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川越 しゅくこさんの【アメリカン青春グラフィティ】  Honey FM 記載記事 (その16−その20)
川越しゅくこさんから送って頂いた【アメリカン青春グラフィティ】のその16−20を寄稿集に収録して置きます。『私たちの40年!!』ホームページは、2013年11月10日に320万回のアクセスを記録。現在寄稿集には、1408件の寄稿が掲載されています。最近寄稿集の更新が怠っており今年は40件程度しか更新されていません。来る年は、もっと頻度を上げて更新して行きたいと願っています。
川越さんの青春の一時を過ごされたカリフォルニアの現在、世界のシリコン・バレイ、当時のクパチーノの街でのユダヤ人大富豪のおばーちゃんの邸宅での夏のアルバイトを生き生きと活写しておられつい引き込まれて読み耽ってしまいます。第20回は、一転して新しい日本に於けるアメリカ大使、キャロライン・ケネディの話に飛び50年前の大学のキャンパスで知ったケネディ大統領暗殺当時の思い出にタイムスリップする時空を感じさせるお話、続きが楽しみです。
写真もしゅくこさんが送って呉れた写真を使用させて頂きました。


アメリカン青春グラフィティ  No.16-20
川越しゅくこ

No.16 「ユダヤ人大富豪とスカンク(2)」
クパチーノの森は静かで平和だった。ダイニング・キチンの広い窓にカーテンが揺れると甘いあんずの香りがして、その向こうには日本につながる太平洋が広がっていた。神戸港の桟橋で手を振る家族、友人たち、出発のドラの音、あるぜんちな丸での15日の航海が浮かんで、一瞬切ない気分が通り過ぎる。おかしなことに、そんな自分を観察し、どこかで楽しんでいるもう一人の自分もいる。
国籍がみんな違うおばさまたちは、ここを紹介してくれたトシコさん同様、私の母くらいの40-50代である。生き様に自信のあるプロばかり。そして私も、ただ若いというだけで、わけもなく自信に溢れていた。彼女たちとの3度の食事とコーヒータイムを、私はなによりも楽しみにしていた。私をダシにして笑いが笑いを巻き起こし、それだけで私は無邪気に幸せだった。
そんなある夜、それぞれの仕事を終え、みんなで夕食後のコーヒーを飲んでいた。突然の悪臭が私たちを包み、喉が痛くなった。「スカンクよッ!」だれかが叫ぶ。みんなが椅子から飛び上がり、窓という窓を閉めた。そして鼻を押さえながら、各自の部屋に走って帰った。小さい頃、「スカンク」と言う言葉はオナラの代名詞として人気No.1であった。その動物の名を連発するだけで、笑い転げたある時期があり、私もお世話になった一人だ。日本では見たことも嗅いだこともないのに、である。本物の臭いは私にとってこの時が初体験である。温泉の硫黄臭に、生ゴミ、ニンニク、酸性臭などを大量にすりこんだ臭いといったらいいだろうか? 
翌朝の食卓でスカンクのことに話が及んだ。それは人間のオナラとは違い、肛門嚢から発射する、わずか3cc程度の液体であるらしい。命中された敵は、気絶したり一時的に失明し、皮膚に付くと、火傷(やけど)に似た疼痛を感じる。第一次世界大戦中、アメリカ軍がドイツ軍に毒ガスとして使用した・・という話は、微妙におかしい。
英語では、人間の、おならの臭いがする、という言葉は、smell in the air とかstinkと軽い言葉でやり過ごすのに、スカンクの臭いがするという表現にはtravel (旅をする、移動する)と、まるで生き物のような言葉を使っている。昨夜のスカンクになにがあったか知るよしもない。きっと、天敵ともめ事を起こしたのだろう、という話だ。しかし、いまから思えば、この5年後にクパチーノは世界のシリコン・バレイとして生まれ変わる。スカンクたちはその胎動を、不安な空気のざわめきを、地球の呼吸の微妙な変化を、感知していたのかもしれない。だれがそれを否定しえようか。
おばさまたちのおしゃべりは、数年前に起こったスカンク事件に話しが及んだ。ああ見えても、スカンクはデリケートな動物であり、突然の騒音や閃光が嫌いだという。大富豪の世界中の別荘は、堅固な防犯装置をしかけていた。このクパチーノの別荘も例外ではない。不審者が一歩でも森に足を踏み入れようものなら、樹々という樹々に取り付けたサーチライトがいっせいに点き、警報サイレンが鳴り響き、ド―ベルマンの群れが放たれる。その最初の罠にひっかかったのが、ここで働いていた若い娘のボーイフレンドであった。恋人に会いたい一心で、夜中に侵入したのである。もちろん、大騒ぎの後、その娘はすぐに解雇された。問題はそれだけで治まらなかった。突然の騒動に驚いたスカンクは液体を放ったのである。
「その娘(こ)に、あなた、どこか似ているわ」コーヒーを口に運びながらおばさまたちがからかう。私は会ったこともない、その20才くらいの娘を想像した。そして、アッと思った。そうだったのか。面接の時のユダヤ人大富豪、おばあちゃんの目によぎった人を探るような目つき。謎が解けた。私 →その若い女 →防犯騒ぎ →孫の誘拐未遂事件。好ましくない記憶が一瞬のうちに老富豪の中でつながったのだろう。いやはや、富豪には富豪の事情が、そしてスカンクにはスカンクの事情があるものだ。(つづく)



No.17 「ユダヤ人大富豪の悲しい鼻歌(3)」
その日、いよいよ「おばあちゃん」がやってきた。別荘主のユダヤ人大富豪である。医者と結婚した1人娘とその小学低学年の娘2人、オペラ界ではちょっと名を馳せた1人息子とその恋人垂(男性)も前後して現れた。台所では清潔なエプロンをつけたコックやウエイトレスが気ぜわしく立ち働く。私は各部屋を磨き、バラ園からの切り花を活(い)け、あとは台所を手伝った。オーブンからは芳しい肉の焼ける匂いや、甘いケーキの匂いが溢れ、客(?)をもてなす使用人たちの声も華やいでいる。
おばあちゃんは部屋から部屋を踵(かかと)の高いヒールをコツ、コツ鳴らし、小鳥のような声で鼻歌を口ずさみつつ、私たちに近づいてくる。
「使用人のみなさん、そちらにいきますよ、用意はいいですか?」という彼女流の合図である。なにげないふりをして私たちの仕事ぶりを調べてまわる。自分の別荘だから、もっとだらしなく、たとえばムームーのようなものにサンダル、あるいはショートパンツに裸足、でもよさそうなのに、彼女の言動には隙(すき)がない。それに気付くと、私は彼女の鼻歌に、どこか心細げで臆病な響きのあることが気になってきた。楽しい鼻歌の響きではなかった。人は苦しい時にも、心の底に溜まって(たまって)いる汚泥を、唇に乗せて外に吐き出せば、きっと心が軽くなるのだろう。私はそんな気がして、ますます、小鳥のようなハミングにある種の親しみと哀しみを覚えた。それほど幸せではない彼女の私生活は、長年仕える使用人たちから軽く耳にはさんでいた。娘はいま医者の夫と離婚調停中。孫たちの厳重な誘拐防犯対策。そして、なによりも愛する1人息子の同性愛問題に関しては、なかなか受け入れがたいものがあったであろう。いくら開放的で寛容なカリフォルニア州にあっても、1965年はまだ、同性愛者への偏見があった。警察による踏み込み、職場での解雇は、意外なことかもしれないがまだあったのである。それから50年近くたった。これを書いている2013年5月17日もNYで同性愛の男が射殺されたニュースが流れている。カリフォルニア州も同性婚に州民は反対している。公立学校では、社会科のテキストに、同性愛の人たちへの偏見をなくそうという項目もできている。自殺者が多いからである。かつてユダヤ人への偏見と差別の歴史を背負ってきた、おばあちゃん自身の過去の苦しみの荷物は、社会的な地位を築き上げることによって埋めあわせることができたかもしれない。しかしいま、その巨万の富は息子を理解し守る役に立っているのだろうか。子どもの世代の幸せを願う彼女は、目の前の現実に、迷子のように立ちすくんで途方にくれているような気がした。ただ幸せなことに、国籍の違う使用人たちは、10人ともすこぶる朗(ほが)らかだった。いつも笑いが絶えなかった。だから、そんなおばあちゃんのことを身近な存在、とわが身にひきよせて温かく見守っていた。そこに節度をわきまえた成熟した大人を見た。そして私自身もちょっぴり大人になったような気がしたものである。
孫娘たちが一番若い私を見つけ、まとわりついてくるのに時間がかからなかった。「ねえ、今夜、映画会をするから一緒にみましょう。ね、来て、おねがい」。抱きつき、約束をねだる。小さな腕は相手を信じる温かさと力強さがあった。そんな自由さえ禁止されているのを気の毒に思いつつしばらく見つめあった。見上げる期待の瞳に私の曖昧(あいまい)な笑いがどう映ったのか知る由もない。(おねえさんだって、そうしたいんだけど・・) 
その後 子どもたちは別の山の中にあるプールと乗馬に興じた後、私とは会う事もなく、次の別荘に移っていった。 


No.18 「ユダヤ人大富豪の溢(あふ)れる物の世界(4)」 
                 
友人のトシコさんから臨時に受け継いだ、一夏のアルバイト。それはユダヤ人のおばあちゃんの所有する、カリフォルニア州クパチーノの別荘での仕事であった。そこには国籍の違う陽気なおばさん達が10人ばかり、長年住み込みで働いていた。私の仕事は部屋のクリーニングであるが、ときどきはノルウエーのおばさんと一緒に、ジャムにする杏(あんず)の実を森の中にもぎに行ったりした。杏は桃に似て皮が薄く、しっかりした酸味と甘みがある。その濃い香りは、足元に沈んでいき、私たちが歩くたびに地面から立ちあがってくるようだった。彼女の作るジャムは私たちの朝の食卓にも上る。みんなそれが大好きだった。
私は彼女と一緒に、籠(かご)に入った杏(あんず)を庭の坂下にある調理部屋に運ぶ。ふっくらしたオレンジ色の実が、コロコロと音をたてて大きなステンレス・シンクに移され、蛇口から冷たい水がほとばしった。それが自然乾燥するまで、彼女は私を隣の建物に案内した。回りの棚には、すでに出来上がっているジャムの小瓶が2―300個はあっただろうか。すべて杏のレッテルが貼られ、誇らしげに並んでいる。「こんなに、だれが食べるの!」と驚く私に「さあねー、売っているのかしら、それとも、ユダヤ人コミューニティへ持っていってあげるのかしら、私たちも知らないのよ」と言う。隣の部屋に入って目を疑った。棚には何十足という使用済みのスニーカー。別の棚には色とりどりの水着。どれも新品同様に手入れされていて、山と積み重ねてある。「この中には、お客様が一回しか使ってないものもいっぱいあるのよ」と彼女。さらに、別の棚に案内された。「ほら、ごらん。これは伝線の入っていたナイロン・ストッキング。私がぜんぶ直したものなのよ」沢山の抽斗(ひきだし)には、これも新品同様、きれいな袋に納まっていた。ユダヤ人のおばあちゃんの別荘は世界中にあるから、実際はこの何倍も、溢れるほどの余ったものがあるに違いない。
私は、幼児期と思春期を敗戦後の物の足りない世界で育った。板切れを打ちつけただけの、畳一枚ほどの小屋に焼け出された人たちが住んでいた。手や脚を無くした傷痍(しょうい)軍人(ぐんじん)が茣蓙(ござ)を敷いて、物乞いをしている姿も珍しくなかった。私はいつも空腹で、道路になにか食べ物が落ちていないか、目をぎらつかせていた。そんな少女の目に、いまでも忘れられないシーンの1つがある。それは、知り合いの、瞳のくっきりした朝鮮人の婦人である。彼女は際だって美しかった。その女(ひと)が、霧の中に路地裏からうつむき加減に現れ、いつも涙をそっとふきながら、私に気付かずに通り過ぎて行く。どこかはかなくて哀しい姿だった。両親になぜと問うたわけでもない。私は気の強いお転婆(おてんば)娘だったが、幼な心に戦禍の爪痕をしっかりと焼きつけていたようだ。いや幼かったからこそ、全身で捉えていたのだろう。
1962年は、戦争に負けて17年たっていた。それは阪神大震災から2013年現在の17年間と同じ長さであるから、案外短い年月であったとも言えよう。日本の経済はかなりよくなっていた。とはいえ、まだ歴然として、「足りない時代」一色であり、そんな世界しか知らないで育った私が、神戸港からあるぜんちな丸に乗ってアメリカに渡った。15日間の船旅からロスの港に着いた。突然、私は「有り余る時代」にタイム・ワ―プしたのである。
豊かなアメリカ社会に驚いたのはもちろんであったが、さらに、その上にもう1つ別の世界があった。アメリカには、ユダヤ系社会が大きな力を持って政財界を動かしている。そんな構図については知らなかった。そして、私がもっと驚いたのは、このユダヤ人大富豪が伝線したストッキング一枚も無駄にしていない、という生活であった。それに反して、貧乏留学生の私は物やお金の扱い方がまるで雑であった。これではまるで逆ではないかと感心し、反省もした。しかし、私はそんな生き方に、ある種の違和感も感じていた。たった1$の使い方にさえ神経を使う人生なんて、思っただけで疲れるし、私にはとうていできそうもない。いつの頃からか、日本人は、お金、お金というと、卑しい人物と思われるようになった。ご多聞にもれず、そのDNAは20歳の私の中にしっかり組み込まれている。ユダヤ人に「お金は心である」という格言があるなら、たとえば、「春は桜、秋は紅葉」が日本人の心の象徴であるように、ユダヤ人のお金への情熱は、私たちのそれと同じ重要な意味があるのかもしれない。
溢れる物の部屋から外に出ると、カリフォル二アの透き通った青い空があった。私は、ユダヤ人大富豪のおばあちゃんを羨ましくもなく、また、自分を卑下することもなかった。空腹を満たす程度に食べ物があり、友人が作ってくれたパーティドレスも一着もあれば、それで十分であった。燦々(さんさん)と降り注ぐ太陽。乾いた風、芳醇な杏の香り。それを浴びて、私の体内の細胞がピチピチと跳ねているのを感じる。幸せで心地よい目まいがしそうだった。それだけでじゅうぶんだった。

第19回 あるユダヤ人の話「脱皮していく悦び(よろこび)(5)

1965年8月、カリフォルニア州クパチーノの別荘での、1カ月だけの住み込みアルバイトが終わった。私は天井の高い客室で沈みそうなソファに腰を落とし、別荘主のユダヤ人大富豪、「おばあちゃん」を待った。約束の$350が楽しみだった。やがて、例の、コツコツというヒールの音と、小さな鼻歌が聞こえてきた。重厚な円く低いテーブルをはさんで、私たちは向かい合った。簡単な挨拶の後、彼女が聞きとれないほどの声でつぶやいた。「お礼は$300でしたね」私は耳を疑った。「いいえ、お約束は$350でしたよ」。彼女は黙っている。私は彼女を正面に見た。「あのー、なんだったら、トシコさんに確認してください。あなたと面接した時、彼女も一緒にいましたから」。トシコさんというのは、おばあちゃんが、長年信頼し、仕事を任せている40代独身のカリフォルニア大学の日本人学生である。この夏は忙しくて、代わりにこのバイトを私に紹介してくれたお姉さん的な友人であった。「そうでした。思い違いをしてました」の、謝罪の一言が彼女の口から出てこないのが不思議だった。トシコさんの名が出ると、彼女は黙ったまま小切手に$350とペンを走らせた。私は面接の時、彼女がなんども$350と言ったことを思い出していた。もし、私の仕事ぶりに不満があって、$50値引くというなら、いま言うべきではないか。私は世界の大富豪のおばあちゃんと差し向かいでいても、彼女を特別な人として見ることも、その富を羨むこともなかった。理由は特にない。神の前では人はみな平等という単純な発想が、小さい時から無意識に身についていたからだと思う。人は、たった$50でなにをおおげさなと嗤うかもしれない。しかし、問題は、$50という額の多少ではなかった。ここにきて、突然、一方的に約束を変更されたことへの驚きである。貧乏留学生とはいえ、実は、私はそれほどお金に困っていたわけではない。というのも、ホームステイ先は、大学教授などの住む中産階級の家庭的なコミューニティであり、初めての日本人留学生だと新聞で紹介された私は、分不相応に大切に扱われていた。近所からの小さなバイトの依頼は応じきれないほどであった。大学では成績がたいして良くないわりには、他国の留学生には申し訳ないほど、いろんな奨学金の恩恵にもあずかっていたのである。政治家でも宗教家でも企業家でもない、ごく普通の善良でちょっとおせっかいで、お人好しなアメリカ人たちが私のことを気にかけてくれていた。私はお膳立てされた環境でぬくぬくと人の好意に甘んじていた。なのでこんな駆け引きめいたことや、ごまかし、騙しうちは、留学中、いや、人生ではじめてであった。
ユダヤ人の大富豪「おばあちゃん」とはその日が最後であった。
彼女にはヨーロッパのあちこちに持つ別荘を見て回る仕事があった。
私といえば、もう次の計画に心弾ませている畏(おそ)れを知らない若者だった。
別荘の老運転手が汽車の停留所まで送ってくれた。野原の平地にレールが通っているだけの駅舎のない停留所だった。サンフランシスコ行きの汽車が、焦げ茶色の姿をくねらせて草むらの向こうから現れた。私は足取り軽く雑草の目立つレールをまたぎ、汽車に飛び乗った。窓外に田園風景がゆっくり流れていく。その中に「おばあちゃん」との最後のやりとりがよみがえってきた。あの時、小切手にサインをしている彼女の顔を目下に見ながら、あろうことか、私のなかに思いがけない疑心がかすめていったのだ。それは、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」に出てくるお金に汚いユダヤ人の姿だった。まさか、そんな短絡的、人種差別的な発想をする残念な自分がいたことが思いがけなかった。後悔で胸がちょっと痛んだ。それまで私は人を信じやすく、だれとでも気軽に友達になれ、たいていの事は笑ってすませる若者だと自信に溢れていたではなかったか。しかし今回は違った。はじめて、自身に対する確固としたものが揺らいだのだ。その時、ふと何の脈略もなく高知の祖母を思い出した。彼女は遠く離れたアメリカにいる孫の私にひんぱんに手紙を送ってきてくれた。その中になにげなく書かれていたこと、それは、この頃年をとってよく物忘れをするという一言であった。なにげなく読み過ごしていたその言葉がいま、同じ年のユダヤ人のおばあちゃんとつながった。とすると、あの$50の疑惑は、ユダヤ人云々より、単に「老人の物忘れ」現象だったのかもしれない。若い私はユダヤ人というだけで、直線的にしか物事をとらえることができず、即疑った。しかも老人一般についての想像力も貧弱であった。それに気づかされたはじめての夏だった。だからといって、私はいつまでも拘って(こだわって)いたわけではない。別の自分が物珍しく、面白い存在だと思えた。大富豪と向き合ったあのシーンは、上下関係や立場を重んずる日本社会では起こり得なかったであろう。自由と平等を謳う(うたう)アメリカ社会ならではの、生意気で、ちょっと誇らしくもこっけいな構図でなかったか。1962年8月、あるぜんちな丸で日本を離れてアメリカに着いた時には想像だにしなかった私の姿である。人はなんて複雑で多様性に富んだ生き物であろうか。私はさらに次への脱皮の瞬間に心震わせる秘かな悦びを予感していた。人は死ぬ直前まで脱皮を繰り返す生き物なのかもしれない。面白いではないか、と想った。
窓外に流れるクパチーノの田園風景と重なって、浮かんでは消える私の顔が微笑んでいる。

No.20  「ケネディ暗殺の日」 (1)  
キャロライン・ケネディさんが駐日大使に就任した。
2013年11月19日。皇居までの1km近くの沿道には約6000人が
馬車の中の彼女を一目見たいとひしめいている。手を振り、歓声をあげ、カメラを向け、まるでロイヤルファミリーか有名スターを見る賑わいだ。しかし、観衆の思いもそれだけではないことを私は知っている。生まれた時からずっと彼女は人びとの注目の中で生きてきた。そして、父親の暗殺、弟の飛行機事故死など地獄も見てきたのだから、こんな大歓迎に浮き立つ者ではない。彼女の父、ジョン・F・ケネディ(JFK)は1961年、43才にしてアメリカ史上最も若い35代目の大統領に選ばれた。美しい妻ジャクリーンさん、幼い娘と息子の4人。彼らがホワイトハウスで寛(くつろ)ぎ戯(たわむ)れる様が、国民に惜しみなく公開されていた。その時の幼女がキャロラインさん、5才の姿である。アメリカでは大統領と国民との距離がこんなに近いのか、と留学中の20歳の私は目を見張ったものである。若い大統領のエネルギーは国中を目覚めさせ、国民に政治を語らせた。ホームステイ先のお母さんも電話で友人と政治談議に熱中し、タクシーの運転手は客に自分の信じる政策を語った。あの時の少女は今、駐日大使として日本との架け橋になるべく任務を背負ってやってきた。
キャロラインさんの乗った馬車は皇居に向かう。菊のご紋章の入った馬車。820kg前後のつややかに輝いた馬たち。その足取りのなんと軽やかでけなげなことか。その群衆が、その馬たちが、50年前のダラスの沿道の群衆と国葬の時の馬たちの行進とだぶって私は不安になる。いろんな問題を抱えた日本をあえて選んだのはなぜか、もっと安泰な国だってあっただろうに。いっそのこと、大きなことは期待しない。早く任務を終えて無事に帰国してほしいとさえ思う。
馬車を降りた彼女は、母親のジャックリーンさんを彷彿とさせた。骨格やヘアスタイル、凛として物静かな歩きかた、節度あるシャイな微笑みを湛えて彼女は私たちの前に現れた。彼女は天皇陛下に自然に身に着いたお辞儀を深々としてから、オバマ大統領からの信任状を手渡した。
私は彼女の父親JFKが暗殺された日のことを昨日の出来事のように思いだす。その日は21回目の自分の誕生日でもあったからだ。留学してすぐにキューバ危機が起こった。あわや核戦争勃発(ぼっぱつ)かと世界中が緊張と恐怖の中で、JFKはソ連のフルシチョフと精力的に説得の交渉にあたった。それは危機一髪で回避され、人類を救ったと言っても過言ではなかろう。また、彼は人種差別法案の撤廃(てっぱい)にも力を注いだ。黒人の支持率が高かったのはいうまでもない。
今日は2013年11月22日。JFKが暗殺された50年前。カリフォルニアの空は碧(あお)く澄み、暖かい金色の日差しがキャンパスを包んでいた。私は午後一番の黒人教授の合衆国史のクラスにいた。1人の遅刻常連の男子学生がトランジスターラジオを耳にあてながら前のドアから入ってくると、いきなり、「ケネディがダラスで撃たれた」と声を殺して言った。一瞬の沈黙があった。数秒後、「 おい、冗談言うなょ」教授は油断ならない目で彼をにらむ。すぐに、廊下は暗殺のニュースを聞いて出てきた学生たちで溢(あふ)れ、ざわめきの中で授業が中止となった。私は芝生を横切って別棟のカフェテリアに向かっていた。中に入ると、身動きのとれないほどの学生たちでごったがえしていた。いつもの奥のたまり場にはすでに留学生仲間たちがいる。アメリカの希望の象徴だった若い大統領の暗殺。国民が世界一と自慢する自由と平等の国。なのに、なぜこんなに野蛮なことが起こってしまったのか? つい数時間前までの朝のカフェテリアには、タバコの煙の中にコーヒーの香りが漂い、笑いとさんざめきがあり、まもなくいつも同じ時間に国歌が流れると、彼らは起立し、目を閉じて誇らしげに顔を挙げ、胸に手を当てて斉唱していたではなかったか。いろんな噂があったにしろ、ときには90%を越える支持率も得ている。多くの国民はJFKと家族を愛していたことに間違いない。そんな彼らに、この野蛮な事件はショックだった。その時、突然、入り口付近にいた一部の南米系学生たちが歌いながら踊りだした。アメリカの南米政策に反発していた彼らは、ケネディの暗殺に祝杯をあげていたのである。これもアメリカ社会ならではのアメリカらしい断片であった。いつもなら口角泡を飛ばして議論がはじまる愛国者たちだったが、この突然の現実を容易に受け入れることができず、ただ茫然とそれを見ているだけであった。私はケネディ大統領という人物にある種の尊敬と憧れをもって留学したのだった。だが、少し涙ぐんでいたかもしれないが、周りの友人たちのように、深く哀悼することも喜ぶこともない、いわばどちら側にも属さない部外者であることを、このときはっきり実感したのだった。混とんとしたカフェテラスを抜け出すと緑のキャンパスが目にしみた。裸木にぶら下がっていた一枚の枯れ葉が風に 落ちていくのが妙に目につく。その時、私は心の中のなにかが欠落していくのを感じていた。



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