの首都プラチスヴァ行きのフェリーの発着を眺めてました。モダンな港にモダンな船で降りてくる乗客はスロバキア人なのか、西欧に較べると服装が地味に感じました。ウイーンのシンボルの大寺院を目指し裏通りの路地を、ものめずらしそうにきょろきょろしながら歩いてると、ユダヤ人街のまっただ中でした。地元の人に交じって、カフェーでカフェーオレを飲みながら、ユダヤ独特のベーグルをかじりましたが塩辛くて吐き出しました。これと言ったアバンチュールも無く過ごした古都ウイーンのバカンスでした。



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