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川越 しゅくこさんの【アメリカン青春グラフィティ】  (その21−その24)
川越 しゅくこさんの【アメリカ青春グラフィティ】その24が届きましたので21からの4回分を纏めて寄稿集に収録して置く事にしました。
今回は、あるぜちな丸での渡航中に身近に見られた黒人差別の心ない白人夫人とそれを大人しく受け止めた黒人女性の態度を語りながらJFK大統領とキング牧師の非暴力デモ行進、カリフォルニア留学時代の出来事と50年後のオバマ大統領選出の現在との時の移りを語っている。いずれの短編も感受性の強い20歳代のしゅくこさんの味覚、視覚、嗅覚を通しての青春の想い出を伝えて呉れています。我々が乗って来たあるぜんちな丸の第12次航より一船後の13次航でアメリカに渡られた同世代のしゅくこさんを通じて青春を共有できるのを嬉しく思います。
写真は、その23回に掲載された【スカンポ】を使わせて貰いました。


アメリカン青春グラフィティ No.21 「船の中のできごと」 しゅくこさんからのお便りです。
和田さん & 50年のみなさま  しゅくこで〜す
サンルームに面した小さな庭は、春らしい色がついてきました。小鳥のさえずりもよく聞かれます。
小さい頃から大好きだったネコヤナギがたくさん、つやつやした銀色の花穂をつけ、ユリや南天とよくあって、楽しませてくれています。さて、アメリカン青春グラフィティ No.21 を送らせていただきます。

アメリカン青春グラフィティ No.21 川越 しゅくこ  「船の中の出来事」
はじめて黒人差別を目にしたのは、あるぜんちな丸の二等船客の食堂だった。1962年8月。船は神戸から留学先のアメリカに向けて出港した。私は単純に、陽気で若さに溢れていた。エンジンのかすかな唸 ( うな )る音と重油の匂いすら好ましく、肉の焼ける匂いも皿の触れ合う音もワクワクした。食堂には10人程度が座れる丸テーブルがいくつか並び、白いテーブルクロスには一輪ざしが飾ってあった。私の正面に中年の白人女性が座った。少し遅れて、長身の若い黒人女性がボーイに案内されてその隣に座った。突然、白人女性が眉間 に険しい皺を寄せ、黒人と同席させるなんて、なにを考えているんだ、
とボーイを叱ったのである。するとその黒人は自らそっと席を立ち、戸惑っているボーイを安心させるような静かな声で、別のテーブルを頼んだ。(あなたはなぜ黙ってる、そんなことだから差別されるのよ、ひっぱたいてやればいいのに)と私は彼女の無抵抗に腹を立てた。その後、彼女は我々と時間帯をはずしたのかもう会う事もなかった。しかし不思議な事に、彼女の去った席には、静けさと神聖な空気が形の存在するもののようにそこに残った。私はその席を見るたびに、茫然として、正体のわからないものの実体を知ろうとした。
カリフォルニアでの学生生活がスタートした。寛容で自由な州と言われるだけあって、その時すでに大学には1人の黒人教授がUSAの歴史を教えていた。しかし、人種差別の激しいアラバマ州やジョージア州はじめ多くの南部の州では、黒人が白人と同じ大學に入れない、バスのキップ売り場も座席も別、同席できるレストランは違法、もちろん白人と黒人の結婚も違法であった。抗議をする者に、警官たちは犬をけしかけて黒人を襲わせ、こん棒で殴り倒す。暴力シーンが連日テレビで報道されるたびに私は目をそむけた。その頃、ガンジーの無抵抗主義に啓蒙されたキング牧師がアメリカ中を飛び歩いて非暴力デモを訴えていた。デモが禁止されている中、デモをひきいては自ら進んで独房に入った。テレビの中のキング牧師は、口髭をつけ、張りのある声で胸を張って演説をする老 ( ろう )長 ( た )けた指導者に見えたが、実はまだ34才の若者であった。何度も投獄された彼を、45才のハンサムで人気のあったJFK大統領 (現駐日大使のキャロラインさんの父。ジョン・F・ケネディ)が釈放に力を注いでいる。彼への黒人の支持率が高かったのはそのためでもある。しかし、後にキング牧師は公民権運動が思うように進まないことにJFKに対して苛立ち ( いらだち )の声をあげた。「あなたは多くの黒人の支持票で大統領になった。それを忘れていないか? いつまで待てというのか。私たちはもう我慢できない!」と。無理もない。リンカーンの奴隷解放宣言からもう100年もたっていたのである。1963年、8月28日、キング牧師のひきいる史上最大の非暴力デモ行進が、ワシントンのリンカーンの銅像前で計画された。JFKは一抹の不安を抱いていた。この行進が暴動に発展するのではないかという不安である。国を預かる長として当然の危惧だったといえる。しかし、JFKは人種差別の撤廃を望んでいた。そこで、キング牧師と側近たちとで、この行進が成功裡に終るように、用意周到にお膳立てを練った。行進は双方の連携プレイで実施された。私はこの時にデモから暴動に発展しなかった群衆も立派だったと思う。アメリカ中から1000台ものバスが、電車が、人びとをワシントンに送りこんだ。20万余りの人々が、白人も黒人も腕を組んで「We shall overcome」を歌いつつ行進した。その中には子どもを私に預けて参加したホストファミリーの両親もいる。多くの著名な映画スターもいた。キング牧師はリンカーンの銅像を背に、20万人の人びとを前に、そして、なによりもテレビの前にいる国民に向かってスピーチを始めた。「I have a dream。・・」 行進が終ったとき、JFKはホワイトハウスにキング牧師たちを迎え入れて成功を讃えた。私たち留学生はキャフテリアにたむろしては、覚めやらぬ興奮を毎日のように語り合った。アメリカの歴史が動いたその現実に、偶然立ち会った1人の証人として、ある種の誇りを感じた。それは祖国ではかつて経験したことのない魂の震えるような出来事であった。ステイ先では家族が熱く語りかけるのに私は素直に共感し、さらにそんなアメリカが好きになった。
翌年、公民権法案は制定され、法律上、黒人は平等を勝ち得た。アメリカの人種差別問題は、無抵抗の群衆の行進によって、ようやく一歩前進した。
それから5年の間に、JFKもキング牧師も銃という暴力の犠牲になった。50年たったいま、アメリカは、史上はじめて黒人系のオバマ氏を大統領に選び、その側近であるJFKの娘キャロラインさんを駐日大使として送ってきた。キング牧師のスピーチ「I have a dream」は、時代をここまで変えたのである。そのスピーチは世界中の人々の口にのぼり、日本でも中学生の英語の教科書に登場する。私は船の中の出来事を思い出す。あの黒人女性が静かに去った後の、席に残した形のないものの存在を。それを不思議にみつめていた20歳の私を。あるぜんちな丸での私は、相手を打ち負かすことしか、勝つことの意味を知らなかった。非暴力の群衆が国を動かせる力になることを歴史は実証したのである。それは決して弱虫の産物ではなかった。忍耐と許し、そして多数の血と涙と許しの上に成り立っている力なのであった。本当に弱虫である私には、なかなか真似のできることではない。しかし、長い年月をかけて、あの席に残されたものの存在をようやく学んだのである。


アメリカン青春グラフィティ No.22 「Salt please (塩をください)」  川越 しゅくこさんからのお便りです。
和田さん & 50 年のみなさま  しゅくこで〜す
暑中お見舞いもうしあげます。ブラジルには、寒中お見舞いもうしあげます。
私の方は冷凍車なみのバスに1時間ほど揺られて、喉がやられ、ついでに喘息気味になり、すこしウォーキングは控えています。少し元気がでてきたので、アメ青グラフィティNo.22を送らせていただきます。

アメリカン青春グラフィティNo.22 「Salt , please ! (塩をください)」
川越 しゅくこ
1962年8月、アメリカにホームステイして最初の朝食にオートミールが出た。簡単にいえば、乾燥した燕麦を平たくして、どろどろの粥状に炊いたものである。アメリカ人家庭では一般的に好まれているシンプルな朝食であった。覚えたての日本語、「イタダキマース」とみんなが手を合わせ、朝食が始まった。幼い2人息子は弾けそうな笑顔でオートミールに牛乳と砂糖をたっぷり入れてかき混ぜている。私たちは朝食前に地元の新聞をみんなで見たばかりだった「初めての日本人留学生」という見出しで、着物姿の私の写真が大きく載っている。少年たちの向かいの席にはその本人がいる。みんなのはしゃいでいる空気に包まれて私もわくわくしていた。しかし内心憂鬱でもあった。目の前には生まれて初めて口にする甘い朝食。胃がおかしくなりそうだ。湯気の向こうには、興味津々で私をうかがっている幼い視線がある。新しく家族入りした日本人の姉貴が、アメリカの朝食をどんな風に喜ぶか、気がかりでそわそわしているのだ。それまでの私の20年間の食生活といえば、ごはんとみそ汁、メザシなどの干物、そして漬けものか梅干し。多くの日本人の食生活は塩味が主体だった。朝食に砂糖なんて人間としていかがなものか?、アメリカ人の食文化のレベルに私は首を傾げるのだった。しかし、ここはアメリカ。自分の思いは明確に伝えなくては始まらない。私は「Salt, please! (お塩をください)」と迷いなく声を張った。「salt?」と目を丸くする家族たちを尻目に、小さじ一杯の塩をオートミールにふりかけた。正しい人のようにそれを口に含む。(ほら、見てごらん。これで少しは人間の食べ物らしくなったじゃないの。みんなもやってごらん)と言わんばかりに微笑み返した。いま思えば、もし、日本で私の預かった留学生が炊きたての白米にいきなり砂糖をまぶして食べはじめたらどうだろう。気分が悪くなったにちがいない。夕食後のデザートには、砂糖をたっぷり使ったでかいケーキが目の前に出された。20才の肉体は甘いものに飢えていたはずなのに、これも気持ちが悪かった。それは、かつて口にしたことのない、斬り込んでくるような攻撃的な甘さだった。
私たちの舌には、味覚をつかさどる味(み)蕾(らい)という生き物が一万個くらい存在するという。DNAとして先天的に受け継がれた味覚と、時代、環境、食生活などが作り上げた後天的な味覚について、味(み)蕾(らい)たちはどんな関わり方をしてきたのだろうか。窓の外では蝉しぐれがシャンシャンと降り注いでいる。そんなとき私は決まって8月に亡くなった母のことを思いだす。戦前、日本が台湾を統治していた時代には、砂糖がふんだんに入っていたというから、裕福な家庭で育った母は、私の知らない種類の甘さに対する味(み)蕾(らい)があったに違いない。娘の私はそれを知らないで育った。しかし、不幸だったか?というと、そうでもない。私の幼い味(み)蕾(らい)たちは自然界からの甘味をありがたく感受していたからである。春の野のスカンポ(イタドリ)を思いだす。子どもたちは、その茎をパコンと音をたてて折り、口に入れてはしがんだ。茎をガシガシと噛み、しゃぶり、汁を吸う、最後に残った繊維質のものは吐き出す。しがむとは、そんな意味合いである。口の中に、春の陽のほんのりした甘さと酸味が広がる。どこか懐かしい野生の香りもする。言ってみれば、控えめで寄り添うような類の甘さである。これに似たものに甘薯があるが、これも、しがんでは、その液を乳飲み児のように吸った。また、冬には焚火(たきび)でよく焼き芋も食べた。少女時代は命をかけて遊んだものだ。くたくたになると、燃える焚火の周りに集まり、ふうふう言いながら頬張る幸せがあった。また少し贅沢といえばお正月にあんこの入ったおもちを思いだす。近所の人の庭で、父親たちが餅をつき、子どもはそれを丸めて並べた。その周辺には、まさに遊びと待ち時間がセットされていた。熟成された時間の先に、ようやく甘味が待っていたことに気付く。私の味蕾たちは待つという流儀を自然に刷りこまれ、脳に記憶として刻み込んだ。甘さにたいする味覚が発達していなかったのではなく、別の種類の甘さへの刷り込みがあった。あの朝の食卓で、塩を求めた私の味蕾たちは、不意に土足で踏み込んできた異種の物体を拒んだのであろう。
鏡に向かって舌を出してみる。私の一万個の蕾たち。それらは、戦中に生を受け、敗戦後のネオン街を野ら犬のように食べ物を求めてさまよった記憶を刻んでいる。一度も故障することなく、よくぞ70年間生きのびてきたものだ。私たちの舌は、かなりしたたかな生き物かもしれない。
                     

アメリカン青春グラフィティNo 23 「アーティチョーク」  川越 しゅくこさんからのお便りです。
和田さん、恵子さん & 50年のみなさま  しゅくこで〜す
和田さん、日本祭りの出し物の中に生け花と恵子さんの書道がコラボしている作品が印象に残っています。こうしてみせていただくと、わかりやすく凛とした美しさを感じますね。
今日は町の書道愛好家たちの展覧会を見に行ってきました。額には、布やタイルのような素材が貼ってあり、作品はその上に乗せて、別分野の芸術をコラボしてあり、これもまた新しいタイプの書道で、私には楽しめました。また作品をみせてください。Foi maravilhoso !
さて、アメリカン青春グラフィティ 23 の「アーティチョーク」を送らせていただきます。私の散歩道で偶然みつけたアーティチョーク。それにまつわる青春を書いてみました。
お暇なときに、お茶でも飲みながら読んでいただけたら嬉しいです

アメリカン青春グラフィティ No.23  「アーティチョーク」 川越 しゅくこ
夕食の準備は、いつもホスト・マザーのサリーと一緒だった。その日は、はじめて見る物体が流し台にいくつか積んであった。名前はアーティチョークという野菜である。赤ちゃんの頭くらいの緑色の蕾をうろこ状のガクが包んでいる。そのガクを食べるのだが、まず先の尖った部分を言われたとおりハサミで切り取り、4-50分、丸のまま茹でる。熱々をゴロンと各自の皿に盛ったら出来上がり。幼い息子たちは食べ方を競 ( きそ )って教えてくれた。ガクを一枚一枚はがし、下の柔らかい肉厚の部分にマヨネーズをちょっとつけ、そこだけ歯でこそぎとって食べる。いまでこそ、野菜をつまんでマヨネをーズなどにちょっとつける(dip)食べ方は珍しくないけれど、1960年代の日本ではこんな食べ方はまだ珍しかった。栗に似たホクホクした味覚が口に広がる。マヨネーズも原材料が違うのか、濃くて甘味があり、日本のものより酸味が少ない。最後に蕾 ( つぼみ )の中心にあるハートと呼ばれる柔らかい芯までくると、香り高いバターをトロリと落とす。テーブルにだれからともなく幸せなため息がもれる。思えば、敗戦後の混乱期からずっと、私の両親は幼稚園、労働福祉会館、教会、などの建設のために休みなく働き、家はいつも人の出入りが慌 ( あわ )ただしく、食事時間はドタバタと落ち着かなかった。それでも、私はよその家と比較したことなどなく、それなりに食事は嬉しい時間であった。ただ、私は20歳にしてはじめて、豊かで落ち着いた家族団欒 ( だんらん )、という名の世界を知った。それ以来、アーティチョークは私の中に重要な位置を占めるようになった。
帰国して実に50年間、スーパーマーケットでもどこでも、二度とそれを目にしたことがなかった。それは心の奥底に大切にしまわれ、時に取り出されては、愛( いと)おしまれた。そんな小さな宝物は私の人生を豊かにしていた。
先日、NY暮らしの長かった親友とレストンでランチをした。メニューにアーティチョーク入りのハンバーグがあった。彼女は懐かしさと興味半分で、さほど期待せずにそれを頼んだ。私はふつうにグラタンのようなものを頼んだ。なぜかというと、ことアーティチョークに関しては、ホームステイ先でのあの豪快な食べ方以外、チマチマしたものは認めたくなかったからだ。「どう?」と聞く私に、彼女は「もうひとつだね」と即答し、フォークで一口分を私の皿に移した。「でしょ。美味しくないに決まっているよ、そんなの」と私。こんな形で再会するのは私の筋書きにはなかった。案の定、私の味
蕾はとくに歓迎も拒絶もせずに無感動だった。
7月の初め、それはまったくの気まぐれから起こった。いつもの散歩道をそれて別の道に出た。目の前のバス停のそばで私の脚は釘づけになった。目を疑った。まぎれもない。アーティチョークさまであった。胸に大切にしまっていた「あの方」が、自宅から徒歩15分のところで、まるで私が訪ねてくるのを待っていたかのように、なにげない風情を装って堂々と立っていたのである。私はただ茫然と立ちつくしていた。だれが植えたのか。こんなことがあっていいのだろうか。見上げてなんども瞬( まばた)きをした。その先にガクに包まれた大きな蕾 ( つぼみ )があった。蕾 ( つぼみ )の上にはあざみ色の花がべレー帽のようにちょこんと乗っている。ガクはいま、花のためにすべての養分を与えたのか、硬く薄っぺらくなっていた。のこぎり形の1mくらいの葉は四方に広がり、根っこも木の幹のように頑丈に張って本体をバランスよく支えていた。それから私は毎朝、会いに行ってはしばらくその前に佇んでいた。不思議な事に、それは私の食欲を呼び覚まさなかった。では、あの夢はなんだったのか。見上げる蕾 ( つぼみ )の向こうに澄みきった初夏の空があった。カリフォルニアの陽気な空。サリーと並んで立った明るいキッチン。開け放した勝手口の向こうに見える、たわわに実ったレモン。湿気のない風が心地よく体を撫でていく。古い頑丈な円卓には湯気のたつアーティチョーク。私の一挙手一投足に興味を示し、付きまとってはなにかと世話をやいてくれた可愛い紳士たち。蕾の向こうに雲が流れていく。時節も否応 ( いやおう )なく巡っていく。あれから、ホスト・ファミリーにも変化があった。サリーの夫ビルが病死し次男は車の事故で重度の障害者になった。私の人生にもいろいろの変化があった。人はだれでもなにかの支えがなくては生きていけない。私は人生を愉快にしてくれる、多くの小さな宝物を与えられて、それに支えられてきたと思う。そんな中に、アーティチョークがあった。それは、たんに思い出の野菜の名前だけではなかった。まぎれもなく、青春の1つの象徴であったことに気づく。


アメリカン青春グラフィティ No.24 「匂いの記憶」 川越しゅくこさんからのお便りです。
和田さん & 50 年のみなさま しゅくこで〜す
こちらは小雪が舞ったりしているのに、そちらが真夏の35℃なんて。
50年の投稿をみているとこの小さな地球でもこれほど違うのかと不思議な気持ちになります。さて、しばらくぶりにアメリカン青春グラフィティのNo.24 「匂いの記憶」を送らせていただきます。

アメリカン青春グラフィティ No.24 「匂いの記憶」 川越しゅくこ
1962年8月。ひょんなことから、カリフォルニア州のサンフランシスコ効外で大学生活を始めることになった。あるぜんちな丸は太平洋を東に静かに進路をとっていた。デッキチェアに寝ころがって目を閉じる。それまで浴びたことのない光の量、まわり一面の海原、ただそれだけだった。私は飢えていた人のように細胞のすみずみまで、それをむさぼった。自分の体が変わりつつあることに気付いていた。じりじりと照りつける太陽は心身に巣くっていた青カビを焼きつくし、ポロポロと剥がしとった。硬直していた心身のネジがはずれ風通しもよくなった。20歳の私は思春期の頃から日本で生きていくのにある種の閉塞感に病んでいたのだ。行き場のなかった泣きじゃっくりのようなかたまりが吐きだされると、潮の匂いがそれを過去の世界に運んでいった。光と海は寛容で自由の匂いがした。この匂いさえ深く刻みこんでおけば、日本に帰った時にはもう一度、あの無邪気な少女期にもどり新しい再出発の糧にできる。そんな確信を得た。
15日後、真っ黒に日焼けした私は元気にタラップを降りた。あるぜんちな丸で得た確信を土台に、私のアメリカでの生活が始まった。ステイ先は芝生のまんなかに巨大なクルミの樹があった。その枝は大きな傘のように家の屋根にかぶさっていた。そよ風が吹くとその葉先が光の中で揺らぐのが見えた。小さい小学生の2人息子がいる大学教授の家族たちは日本の話しをなんでも訊きたがった。
ある日、あるぜんちな丸での話をしていると、意外な事に話題が飛んだ。17年前の1945年、当時20才であった父親のBillは戦場には行っていないが、進駐軍の一兵士としてはじめて日本の横浜に下船したという。
日本を出る前から頻繁に手紙のやり取りをしていたのに、なぜかそれは知らされてはいなかった。その時の匂いの記憶について話しはじめた。「日本を最初に意識したのはぼくの嗅覚だった。強烈な海藻の匂い。湿気の中に蒸れる木材の匂い。木造家屋、畳み、風呂などが醸し出す匂いだ。そして、味噌、醤油、どぶの臭い、線香の香りだった」と。古い歴史のなかに棲みついた匂いたちは、異国の不思議そのものであったと言う。「その中でも一番驚いたのが人糞肥料の臭いだった」と想いだし笑いをした。くみ取り式の便所から人糞を桶に入れて棒に前後にひっかけて田んぼにかついでいき、それをひしゃくで撒 ( ま )く百姓の姿は珍しくなかった。「嫌だったでしょ?」私はちょっと恥じるように訊いた。かれはyesともnoとも言わなかった。それぞれの民族はそれぞれの匂いが染みついている。まぎれもなく日本民族のDNAを受け継いだ私は、どんな匂いをしみこませていたのか。〜私はいったい何者なの?〜。ふと思いもしなかった自己への問いかけが頭をよぎった。
その時、玄関の光の中に、私を呼ぶ幼い息子たちの弾ける声がした。走ってくるなり私に抱きつき、庭で収獲したクルミを後で見に来てくれという。約束したあと、Billは息子たちの後ろ姿を見ながら、「あの子たちを見ていると、終戦の焦土で遊ぶ日本の子どもたちを思いだす」と言った。彼の目に、目の前にいる私と当時4才であった廃墟の幼児がオーバーラップしたに違いない。「裸足で路地を走り回っていた子どもたちの歓声は幸せな生命力に溢れていた」と。そういえば、思い当たる匂いがある。私の育った小さな長屋には、北側に陽の射さない湿った裏庭があった。雑草が瓦礫( がれき)のなかに生い茂り、時にはコスモスが揺れていた。なかでもドクダミの薬草臭が強く蒸せかえっていた。それは太古からの原始的な懐かしい匂いでもあった。一歩外に出ると麦畑があった。麦畑に大の字に寝ころんだ。太陽のぬくもりに熟成された麦の穂波がむせかえる芳香を放っていた。まだ少女であったとはいえ、その香りがなぜかある種の性的な興奮を目覚めさせて気を失いそうになった。また、こんなこともあった。あれは小春日和の季節だったか。両親は多忙で、私は1人でよく留守番をした。ひっそりした部屋の隅の壁に背をもたせ、畳に足を投げ出す。すりきれた畳。破れを繕った ( つくろった )障子を染める光のなかにすっぽりはまりこんで、ガリバー旅行記などの世界の中にいた。ちっとも淋しくはなかった。というより十分幸せであった。そういえば、近くの畑で肥えの匂いがかすめることもあった。でもたいして気にはならなかった。人間には嗅細胞が数百万個くらいあると言われているが、慣れた匂いに嗅覚は慢性化するという。「ぼくにとって、それは特異な匂いだった。けれども、肥えの匂いなんて平和な香りみたいなものだよ」と彼は微笑んだ。それから一瞬怒りのこもった色が彼の青い目の中をよぎった。「シュクコ、僕が一番嫌いな臭いはね、血なまぐさい戦争の臭いだ」。その時、私は彼が日本の留学生を受け入れたいと思ったなんらかの動機を漠然と理解できたような気がした。「匂いの記憶」、その力をあなどってはいけないと思う。それぞれの20才で出会った匂い。それは私たちの人生の中に蓄積されて、奥行きと深さを増し、さまざまな形に変化しながら生かされていくものだから。彼の言葉は留学生活の三年間、私の背骨の中心核のように存在し支え続けた。昨今の日本のスーパーでは、棚に溢れんばかりの消臭剤や芳香剤が並んでいる。それでも人類はあきもせず血なまぐさい匂いをプンプンとまきちらかせている。シューと一吹きすれば、そんな臭いが消える芳香剤が発見されれば、・・なんて単純な頭は思うのである。



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