僚友、谷 広海君逝く!!
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9月28日午前、宮崎県人会の会合に出かける途中交通事故にあい重傷、クリニカ病院のUTIに入り治療、生きることへの執念で4日間闘った後、10月2日午後8時に亡くなられた。
早稲田ゼミナールの予備校から何時も一緒だった谷君の死をもっと早く寄稿集に掲載するべきだったが、余りにも動転していたのと普段あまり交渉がないので又元気な姿をひょいと見る事が出来そうな気がしてそのままに成っていたが、激動の年2013年を終えるに当たり矢張りきっちりと取り上げて置くべきだと気も持ち直しBLOGに掲載された関連記事を時を追って拾い纏めて置きました。
2013年の大きな出来事の一つだったと云えよう。
写真は、色々あるのですが、谷君の公人としての最後の写真になった県連の皆さんと楽天のパーリーグ優勝祝賀会での元気そうな乾杯を上げている園田県連会長が送って呉れた写真で飾って置きたいと思います。右端の元気良くコップを挙げているのが谷さんです。
ご冥福を祈ります。合掌
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交通事故で重体の状態 宮崎県人会長の谷広海さん 13/10/01 サンパウロ新聞WEB版より
宮崎県人会会長でブラジル日本語センター前理事長の谷広海さん(73、宮崎)が9月28日午前、サンパウロ(聖)市ジャルジン・パウリスタ区のアラメダ・サントスとブリガデイロ・ルイス・アントニオ大通りの角で交通事故に遭った。9月30日午前現在、重体の状態でクリニカス病院のUTI(集中治療室)で治療を受けている。
谷さんは8月に訪日し、来年開催される宮崎県人会創立65周年記念式典に向けて宮崎県庁などを訪問し、県知事の出席を要請。9月12日に帰伯し、地元のアラゴアス州マセイオ市に帰った後、同23日に再び来聖。28日午前に行われた宮崎県人会の役員会に出席する予定だったという。
宮崎県人会関係者の話によると、28日に行われた役員会に遅れたことのない谷さんが定刻になっても姿を見せなかったことから不思議に思っていたが、役員会終了後にマセイオ市の実家に問い合わせたところ、聖市で交通事故に遭っていたことが判明した。
谷さんは交通事故で頭部、胸部、のどなどを強打しており、28日午前にクリニカス病院のUTIに運ばれて治療を受けているが、現在も昏睡状態が続き薬剤投与で心臓を動かしている状態だという。
2013年10月1日付
(コメント集)
ボリビアの三浦さん:和田様 びっくりしました。無事に回復することを祈ります。
サンタクルスに視察にこられたときは、自分がシュラスコを作りました。
うちの店で売っていた東麒麟を元気よく飲んでいたのを思い出します。
悲しいお知らせです。谷 広海さんが亡くなられました。
たった今、学生移住連盟のブラジルOB会会長の日比野さんから電話を頂き、谷さんが亡くなられたとの悲しいお知らせを受けました。告別式等詳細については順次知らせて呉れるとの事でしたが第1報として知らせて呉れました。
私はこれから夜行バスでポルトアレグレ婦人会の恒例の遠征に同行しクリチーバに向かいますが、追加情報が入り次第皆さまにもお知らせします。
多分,告別式、お葬式には旅行中で参列できないと思いますが、土曜日の午前中から今まで生きることへの戦いに挑んでいた谷さんが遂に力尽きて先に旅立ったとの知らせに人生の無常を味わっていますが、又その内私も追いかけますのであちらで語り合いたいと思っています。
ご家族の悲嘆を思うと胸が割けそうですが、これも人生、受け入れざるをえないのでしょうね。谷君の御霊が安らかならんとお祈りしたいと思います。
(コメント集)
丸木で〜す ほんとうに悲しい出来事です。日系コロニアのリーダーとして未だ未だ活躍して欲しかった。冥福をお祈りします。
園田県連会長:残念です。 9月26日、県連の仲間で、ツマミ持参で、食い飲み合ってました。県連でも、期待されてた、人材でした。
ボリビアの三浦さん:ご冥福をお祈りします。ボリビアには日本語学習の視察で来られました。ボリビアの日本語学習の問題を相談してみたいと、長い間考えていました。
早く連絡とって生前にお会いすべきだと残念に思っています。
ブラジル稲門会相田会長:皆様 故 谷 広海 氏の葬儀は、午後2時よりVila Alpina 火葬場の上隣にあるSao Pedro 墓地のヴェローリオで、午後3時からVila Alpina 火葬場にて火葬されることになりました。遅くなりましたがお知らせ致します。
和田:無事クリチーバのホテルにCHK INしました。上記メールが相田ブラジル稲門会会長より届いていました。
旅行中でお別れの告別式、火葬にも参列出来ませんでしたが、ここクリチーバでも谷さんの火葬時期には、大雨と雹が降り街路樹の大木が薙ぎ倒され車をへこませる被害が多発、街の交通が麻痺状態に陥り明日の登山列車での山下りは、雨と風の被害で運休になりキャンセルとの連絡が入りました。谷さんが最後の無念さをクリチーバの空に投げつけたのかと思う程でした。安らかに眠られんことを切に祈り、平安をクリチーバの街から祈念したいと思います。合掌。
ニッケイ新聞 2013年10月4日
■訃報■谷広海氏 ニッケイ新聞WEB版より
宮崎県人会の会長でブラジル日本語センター名誉理事長の谷広海さん(73)が2日午後5時すぎ、入院先のクリニカス病院で亡くなった。享年73。
先月28日午前9時ごろ、サンパウロ市のブリガデイロ・ルイス・アントニオ通りとアラメダ・サントス街の角でバスと衝突事故に遭い、集中治療室(UTI)で治療を受けていた。
早稲田大を休学し、学生移住連盟の第三次派遣実習生として初来伯。卒業後の1964年に移住した。72年にアラゴアス連邦大学法学部を卒業し、弁護士資格を取得。州都マセイオ市でパステラリア、シュラスカリア、装飾小物チェーン店、ホテル経営などを経て、モーテル業、建築会社を経営した。妻涼子さん(68)と4人の子供がいる。
ブラジル盛和塾の世話人、ブラジル日本語センター理事長(02〜12年)、05年には文協会長選挙に出馬し、コロニアを大いに賑わせた。
11年から宮崎県人会会長。9月には訪日し、知事らに来年の会創立65周年への呼びかけを行なった。事故当日も、同県人会での会議に向かう途中だった。
ヴィラ・アルピーナ葬儀場で3日、告別式があり荼毘にふされた。初七日法要などは未定。
(コメント集)
早稲田大学海外移住研稲門会菅間会長: 和田さん/富田さん
葬儀に関しこちらから何も出来ず心苦しいのですがせめて早稲田の移住研として、天国に旅立った谷君へ手紙を出したいと考えています。
手紙の宛先を連絡をどちらにすればよいか教えてください。
一縷の望みをもって彼の復活を待っていましたが本当に無念です。
和田:菅間 さん 思わぬ事故でente queridoを亡くし残念至極で $ B$9が、それぞれの皆さんの思いを出来るだけの範囲で取りまとめ『私たちの40年!!』寄稿集に谷広海君特集を残して置きたいと願っており菅間さんが書かれる御手紙もこのMLでも流して頂けると嬉しいです。DMで谷さんのご家族 $ B$K送りたいとの事であればそれも当方で取り扱い可能です。谷君もこのMLに入っていたのですが、余りPCを扱わず奥さんがメールを開けてflwしておられたようですので このMLに流すと奥さんの目にも留まると思います。宜しくお願いします。
菅間:和田さん 天国にいる谷君宛てに手紙を認める考えです。
出来次第貴兄に送ります。ご配慮深謝。
和田:ニッケイ新聞 2013年10月5日 谷広海さん、初七日法要
2日に逝去した宮崎県人会の会長、谷広海さんの初七日法要が6日正午から、西本願寺(Rua Changua, 108, Saude)で執り行われる。
谷広海さんが死去 交通事故の治療のかいなく 13/10/04 サンパウロ新聞WEB版より
Foto 1 / 1
在りし日の谷広海さん
【既報関連】宮崎県人会会長でブラジル日本語センター前理事長だった谷広海(たに・ひろみ)さんが2日午後8時ごろ、交通事故で治療を行っていた入院先のサンパウロ(聖)市内クリニカス病院で亡くなった。享年73歳。宮崎県宮崎市出身。
谷さんは9月28日午前9時ごろ、聖市ジャルジン・パウリスタ区のアラメダ・サントスとブリガデイロ・ルイス・アントニオ大通りの角でバスにひかれる交通事故に遭った。頭部、胸部、のどなどを強打し、クリニカス病院の集中治療室で治療を受けていたが、昏睡状態が続き薬剤投与で心臓を動かしている状態だった。
谷さんは1962年、日本学生海外移住連盟第3次団員として1年間サンパウロで実習を行い、早稲田大学政経学部を卒業後の64年に移住者として改めて渡伯。72年、アラゴアス連邦大学法科卒業後、弁護士及び不動産業者の資格を取得。アラゴアス州マセイオ市で宝石店などを経営し、89年には同市にタニ・プラザ・ホテルをオープンした。
93年から聖市で開講したブラジル盛和塾代表世話人を約10年務め、2002年から10年間はブラジル日本語センター理事長も務めた。また、宮崎県人会会長、ブラジル龍馬会会長なども歴任していた。
今年8月に訪日し、来年開催される宮崎県人会創立65周年記念式典に向けて宮崎県知事の出席を要請。9月12日に帰伯し、地元のマセイオ市に帰った後、同23日に再び来聖。28日午前に行われた宮崎県人会の役員会に出席する予定だった。
3日午後2時から聖市内ビラ・アルピーナ火葬場で告別式、同3時に葬儀が執り行われた後、荼毘(だび)に付された。
初七日法要などは3日午前現在、未定。
2013年10月4日付
谷 広海宮崎県人会長関連 園田県連会長からのお便りが届きました。
和田さん
今頃、Critibaでしょうか?
昨日の、谷さんの告別式には、150名ほどの方々が見えてました。
交友の深さを垣間見ました。
下記、初七日です
↓
missa de 7º dia Sr. HIROMI TANI – Presidente Miyazaki Kenjinkai
Data:- 06-10-2013 (domingo) – 12,00hs.
Local:- NISHI HONGANJI
Rua Canguá, 108 – Bosque da Saúde – SP.
多分谷さんの生前最後の写真と思われますので送ります。
9月26日、19時頃、KENREN事務所で、代表者会議の後の、夕食懇談会の時、楽天優勝(宮城の中沢会長の音頭で)の乾杯をした時の様子です。
園田 昭憲(県連会長)
(コメント集)
和田:園田さん 貴重な谷君の写真有難う。
ポルトアレグレ婦人会のクリチーバ遠征旅行中でお別れに行けませんでしたが元気な写真を見ながら偲んでいます。
谷 広海君と私 初七日の法事参加に代えて!!
園田さんが教えて呉れた谷君の初七日の法事(西本願寺で行われるとの事で当然仏式と思う)は、6日の正午からとの事、正に現在厳かに行われている事でしょう。告別式、火葬、初七日とチャンスがありながらいずれにも参加できなかった。形式的な形だけの儀礼は、我れ我二人の間には必要がないと云った従来からの付き合いからして今回もそれに沿ったもので全く気にしていない。彼の世でまた≪久し振りだなあ!!≫と何時ものように語れる日がその内に遣って来るのを楽しみに待つ事にする。
クリチーバのバス旅行中の往路10月2日の夜と帰路10月5日の夜にバスの中でタブレットを使い叩いた谷君を偲ぶ気持ちを綴ったものを彼の霊前にインタネットを通じて捧げたいと思う。ご冥福を祈る。
10月2日(水) 21時ロードヴィアリア出発
22時オゾリオ検問所通過
23時30分 ソンブリウのポスト ジャポネースに到着。30分弱休憩。インターネットが繋がりメールをchkする。谷君への弔文が多数届いていた。一つの時代が終わったと感じる。それでも地球は廻る。残された者は、生きて行く必要がある。谷君が『私たちの40年‼︎』寄稿集に書いてくれた11年前の原稿を静かに走る寝台バスの心地良い振動を感じながら読み返す。ベトベトした付き合いは少なく寧ろブラジルの北と南に遠く離れ一定の距離を置いての付き合いだった。お互いに一度づつ北と南のマセオとポルトアレグレを家族ごと訪問しあっている。事故にあう1週間前の9月21日の土曜日に徳力さんご夫妻と昼食ご一緒した後、徳力さんが谷君のサンパウロ事務所で有志と集まる《龍馬の会》に参加するとのことで彼の事務所の前までご一緒した。ちょつと顔をお出して行かないか?と徳力さんに誘われたが立ち寄ると長くなりそうだったのでで断念して書道愛好者展の会場に戻った。あの時会っておけば良かったのにと今にして悔やまれるが彼との付き合いを象徴しているようだ。
谷君との出会いは、お互いに早稲田を目指して神戸と宮崎から東京の予備校《早稲田ゼミナール》に通う為に若松町の下宿に入った弱冠18歳の時だったので既に55年も前に遡る。生年月日では、谷君は1940年の1月1日のオメデタイ日で私は2日で1日弟になるが実は二人とも昭和14年の12月生まれで繰り上げ登録しており生まれた日は、私の方が早く数日兄貴のようです。
青雲の志を抱いた田舎青年のその後は、彼が綴ったモグリ同船者にも書かれているが、大学2年の秋の早稲田祭で見つけた泥臭い名前の早稲田大学海外移住研究会というサークルに入り翌年の春休みに九州7県を【移住思想啓蒙遊説】と銘打って本で得た知識だけで各県の外事課、海外協会連合会等にお世話になり5人の俄か弁士が海外移住思想啓蒙の論陣を張り農業高校、工業高校、漁業高校等で講演させて貰いました。当時まだ地べたに座り目を輝かせて聞き入っていた生徒さんの中から何人かは共鳴しあるいは騙されて移住して来た学生さんも居たのではないか?
若い学生さん達に移住を勧めた我々5人には自ら人生の選択肢として移住を実践する義務があると云う罪滅ぼしの気持ちが我々のブラジル移住の根底に流れている。
私は翌年1962年のあるぜんちな丸第12次航に東京都の農業移住者として早稲田を3年で休学し2年間南米7カ国歴訪、64年の東京オリンピックの年に復学、翌年早稲田卒業と共に本格移住し今日を迎えている。
一方、谷君も日本学生移住連盟の南米実修派遣団の1員としてブラジルで実習し卒業後家族を追って移住している。
この罪滅ぼしから始まった我々のブラジル移住にはもうひとつ共通点がある。谷君は、マセオのアラゴアス連邦大学法学部を卒業した弁護士であり私は南大河州カトリック大学卒業の弁護士である。お互いに早稲田ゼミナールの予備校時代の勉強をすればブラジルの大学の入学試験はクリアできることを証明した。
真っ暗なバスの中でタブレットを指で追っていると幾分目が疲れて来る。明日谷君のお葬式があるとの事、旅行中で参列できないことから彼を偲びながら書き連ねて来たが、この辺で止めて明日に備えよう。
(追記) 10月5日 3泊4日のポルトアレグレ婦人会のクリチーバ遠征旅行の最終日は、
大変長い1日になった。朝8時にホテルを出発し登山列車でMorreteに下りパラナグア経由、海岸線を走り途中フェリーでグラツーバに渡り国道101号線を南下している。8時にフロリアノポリス近くのBiriguiで夕食後一路ポルトアレグレを目指す。6時間で着けば明日の午前3時になってしまう。
直ぐには眠れそうにもないので又タブレットを叩いている。
来る時も僚友谷君を偲んで徒然と綴ったが今回は、学生時代のエピソードを紹介して置こう。本校が大隈講堂の裏にある早稲田ゼミナールと云う予備校で猛勉強し無事早稲田大学第一政治経済学部に入学したが解放された気分から早慶戦と安保デモにうつつを抜かして教室には余り顔を出さない。学科が違った ので(私は、政治学科で谷君は、自治行政学科)共通の授業は少なく、600人の大講堂?の共通授業で顔を会わせる程度で有ったが、なけなしの金を持ち寄り良く新宿に繰り出した。
面白いエピソードは、授業では、社会科学、人文科学、自然科学の3部門の最低各3科目以外に必須科目として体育実技が含まれており谷君と申し合わせて柔道を選択した。柔道の講師は、元オリンピック候補にも上がった早稲田の柔道部卒業の猛者。私も谷君も柔道着を付けるのは始めての素人。受け身を確り習得した程度。乱取りの時間になり相手を選ぶのに高校時代から柔道を遣って来ている生徒と組まされると痛い目にあうこと必定。私は谷君と組み乱取りを元気良く始める。二人とも声だけは大きい。大声で掛け声をかけて出来るようになった受け身で派手に畳を叩く。余りの派手さに皆が注目の目を向ける。講師の先生が来て《今の技は?》と聞かれ咄嗟に大声で《空気投げです》と返答。先生からその技の型だけで良いので見せて欲しいと言われ先生の胸ぐらを掴んで掛け声をかけるもビクともしない。
先生から《どうした?》と聞かれ谷君はシャシャと《これは新しく考案した技で今のところ気心の知れた和田にしか通用しない技です。》《それでは二人でやってみろ》と言われ皆が見守る中、二人で大声の気合と派手な受身で皆を爆笑の渦に巻き込み先生から《この新技は、空気投げで無く気合投げか掛け声と受身だけの八百長投げだ》との判定。これで単位が取れたおおらかな体育実技授業の一コマです。
まだまだ、谷君との55年の付き合いには、悲喜交々のエピソードがあるが少し眠くなってきたのでこの辺で止めて置きます。
続きは、彼の世で《おお久し振り》と何時ものように語り合えるのではないかと思っています。それが私と谷君との長い付き合いの原点と言えそうです。
(コメント集)
リオの山下さん:谷 広海さんを偲ぶ 日に日に、活力が消え失せつつあるコロニアで、また一人豪傑サムライが消えた。惜しむるかな。無謀と思われることもやってみる日本男子の迫力を有する人だった。
丸木で〜す 巨星落つの心境です。谷さんの文協会長落選は返す返すも残念至極でした。あれ以来コロニア再建は足踏みしてるように感じます。谷さんの遺志を継ぐ侍の再来を待望します。
早稲田移住研稲門会菅間会長:和田さん 移住研稲門会からの手紙は15,16日頃に発送します。
和田:菅間 さん 宜しくお願いします。
和田様 杉浦和子です。
先日の谷さんご逝去の報には心が痛みます。和田さんもお若い時からの同じ志の盟友を亡くされ、さぞかしご落胆の事と拝察いたします。サンパウロの早慶戦後に早稲田の方々と谷さんのサントス街のアパートにお邪魔したことがありました。懐かしい思い出です。
時を同じくして、以前の三菱マテリアルの事務所と同じビル内の、J/B旅行社の森原さんが亡くなられました。森原さんは奇遇なことに杉浦の高校の友人の小学校時代の同級生で、世界は狭く、ご縁はどこかで固く繋がっていると感慨深く思いました。私共の短い駐在期間に知り合った方々も残念ながらかなり多くの方を彼岸に見送りました。一期一会、最近特に心にかかる言葉です。
菅間会長:和田さん 本日移住研稲門会の面々が佐藤前会長を中心に集まり例の飯田橋の海老専家で集まり谷君の冥福を祈りました。移住研稲門会からの谷君宛ての手紙を添付しますので彼の霊前もしくは墓前に供えて呉れれば幸甚です。手紙には触れませんでしたがあの元気一杯だった新潟の堀口も癌を患い数年前に亡くなっています。
ところで10月25日の昼に飯田橋にこられそうですか。
富田さん 谷君への献花立派でしたね。加藤君へのメール本日見ました。
移住研の規約に従って処理させてください。
和田:菅間 移住研稲門会会長殿
≪天国に旅だった谷広海君へ≫を読ませて頂きました。
園田さんが送って呉れた谷君の最後の公式の場での写真を付けて『私たちの40年!!』の寄稿集に収録して置きます。
機会を見つけて谷君の霊前又は墓前に捧げたいと思いますが先ずはホームページに公開し冥福を祈りたいと思います。
10月25日(金)の飯田橋の海老専家での昼食会に是非参加させて下さい。日本製鋼所との業務提携見直し作業は、11月7日仙台より日帰りで東京に出て来て実施する事が決まりましたので25日は、夕刻のOFF会のみとなりご都合の着く皆さんとご一緒させて頂きたいと思いますので宜しくお願いします。
当方は、伴侶恵子と早稲田理工科卒の杉浦先輩(元三菱マテリアルのブラジル現地会社社長)の奥さま杉浦和子さんと3人で出席させて頂きます。杉浦夫人は、朝からスカイツリー見学の予約を取って呉れており二人でスカイツリーに登った後、お昼にはご一緒頂けるようにスケジュールの一部変更をお願いして置きます。海老専家は、良く知っておられる店のようです。
皆さんとお会い出来るのを楽しみにしています。
菅間:和田さん 嬉しいですね。25日12時半から1時の間に海老専家で
待っています。奥方も一緒とは最高です。
和田:菅間 移住研稲門会会長殿 10月25日昼過ぎに飯田橋の海老専家で昼食をご一緒して頂けるとの事、感謝します。
夕刻の東京OFF会の最終連絡を下記BLOGに掲載しましたが、写真に有る記念品を参加者の皆さん配布させて頂く積りですので参加者の概数を出来れば前日の24日までにお知らせ頂けると助かります。宜しくお願いします。
菅間:和田さん 25日に集まれる人数はこちら側からは12名程度です。
1時前後に来てください。
和田:菅間さん 山本さんの情報では、また大型台風27号が来そうだとの事ですが25日の12時半過ぎに海老専家に出掛けます。何度も行っているので分かると思いますが、一応住所等教えて置いて下さい。御手数掛けます。
杉浦和子様 スカイツリィ見学、銀座での買い物等を予定されているようですが、昼は飯田橋の海老専家において1時前後に昼食会との事ですので、スケジュールにいれて置いて下さい。宜しくお願いします。
≪谷兄のご冥福を祈ります≫ 富田 博義さんからのお便りです。
秋吉大兄
お変わりありませんか。谷兄の事故から死まで衝撃的なできごとでした。稲門会は早慶テニスだし私は55歳全伯大会(28,9日)のコーチでしたが事故翌日(29日)早朝に病院でマセイオから着いたばかりの涼子夫人を見舞いましたが絶対安静ということなので試合に行きました。
後になって知人の息子のHCの医師が3日の寿命といっていたと知人から聞きました。近頃通過する車の横にいるとその速度のすごさにぶつかったら死ぬなと感じます。
彼はなにか考え事をしていたのかバスとの衝突時は歩行者の信号は赤だったと証言する人がいて、涼子夫人は死んでしまったのだからそれはもうどうでもいいと言っていました。大変残念なことでした。妹の言うには谷4兄弟全てが鬼籍に入ったそうで3姉妹のみが生存というのでなにか運命的なものを感じさせます。
さて日本の加藤から日本の移住研OB会から花輪を贈って欲しいとの要望でしたのでこちらの移住研OB会と合わせて贈りました。ブラジル側では有馬、石井、秋吉、村井、和田、後藤、富田で30レアルづつお願いしたいのですが。よろしく。合掌 富田
(コメント集)
和田:富田さん 谷君の事では大変お世話を掛けました。地元におらずクリチーバへの旅行中とは云え告別式、火葬、初七日の法事何れにも行けずじまいでした。
移住研としての花輪を霊前に供えて呉れて有難う。私の名前も加えて頂き感謝です。分担金送金したいので銀行口座番号等を別途お知らせ下さい。20日から訪日、菅間さんから10月25日の昼、時間が作れれば海老専で集まろうかと声をかけて頂いています。現在スケジュールを調整中で上手く行けば東京でも皆で黙祷を上げ谷君を偲べるかも知れません。
来年の11月海外学生移住連盟のサンパウロに置ける合同慰霊祭の実行委員長を富田さんが仕切るとの事、適任だと思います。早稲田からは羽嶋先輩、谷君と彼岸に送っており盛大に合同慰霊祭を盛り上げたいですね。是非参加させて頂きますので宜しくお願いします。
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