【出会い……農大・人・文学】 芝田可行(62年農学)夫人 芝田茂子
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第1回の学移連ブラジル研修生派遣団の副団長としてブラジルに実習見学に来られた東京農大の芝田可行さんの奥さま芝田茂子さんから芝田先輩の7回忌に書かれた文を送って頂いた。芝田さんが急逝されて既に22年が過ぎましたが奥さまは、お元気で好きな書道に精進され、俳句、和歌を読まれ芝田さんが残して行かれた人脈を大事にしながらクリチ―バでお一人で住んでおられる。3人のお嬢さん達は、長女が北海道大学に留学中に知り合った方と結婚して日本に住んでおられ次女の方がブラジリア、3女の方がベロオリゾンテに住んでおられブラジリアのお孫さんは、昨年日本語弁論大会のブラジリア代表としてポルトアレグレの全国大会に来られたました。芝田夫人とは、1962年のあるぜんちな丸で到着した直ぐにサンパウロのボンスセッソで新婚ほやほやの時にお会いし芝田さん達が入植されたポルトアレグレ近郊のヴィアモンの農場、その後移られたラーモス移住地と長いお付き合いなります。
恵子が書道を始めたのも芝田さんを通じて北辰の石川爽香師範を紹介して頂いた経緯があり親しくさせて頂いています。
写真は、御家族で撮られた写真を送って頂いているので2枚の内の1枚を使用、残りはBLOGに掲載する事にしました。
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人生には人、自然、文学などいろいろな出会いがあると思う。
農大OB会との出会いは、もちろん芝田との結婚によってだが、93年の彼の急逝によって途絶えるかに思えたが、私も特別会員にしていただいた。七回忌を迎えた今でも、彼の残してくれた人脈は、ブラジル国内はもちろん北海道から沖縄まで広がっている。今でも彼の友人達からの励ましのお手紙や電話をいただく。
彼が信条とし、座右の銘とした、「友は無形・無限の財産・宝である」という言葉が物語っている。
1970年、ブラジルがフットボール世界選手権で三回目の優勝、国中が湧いていた同じ時期、ブラジル唯一の降雪地帯であり、私共の住んでいたサンタカタリーナ高原で、リンゴ栽培をはじめたが、そのときにも出会いがあった。急にはじめたリンゴだったため、試行錯誤をしていたが、JICA派遣のリンゴ博士、後沢先生と出会い、基本から栽培を教えていただいた。芝田にとって貴重な存在の方だった。
その地を出発点にマットグロッソ、ロンドニアと牧場経営の夢は続く。しかし、往復四千キロの距離は目算通りにいかず、財力も体力も消耗、夢は叶えずに終わったが、その過程に於いて満足であったと言っていた。
どんな逆境にあっても愚痴一つ言わず、後悔せず、私共家族は辛抱しなければならない時期はあったが、彼の一途な情熱を子供たちは尊敬していたと思う。亡くなってからは、特に夫や父の良い面ばかりが想い出されるのは、彼の徳とするものだろうか。
また、出会いということでは、私共をひき会わせてくれた元野村農場支配人、牛草茂夫妻も除くわけにはいかない。結婚の際、いただいた祝電の中に、「人生の秘訣は好きなことをするのではない。やらなければならないことが好きになることである」とあった。
芝田の生存中、また亡くなってからもこの言葉通り実行するように努めたおかげで、今、彼なしでも何とか生きてこられたように思う。そして、私が日語学校の手伝いをしていた八六年頃、ポルトアレグレ市で南伯日語教師研修会があり、その折、短歌の講義があった。全伯コロニア万葉集より百首が選ばれ、参加教師20名に各五首ずつ配られたが、偶然にも何故か私の手中にした歌の一つが、牛草様の一首だった。
「いまだ見ぬ吾をうたがわずはるばると サントス港に着きし妻はも」 牛草茂
逆算して50年くらい前のお歌であろうか。不思議なこの短歌との出会いに、胸がしめつけられ、手がふるえるのが止まらなかったのを今でも鮮明に想い出す。
ブラジルの父とも師とも仰ぐ、この御夫妻の歌との出会い偶然とは言い難い運命の繋がりを感じた。作歌してみてはどうかという無言の知らせなのかと。
「物みな改まるよしただしくも 人は古りゆくよろしかるべし」
この歌を思い浮かべる時、年とって満足であるという心境に立ち至るべく、常に努力しこれからも文字のもつ魔力、魅力を探り、いろいろな出会いを大切にしていきたいと思っている。
「七回忌わが愛し夫の墓石に あまた刻みし座右の銘を」 茂子
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