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40年の歳月を経て奇跡の巡り会い  富田さんが纏められた山添洋子さんの手記
【まえがき】
山添洋子さんに初めてお会いしたのは、昨年横浜JICAで開催された、学移連(日本学生海外移住連盟)OB総会のときでしたが、初対面とはとてもおもえませんでした。
というのは、数年前ブラジルの和田好司さんが主宰する「私たちの40年」のML上で、40数年前アマゾンで父を亡くし、帰国途上の南米定期航路客船・あるぜんちな丸船上で母を亡くした三人の乳幼児と同船のスチュワデスだった、山添さんとの出会いの話を読んでいたからです。
日本人の海外移住史に残る、この悲しい出来事と感動的な再会、そしてブラジルで遺児たちに寄せられた日系社会の人々の温かい同胞愛の心を、ぜひ多くの皆さんに知って欲しいと思い、当時の一部始終を文章にまとめて欲しいと山添さんにお願いしたところ、快諾してくださいました。
「オリンピックを東京に!」という招致活動で、ブエノスアイレスやリオデジャネイロの地名が飛び交うこの夏、猛暑の中、「40年の歳月を経て奇跡の巡り会い」を執筆してくだいました。
 では、ごゆっくり山添さんの感動のメッセージをご味読ください。(富田)
今回は、リード部分を富田さんの前書を使用させて貰いました。写真は、礼子さん、美代恵さんと46年振りに再会し喜ぶ山添さんの写真を使わせて頂きました。


40年の歳月を経て奇跡の巡り会い
山添(旧姓岸本)洋子

2005年(平成17年)、私は約40年ぶりに懐かしいブラジルを訪問しました。実は私は学生時代、ラテンアメリカ研究会に属していた関係で1965年、日本学生海外移住連盟第6次南米学生実習調査団団員として8か月余りブラジルに滞在した経験があります。
その当時お世話になった方々や現地に住む学生時代の多くの友人、知人と再会する中、「watasitatino40nen」というメーリングリストを主宰する和田さんにお会いしました。そして、アマゾン地域の想い出として40年前の忘れることが出来ない、ブラジル東海岸を航海中だったあるぜんちな丸で起こった悲話をメーリングリストメンバーとして投稿したのです。

                            
 
南米定期航路客船・大阪商船三井船舶あるぜんちな丸 (すべての写真は山添さん提供)
それは夫をアマゾンの開拓地で亡くして失意の帰国途上の若い未亡人が、三人の乳幼児を残して、あるぜんちな丸から身を投げるという「悲しい出来事」でした。当時私はこの船のスチュワデス(当時の職名)として、その現場に居合わせたのです。

一方、遺児の一人、日本に住む礼子さんが父母の住んだ国、自分の出生地が懐かしくてブラジルに関係のある和田さんの画像掲示板を見つけて自分のことを書き込んでこられたのです。和田さんのお蔭で、「これとこれは同じ話だ」とつながり、40年の時を経て、奇跡的とも言える私たちのネット上での出会いとなりました。遺児3人は元気に日本で暮らしておられたのです。
その後、このMLを通して、また、伯国の新聞や日本の新聞などでこの話しが拡がりました。伯国の日系社会でもこの出来事は大変ショッキングなニュースだったので、40年経っても皆さんの記憶に残っていて、当時のことがいろいろ明らかになりました。

あるぜんちな丸、ベレン港着
1967年(昭和42年)7月2日横浜港を出航した商船三井の貨客船あるぜんちな丸は8月7日アマゾン川下流のベレンに寄港しました。この港には大きな船は接岸できないので、あるぜんちな丸は沖合に停泊。待機していると大河のかなたから小さな船がやってきて横付けになり、少数の移住者たちが荷物とともに不安定なタラップを降りてその小さな船に乗り移って行かれました。
横浜からの1カ月余り、今の豪華クルーズ船の比ではありませんが、当時としては珍しく、まだ就航したばかりの日本の外国航路客船として、船内では毎日フルコースの食事、イベントの数々、何にもまして温かく行き届いた接客サービスが提供されて、船客の皆さんは快適な旅を続けてこられていました。が、ここにきて、沈みそうな小さな船に乗り換え、言葉も分からない黒人の屈強な男たちに促されて暗い船内に入っていく人々の気持ちはいかばかりか、アマゾン地方への移住の現実を思い知らされる場面でした。その小さな船が離れていくときには、アナウンス担当の私は船内放送で「皆様お元気で!」と。そして「蛍の光」や「アニーローリー」の曲を繰り返し流して別れを惜しみました。送る方も送られる方もちぎれるように手を振り、声をかけあって涙、涙でした。どこの港でもいつも悲しい別れがありますが、岸壁もない、見送りも出迎えもないベレン港沖合での別れは特別悲しいものでした。


船内で礼子ちゃんを抱く山添さん、男の子は裕之君。女性は同僚のスチュワデス
下船者に入れ替わって、この港では珍しく、一人の若い女性が3人の乳幼児(5才長男、2才長女、9ヵ月次女)を連れて乗船してこられました。その女性は25才で、つい先ごろ、胡椒栽培をしていた26歳の夫が病死し、国援法で帰国する人でした。船は帰路ベレンには寄港しないので、ここから一旦アルゼンチンのブエノスアイレスまで南下して60日かけて日本へ戻るのです。

乗船後4日目、たまたまアルゼンチン人の1等船客の男性が急病死されました。往復この船で日本観光に行って母国へ帰る途中の方でした。船にはドクターと二人の看護師がいますが、船客が亡くなるなど異例のことでした。

女性が子供たちを残して…
その日の午後、私がチルドレンズコーナーにいると、その女性が子供たちを連れて通りかかられたので、「ここで遊んでいきませんか?」とお誘いしたところ、小さな声で「いいえ」と言って、デッキへ上がって行かれました。その後、私も上がっていったところ、デッキは異様な雰囲気。なんと、今、その女性が船尾から投身したとのこと。震える手でデッキの電話を取り事務室に知らせると、たまたまそこにおられた篠田船長達は脱兎のごとくブリッジへ駆け上がり、大捜索が始まりました。船客も乗組員も皆デッキに出て海面を見つめました。大海の中で木の葉1枚を探すようなことで、なかなか見つけるのは難しいものだそうですが、幸いにも約2時間後、遺体を発見することができました。ブリッジの船長以下、航海士たちは目や手が痛くなるまで双眼鏡を覗き続けたと言います。そして、救命ボートをおろし、救助に向かう時には、近くを大きな鯨が泳いでいてハラハラする場面もありました。その間、突然母親を失うという出来事さえ理解できない乳幼児たちを私たち二人のスチュワデスや女性船客たちが抱っこしたり、ショックで声を失っている5才の長男の手を握りしめたりしていました。

その後看護師さんたちが遺体をきれいにお化粧し、棺に収めました。船は急遽、近くのレシフェ港に寄港してお二人を降ろし、アルゼンチンの方は空路帰国、この女性はレシフェ領事館の手で、現地に埋葬されたそうです。それからは、船客の有志の方々がお世話をしてロサンゼルスまで船で、そこからは飛行機で遺児達を日本まで連れ帰りました。私の人生で忘れられない大事件でその後、折に触れ、この子供たちのことを案じていましたがその後の消息は知りませんでした。


子どもたちを連れてリオ・デ・ジャネイロ観光。裕之君と手をつなぐ山添さん、礼子ちゃんと同僚スチュワデス

その後…
私たちのメール上での出会いがあって以後、多くの方から寄せられた情報によると、船がサントスに着いてから終着のブエノスアイレスまで行ってくる間、サンパウロ領事館の赤尾さん夫妻が3人を自宅に預かってお世話されたそうです。その間、日系コロニアからは遺児たちへ温かい志が多数寄せられ、引き取って育てたいという申し出も30組もありました。また、無縁仏になっているかと思われていたお父さんは、現地に住む親族の手で、立派なお墓に納められて40年間手厚く墓守りされていました。
一方、レシフェで埋葬されたお母さんのお骨は、その後日本に送られてきて栃木県のお墓に入っています。
遺児のうち長男の裕之さんは栃木の母方、2姉妹は埼玉の父方の親族に引き取られて無事に成長されました。しかし、顔も声も覚えのない両親のことを知っている人たちに会ってみたい、父のお墓に参りたい、自分たちの生まれたところに行ってみたいという切実な願いを遺児たちはもっていました。それを知って、日本にも強力な支援者が現れ、ついに2008年、遺児の礼子さんと美代恵さんの訪伯がかないました。アマゾン地域で父のお墓に参り、両親を知る人たちに出会い、また、サンパウロで2週間ほどお世話になった領事館の赤尾氏宅も訪ねました。氏はすでに亡くなっておられましたが、90才過ぎの奥さまは健在で当時10代だった息子さんたちと共に出会えて、非常に懐かしがられ、昔話を聞かせてもらうなど、2姉妹にとっては何もかも感動と感謝でいっぱいの訪伯だったということです。「まるで両親が見えない糸で私たちをブラジルまで導いてくれたように思う」と言われるのも当然と思えます。
  
46年振りの再会


礼子さん、美代恵さん姉妹と再会した山添さん、男性は姉妹の支援者・酒井さん、平安神宮にて
本年(2013年)3月、姉妹は支援者の酒井氏夫妻とともに京都を訪ねてくださり、ようやく、私たちは実際に出会うことができました。46年ぶりのことです。いろいろご苦労もあったでしょうが、とても素直で礼儀正しく穏やかな感じのお二人でした。きっと心を残して亡くなられた若いご両親が、遠いブラジルから子供たちを見守り続けておられるのでしょう。そして、細々としたエピソードを聞きますと日系社会の人々の温かい同胞愛の心にも感動します。もちろん、不運な環境の下にありながら立派に成長された遺児たちの努力を思い、今後の幸運を心より願っています。

この原稿は学生時代の先輩、富田眞三氏のご依頼で古い記憶をたどりながら書きました。
記憶間違いがあるかもしれませんがご容赦ください。

2013年8月記 


【筆者紹介】
山添洋子さんは、日本学生海外移住連盟の1965年第6次「南米実習調査団員10名中、紅一点としてブラジルに渡り、サンパウロ市の日系コレジオ名門の赤間学院・幼稚部において8か月の実習調査を行いました。
山添さんは奈良女子大を卒業後、(株)大阪商船三井船舶に入社。1967、68の二年間、同社の南米定期航路客船・あるぜんちな丸やぶらじる丸にスチュワデスとして勤務。
 1969年春、商船三井を退社、(財)日本万国博覧会協会に就職して大阪万博で活躍しました。
結婚後は二男一女に恵まれ、お住まいのある京都市で、長年高齢者問題、介護問題などのボランティア活動を続けています。 



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