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川越 しゅくこさんの【アメリカン青春グラフィティ】  Honey FM 記載記事 (その11−その15)
川越しゅくこさんの【アメリカン青春グラフィティ】のその11から15を以前送って頂き『私たちの40年!!』関連BLOGを通じて皆さんにもお届けしていたのですが、つい取り纏めを怠りそのままに成っていたのを今回しゅくこさんにお願いして纏めて再送して頂いた。『私たちの40年!!』HPの寄稿集に収録して置きたいと思います。
今回、読み返して見て初めて読まして頂いたような新しい感覚と意識下に残っていた懐かしい感じを抱くことが出来、これがしゅくこさんの書かれる文章の特徴だと気が付いた。同じ移住船、あるぜんちな丸の第13次航(私たちが乗船した船が12次航だったので我々を南米に残し帰国して再度南米に向かう航海)でカリフォルニアに留学したしゅくこさんの青春グラフィティ、その感受性と新しいものに立ち向かう果敢な精神に感服する。
写真もその都度送って頂いているものから1枚選んで掲載して置きます。今回は、アメリカの星条旗を配した≪青春グラフィティ≫を使わせて頂きました。


No. 11 「小学三年生のダンス・パーティ 」
あるぜんちな丸がロスに着港したのは1962年の夏だった。キューバ危機や人種差別問題の厳しい時代であったけれども、中南部の州に比べて私の住むカリフォルニア、サンフランシスコの郊外はおおらかでのんびりしたものであった。街には「Locomotion」「Down Town」などの曲が若者たちの運転するオープンカーから大音響で流れ、彼らの笑い声と混ざって私の心を陽気に染めた。アメリカはまさにダンス・ブームの時代でもあった。
20才の私は週末になるとどこかで必ず開かれるきさくなパーティにでかけた。特別な相手のいらない、みんなで盛り上がるその種のダンスを私は好んだ。またホスト・ファミリーも自宅を開放して多くの友人ができるように仕組んでくれた。 おかげで私は留学生活の緊張からしばし解放され、新しい出会いと情報交換を楽しめた。

その日は、ホスト・マザーと一緒に朝からクッキーを焼いていた。長男のリードの学校でダンス・パーティが開かれるという。「小3でダンス・パーティ?」と私。 「そう。ジェントルマンに育ってほしいからね」彼女はウキウキしながら答える。甘い香りが家中を満たしていた。リードは私にドアを開けてくれる、椅子もひいてくれる、荷物はすぐに持ってくれる、大人の会話にでしゃばってこない。小さな紳士としてマナーは100点満点だった。実は前日の夕食後、算数の苦手なかれを机の前に座らせ、分かるまで徹底的につきあってやるつもりで気がまえていたのに、「シュクコ、そろそろリードの寝る時間だから」と途中であっさり中断された。そんなことがあったので、小3にはダンス・パーティなどまだ早いよ。もっと大事なことがあるでしょうに、・・・と私はクッキーの小袋にリボンをかけながら内心思っていた。
小学校の体育館が会場になった。中に入れない親たちは体育館の外周りで手作りクッキーを売った。収益金を学校に寄付するためである。ときおりドアが開くと陽気なアメリカン・ポップスが弾丸のように飛び出す。体育館のまわりをパトロールする地元の警官の足も軽いステップを踏んでいる。
その後、リードにどんな変化があったのか気になるところだった。ガールフレンドが急増したか。髪型や服装を気にするようになったか。答えはノーである。相変わらず友達たちと庭のクルミの大樹によじ登り、作った小屋で寝泊まりしていた。トムソーヤかハックルベリーフィンを想わせるそばかすだらけの頬に泥をつけて。
たわいないダンス・パーティに比べて、年末には大学主催の舞踏会(ボールという)がサンフランシスコのホテルで盛大に開かれる。同じジャーナリズムのクラスのナンシーがその日のためのロングドレスを縫ってくれた。彼女のボーイフレンドが私のエスコート役を秘かにアレンジしているという。よくあるブラインド・デイトである。私の専門(?)は自由に踊るダンスである。なのに、そんな場違いなところにひっぱりだされるのはとても憂鬱で苦痛だった。しかし、ナンシーたちが私のブラインド・デイトの相手と一緒に車で迎えに来た時、私は観念するしかなかった。
ホテルの広いボール・ルームはたくさんの着飾った学生たちで埋まり、バンドの生演奏が始まった。私はその日はじめて会った相手の足を踏みつけるたびに謝り、一刻も早く逃げ出したかった。それでもわざわざエスコート役を引き受けてくれた彼にできるだけ恥をかかせぬよう、失礼にならぬようにと自分なりにレディとして振る舞ったつもりだ。私の誠意が伝わったかどうかは知ったところではない。しかし、彼は終始笑顔で接してくれ、私は心底から感謝した。ホテルを出て私たち4人はコーヒーショップに立ち寄った。4人がけの席に腰をしずめた。改めて見るとこんなに笑顔の素敵な青年だったのかと思った。それにもまして魅力的だったのは、穏やかな口調と人の話に興味を示すゆったりした自信。それはこの3人に共通する空気だった。
話題が小3のダンス・パーティにふくらんだ。3人は、それはマナーだけでなく内面の問題だと言う。遅かれ早かれ人は異性を意識することから恥じらいを覚え、礼儀や他人へのいたわりが生まれ、相手を傷つけないように努力する。ダンスを通して、この積み重ねがいい大人に成長させるのだ、と。私たちは深夜を過ぎても話し込んでいた。濃密で確かな青春のひとときが流れていた。彼等のおかげで、その舞踏会は私の忘れられない青春の一ページとなった。
あのカフェはとっくに無くなったが、私の中にはまだ存在している。そっと訪ねて行くと、いまでも活躍しているアンディ・ウィリアムズ、キャロル・キング、ハリー・べラフォンテ等の歌声が聞こえてくる。 ちょっぴり大人になった自分がそこにいる。


No.12  「天使と張り子のトラ」
                                 
 子どもの頃、毎年、クリスマスがくると高知の祖母からの贈り物が待ち遠しかった。箱を開けると桂浜の珍しい貝がらや薄い桜貝などがキラキラとまぶしく、手の平の中で潮騒の音が聞こえてきそうだった。他には手作りのとうキビ人形が数体、一つずつ新聞紙にくるまれていた。とうもろこしの薄皮を干して胴体と着物を作り、ひげを金髪に仕立てた15cmくらいの素晴らしい人形である。高知の町を見下ろしながら、縁側でほおばったキビが口の中で甘くはじけたこと、その横で祖母がキビの薄皮を干していたことなどを昨日のように思いだす。
戦後、大阪のある地方都市で路地裏の長屋住まいをしていた牧師一家は一日の糧にも窮する毎日を送っていた。少女であった私は祖母からきた宝物を飽かず愛でたものである。その頃の幸せ感は生きている限り消えはしない。
祖母のプレゼントのセンスの良さは私の母にも受け継がれた。クリスマスの朝、枕元のカサカサした紙包みに飛び起きるとそこに絵本があった。中でも、小3の時もらった「母をたずねて三千里」には何度も涙した。ジェノバとかブエノス・アイレスという響きに異国への強い想いを馳せたのはそれが最初だったかもしれない。
しかし、クリスマス・プレゼントには一つだけ苦い思い出がある。
あれは1962年、あるぜんちな丸でアメリカに留学した最初のクリスマスだった。
ステイ先の家族たちになにか日本的なものを私の名で送ってくれるよう父母に頼んだ。私にそれを買う余裕がなかったからである。いま思えば、両親にもきっときつい出費であったに違いない。待ちに待った小包が船便でぎりぎりに届いた。
クリスマスの夜。リビングの中央には数日前にみんなで山に行って切ってきたもみの生木が飾り付けを終えていい香りを放っていた。その下には色とりどりの贈り物が置かれ、私が送ってもらったみんなへのプレゼントもあった。ビルとサリー夫妻に対する両親の感謝の気持ちが、贈り物と共にカードに記されていた。
七面鳥の丸焼やケーキの匂いが家中に満ちているリビングで私たちはもみの木の回りに座った。プレゼントを開ける瞬間がきた。小3の長男のリードがいちはやく私からのプレゼントを開け、「わー、これぼくほしかったんだァ!」 満面に笑みをたたえ動物図鑑を高々と上げてみせた。かれはなんでも喜んで受け取ってくれる優しさを備えていた。しかし、幼稚園児の次男のロスは一筋縄ではいかない。かれがプレゼントを開ける瞬間私に不安がよぎった。中から出てきたのは、なんと張り子の虎である。竹製の胴体に虎模様の和紙を張り付けた、ひょこひょこ首だけが動く日本の伝統玩具。ロスの顔がみるみる歪んだ。「こんなのヤダッ!」 張り子の虎は宙に投げられプレゼントの束のなかにころがった。きっと大好きなゲームが出てくるとでも思っていたのだろう。両手の拳を握りしめ顔を真っ赤にして抗議した。かれにとって私は客ではなくわがままや甘えのきく、ただの姉的な存在にすぎなかったのである。まもなく父親に首すじをつかまれて自分の部屋に退場させられた。けたたましい泣き声とドアを蹴る音。当時すでに2台の車、プールとテレビのあった家庭の少年に、江戸時代に端を発する伝統玩具の良さが分かるはずがなかった。
母は、なにか日本的なものをという私の一言に引っかかって、考えすぎたあまり勘が狂ったのだろう。十字架の下の虎はいかにも居心地が悪そうだった。
しかし、さすが日本の伝統玩具。けなげにも一生懸命その首を振ってキリストの生誕を祝っていたのである。オーナメントの点滅する中に夫妻の申し訳なさそうな顔をみると私も泣きたくなった。あの時、ツリーの天使が張り子の虎に微笑んでいるように見えたのは気のせいだったろうか。
生涯心に残る贈り物・・・。それを選ぶのは、易しそうであんがい難しいことなのかもしれない。


No.13 「ハミングバードのいる夕食」    
カリフォルニアではたいていの住宅にパティオとよばれる中庭がある。
表通りに面した広いオープンな庭に反して、それは裏庭の一角に灌木に囲まれたごくプライベートなスペースとしてあった。雨季のないサンフランシスコ効外は、一年を通して温度が7度から20度くらい。パティオで夕食をとるのが各家庭での日常だった。これは案外知られていないアメリカ人の一面であろう。ホームステイ先もそうであった。星の出はじめる頃、1人用の折りたたみ式スチールイスとテーブルを各自持ち出し、料理を盛った自分のトレイを運ぶ。私たちは祈りの代わりに日本語で「イタダキマース」と声をそろえて食事をはじめた。ホクホクの皮つきべイクド・ポテト、その切れ目に溶ける金色のバター。甘いニンジンとグリーンピース、こんがり焼けた骨付きチキン。料理もシンプルなら、私たちの服装もきわめて簡素だった。ノースリーブのシャツにショートパンツ、そして裸足。だからこそ風の匂いも土の感触も身近に感じることができたのかもしれない。
食事を始めると、世界一小さな鳥、ハミングバードがいつもやってきた。若葉色の体に茶色の羽根。うっかりすると蛾とか昆虫と見間違えてしまう。私たちの目の高さにぴたりと静止し、空中で羽根をブンブンと高速回転させながら紅いブーゲンビリアに細長いくちばしをさして密を吸う。ステイ先の子どもたちはハミングバードの食事の邪魔をしたり、脅かすような大声を出さず家族のように自然に接していた。
「シュクコ、ハミングバードは種類によってちがうけど、1秒間に10-80回羽ばたくんだよ」と動物博士の長男リード。見惚れる私に「空とぶ宝石ってよばれているんだ」。鳥たちは、その名のとおり全身で喜びをハミングしているように見える。“ブンブンブーン ハチが飛ぶゥー、お池のまわりに・・・”思わず口ずさむ私。”Bu-n bu-n bu-n ○ △ ×  ?? “ 家族は笑いながら私の口真似をしてハミングする。
ちなみに、これを日本名でハチドリと知ったのは帰国してからだった。
1962年、あるぜんちな丸で渡ったアメリカはおりしも43才のケネディ大統領の時代。すでにエアコン、二台の車、プール、大型冷凍庫などと溢れんばかりの電力を消費していた当時のアメリカ人なのに、こと食事になると電気より夕暮れの自然光にこだわった。はじめての日、そんな薄暗い夕食はなんだかわびしく映った。しかし、かれらはむしろいきいきしている。父親のビルが言う。「開拓者時代から受け継いだ遺伝子がそうさせるんだよ」と。「開拓者魂は私たちの血の流れなのね、きっと」母親のサリー。「フロンティア・スピリットだよ」とリードが胸をはる。ロスは口の中にチキンをほおばり、なにがおかしいのかケラケラ笑っている。涼しい風は髪の中にまぎれこんでは遊び、脇から乳房の辺りをきままにくぐりぬけていく。ふと、開拓者たちもこのように同じ風を感じたのかもしれないと思った。夕陽の沈んでいくのを見ながら、ビルたちの両親も祖父母たちも、ハミングバードのいる夕食を楽しんできたに違いない。人は自然を前にして、おごそかな気持ちで頭(こうべ)を垂れ、その日のしめくくりをしてきたのだろう。
ハミングバードは相変わらず羽根をぶんぶんしながら私たちの前で密を吸っていた。


No. 14 「霧の中のできごと」 
8月のある日、ボブ君がサンフランシスコにドライブに誘ってくれた。かれとは同じスピーチクラスで、毎回みんなの前で発表する「7分間スピーチ」を一緒に練習しあう仲だ。自称「単純でお人好しなカリフォルニアン」らしく、なにかと私の英語をサポートしてくれた一人である。
ステイ先のウォルナット・クリークからサンフランシスコまで約30km。この一帯は夏でも霧が多く、温度も15゜Cくらいに下がることもある。サンフランシスコの霧は、ロンドンのそれのように、なにか秘密めいた重く湿ったイメージはない。どこか陽気である。
車は湾と内陸を結ぶ吊り橋、ベイ・ブリッジに入ろうとしていた。綿菓子のようなふわふわした霧が雲のように大きくゆったり流れている。ふと気づくと、隣のボブ君も空も海も消えていた。私の体は白一色の世界へ持ち上げられ遊泳をはじめた。唯一、点景を添えるのはオレンジ色の灯りである。両サイドのケーブルにかけられた首飾りのように、ゆったりした曲線で天空へ連なっていき、それからゆるいカーブを描いて下っていく。
数十分だったのか、数瞬であったのか、私は心地よく霧の魔法に身をゆだねていた。その時芳しいコーヒーの香りが車の中一杯に満ちた。それは、はるか霧の向こうのサンフランシスコの街角から、この湾をまたぐ吊り橋にまで漂ってきているのだった。
留学した1962年。トニ―・ベネットの歌う「霧のサンフランシスコ」が世界的に大ヒットした。後にアンディ・ウィリアムたちが歌い、サンフランシスコ市の市歌にもなる。
「I left my heart in San Francisco ♪」 詩情あふれる甘い歌声が毎日どこかで流れていた。霧といえばだれもが口ずさみたくなるこの名曲は、またコーヒーの香りにもぴったりであった。やがて海面向こうの低いところに、蜃気楼のように高層ビルが浮かびあがってきた。
その夜はとくに霧が深かった。そんな日は内陸部のウォルナット・クリークまですっぽり霧に包まれる。ボブ君には裏木戸のところでそっと下ろしてもらった。ここからなら家族を起こすこともなく、10m先の部屋まで目をつむったままでも歩いていける。霧のカーテンをそろそろと分け入るようにして鼻歌まじりに足を進めた。その時、足元の視界が目に入ってギョッとした。あと一歩でプ―ルに転落するところだった。あろうことか、私の足は自室と逆方向に向かっていたのだ。なにかのいたずらな力が働いて、私の勘を狂わせたとしか思えない。どこかの陰で、親しみをこめて私を見ている霧の視線を感じる。小さい忍び笑いが聞こえた気がする。足をとめ、辺りをうかがった。
ボブ君とダウンタウンで何を食べたか、何を見たか、さらに彼の姓がなんだったか、いまはもう覚えていない。それよりも、心の底にいまでもひっかかっているのは、あの日の不思議な霧の存在である。


No. 15 「ユダヤ人の大富豪は、おばあちゃん (1)」
あるぜんちな丸で渡航して、留学生活の3年がたっていた。
1965年夏。カリフォルニア大学に留学しているトシコさんが、毎年、夏休みに行く別荘での住み込みアルバイトに、今年は都合で行けない。私にピンチヒッターで行ってくれないか、という。雇い主は65歳のユダヤ人のおばあちゃん。なんでも万年筆かシャープペンシルだったか、そんな会社の大株主で億万長者らしい。生活はヨーロッパを拠点としているが、世界中に別荘を持っている。カリフォルニアにくると、クパチーノの別荘で数日泊まっていくという。トシコさんは彼女のことをおばあちゃんと親しみをこめて呼んでいた。
ご主人が亡くなって以来、世界中の別荘を巡回し、使用人の働きぶりをチェックするのが、彼女の仕事だと聞いて、私は「ごくろうなことです」と笑った。
私の仕事はほとんど使われていない、おばあちゃんの寝室や、時たまやってくる独身の1人息子と娘家族の寝室などの窓を開け、バッキュームをかけ、バラ園からバラを切って花瓶に挿すことなどである。残りの時間はあんずをバケツにもぎとり、同じ使用人仲間である、ノルウエー人のジャム作りを手伝う。条件は、個室と食事つき、1カ月で$350 (1$=360円の時代)。一言でいえばメイドである。おそらく、この先、一生縁がないであろうそんな役を、私は一度は演じてみたかった。
面接にはトシコさんが 車で連れていってくれた。
ホームステイ先のウォルナット・クリークから車で南へ約60km。
クパチーノはサンフランシスコ湾の南端、丘陵地帯にある。
森の入り口からゆるい登り坂が続いた。トシコさんによると、使用人は男女あわせて10人余り。みんな人種が違う。「お抱えの乗馬の先生はスペイン人、パイロットはイタリア人、孫の養育係はコスタリカ人、コックはフランス人、給仕係はスイス人、洗濯やジャム作りはノルウエー人。部屋の係は日本人の私、それから・・・」とトシコさん。車輪は小石を噛みながら、あんずの木々の間をくぐり、ゆっくり上り坂を蛇行して別荘の入り口に向かう。ぬくもりのある橙色の実が、青い空に艶よく輝いている。私はその甘い匂いに息苦しさをおぼえた。
私たちは天井の高い客室で婦人を待った。やがて小鳥のさえずりのような鼻歌が聞こえてきた。ヒールをコツコツと鳴らし、軽やかな足取りが近づいてくる。背は160cmくらい。短く刈り上げた銀髪。清潔な白いブラウスにグレイのタイトスカート。青い瞳とバラ色の頬。その背中は凛として美しい。トシコさんとハグをしているところを見ると、互いの信頼度がうかがわれる。彼女は私に手をさし出した。そしていきなり「あなたクリスチャンね」と言った。私はクリスチャン家庭に育ったけれど、熱心に教会に通うほどではなかった。「目を見ればわかるわ」と言う。それがどういう意味合いなのか理解できなくて、私はあいまいに笑った。アメリカは人種のるつぼである。そんな初対面の挨拶の仕方もあるかもしれない。ただ、彼女の瞳のなかに、私を観察するような影がよぎった時、私は馴染みのない居心地の悪さをふと感じた。でもそんな思いも一瞬のうちに消え、私は目の前のおばあちゃんが好きになっている。なぜなら、彼女の鼻歌が心地よく耳に残るからである。「では8月から1カ月だけ来てください。$350でしたね」と、彼女は不思議なくらいその条件をくりかえし、私はなんどか肯いて別れた。
帰りに、「それほど大した仕事でもないのに、なぜ私のような小娘と面接しなくてはならないのかしら」と聞く私に、トシコさんは「2年前、お孫さんの誘拐未遂事件があってね。人を雇うのに、神経質になっているの。きちんとした素性が要るのよ」 トシコさんは私より20才も年上の独身の苦学生である。そしてまた成熟した大人である。おばあちゃんの嫌がるであろう話題に、それ以上深入りすることを避けた。
いよいよ8月から1カ月、私はクパチーノの住民になった。
その日もおばあちゃんは世界のどこかを駈けめぐり、使用人たちの働きぶりを見回っているのであろう。彼女のいない日々は、クパチーノの森は私たち使用人だけが暮らす、静かで平和な別荘であった。
ダイニング・キチンの大きな窓からは、はるかな青い海や、ヨットの白い帆が見える。風はあんずの香りを運んできた。
それから5年後、まさかこの田園地帯が世界のIT産業のメッカ、シリコンバレーという名前で世界にカミング・アウトしてくるとは、その当時は想像もしなかったのである。



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