ブラジルPENTAの記録【その1】
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我々あるぜんちな丸第12次航の同船者は、1962年5月11日サントス着ですのでブラジルのペンタカンペオンの全てを経験している訳ではありません。ブラジルが始めて世界1になったのは1958年のスエーデンの大会でした。17歳でペレーが華々しくデビュー、その後1962年のチリーの大会、1970年のメキシコ大会にも活躍、選手として3度世界1に輝きブラジル選抜軍で114試合をこなし何と95ゴールをマークした「世紀の名選手」とその名を欲しいままにしました。1971年に選抜軍を引退後もニューヨークコスモス等でも活躍、実業家としても成功しブラジル大統領候補にまで推される国民的英雄のまま現在に至っています。サッカーの神さんと言われるペレーの名を知らないサッカー関係者はいないと思いますが、我々同船者ではどうでしょうか?ブラジル40年の生活と今回を入れて4度になるサッカー世界1(平均10年毎の優勝)の年に皆さんがどのように過していたのか一人一人に聞いて見たいと思いますが、言い出しぺの私の世界チャンピオンの年のブラジルでの過し方、想い出等を辿って見たいとおもいます。 |
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1958年の第1回目の世界1の年にはまだ18歳で神戸高校を卒業して受験に失敗し、東京の予備校、時計台の裏にあった「早稲田ゼミナール」で勉強していました。59年4月無事早稲田入学、62年3年生で休学、あるぜんちな丸に乗り込みブラジル移住?5月11日サントス着で同船者の皆さんと第1線に並びました。ブラジルが2度目の世界1になったのは我々がブラジルに到着してまもない62年の6月でしたので右も左も分からず右往左往していた頃ですが、ある日曜日の午後サンパウロ市内のイピランガの丘の有名なペドロ一世の「独立か死か」と叫んだイピランガの雄たけびの銅像と博物館がある広い場所で多くのブラジル人と一緒に理解に苦しむポルトガル語のラジオ放送を聞いて見よう見真似でブラジル万歳、“VIVA BRASIL”と一緒になって騒いでいたのを覚えていますがそれがブラジルのサンチアゴに置ける決勝戦だったのか、誰のゴールで何所の国に勝ったのか等はまったく覚えていませんでした。記録を見ると決勝戦は、チエコスロバキアとの対戦だったようです。
1964年に大学を卒業するために帰国、65年に卒業と同時に再移住、北ゴヤス(現トカンチンス州)で牛飼いをしている頃に1966年のイギリスにおける大会がありペレーが負傷ブラジルは、腑外ない成績に終ったことを記憶している程度。第3回目の世界1は、1970年のメキシコ大会で既にポルトアレグレに引っ越して来てポルトアレグレ総領事館に勤務する傍らカトリック大学の法学部で勉強中の修行時代にあたり、「1億のブラジル人が応援する」と言う内容の応援歌が流行、24回払いの月賦で大型テレビを購入し大学の同級生とビールを飲みながら皆で応援、大声を挙げていたのを鮮明に覚えています。1970年代は、地元のINTERNACIONALと云う赤いユニホームのチームが全盛の時期で大きな赤旗を担いでサッカー場まで練り歩いたり丸紅ポルトアレグレ出張所にサッカーチームを結成しオナー、監督、補欠選手と大活躍?1984年には地元INTERの15歳―18歳の選手18名、役員、青年代表等総勢25名を引き連れて日本に遠征、当時の日本ブラジル青少年交流協会主催、アシックスタイガーズの後援(スポンサー)で日本で各県の高校選抜軍と10試合を実施しました。リオグランデドスール州の姉妹県の滋賀県、ポルトアレグレ市の姉妹都市である金沢市(石川県選抜)その年の国体が行われる予定の奈良県、大阪府、札幌等に同行(前半の山形県、福島県、長野県等の試合には仕事があり同行できず)北海道では堂垣知事に熊牧場の熊の番を友好のシンボルにポルトアレグレ市に寄贈してもらいましたが受け入れ態勢が整わず越し入れは、実現しませんでした。地元のインテルは、黄金の時代を過し選抜軍は、苦節24年やっと1994年アメリカ大会で4回目の優勝を飾りました。ゴールキパーのタファレルやキャプテンのヅンガも我がINTERの元選手でガウシオの誇り高き選抜軍でした。優勝戦は、南伯日本商工会議所のゴルフコンペがありリオグランデとペロッタスに1泊2日のバス旅行に行っていました。大川総領事始めゴルフ仲間全員でペロッタスのホテルにバスを着け応接室を貸し切りにして日本人だけの応援団を作り日本語でわいわい盛り上がり声を嗄らし、酒を飲みすぎてポルトアレグレまでの帰路のバスの中では皆酔いつぶれて寝込んでしまった事を思い出します。1998年のフランス大会では、優勝戦でエースのロナルドが急に癲癇?を起こし試合に出られなくなりヂダンのフランスに敗戦、準優勝に終ってしまった。我々の着伯40年の2002年の日韓合同開催では、前半の予選3ゲームを韓国でこなし、決勝リーグで神戸(ブラジル2−0ベルギ)、静岡(ブラジル2-1イギリス)、さいたま(ブラジル1-0トルコ)と勝ち抜き優勝戦を横浜で行い初対戦の宿敵ドイツに勝ちペンタカンペオンに輝いた。今回もブラジル選抜軍の働きは目を見張り監督のフェリッポン(大きなフェリィッペ)はじめロナルジンニオ、ルシオ大会寸前に練習中に肩を脱臼し参加出来なかったキャプテンのエメルソン等ガウシオの活躍が目立ち地元の我々には鼻が高い大会となった。決勝戦の前日の土曜日に日伯交流協会の第22期生の南部地区研修生の清水君(ブルメナウ市の東京海上火災研修)後藤さん(ラーヂエス市のヤクルト林檎果樹工場研修)瀬口君(カシアス市のSULTEXTIL社研修)立花君(サプカイア市倉敷紡績研修)の4名をポルトアレグレに集合させて若い者を集めての前日祭でシュラスコ大会を開催、ファンタジーの選抜軍関係のユニホームを全員に選ばせてこれを着用皆で撮った写真が掲載されております。
以上私達のブラジル40年をサッカー特にブラジル世界1の時期に何をしていたかを通じて我々の生活様式、周りとの関わりブラジルへの定着の過程をトレースして見ましたが皆さんのペンタカンペオンに纏わる想い出は如何なものでしょうか。是非お聞きしたいと思います。
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