HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




2015年新年の富田さんの5229km8日間の北米「半」横断の旅(その1)
小話でお馴染みの富田さんは、2015年の新しい年を迎えるにあたり息子さんとお孫さんの3人でサンディエゴ、ラスベガス、グランド・キャニオンを8日間、走行距離5229キロのアメリカ合衆国「半」横断の旅を楽しまれその旅行記を送って呉れています。多くの皆さんのコメントも含めて『私たちの40年!!』寄稿集に2回に分けて収録して置きたいと思います。今回は、サン・ディエゴとラスべスのレポートとコメント集を収録しています。写真は、富田さんのレポートに素敵な写真が満載なのですが、色々迷いましたが、やはりお孫さんの大学生シャミさんとラスベガスの夕食時に撮られたツーショットを使わせて貰う事にしました。



アメリカ便り「サン・アントニオからサン・ディエゴへ」  富田さんからのお便りです。

和田さん&私たちの50年の皆さん、新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。さて、年末から新年にかけて、サンディエゴ、ラスべガス、グランド・キャ二オン等を息子、孫と三人で廻ってきました。8日間、走行距離5,229キロの大旅行でした。ご用とお急ぎでない方は、下記のブログをお訪ねの上、「アメリカ合衆国「半」横断の旅リポート」をご覧くだされば幸いです。第一回はサン・ディエゴまでをリポートしましたBhttp://blogs.yahoo.co.jp/stomita2000/26341853.html
Shinzo Tomita

アメリカ合衆国「半」横断の旅 
「サン・アントニオからサン・ディエゴへ」
年末、ひょんなことから車で合衆国を半分横断して来た。息子剛の家族とサンディエゴへ行くことになったが、車で行こうと言うことになり、息子の嫁のマラヴィーヤとKenzoは空路で行き、剛とニューヨーク大学二年生のShamiと私の三人は車で往復5,229`を8日間かけて走って来た。因みに北海道最北端から鹿児島最南端の距離は3,000`である。
 この駆け足旅行のレポートを二、三回に分けてご報告したい。今回はサン・アントニオ(Texas )からサン・ディエゴ(Cal)編である。この間の走行距離は1,930`。途中、アリゾナのツーソン(Tucson)で一泊しての二日がかりの旅だった。
暮の28日、海抜260bのサン・アントニオから州際高速道路10号線に乗って895`先の州西端のエル・パソを目指す。10号線沿いは、ヒル・カントリー、丘の国と言われるようになだらかな丘がはるか地平線の彼方まで続いている。丘に群生しているのが、常緑樹のオーク・ツリー(樫の木)で、この環境が300`続く。オゾーナ村付近から1500米程の高原(Plateau)地帯に入ると、オーク・ツリー地帯が終わり、潅木類が主となる植生帯に変わる。やがて左手にデーヴィス山(2556米)が見えてくると、高速は山岳地帯に入る。多くの山は岩石ばかりで樹木は少なく、サボテンすらない。更に進むと、半砂漠地帯に入る。潅木も少なくなり、半砂漠地帯特有のメキシコ・ハマビシ等が点々と生えている。
九州と同面積の選挙区
 さて、サン・アントニオからエル・パソに通じる、州際高速10号線沿道は、米国内で最も人口密度が低い地域として有名である。興味深いことに、この地域は連邦下院議員選挙・テキサス州第23選挙区とほぼ重なっている。
即ち、南はメキシコとの国境、リオ・グランデ河から北へ約200`、東西はサン・アントニオからエル・パソ間895`の広大な地域は九州と同面積で、有権者数60万の選挙区なのだ。
テキサス人はこの選挙区をテキサス・サイズだと自慢するが、全米一広いわけではなく、第8番目に過ぎない。しかし第23選挙区より面積が大きい区はすべて全州一人区の人口が少ない州、例えばアラスカ、デラウエア、モンターナ州等だから、比較は出来ない。因みにテキサスには36選挙区ある。
 さて、第23区は共和党王国であるテキサス州内で、常に民主党が議席を死守してきたため、民主党の指定席とまで言われてきた。しかし去年の中間選挙で、メキシコ系が大部分の選挙民は、現職のしかもメキシコ二世のガイエーゴ議員を見捨て、アフロ・アメリカン系の共和党新人・ウイル・ハード氏を選んだのである。その差は422票だった。
初日の走行距離1300キロ
 テキサスとニュー・メキシコ州境のエル・パソ市(人口60万)を過ぎたのは、もう夜の帳が降りるころだった。スペイン語で「峠」の意を持つ、エル・パソは18世紀初頭から鉱山町、綿花の集散地として栄えた国境の町である。メキシコ側の隣町は100万都市のフアレス市であるため、エル・パソはメキシコ系住民が多い。
 さて今回全行程を運転してくれた、52歳の息子は二年前、サン・アントニオ→サン・ディエゴ間を単身BMW1200GSオートバイで走破している。その際、宿泊したツーソン・ナショナル・ゴルフ・クラブ内のOmni Hotelが良かったというので連絡すると、運よく大きなバンガローを確保できたのは幸運だった。エル・パソから420`の地点にある、ホテルでの夕食は10時半過ぎだったが、ゴルフ・クラブのグリルでステーキを食べる。絶品だった。初日のサン・アントニオ〜サン・ディエゴ間走行距離は1300`、走行時間は12時間だった。
 ツーソンは砂漠に近いせいで、ホテルの庭園に聳える巨大なサボテンが「国境の南」を演出してくれる。翌朝の気温は8度だったが、ホテルの温水プールで泳いでいる女性がいた。朝食はホテルの朝食ビュッフェを食べる。ゴルフ・クラブだけあってエキセレント!
 10時出発。ツーソンで10号線に乗り、Casa Grande(大きな家)でサン・ディエゴに向かう8号線に乗り換える。アリゾナも丈の低い潅木(bush)が点々と生える半砂漠地帯がほとんど。平坦な土地に将棋の駒を立てたように山脈が一列に並んでいる。一部の平野では灌漑施設が整い、青い畑が広がっていた。牛が半砂漠地帯で放牧されている。途中、ナツメ椰子の実を生産販売する、Date Farm「ナツメ椰子農園」を訪れて、ナツメを買い、ナツメのアイスクリームを食べる。美味い!
 また、テキサスからアリゾナ間を旅行中、各所でテキサス原産のピーカンと言う、くるみの一種を栽培する農園が見えた。一体、くるみにどれ程の需要があるのだろうか?
半砂漠から砂漠へ
 カリフォルニア州に入ると、カレキシコ付近に本物の砂漠が広がっていた。この付近は米国のフリー・ウエイで唯一海抜下を走る箇所として知られる。また近くのメキシコ領・インペリアル郡は砂漠地帯であるが、コロラド河の水を供給する灌漑設備があるので、立派な農業地帯となっている。当地は戦前、日本移民が大々的に綿花を栽培していたが、第二次大戦中、米国の圧力を受けたメキシコ政府が日本人の農地、財産を没収して彼らをメキシコ・シティーに強制移住させた悲痛な歴史がある。が、知る人は少ない。
 8号線はシエラ・マドレ山脈の高度1300米の鞍部を通過してカリフォルニア州に入ると、野や山が樹木に覆われているのが珍しく見える。それほどニューメキシコ、アリゾナは乾燥して平野、山地に樹木がないのだ。
20年振りのサン・ディエゴ
 20年振りのサン・ディエゴは、昔良く通った街なので、大変懐かしかった。5時、マラヴィーヤとKenzoに再会し、ルイジアーナ風の海鮮料理・Crab Hutにてイセエビ、えび、蛤、ムール貝等をたらふく食べる。この店は皿、フォーク、ナイフはなく、料理はプラスティックの袋に入って運ばれてくる。それを模造紙を敷いたテーブルを皿代わりとして手掴みで食べるのである。海鮮類は新鮮で実に美味かった。
 元日、当地で病気療養中のマラヴィーヤの父君を見舞った後、Kenzoのお供で、動物園でパンダ二頭と対面。続いて退役して博物館になっている、航空母艦ミッドウエイ号(45,000トン)の見物に行く。ミッドウエイ号は1945年9月に任務に付いたので、第二次大戦には参戦していないのが救いだった。生まれながらの米国人・Kenzoは艦載戦闘機の操縦桿を握って、大はしゃぎだった。
サン・ディエゴでは旅行中の友人宅に二泊する。この家は、高級住宅街のラ・ホーヤの海岸近くにあり、二日続けて近所の海辺道を息子と散歩したが、二邸宅の新築現場が大晦日も正月も普段とおり働いているのに驚く。後で聞くと、この一帯がサン・ディエゴ、ラ・ホーヤ地区で不動産価格が一番高い箇所だそうだ。
 朝食はラ・ホーヤの朝食が名物の南カリフォルニア料理店・ザ・コッテージで、目玉焼きのサンドイッチを食べる。珍しい組み合わせだが、我々は二日続けて同じものを食べたほど美味かった。混んでいたので二日ともヒーター付きとは言え、寒波襲来中のサンディエゴのパティオで食べるとは物好きにも程がある、と我ながら感心している。
 1日午後5時、マラヴィーヤとKenzo、彼女の父母、親戚、友人たちに別れを告げて、我々は15号線をラス・べガスに向けて出発した。すると対向車線のラス・ベガス帰りの車の奔流は途切れることがなかった。この時期の米国はどこに行っても大変な人出で、ホテルは満員、レストランも行列しなければならない程だった。
(続く)

(コメント集)
和田:富田さん 年末年始8日間の旅を楽しまれたようですね。アメリカ大陸(半)横断ですか。私も走って見たいです。家族でポルトアレグレからブラジル縦断トカンチンスのグル―ピの街をお父さんが若い頃に牛買いをした北ゴヤスの開拓地として娘達に見せてやりたいとの意向で往復6000kmを家族でCIVICを駆って走った事が有りますが、もう現在では昨年行ったサンタカタリーナ州のラーモス移住地に出掛ける程度しか出来ません。
続きを楽しみにしています。
何時もの通り下記にトラックバックを貼らせて頂きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/47971098.html

富田: 和田さん、車の旅は飛行機では味合えない面白さがありますね。今回は色々砂漠を見て来ました。車の旅は私はお客さんだったので、楽なものでした。
ところで、グラン・キャ二オンはパンフレット、看板、どこにも「世界遺産」の表示がありませんでした。国立公園の表示がパンフレットに小さく載っていただけです。面白いですね、アメリカ人は。今年もよろしくお願いします。

池田: 富田さん 流石わ北米のハイウェイ、だがすごい旅したんですね、平均160km/h ぐらいでしようか! 此方はそんなハイウェイが無いが有料高速道路で110km/h 迄しか走れません。何度か罰金通知受けたので今は気をつけております。年末年始のボンビーニアス海岸迄の旅が渋滞したので 5 ~ 8時間/260km、普段だとクリチーバから3時間で着きます。今回は食べたり朝夕の散歩、少し飲んだり寝たりで時間もカレンダーも見なく世を忘れてインジオの生活をしました。続きを楽しみに待ちまーす。

富田: 池田さん、制限速度は80マイル(129キロ)ですし、ハイウエイは意外に空いていたので、早く廻れました。
さて、池田さんはカレンダーも見ない、インヂオ生活ですか。良い骨休みになりましたね。
インディアンと言えば、今回走った、ニューメキシコとアリゾナはインディアン居留区がそこらじゅうにありました。
白人は彼らを砂漠に近い土地に送り込んだのですね。今年もよろしくお願いします。
アメリカ横断の運転は、息子が全行程をたんとうしてくれました。時速130キロ前後でした。道がいいことと、空いていたので、早く廻れました。次は、ラスベガス、グランド・キャにオンをレポートします。よろしく!

井川: 富田さん 明けましておめでとうございます。相変わらずお元気で何よりです
5200km8日間のアメリカ半横断の旅、爽快ですね。
読んでるだけでワクワクします。サンディエゴは、36年前貧乏旅行の途中にヒッチハイクで寄って、メキシコ系の安宿で泊まったことがあります。南国ムードいっぱいの街でした。死ぬ前にもう一度行きたいところです。
続編も楽しみにしています。

富田: 花咲爺さんの会会長:井川さん、明けましておめでとう。
さて、私もサンディエゴは20年ぶりでした。今年の正月は珍しく寒波が襲来して、サンディエゴも氷点下になっていました。ここは物価が高いですが、特にLa Jolla 地区は金持ちが集まってきています。洒落た良い街になっています。土地がないので、大きなショッピング・モールがないのが特徴です。次回はラスベガスとグランド・キャにオンをレポートします。よろしく!

賀多井: 富田さん 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。
小話、アメリカ便りなど、大変興味深く読ませて貰っています。
今回の『アメリカ合衆国”半”横断の旅リポート』胸躍らせながら拝読いたしました。
この富田さんの長距離のドライブには、到底及びませんが、1981の秋の事を思い出しています。
メキシコに行って、まだ一週間程の後に、アメ車を運転して、メキシコシティから、タンピコまで走った事があります。富田さんの添付の写真のような道路と風景が蘇りました。
左ハンドルと右側通行、それに車体の大きいアメ車なもので、よく事故もなく到着したものだと、今から考えるとぞっとします。夜間の運転は、道路が真っ直ぐなのですが、起伏があり、坂の頂上付近では前方が見え難く、慣れるまで時間が掛かりました。ヘッドライトに蛍らしき光が映し出されたのが印象に残ってます。続編を期待しています。

富田: 賀多井さん、コメント、ありがとうございます。流石、米国の道路は良く整備されているので、安心して運転できます。メキシコとは大違いです。次回はラスベガスとグランキャにオンからレポートします。よろしくお願いします。

石田: 富田様、ご無沙汰しております。両国のちゃんこ鍋屋で、ご尊顔を拝して、2年近くが過ぎました。いつもながら、富田様の博識に感心してます。
今回のアメリカ横断旅行記も、快調な滑り出し、続きが、楽しみです。
2015年が、より良い年であります様、祈っております。
追伸:4月5〜27日、盛和塾の勉強会で、訪日します。再会できると、嬉しいです。

丸木で〜す  ロサンゼルス勤務の頃はサンディエゴによく行きました。その前後にも学会や展示会でよく行きましたがアメリカでは好きな都会の一つです。それにしても、往復ドライブされたとは驚きです。僕の最長運転距離はカナダのトロントからフロリダのキーウエスト往復ですから、その倍以上ある距離をよく走られたと感心します。富田さんは西部劇に登場するタフガイですね。

富田: 丸木さ〜ん、コメント、ありがとうございます。運転はすべて息子が担当してくれました。
彼は二年前、同じコースを単身オートバイで走っているのです。車の方が楽だと言っていました。
それにしても、高速はきれいに除雪されていて、安全でした。唯一、ニューメキシコの道路は雪が残っていました。しかし凍っていたので、息子は120キロ以上でぶっ飛ばしていました。彼はカーレースが趣味なので、今回はBaja1000レースの予行演習だと言っていました。次回はラスベガス、グランド・キャニオンからレポートします。

都賀: 富田さん 昔 アメリカの高速道路では アクセルを踏まないで車を走らせました、つまり スピードセッターを押しておけば 同一速度で車が走ってくれました。いまでも同様でしょうか。あれは楽でしたね。

富田:都賀さん、それはクルーズ・コントロールと言って、今ももちろんあります。
息子は90%、クルーズ・コントロールを使って運転していました。
道路が良く、最低二車線なので、これが使えるのです。
次回も読んでください。よろしく!


アメリカ便り「ラス・べガスの一夜」 富田さんからのお便りです。
和田さん&私たちの50年の皆さん、アメリカ合衆国「半」横断の旅、「ラスベガスの一夜」をお届けします。若かりし頃、良く通った懐かしい、私の古戦場・ラス・べガスは大きく変貌、進化していました。その変貌振りをレポートしました。ご用とお急ぎでない方は、ぜひ下記のブログでアメリカ便り「ラス・ベガスの一夜」をご覧ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/stomita2000/26350312.html
Shinzo Tomita

アメリカ合衆国「半」横断の旅
 「ラス・べガスの一夜」
 元日の午後5時、サン・ディエゴを出発。州際高速15号線を北上してラス・ベガスを目指す。両都市間は534`、5時間の距離にある。テキサスからカリフォルニアまでは一路西へ向かって来たが、今回初めて進路を北、後北東に取った。広大なモハービ砂漠を通過するとき、高速の両側は夜目にも白く雪が積もっていた。
この砂漠地帯は1870年東部から強制移住させられた、モハービ・インディアンの居留地があることから、この名が付いた。今回旅した、テキサス西部、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアの砂漠地帯にはこのようなインディアン居留地(Indian reservation)があまりに多いので正直驚いている。
ギャンブルからリゾートへ
 ネヴァダ州ラス・ベガスは人口60万だが、メトロポリタン・エーリアの人口は200万を越す。ラス・べガスは220の巨大ホテルが軒を連ね、年間3700万人が訪れる、世界有数のリゾート地であり、ホテル客室数は15万に及ぶ。
1980年代後半から、ラス・べガスは変化かつ進化してしてきた。ギャンブルの街からリゾートに変貌したのである。ギャンブル・ホールであるカジーノから、豪華絢爛な高級な雰囲気を持ち、しかも家族連れも楽しめる、健全なカジーノ付きリゾートへとラス・べガスのイメージ・チェンジを図ったのが、スティーブ・ウインだった。ラス・ベガスは企業向けにコンベンション機能を充実させ、同市は全米でも有数のコンベンションと見本市のメッカとしての地位も獲得した。1月6〜9日、同市では世界的に最も重要な見本市といわれる、CES国際家電ショーが開催されていた。20年前、CESの花形は日本企業だったが…
ラス・べガスを変えた男
 上記の変貌を象徴するものの一つが、スティーブ・ウインが1989年にラス・べガスにオープンした、The Mirage(ミラージュ)ホテルだった。ホテル前面には噴火する火山が聳え、ロビーには霧がたなびき極楽鳥が踊る熱帯雨林があり、フロント・デスク壁面の巨大な水槽には美女と熱帯魚が仲良く泳いでいた。
 ここまで書いてきて、私は面白い体験を思い出した。1979年、パリで観た「Lido de Paris」とまったく同じショーを数ヵ月後、ラス・べガスで観たのである。パリは一人80ドルで、二人に一本のシャンパンがついたショーが、ラス・べガスではシャンパン無しで一人12.5ドルだった。当時はその位、ラス・べガスのショーは安かったのだ。
 当時のラス・べガスはカジーノの利益から顧客の宿泊代、食事、ショー等の経費を補助していたのだ。カジーノはその位儲かっていたのだ。
 この習慣を変えて、ショーの料金をパリ並みにしたのが、1989年、ザ・ミラージュをオープンした、スティーブ・ウインだった。彼は希代の名魔術師・シーグフリード&ロイをザ・ミラージュに登場させ、確か67ドルという当時では破格の入場料を取ったのである。それまでは、ショーはディナーを食べながら見るスタイルだったが、ウインはショーを劇場方式に変えが、これも確かに一つの革命だった。
 スティーブ・ウインが90年代に建設した、テーマ・パーク的ホテル・カジーノは、多くの同業者から真似され、今やラス・べガスの目抜き通りである、ストリップ(繁華街の意味)には、ヴェネチア、宝島、ニューヨーク・ニューヨーク、パリ・ラスベガス等々のテーマ・パーク的ホテルが林立している。ところが、ウインは21世紀に入ると、所有していたすべてのホテルを手放し、ホテル・デザート・イン(Desert Inn)を購入し、これを解体して、跡地に建築したのがウイン・ラス・ベガスだった。そして今回我々は一晩だけ彼の名を冠する、最高級ホテル・The Wynn Las Vegasに宿泊したのである。ウインには一世を風靡した、テーマパーク的な要素は一切ない。
眼病で盲目に近い、72才のユダヤ人スティーブ・ウインは、現在アトランティック・シティー等の国内カジーノ、海外はマカオ等でラス・べガス・ウインタイプのカジーノを展開している。聞くところによると、日本進出も彼のプランに入っているそうだ。
 さて夕食はウインの日本料理店「Mizumi」を予約したのだが、我々が着いたときはすでに閉店していたのは残念だった。何と10時閉店なのである。止む無く40分待って寿司を食べさせる、これもウイン・ホテル内のアジア料理店「Wazuzu」で私と息子は握り寿司を、孫のシャミは点心を種々注文した。すしはえらく高かったがそれだけの価値はあった。
今の流行はディスコ
 この夜、ショウも終演していたので、ホテル内の店を冷やかし、カジーノは横目で眺めただけで部屋に引き上げたのである。私は1960年代からラス・べガスに通っているが、カジーノに来て、一度も賭けなかったのは今回が初めてだった。
 ところが、1時近いにも係わらず、着飾った人々の長い行列があった。70年代までは、男性は背広にネクタイ、女性もドレスアップして、ゲームをしたものだったが、今はそんな堅苦しいことは言わない。何の行列かと思ったら、ディスコに入るためだった。どうやらこれが最近の流行らしく、夜を徹して呑み、踊り、ショーを見るのだそうだ。
 変わったと言えば、カジーノに集まるお客さんの国籍である。昔は、アジア系は日本人とシナ人(華僑が大部分だった)だけだったが、今はイラク、イラン、パキスタン等のイスラム諸国からのお客とインド人が非常に多かった。
 翌朝、大学生の孫が起きるのを待って、1階のThe Buffet(ビュッフェ)を食べに行った。我々は朝食ビュッフェだったが、ランチ、ディナーのビュッフェもあり、土日はシャンペーン・ブランチがある。朝食といっても、ロースト・ビーフから寿司まである。こんなに品数の多いビュッフェは見たことがない。もちろん、和朝食も納豆から漬け物、しゃけ等全部そろっている。そしてレストランの内装が実に豪華絢爛で、これは顧客を気宇壮大にさせて、大きく賭けさせようとの魂胆ではないか、と勘ぐりたくなる。
 ラス・ベガスの醍醐味は、夢があることだろう。かつての男たちの夢は一攫千金、美女との一夜、女たちの夢は億万長者との結婚だった。今の若い人たちはラス・ベガスにどんな夢を求めて来るのだろうか?
(次回はグランド。キャニオンからの報告をお届けします)

(コメント集)
和田:富田さん 絢爛豪華なアメリカ合衆国『半』横断の旅第2話ですね。ラスベガスには是非行って見たくなりました。ロスから行けるのですよね。次は愈々グランドキャニオンですか、楽しみにしています。
また下記BLOGにトラックバックを貼らせて貰いました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35499258.html

富田: 和田さん、コメントありがとう。是非ラスベガスに行ってください。「ラスベガスを見ずしてアメリカを語るなかれ」だと思っています。今回はショウは取り上げませんでしたが、良いですよ。それにひょっとしたら、スロット・マシーンで大当たりするかも。次回はグランド・キャニオンと白い砂漠をレポートします。乞うご期待!

井川: 富田さん ラスベガス・レポート 楽しく拝読しました。
ビュッフェ・レストランのド派手な写真にびっくりしました。
昔、毎年12月に1万ドル持ってロスから勝負に通っていた先輩に連れられてベガスへ行ったことがありますが、そのときもカジノ場やレストランの内装・外装の派手さに驚きました。
しかし、この写真ほどではなかったと思います。要するに、『非日常』の演出がより強烈になったのでしょう。
東京お台場にカジノを計画している人たちもいるようですが、もし実現しても、日本人のセンスでは、ここまでド派手な演出はできないでしょうね。グランドキャニオン・レポート 楽しみにしています。

石田: 富田さん、ラスベガスの素晴らしさを再認識できました。
歴史背景の説明、流石は富田さんです。少しでも、真似したいです。ありがとうございました。

富田: 石田さん、ラスベガスの醍醐味は夢があることでしょう。一夜だけでしたが、楽しんで来ました。
コメント、ありがとう!



アクセス数 7565137 Copyright 2002-2004 私たちの40年!! All rights reserved
Desenvolvido e mantido por AbraOn.
pagina gerada em 0.0203 segundos.