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≪百六年前の先駆者移民の上陸風景≫ 早川 清貴さんの寄稿
これまでにも移住者としての目線でブラジルの日系人の歴史、心情を詠ってこられた歌人としての早川さんが纏められた1908年に笠戸丸で日本からの最初の移民としてサントスに上陸した時の様子を活写しておられるのをbatepapoと云う日本商工会議所のコンサルタント部会の皆さんのメーリングリストへの投稿を寄稿集に収録させて頂くことにしました。
早川さんご自身の説明文には、『小生は常に移民先駆者の歴史を短歌に読んで日本へ紹介しています。この別添はその一環で日本在住者に少しでも当地の移民の過去を知ってもらう為です。日露戦争に辛勝して世界<列強>の仲間入りした、往時の、日本政府は国の威信にかけても移民者には先進諸国並みの配慮をした苦心の跡が窺えます。ご一読下さい』とあります。
写真は、砂古友久さんが日本移民100周年祭に描かれた文協保存の笠戸丸の港から眺めた秀作をお借りしました。


百六年前の先駆者移民の上陸風景
                     早川清貴
新しく年が明けて六月に叉『移民記念日』がやって来る、今年は先駆者移民第一回から起算して百六年目になる。小生はサンパウロ市の移民資料館で三十四年前に先輩諸氏により編纂された『移民の生活史』と言う古い本を見つけた、その中に明治四十一年(一九0八年)の第一回日本移民七八一名のサントス港上陸行動とその折、サンパウロ州の有力紙“コレイオ パウリスターノ紙”の記者がその上陸に追随して詳細に亘りこの移民達の行動を報道した当時の記事掲載を見つけた。大きな驚きではあるがその結論として記者は一世紀前に日本移民に対して『将来サンパウロ州の富は、日本人に負うところ多く、彼等は生活の一分子として、申し分ない者として社会に認められるであろう』とサンパウロ州のみならず国全体に膾炙され定着している日本人の本質である勤勉と貢献度を百年前に、喝破していることである。小生も移民の一人として先人の功績に対して敬いの念は放棄出来ず、日本の皆さんへこの明治国家の日本がなし得た道徳教育の産物をお伝えしたく、敢えて、筆を執った次第である。

移民船は静々と港の奥深く進む、夜明けに『南米大陸の山々が見えるぞう!との船員の叫びで、移民達は俄に活気だった』
『明日はいよいよサントス入港だ、笠戸丸ともお別れだ。移民たちの心は雄々しいうちにも故国の船に別れを告げる哀愁があった。移民達の子供を抱き上げてお別れの頬ずりをする船員もあった。沖縄移民の弾くジャミセンの音は、夜の海に流れた。一万二千海里の船旅を終って、サントス港に仮停泊した夜の移民達の気持ちが胸に迫る。恐らくサンパウロ州の冬、六月の空には、鮮やかに南十字星も輝いていた事であろう、と当時の状況を移民の生活史は物語っている、明ければ六月十八日『晴れ、木曜日、この朝サントス入港、午後五時ドッキング航程二百二十里の航海は終了した』と通訳の水野龍氏はその日記に記述している。

移民達の上陸は翌日十九日の午前七時から始った、この第一回移民の上陸光景をコレイオパウリスターノ紙の記者、ソブラール氏、が往時の新聞に発表した記事が何より参考になる、と移民史は記述して、その詳細を次のように翻訳掲載している。

初めて見る大勢の日本人は一体どんな格好をしているのだろうか『彼等男女は全て洋装であった』と記述している、そして『男たちは全て中折れ帽子または鳥打をかぶり、女達はブラウスにスカートの上下が繋がった洋服で、腰の周りにはベルトを締めて、ごく簡単な婦人帽をゴム紐で頭にかけて、ピンの飾りをつけていた。その髪形はかって日本画で見たものを思い出せるが、しかし、あの絵にあったような大きなカンザシはつけていなかった』と浮世絵の美人画を想い出したのであろう、報道している。更に『男女共に安価な靴(深ゴム、編上げ、短靴)をはいていて、底には鉄のビッウが打ってあった。そして全ての者が靴下を履いている』ことに注目している。『男達の幾人かは日露戦争で武勲を立てた折の勲章をその胸にぶら下げていた。彼等の一人はメダルを三つも下げていたが、その一つは金で、戦功によって与えられたものであった。多くの者が絹の小旗を持っていた。塗りのある細い竹の棒の先には金属の球がついていた。この旗は対をなしていて、一つは白地の中央に紅い丸があり、他のものは黄緑で、日本とブラジルの国旗であった。これはわざわざ我々を喜ばせるために持って来たものであろう、何と上品な心づかいか!尊い教育の賜物であろう。彼等のヨーロッパ式衣服は、みな日本で購入したものであった。そしてそれらは、日本人の大工場で仕立てられたものであった。ヨーロッパ式服装は“日出る国”に普及しつつある。(この時代は日本では着物姿が圧倒的だった)移民達は自分の金で衣服を購入したものであったから、清潔な新調品で気持ちのいい印象を与えた。女達は木綿の白い手袋をはめていた』この下りは、恐らく、気の毒な程汚れ、疲れてやって来る南欧移民(イタリア、スピン及びポルトガル)にくらべて。手袋をはめてまでやって来る日本移民の服装には、驚異の目をみはったに違いない。

その後移民達は列車でサントス港からサンパウロ市の二千人以上を収容出来る移民収容所へ移動した、その移民収容所での行動をコレイオ紙の記者は、一部始終を見逃すことなく克明に報道している。『午後五時の夕食、押すな押すなの雑踏である、がらんとした天井の高い大食堂に並んだ十数脚のテーブルで、二回にわたって食事が給与された。鱈とじゃが芋を煮込んだオジヤ風にパンが添えてあった』この点を当時移民収容所の書記をしていた日本人鈴木貞次郎氏によると、ブラジル側の日本人移民に対する特別の配慮(ご馳走)であった、と記述している何故なら通常は肉のスープとパンのみが与えられていたから、、、。コレイオ紙の記事を続けると『移民達は一時間程を食堂で過ごした後、自分達に割り当てられた寝室、寝台を見るために、其処を去らなければならなかったが、彼等の去った後のサロンは、完全は清潔さが保たれて皆を驚かせた。煙草の吸殻一つ、唾を吐いたあと一つない。汚らしく唾を吐き煙草の吸殻を足で踏みつぶす他の国の移民達とは正に対照的である、彼等は何時も規則正しく食事をした。そして最後に残ったものは、先の者より二時間の遅れたのに。ヤジを飛ばしたり。我慢出来ないで騒いだり、抗議の声を上げたりしなかった、他の国の移民との違いである』さらにソブラール氏の記事を続けると『移民として来た全ての日本人は背丈が低い。頭が大きく胴体は長く良く発達しているが足は短い。十四歳の日本人は、我が国の八歳の幼児より背丈が高いとは云えない。日本人の平均身長は我々の中の低位の者より低い。むろんもっと高い者もいた、彼等は我々の中クラスの背丈に相当するであろう。しかし、特に我々が注目したのは、男子の体が頑丈に鍛えられていることであった。しかし筋肉はそんなに膨れ上がっていないがそれでいて丈夫だ。骨組みは広く胸は充実している。その黒い髪の毛は、女性の大きな髪形において特に目立っている。男達は頭髪を分けるようにしているが、ある者は横の方から、他のものは真ん中から分けている。丁寧に櫛でとかし、皆がつけているネクタイと良く調和している。叉それは彼等の節くれだった手とも不釣合いのものではない』と詳細に及ぶ観察を下している。さらに食堂での行動に就いて再度次のように観察している『彼等は従順で社交性がある。そして我が国の言葉を熱心に学ぼうとしている。叉食堂ではご飯一粒、御汁一匙も零していない、食事の後は食事前と些かも変わっていない。寝室は殆ど掃きだす必要は無いくらいだ。たまには紙切れなどが落ちていることもあるが、これは時によると収容所の使用人達の仕業であろう』と行儀のよさを褒め讃えている。更に文化の違いであろうか夫婦間の信頼関係に触れて『彼等はその妻を信頼している姿は最高である。自分達のポルトガル語の勉強を中断させない為にも日本通貨の交換を妻に任せている程だ。彼等は皆お金を持参して来ている。十円、二十円、三十円そして五十円、ある場合はそれ以上である』と報道している。冒頭の己の妻を信用している度合いに就いてはヨーロッパの習慣では、それが己の妻であっても、こと金銭となると、全てを手渡してしまう、日本家族での、夫婦関係など想像も出来ないのであろう。

『移民達は。たびたび風呂にはいるので、身体は清潔だ。叉さっぱりした衣服を着ている。全ての者が歯磨き粉の箱、歯ブラシ、耳かき、櫛、剃刀などを所持している。石鹸を使用せずに水で髭をそる。彼等の荷物は小さいものばかりである。それで八百人近い人数で個数は一千個に達し、多くは柳行李またはズックの袋で、見たところ、労働者の荷物とは思えない。我が国の労働者が所有するブリキ箱、コモの包みの荷物などと比べると比較にならない。これ等の荷物の中には歯磨き粉、缶詰、食物調理用の醤油、薬品、衣服、木の枕、其の他の日常品、防寒用の布団、大工道具、何かびっしりと書き込まれた一、二冊の書籍、便箋の入った箱、墨、ご飯を食べる時に使用する二本の小さな棒(箸、アルミ製もある)平たくて幅の広い大きな匙(しゃもじ)其の他彼等が必要とする細々したものが入っている』と、まあ、良くも観察したものである。この状態から記者がそれまで考えていた落ちぶれた移民の姿とは考えられない状態であった。そしてコレイオ紙の記者が結論として述べているところは『、、、このような清潔さ、規律正しさ、従順さと言う日本移民の習慣や性格が動労の上で発揮されるなら、将来、サンパウロ州の富は、日本人に負うところが多く、彼らは生活活動の一分子として申し分ないもの、と認められることになるであろう』と賢明は結論を下しているが、しかしこれは往時全然予想もつかなかったものであることは勿論で、記者の追記として『日本人は人種的には我々(ヨーロッパ系)と非常に違っているが劣等ではない。我々は国内労働における日本人の活動に就いて、今から早まった判断は避けたいと思う』と結んでいる。最後に千個以上に及んだ移民達の荷物の調査した税管官吏は『彼らが持って来た一千個の荷物中で厳重な取調べがあったにも係わらず唯一つの課税品も見出す事が出来なかった。調べは殆ど二日に及んだ。こんなに規則正しく、冷静に、その所持品の取調べに立会って、唯一度も隠し立てして咎められるようなことが無かった人達は今日まで多く入国者を扱ったが、初めてであった』と述懐している様を日本人の通訳が吐露している記録が残されている。さて、この後に日本で労働契約を交わした各県人或いはグループ毎に、ブラジル富豪が待ち受ける夫々のコーヒー園に就労の為に旅立って行くが、この時点で筆舌に尽くし難い過酷な労働が待ち構えているとは誰も知らなかった。

参考文献、半田知雄著、ブラジル移民の歩んだ道)
(註) 訳文は一九0八年六月二十五日の、同紙、第一面の記事。



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