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麻生悌三のブラジル不思議発見 39  アマゾンに強制徴用されたゴム採集の兵隊
麻生さんのブラジル不思議発見2月号は、原稿は1月21日に頂いておりながら2月1日収録をすっかり忘れてしまっていました。こんなことはこれまで一度もなかったのですが、愈々ボケ初めているのでしょうかね。麻生さん御免なさい。
今回の話題、アマゾンに強制徴用されたゴム採集の兵隊は、世界的な広がりを持つ世界史の一部として理解しなければならない歴史上の事実で日本軍のマレー侵攻により天然ゴムが採集困難となり原産地のブラジルでの増産を目指したアメリカの政策で何と4万5千人がゴム採集の兵士として集められ生き残って郷里に帰れたのは、僅か6千人、実に67%に上る死亡又は行方不明者を出したと云う過酷、残酷な結果になったとは想像もしていませんでした。マナオスに行った時に昔のゴム園見学と云うのがありセアラ州出身のおじいさんが頭にカンテラを付けた姿で採集したラテックスの煙で燻しているのを見せて貰いましたが大変な仕事だったのだと感心しています。
麻生さんに送って頂いた写真は、ここには1枚だけしか掲載出来ませんが残りはBLOGに紹介して置きます。


ブラジル不思議発見 ―39 アマゾンに強制徴用されたゴム採集の兵隊
1941年12月8日、日本軍第一陣はマレー半島の北端、タイ領のシンゴラに敵前上陸を行った。その後、山下奉文中将率いる3,5万の日本軍は英領マレーのコタバル等に上陸し、英軍パーシバル中将率いる、英印豪軍14万と激戦を行い、マレー半島を驚異的スピードで南下し、1100kmを55日間で突破し、南端の要地ジョホールバルに1942年1月突入した。マレー半島の天然ゴムの生産は、当時、世界生産の80%を占めていた。 人造ゴムが本格的生産しだすのは1945年頃で、当時のゴムは栽培ゴムに依存していた。 アメリカは大慌てで対策に乗り出した。その一つが、ゴムの原産国ブラジル(アマゾン)の大増産(栽培ゴムはなくジャングルでの自然採集)であった。又、ブラジル沿岸は無差別通商破壊を行っていた、ドイツU−ボートの暗躍地帯でもあり、ブラジルの戦争の直接協力はアメリカにとって不可欠であった。ブラジルは1942年8月22日に参戦するが、若し、ブラジルが中立の立場を取り続けるなら、東北伯の一部(ナタール、フェルナンドノローニャ島か)を武力占領するとの強い態度だった(ドイツ潜水艦U-ボートは戦中に1100隻建造され、終戦時残っていたのは30隻のみ。連合国の貨物船を3000隻以上、撃沈した。ブラジルの貨物船だけでは35隻が撃沈されている)。
1942年3月、リオデジャネイロに於いて、ルーズベルト大統領とヴァルガス大統領との直接会談でワシントン協定―1942年と呼ばれる協定が締結された。その要旨は、
―ブラジルの天然ゴムの年間生産量1,8万トンを6万トン以上に引き上げる。その為、
 ゴム採集労働者10万人をアマゾンに送り込む。その見返りとして、アメリカは1億ド  
 ルを供与する。ブラジルはその資金で、鉱山開発会社リオドーセと国立製鉄所ボルタヘドンダを創設した。他にも戦略物資調達の為に、2億ドルを供与する。
ブラジル政府は、この協定に基ずき、東北伯に米軍の基地提供とゴム増産の為のインフラ
整備を発表した。ゴム増産の為の創設機関は次の通り。
―ゴム銀行の創設(後のBanco da Amazonia)
-CAETA(アマゾンに労働者を派遣、管理する機関)−
-SEVA(アマゾンのゴム労働者に食糧、物資を配給する機関)
-SEMTA(アマゾンにゴム採集労働者を強制徴用する為の機関。法令が1942年に出され、
徴用業務は徴兵と同じく陸軍省が行った動員令であった。
ブラジルであっても、一虚、10万人の労働者を集めるのは難しく、それも、緑の地獄
と云われた、アマゾンでゴム採集に従事するなど万人が望まない事だった。政府は、旱魃
に苦しむ東北伯に目をつけ、当時月給としては破格の月給100ドルを支給する事を餌に
し、又、兵士としてイタリー戦線に送られ、戦死するリスクとを比べられ、二者択一を迫
られると、躊躇なく、アマゾン行きを選んだ。しかしながら、死ぬリスクは戦争より、ア
マゾンの方が,はるかに、大きかった事は知るすべはなかった。SEMTAによりアマゾンに送
られた労働者はセアラ州だけで3万人、他の東北伯州から1,5万人、合計4,5万人が
ゴムの兵隊として動員されたが、終戦後、生きて故郷に帰れたのは,6千人、アマゾンに
定住したのが9千人、死亡又は行方不明が3万人であった。一方、イタリー戦線に出征し
た2,5万人の兵士の内、戦病死したのは、1800人であった。アマゾンでは67%が
帰えらざる人であったのに対し、戦争では7,2%だった。アマゾンのジャングルの恐ろ
しさが改めて知る思いである。
アマゾンのジャングルは、高さ50メーター級の高木に被われ、日光は,さえぎられ、地
面は落ち葉とコケだけで、雑草も生えていない、昼なお薄暗く、高温多湿の空間である。
所々には倒木等で開いた空間があり、そこには、日光が差し込み、雑草も蔦も茂っている。
ジャングルの中で、食糧の供給を絶たれたら、自活は困難で、ジャングルの中は、果実も
動物も多く、食物に困らない等は、真っ赤な嘘で、日のあたる,樹冠にしか、開花も結実
もなく、それを餌とする動物、鳥類は樹冠にしか棲息しない。アマゾンのジャングルの特
徴は、同種の植物が固まって生えていなく、特に、有用樹は点在している。1Ha当たり、
420種もの植物が生い茂り(温帯では数種類のみ)、植物の多様性では顕著な地域である。
ゴムの樹も同様であり、点在しており、一人当たり100−150本の採集を担当され、
樹液(ラテックス)の採集には一日20−30kmもジャングルを歩かなければならない
重労働を課せられ。ジャングルの中は熱帯病の巣窟でもあり、マラリヤ、黄熱病やアメー
バー赤痢の罹病率が高く、栄養失調で体力が低下した時、発病すると、マラリヤは命とり
になる。ジャングルでは意外と飲料水探しに苦労する。水溜りは、いくらでもあるが、流
水を飲まないと、溜まり水はアメーバー赤痢、サルモネラ菌の巣窟である場合が多いい。
徴用されたゴムの兵隊は、東北伯のキャンプに集められ、船便でアマゾン各地の都市に運
ばれ、そこから、各地のゴム採集地に送り込まれる。採集地には、その地を所有若しくは、
管理する元締めがおり、実質的に元締めの管理下で働かせられる。キャンプから目的地に
2か月かかった位は普通であった。もと締めが経営する食糧、日用品の売店で必需品は購
入するが、代金はゴム採集によって払わられる。アマゾン特有の前貸し制度で、アビアド
ール制と呼ばれる、借金地獄の一種の奴隷制度である。政府と取り決めた月給100ド
ルも食糧の配給も実行されたケースは稀で、殆ど反古にされた。奥地に散らばって、管理
のしようがなかったのが実情のようである。紙み切れ一枚の契約書だけで、奴隷のように
こき使われ、飢餓と病魔に襲われ、半数以上の兵隊が命を落とした。 SEMTAで送られた兵
隊の最大の任地はアクレ州だった。首都リオブランコ周辺には、かってゴムの兵隊だった、
兵士が残っており、アメリカのTV局やブラジルのマスコミがインターヴューを試みた事が
あり、その中の一人アデリーノ サントス氏(89才)の記事を引用すると、セアラ州の
奥地で石工をしていた、当時一九才の青年に、ある日、ブラジル陸軍の将校が家に来て、
お前には召集令状が出ている、ゴムの兵隊となって、アマゾンに行き、採集に従事する事
は愛国的義務であると告げられ、キャンプに押し込まれ、制服、制帽、ハンモックを配ら
れ無理矢理、兵隊にされ、サントスと幾人かの仲間はアクレのジャングルにぶち込まれた。
半数以上の仲間が、マラリヤ、黄熱病、肝炎、栄養失調等で落命した。中には、毒蛇や
豹に襲われ死んだ者もいた。ゴムの樹液は明け方に良く出るので、夜中に起きだし、カン
テラを頭に固定する帽子を付け、左手にゴム液を入れるバケツ、右手にテルサードと呼ば
れる山刀を持ち、肩に散弾銃を担ぎ(アクレのジャングルにはやたらと豹が多かった)、少
量のマンジョカ粉(キャッサバから採る粉末でアマゾンの主食)と塩を入れた袋を腰にぶ
ら下げ、ジャングルに入って行く。腐食した落ち葉の地表は、ひざまで埋まれ、歩きにく
い、ゴム樹に切り込みを入れ、下に固定したカップに液を溜める。太陽が上がった頃、カ
ップの液を回収して歩く。白い樹液を煙で燻し、60kgの塊に仕上げる作業である。 
ジャングルの中で終戦を知らず、働き続けた者も大勢いた。借金地獄から抜け出すため、
夜逃げして、ジャングルを超え、筏を作って、川を下り 助かった者もいた。アマゾンに
残留した東北伯人の村が、今なお、各地に点在している。
ゴムの兵隊として徴用された、若者4,5万人以外に、旱魃を逃れて、アマゾンに移住
した東北伯人は約15万人いる。家族ぐるみでの移住が多く1941年から45年の5年
簡に男11万、女4万の15万が移住している。
ゴムの生産は政府の増産計画にも関わらず,あまり、効果が上がらなかった様子で194
1年―45年に約1万トン増産し、年間2,8万トン位いだった。
(写真はゴム樹とカップに採集した樹液)及び(ルーズベルトー右とヴァルガス大統領―
左の写真)

附録 ハナグマ
中米、南米の森林地帯に棲息する、アライグマ科の小動物で、長い口と体長程の尾が特徴
である。尾には、白い輪が模様になっており、尾を立てて歩行するので、群れの目印にな
り、マダガスカルのキツネザルにそっくりである。和名はハナグマ、英名 Coati ポ名
Quatiで、数十匹の群れで行動するが、オスは成獣すると単独行動をとる。体長30−70
cm、体重 3−8kg。尾の長さはた体長と略同じ。雑食性で果物、昆虫、小動物等で
あるが、体表から,毒を分泌して、攻撃から守る毒カエルが好物で、捉えた毒カエルの背
中を抑え、毒を充分、絞り出してから、食べる、ノウハウも身につけている。昼行性だが、
木登りが巧く、樹上に専門に活動を移し、猿と同様の機能を持つに至った、キンカジュも
ハナグマの仲間である。 普段はメスと子の20頭位の群れで行動するが、繁殖期になる
と、1頭のオスが群れに加わり、妊娠したメスは群れと、別行動をとり、樹上で出産し、
子ハナクマが生後、6週間位い経過したら、元の群れに子連れで加わる。ペットとして飼
うと、人に良く馴れる。
(写真はハナグマ)

附録 ペルビアン ジャイアント オオムカデ(英名 Amazonian Giant 
Centipede)
アマゾンのペルーと、ブラジルのジャングルにとてつもない、体長20−40cmと云う、
でかいムカデが棲息している。胴体は赤胴色で脚部は黄色と派手な色で、ジャングルの地
上部に生息し、主として、夜行性のムカデである。強力な頤と神経毒を持っており、何で
も攻撃する、食性は肉食で、ネズミ、カエル、小蛇、昆虫、小鳥、蜘蛛等である。
(写真はジャイアント オオムカデ)

附録 アマゾンの鶏舎の番をする鳥 ムッツン(Mutum)

アマゾン及びマットグロッソ、東北伯にムッツンと云う種類の大形の鳥がいる。七面鳥の
雌鳥位の大きさで,体長70−80cm、体重3kgぐらいの、キジ目、の鳥だが、あま
り飛べず、地上を歩くことの多いい雑食性の鳥である。猿の群れと移動し、樹上で猿がこ
ぼした餌の残りを餌とする習性があり、ジャングルでは良く、猿の群れの下にこの鳥の親
子を見る。ムッツンは攻撃性が強く、縄張り意識が強く、雛から育てれば飼い主に良く馴
れる。アマゾンの農家などで庭に放し飼い(雛の時捕えて馴らす)にしておくと、見知ら
ぬ人が近ずくと、果敢に攻撃してくる(蹴りと嘴が強い)、。鶏舎に放すと、鶏の番を良く
くし、山 猫、蛇、トカゲ、カメレオン等の害獣が近ずくと、追い払うか、殺してしまう。
駄犬顔負けの、番をし、番鳥と云うべき、有益な鳥である。この鳥は、オーム類と同じ長
寿の鳥類で、60年ぐらい生きる。(写真はムッツン)
2013年2月1日
麻生



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