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『私たちの50年!!』メーリングリストを通じての【さりげない私の呟き】
『私たちの50年!!』メーリングリストは、10年以上続いたyahooサービスにお世話に成り3万9千通のメールが飛び交い今年の2月からfreemlにお世話に成り既に4300通のメールが飛び交っていますが、私が一番受け取って嬉しいメールは、今回の松川さんの広島原爆投下のお祖父さんのお話とか古谷さんが恥ずかしい話題として規定しておられる誰も心に秘めている人に話せないようなさりげない呟きと云うか普段は、自分の心の中にしまっている話題を開陳して呉れる事です。『へいそんな苦労、辛い思いもされたんだ!』とかさりげなく語る藤沢さんの呟き、都賀さんのカッコイイ話し、園田さんの郷里の話等新しい発見、さりげない語りを【さりげない私の呟き】としてHPに収録して置きたく皆さんのとっておきのさりげない呟きを募集します。
松川さんの退会宣言?でぎくしゃくしたMLを何とか修正しようと私なりに努力をして見ましたが、結果として古川さん、麻生さん、都賀さんが退会してしまわれました。残念な結果ですが、これは各個人の選択ですので仕方がないですね。【さりげない私の呟き】の予定がこのMLの私の管理運営に付いての説明で終わってしまう事になりました。
適当な写真が見つからないのですが、ここはやはり私たちの出発点、在りし日のあるぜんちな丸の雄姿を使う事にします。この写真は、岡山の賀多井さんが私たちを南米に連れて行って呉れた第12次航の帰路、パナマ運河のバルボア港近くで乗っておられた船から撮られた貴重な写真です。


松川範正 和田さん、皆様 松川です。いつも大変お世話になっております。
和田さん主宰のこのMLは誰でも参加でき、自由闊達に意見を述べ合うことのできる貴重な場であると思います。若輩者の私もそれに甘え、浅学をさらけ出して参りました(皆様のお目を汚し恥ずかしい限りです)。
しかしながらこの度、この場におきまして、「原爆で死んでくれたから多くの人が救われた、原爆で死んでくれた人がいて良かった」とも読み取れる投稿を目にいたしました。原爆投下の当事者のアメリカがこの種の主張をいたしますが、同趣のことを平然と述べる方がいらっしゃったことに衝撃を受けました(日本人ですよね?)。
私の祖父は広島に置かれた中国軍管区に勤務する陸軍の将校でした。1945年8月6日のあの原爆攻撃による負傷がもとで同月末に死亡いたしました。祖母は夫を探しに、当時1歳だった私の父をおぶって、廃墟の広島市内に入りました(この意味お分かりですか?)。
私は、よって生まれてこのかた父方の祖父に会ったことがありません。戦争を経験しているにも関わらず、子供の頃両方の祖父母が健在の友達がかなり多く、彼らを本当に羨ましく思ったものです。
夫を亡くした祖母は女手ひとつで子供3人を育てました。大変苦労したと聞いております。その祖母は夫の分も生きたのか、先年101歳を目前に永眠いたしました。
始めに述べましたとおり、和田さんのMLは自由に意見を述べることができる場です。日本には表現の自由があり私もそれを尊重するものです。
しかし同時に、原爆犠牲者の関係者でもある私には先のような原爆による犠牲を良しとする意見に居たたまれない思いでおります。
従いましてこのMLの場より退場したく、退会を申し出る次第です。
どうぞお聞き入れいだだきますようお願い申し上げます。
最後になりましたが、皆様がますます健勝であられますようお祈りいたします。


井川 實 松川範正様 東京江戸川区在井川と申します。横から余計な口出しをお許し下さい。
お祖父様を広島の原爆で亡くされた松川様のお気持ちはよく解りますが、
そのために「50年」を退会されるのは、すこし寂しすぎませんか?
昭和20年8月6日、私も疎開先の愛媛県越智郡の小大下島(現今治市)の
山の頂上から、水平線の彼方に立つ原爆のキノコ雲を望見しました。そのとき 私は7歳で、私の手を引いていた父は軍需工場(造船)経営の41歳でしたが、「こら、行かないかん!」と叫んで、私を置いて山を駆け下り、若い衆を二人連れて漁船で広島へ向かいました。(知人や友人のための食料や衣料を積んで)そして、戦争が終わって半月後、瀕死の状態で、進駐軍の船で運ばれて帰島し、次の日絶命しました。が、その時の父の表情は、「やるべきことをやった」という満足の笑顔でした。島の人々も「よくやってくれた。よく帰ってきたな」
という嬉しそうな顔をしていました。
その後未亡人となった私の母は故郷の芦屋市へ引き上げて、神戸のケーキを
大阪へ運ぶ「担ぎ屋」をして私たち四人の子供を育て上げてくれましたが、
愚痴も泣き言も聞いたことはありません。それは、「夫は国のため人のため
お役に立てた」という誇りがあったためだったと思います。
私たち子供もいじめや貧困で苦しみましたが、亡くなられた広島の方々のことを思えば、不満や泣き言をいう気にはなれませんでした。
そこで、松川さん、お祖父さまをはじめ広島の方々は決して無駄に命を失われたのではない、とお考えになれませんか? 一死をもって終戦を国に決断を迫った・・・と。後世に核の恐怖を身を以て教えてくれた・・と。
私自身も、原爆の被害写真の展示を拒否していたアメリカ(特に在郷軍人会)が 許せず、長年抗議運動に参加していましたので、松川さんがそのアメリカ的な「原爆正当化論」を許せないお気持ちは十分に理解できます。しかし、この「50年」のブログは、そういう問題を議論したり、日頃の憤懣をぶちまけるまたとない「場」ではないでしょうか。
私は怠け者で、とてもレギュラーメンバーにはなれませんが、いつも
古谷さん、麻生さん、丸木さん、前田さん、富田さん、松川さん、
(そして、当然ですが、和田さん)などの方々の喧々諤々のご議論を
楽しみにして拝読し、勉強させていただいております。
どうか、松川さん、脱退は思いとどまり、今後ともご高説をお聴かせください。
とつぜんの不躾 お許し下さい。
                            

藤沢 晴巳
ここからは余談です。
前に、組合のインチキ左翼どもについて少し触れました。私よりひどい
目にあわされた仲間が何人もいます。彼らは職制になにか言うことがあ
る場合単独で来ることはなく、必ずグループでやってきます。多くは屁
理屈専門の詭弁使い達なので論破するのにたいして苦労しませんでし
た。おかげで恨みを買ってしまいましたが、やや気になっていた仕返しは、
彼ら(PT党一派)が政権を取った後もありませんでした。もちろん職制
からは外されましたが、給与は現役時の最高額のままで年金入り出来ま
した。と言ってべつに感謝する筋合いのことではなくて、何年か後こんど
は彼らが年金入りするときのため布石にすぎません。彼らに感謝すること
があるとすれば、議論の仕方をついて鍛えられたことぐらいしかありません。
ちょっと空しいですね。


都賀 五郎
藤沢さん ブラジルでの武勇談義をありがとう。
小生は日本では少し暴力団/チンピラとは因縁があります。
差しさわりのないと思われる小話を一つ、
日本の会社の先輩で 且、 住まいのアパートが同じ建物だった東京出の若者が
やくざの知り合いで 、彼から やくざと会った時の挨拶の仕方を教わりました。
その後 会社の連中と夜の藤沢へ出掛け 真夜中頃 飲み疲れて後 帰りの途で、我々の仲間の一人がやくざと思われる連中とイザかいになり、顔をぶったかれ鼻から血を出して倒れました、後方で、キャバレーの女の評判をしていた小生達もこれにいやおうなしに巻き込まれてしまいました、この時 少し覚えた あの 仕切り/挨拶を使って 両者の間に割って入って仲裁/和解を 試みたところ、
喧嘩中の男たちの後方から 年配の男が出てきて、、 おう 客さん こんな
所へ出てきちゃいけねいよ、 お帰んなさい、、、、と 言ったあと、仲間へ向かって素人さんへ 乱暴しちゃ いけねいよ、さあ引き上げましょう 、 飲みましょう。
この一声で 12人程 いた 乱暴者達が 一斉に引き上げて 飲み屋街方向へ去っていきました。
後日 小生は 会社で評判になりましたね 元チンピラ、男前、勇気あるーー、カッコイイ、、、、その後に有った話は次回になります。
神奈川県の藤沢市であった、小話の続きです。
あの出血騒ぎのあったのは金曜日だった、翌週 会社からの帰途に
馴染みの食堂へ寄った、そしたら そこで出てきた すし職人の顔を見て
びっくり仰天、 誰あろう アノ喧嘩の仲裁を仕切ってくれた ヤーさんです。
お礼を丁寧に言ったところ、 おメイさん、運が良かったぜ、、、
お前さんの仕切り(やくざの仕切り しかも喧嘩時に、)じゃ 命が幾つあっても足りないよ、小生の馴染みのお客さんだったから、あっしにも判ったが、でなきゃ 仲裁を仕切ってなんか やらないよ、できないよ、 お客さんは 鼻血 以上の 大けがだったね。もう二度と あんな やくざを真似した 挨拶は絶対にし ちゃ いけないですよ。とトテモキツクどやされました。
それは 1970年の秋だった。


園田昭憲
皆さん 私の名前が出てびっくりしてます(この所邦字新聞のネタにもなりません=笑)
前田さんが仰るように、根っからシーバス・リガ−党で、リベルダーデの沖縄料理屋で6年半で飲んだ数は、426本になりました。
私は、代議士さんとは縁ありません。 薩摩人ではなく、大隈隼人で、仙人が住むような高隈山の奥で生まれ、パラグアイに準二世(日本で生まれても、日本の行政はこのように区別、表現します)として、一家で農業移住しました。 標準語は鹿児島弁です。
いまは自分の意思で、サンパウロに永住し、アチバイア農場でキノコつくりしてます。
山本様 有難うございます。
私の先祖は加世田(今は南さつま市)だそうで、実は!!薩摩人なんです。
薩摩藩の時代、錦江湾に積もった砂鉄を垂水越えで、高隈山の山奥の秘密の製鉄所まで運びスラブを作ってたそうで、そこの奉行(隠密)だったようです、言葉も独特でした。
私が小さいころまで製鉄所の跡は残ってましたが、朝鮮動乱のとき掘り起こされ錆びた鉄くずを運び出していたのをおぼえてます。 秘密の製鉄所でしたから歴史には残ってないように聞きました・・・・ 家の近くに『鉄山橋』とういのもあったりで。鉄屋の前田さん興味ありますかね? こんな話!


古谷 敬治
私のメールを再読願います。私は一言も「原爆で死んで呉れた人が’居て良かった」とは言っておりません。
貴殿がそう言う風に私のメールを理解されたのなら、貴殿は「アイゼンハワーが主張した通常の上陸作戦で、原爆投下以上の死傷者が出ても構わなかった」と言う考えをお持ちと理解して宜しいか?
人それぞれ経歴・歴史を背負っております。私も、長兄を戦争で失いました。次兄は学徒動員で、西明石の軍需工場で’働いて居た時、空襲警報で退避する際、グラマン機の直撃を受け、右足を負傷、一生ビッコをひいておりました。昭和20年02月のB-29の大空襲で神戸の自宅を焼失しました。私は岡山県の田舎に集団疎開。戦後帰宅しても、食べるものがなく、母に岡山に帰りたいとダダを捏ねた事を覚えております。戦時中、終戦直後の世間一般の生活の困窮ぶりは言語に絶しました。各家庭はそれぞれ暗い過去を引きずりました。
松川さん、原爆の影響でご祖父をお亡くしになった事は大変お気の毒に思います。しかし、この和田さんの[W50年」は、個人の暗い過去を語る場でしょうか?貴殿がご祖父の事を述べられなかったら、上述の拙宅の事故など恥ずかしくて語って居ません。各人それぞれ暗い過去を背負っていますが、それは軽々しく人前で語る事でしょうか?退会の理由として口にすべき事でしょうか?
会社を途中退職する際、退職届けには理由を「一身上の’都合に依り」としか書きません。「他に給料の多い勤め先が見つかりまして」とは書きません。同様に’和田さんの「W50年」をお辞めになるのは、ご自由ですが、その理由を書くに事欠いて、私のメールの内容が気に入らぬからと他人を誹謗する様な書き方、他人の所為に’するのは「男らしく」ないと'思います。常識・エチケットに照らしても如何なものか。貴殿もスポーツマン。正々堂々・公正に退会届を出して欲しかったと惜しんでいます。


伊豆山 康夫 松川さん おじい様が軍人で、一命を賭して職務を全うされた由、心を打たれます。私は軍歌を歌うのが好きで、丸木さんと大声で唄った忘れられない経験があります。私にとって、軍歌は「国の為」を信じて散った先輩達への鎮魂歌です。 彼等の死を犬死だったとは思いませんし、思い度もありません。
彼らの純真な心に鎮魂歌を唄うのは我々生き残った日本人にとって、やらねばならないと私は思っています。その一方で、多かれ少なかれ戦争に加担した日本人が己を正当化するのはあまりにも卑怯だとも私は思います。戦争の是非を○×式には答えられないと思います。


古谷 敬治 伊豆山さん 過日、W50年会の主宰者和田さんより直々に下記のメールを頂戴しています。伊豆山さんもお読みになったと思います。
 古谷さん
 『私たちの40年!!』HPにも収録させて頂いていますが、『東京裁判私感』(4回に渡り掲載)は、古谷さんの大事な大事な書きもので
 全くズレが生じない絶対的な力作のようですね。この『東京裁判私感』は、古谷私感のゆるぎないものとして守って来られたし守って 行かれる事でしょう。自分なりに納得行く史観を持てるのは幸せな事です。誰が何と云ようとこれからも曲げずに守って行って下さい。
他方、昨日伊豆山さんより下記のメールを頂戴しました。
古谷さん ご丁重な返信、有難うございます。皆さんの書込に水をさすのは心苦しいし、横から意見するのも不本意でしたが、和田さんが皆さんへの自制をお願いするにあたり、私の過去の書込を参考にされましたので、一寸、助っ人役をやらなければならないだろうと思い、敢えて苦情を申し上げました。ご容赦下さい。 このサイトは和田さんと同船者のお仲間が相互の友好の為立ち上げたもので、和田さんの主旨に沿わないテーマは避けるようにお願いします。我々は居候であることをくれぐれもお忘れなきよう重ねてお願いいたします。 伊豆山
貴台のメールと和田さんのメールの主旨は全く逆です。しかも、ご自分のメールには幹事和田さんの代弁として述べられております。
和田さんは貴台に「助っ人役」を頼まれてないのに、何故に同氏の名を語ってまで、ご自分の私情を私に押し付けたいのでしょうか?
貴台よりこの種苦情のメールを頂戴するのは、これで二回目です。最初は「己の知識をひけらかすな」で、今回は「原爆被災者家族の心情を考えろ」です。中身は違いますが、共通しているのは、「お前は喋り過ぎ、もっと隅に引っ込んでいろ、W50年会から退場しろ(別室で議論せよ)」です。主宰者でもない一介の会員が、何故他の会員に斯様な強制的な態度が取れるのか?お伺いします。
和田さんの「W50年」は、発足時の趣旨は仰る通り、あるぜんちな丸同航者の集い・交歓の場でありました。後年、入会した非同航者は会発足時の理念を良く承知する要は否定しません。しかし、発足後12年を経た今日、非同航者の会員が多く増え、且つ投稿する記事の内容も多岐に亘り、会発足の趣旨より大きく変貌しております。寧ろ、和田さんは、「特に題材には制限を設けない。広く活発に議論して欲しい」と逆に会員ハッパをかけている状態です。この点からも、貴見解と逆行しています。
今回問題になりました投稿は、麻生さんと私が行ったものですが、貴台より内容を指弾されているのは、私だけです。何故に同罪(?)
の麻生さんにも苦情を呈されないのか? 尤も、麻生さんは、大変な理論家で記述も巧み。下手に議論を吹っかけ様ものなら、二倍・三倍返しで、反論される。その舌鋒たるや、ドーベルマンの噛み付きにも似て、恐ろしくて、うっかり口も利けない、からでしょうか?
「W50年会」に、三か条の禁止項目があります。(A)物品の売買、(B)他人の中傷・誹謗、(C ) 公序良俗に反する投稿、です。
貴信の私に対する掣肘が、(B)に触れないか?これから関係者と協議して参りたいとおもっています。


伊豆山 康夫 和田さん 和田さんの名を語り余計なことをしたと、古谷さんからお叱りを受けました。でしゃばり過ぎたかも知れません。
この采配は和田さんにお願いするしかありません。 和田さんお願いいたします。
古谷さん
おっしゃることは良く分ります。只、異なった生き方、異なった国、人々と話をする場合、宗教、倫理、価値観などで、何気ない話で、酷く傷つける可能性のある話題は避けなければいけないことは、商社でご活躍された国際感覚の豊富な古谷さんなら十分お分かりのことと思います。私が申し上げたいのは法律、規約上許されていから構わない、では他人への配慮が欠けていると云われても、仕方が無いのではないかと云うことです。。
今、NHKのアサドラで、戦時中の様子が放映されています。敵国(英語)の書物を持っているかも知れないと、ご近所の婦人会のオバサン連中が花子さんの家に入り、家捜しする場面がありましたね。花子さん一家も日本人なら、花子さんを敵国のスパイ容疑者と詰る婦人会のオバサン達も日本人です。(私の母はパーマをかけていることで、婦人会のオバサン連中からこっぴどく苛められていました。)
そして、この方々が未だ存命中、或いはご両親にお持ちの方々が今の日本人なのです。日本中が「貴様、それでも日本人か!!」の一言で、戦争に負けるかも知れない、とか、死ぬのが怖いとか、息子を戦地に送り出したくないとか云う人々を黙らせ、日本中を戦争に駆出した一国総イジメ社会でした。いじめっ子はほんの数パーセントで、大多数の日本人は戦後、何故、イジメを止められなかったかで良心の呵責に責められたのです。
ニッケイ新聞読者の投稿を添付いたします。素朴な投書ですが、戦争犯罪人への怒りは私一人のものではない証拠として敢えて添付いたします。
ブラジル南部(和田さんがお住まいの近くかも知れませんが)に勇敢なインジオ部落があったそうです。彼等はポルトガル人に徹底抗戦をして、皆殺しになって、今、子孫は居ないのだそうです。 その一方で、別の種族のインジオは、ポルトガル人に女を差し出し、降参し、自らを奴隷に甘んじた意気地なしの種族も居たそうです。 かれらの子孫は今でも広くブラジル人の血に混ざり繁栄をしているそうです。勇敢に戦い絶滅したインジオは、今でもその勇気を讃えられているそうですが、もし、自分の子孫を繁栄させて行くことが人間を含む生物に与えられた使命だとしたら、弱虫インジオの決断が間違っていたと断言することは出来ません。戦争の話はどうしてもこの様な究極の価値観に繋がりますから、「正しかった」「間違っていた」を簡単に結論付けることは出来ないと思っています。適当な範囲を超え、誰かには快感を与えても、誰かには不快感を与えかねないから避けようと云うのが私のお願いなのです。
「日米戦争は何故起きたか」は以前、何方かからご紹介されたもので、「これは違う」と、直ぐに赤字の追記をしたのですが、上記の思いに加え、
(1)この論文を事実と信じている方々に私の赤字注釈が不快感を与えるかも知れない。
(2)古谷さん始め皆さんから、またまた、膨大な反論が来て、泥沼に入り込ませられ、時間、労力の膨大な浪費をさせられるかも知れない。
   申し訳ないが、今は、時間、労力の浪費はご免蒙る。
以上の二つの理由から、送付を指止めました。 古谷さんから戦争の真実を語って何が悪いと云われ、敢えてお送りすることにいたしました。走り書きで、読み辛い箇所、誤文字などがあるかも知れませんがご容赦下さい。
但し、今でも私の立場(結論の無い戦争の話に時間、労力の無駄をしたくない)は変らず、私から反論の反論はいたしませんので、ご容赦願います。


和田 好司 私たちの50年!! ML管理運営上の私の考え方
古谷 さん
本件に付いては2度と書きこまないとお伝えしていましたが、伊豆山さんに対する貴信を読むにあたりどうしても書き込む必要を感じましたので書き込みます。
古谷さんは、生来の論議好きなのでしょうね。私が何度かお伝えしたこの『50年!!』の管理運営方針を最後までご理解頂けなかったようですね。非常に残念に思います。
自分の書き込み、意見は、その内容に付いて絶対の自信と正しさを信じてやまない。それに反対する意見に対しては、徹底的に反論し自分の意見の正しさを理路整然と正当化せずにはいられない。それがどれ程相手を傷つけようが、読む人が成程と論理性を認めても単なる自己弁護、自己正当化の手段としてであり決して読む人の同感を得られるもので無いとしても。。。私もそうですが、古谷さんは、私より酷い周りの空気が読めない人、独りよがりの人の道を逸脱した理論家であると。。。
どうして松川さんの書き込みに対して不愉快な思いをさせた、立腹させたと云うだけの事実に対し素直に『御免なさい!』と謝れ無いのですか?謝ってしまえばそれで≪1件落着≫楽しい語りが続いたと思うのですが。。。それが人の道、共同のMLのエチケットと私は思うのですが。。。謝る事は、自分の非を認めこの自分の信条、書き込んだ事を否定する事になりこのMLの精神に反するなどと強弁するのですか?
特に今回の伊豆山さんに対する返信には、呆れてしまいました。週末、ラーモス移住地訪問の写真貼り付けで書き込みに時間を取られ皆さんの書き込みには直接返信していませんでしたが、松川さんが非を認めて謝っておられ私が何も書き込まなくても皆さんがこの『50年!!』の存在意義と大事に育てて行こうとの気持ちを発露しておられ伊豆山さんの仲介、纏めのメールに納得し1件落着と喜んでいた矢先に伊豆山さんを中傷、誹謗者呼ばわりをする事によりご自分の考え方を保持、正当化しようとする古谷さんの書き込みには、我慢が出来ませんし許されるべき行為でないと判断します。
古谷さん成りの努力も感じられ上手く収まりそうと喜んでいたのに非常に残念な書き込みにこのような私の考え方を再度表明しないと行けなくなるとは思いもしませんでした。
お考えを変更出来ない、自分の意思を曲げる事が出来ないとの事で有ればこの『50年!!』からご自分の意思で退会して下さい。私の『50年!!』管理運営方針に文句をお持ちでなく、納得頂けるので有れば是非これからも古谷節を聞かせて頂きたいと願いますが、私の考え方に付いて行けないとのご判断を下された場合は、ご退会ください。寂しく成りますが、致し方無いと判断します。
伊豆山さん ここまで書いて出そうとしていた所に伊豆山さんからのコメントが入りました。私の采配をとの事ですので私の判断、50年!!の管理運営方針は、古谷さん宛に書いた上記です。
最後に本件に付いては伊豆山さんには、ご返信頂かなくて済むようにもっと手っ取り早く返信してくべきでした。不愉快なお気持ちとお時間を取らせた事をお詫びします。今後とも健全な形での50年!!が継続して行くように伊豆山さんに必要な時には貴重なご意見をお願いしたいと思います。



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