今年4月30日に亡くなられた谷 出治(いずはる=宮崎県出身享年67歳)のお墓を訪ねて。
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7月3日(水)にサルバドールの石油コンビナートCOPENEの域内にある客先を訪問する事になり早朝7時の飛行機でサルバドールに飛んだ。客先訪問も無事に終えサルバドールに住む谷さん一家に電話で連絡を取り、翌日4日のサンパウロに戻る飛行機を昼前の10時50分にしておいたので出治さんのお墓参りに早朝から出向いた。ホテルに迎えに来て呉れたのは出治さんの3
男坊の谷ナポレオン源三郎さん1968年生まれの34歳である。出治さんが40年前に家族8名の総大将としてあるぜんちな丸に乗り込んだのが37歳の時であった。それより少し若いが源三郎さんが余りにも出治さんと生き写しで似ているのに正直云って驚嘆の声を上げた。十年以上日本に働きに行っていたとの事で日本語は旨く、しゃべり方まで宮崎弁?(本人は宮崎には行く機会がなかったと云っていたが)の出治さんを彷彿とさせるしゃべり方に40年前にタイムスリップしたような奇妙な感じを持った。谷一家とは渡伯の経緯からして曰く付きであり(谷 広海のもぐりの同船者の寄稿にも一部説明されているが)少し詳しく書いて見ます。写真は、サルバドールの市内にある閑静なお墓に静かに眠る出治さんと長男のアフォンソ英樹君享年25歳の墓の前で撮らせて貰った源三郎さんです。 |
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谷一家との付き合いは、同船者の出治さん達より前の1958年の東京の予備校から始まる。宮崎の田舎?から出てきた坂本九に似た谷家の次男坊広海君と予備校の早稲田ゼミナールで机を並べ下宿も一緒で1年の猛勉強?の甲斐があり無事早稲田に入学早慶戦、安保反対デモ、クラブ活動、休暇中の旅行等青春の多感な時期を一緒に過ごした。『よき友とは良くも悪くも影響を与え合える事が出来る友の事を言う』との持論でいつも影響を与え合っていたが、まさか広海君自身のみでなく出治さん一家全員がブラジルに移住して来る事になるとは夢にも思っていなかった。九州7県21日間の『移住思想啓蒙遊説』の実施の際に宮崎県にもお邪魔して出治さんご一家にもお世話になったが62年の4月のあるぜんちな丸で一家揃っての移住がそんなにスムーズに行くとは思っていなかった。家長が独身では駄目との事で出治さんは宮崎県の海外協会連合会に駆け込み花嫁移住希望者を紹介して貰い結婚したのが千穂夫人で当時看護婦さんとして病院勤務しておられた。広海君、私と同い年の40年生まれでブラジルで盲腸に罹ってはいけないとの配慮から盲腸手術をして移住されたと聞く。出治さんを家長とする谷家の構成は、母上の薫さん(当時62歳、数年前に亡くなられマセオ市に埋葬されておりまだお墓参りが出来ていない)、奥様の千穂さん(当時22歳)、妹さんの順子さん(当時25歳)、ケイ子さん(当時16歳)、清子さん(当時14歳)、弟さんの忠浩(当時21歳)、充浩(当時18歳)総勢8名の家族で新天地を目指したのは37歳の時でした。サンパウロ近郊のジャカレー移住地に入りその後退耕し暖かいブラジルの北東部に移り住み遅れて移住してきた広海君を中心に兄弟で力を合わせノルデステの谷財閥を構成するまで成長したが、広海君の拡大路線についていけなくなった兄弟の選択によりそれぞれが自分の道を追求する事になり妹さんのケイ子さん、弟さんの充浩さんは現在家族全員で日本に戻り茨城県に住んでおられる。順子さん(黒田)は、マセイオでビジョテリアを経営しておられ、清子さん(浅野)は、サンパウロで文房具屋さんをご主人と一緒に経営しておられる。千穂さんは、現在娘さんと一緒にバイヤ州のレンソイス市でポウザダ(旅館)を譲り受けシャッパダ・ヂアマンチーナの観光地で観光事業を展開中で出治さんも気に入っておられた事からブラジルの大自然の中で老後を過ごす予定しておられたのに癌で急逝された。今回案内して呉れたナポレオン源三郎さん(英雄のナポレオンと祖父の名前を取った命名)が出治さんの最後をぽつぽつと語って呉れたが好きな酒も飲まなくなり腹痛が激しかったとの事で入院後1週間で亡くなられたとの事、ご家族が皆集まったが既に意識が無く無言のお別れを済まし帰った日に息を引き取ったとの事で広海君の話では、『生前賑やかな事が好きだった兄貴の葬式としては参列者も少なく寂しい野辺の送りだった』との事。何度かサルバドールに出張時にお会いしておりPRAIA PITUBA HOTELを経営されている頃に週末に泊めて頂いた事もある。最後は、3年程前のまだお元気な時でメリヂエンのホテルでダブルのウイスキーを何度も豪快に飲み干し越し方行く末を語り合いましたが、相当酩酊して折られ無事帰宅されたのか心配で広海君の所に電話を入れてチックして貰った事もありました。それがお会いした最後になってしまった。太く短く九州男児として生き抜いた出治さんでした。千穂さん始め家族が日本に働きに行っている間も何度もの誘いを強く阻み2度と日本の土を踏むことが無かったとの事ですが、64年の東京オリンピックのクレー射撃の強化合宿にも参加する程の腕前だった出治さんのブラジルに掛ける夢は何だったのでしょうか。少なくともご自分の選択でブラジルに移住された事は間違いなくそれだけに安易に日本への帰国を拒否しておられたのではないかと想像しますが、10月にレンソイスの千穂さんのポウザダを訪ね色々語り合って見たいと楽しみにしております。ブラジル移住と言う選択が谷家にとっては結果として良かったのだろうかと気になるところですが、出治さんご一家は、ジュリアさん、アリセさん(1964年生まれの双子)、亡くなられたアフォンソ英樹さん、ヴアグネル信吾さん(1967年生まれ)、ナポレオン源三郎さん(1968年生まれ)の5人のお子さんに恵まれたが長男のアフォンソさんが1990年に25歳で亡くなり家族に大きな痛みを与えた様です。レシフェーで八百屋さんとガレテリアを経営する3男の忠浩さんは、お子さんが4人、4男の充浩さんも4人、黒田順子さんの所は3人、ケイ子さんの所は4人、清子さんの所が2人と一家8人の同船者が、都合27人に増えておりお孫さんを加えるとゆうに30人を越えています。そのうちケースワークとして詳細をお聞きしたいと思っております。
(平成14年7月16日タイプアップ 和田 好司)
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