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≪思いつくままに≫砂古さんの【想い出の記】連載(その2)
『私たちの50年!!』のMLメンバーのお一人、砂古友久さんに戦後移住史の神代の代に当たる戦後初代ブラジル日本大使の君塚 慎大使の私設秘書として飛行機移住?してえ来られた砂古さんに連載で当時の御話を聞かせて頂いており今回はその4)と5)を収録させて頂きました。メンバーの皆さんの驚きと強い興味を引く御話にコメントが飛び交っており砂古さんだけの【語り】と共に皆さんのコメントを残して置くのも貴重な財産との捉え方で総て収録している為に2回分しか収録されませんでした。
貴重な写真を送って頂いておりどの写真を掲載するか迷うのですが、今回は、迷わずに若き砂古さんの華やかな女性軍に囲まれた写真を選びました。


≪思いつくままに(4)≫  砂古さんの第4回の原稿が届きました。

翌1953年の2月、大阪商船の処女航海サントス丸が、戦後初めて政府計画移民をのせてリオに到着。大使に同行出迎え。一等船客で到着の篠又君は、ホテルを切り上げ、吾が下宿に移転、以来生涯の友。現在、僕と同じ85才。  名古屋高商(名大)卒後、名古屋のデパート丸栄に入社、丸栄が買収した蜂谷ブラザースからリオの蜂谷吾介商会に派遣されたのです。 丸栄としては将来の貿易部門を強化のため海外経験者を養成の目的だったのでしょうが、後のドル族のように金銭面で適切なサポートある商社や銀行の送り出しとはほど遠いものでした。それでも海外勤務の指名があれば喜んで飛び出す時代でした。まだ駐在員という言葉が一般に定着する以前のことです。其のあとまだ、55年頃でも、神田産業という貿易会社から派遣されて来て、支援を絶たれ、サンパウロの山本勝造商会に身を寄せ、リオの自転車協会(のちのプラント協会)に移った、外語の一年後輩会田君のケースもあります。  
余談ですが、彼はのち北米のプラント協会に栄転しましたが、日本へ出張の折、サンフランシスコで離陸直後、事故でなくなりました。
篠又君は未だ不慣れなポルトガル語で、時の海軍大臣と親しくなり、下宿での自分の誕生日に大臣を招き入れたり、同省に180度広角撮影可能写真機を売り込みにも成功する、人怖じしない社交性と才覚に富む存在でした。      黒沢明の「7人の侍」を英語から訳し、Versão em Portugues: Koichiro Shinomata をタイトル画面に残しました。誰かブラジル人に見直してもらったでしょうが、こうした仕事を取り込むだけでも大した芸当です。
その後名古屋から丸栄蜂谷後押しの陶器工場の進出があって、サンパウロに居を移し面倒を見ていましたが、配偶者に2世の方を得た関係もあったのでしょう、永住の身となり、東京海上が未だ駐在事務所時代に転職、のちサッカーで有名な Palmeira クラブの会長の保険会社を東京海上に買収させて、ブラジル東京海上を立ち上げた功労者です。   
ワーゲンの国産車フスカが出始めた頃、早々に手に入れ、月に3回位片道数百キロを飛ばして、綿などの保険成約に走る努力家でした。後にリオにシーザーパークが出来た頃、我々2夫婦で大型車を運転しリオに行き、カーボフリオまで足を伸ばし、帰りはリオ‐サントス街道を回るほど、タフであり運転好きでもありました。昨今はさすがに、新しく修理したばかりの上に又傷を重ねる齢になり、息子たちに運転断念を要求されています。
副社長まで昇進、定年では、法人監査のArthurAndersonに迎えられ、後継社の Deloitteにも留任活躍、現在も保険サービス業の社主。         
ブラジル人社会にも顔がめっぽう広いので、長年に亘り日伯商工会議の広報部長。 泥酔で警察沙汰になった有名進出企業のトップのオエラ方の身柄釈放にも貰い下げは彼の担当。それも1回だけでなかったのです。  
サラリーマン移民としては、出世がしらの一人でしょう。サンパウロの文化協会では、十数年近く前に高等審議会が設けられ、二宮弁護士、ヤクルトの貞方社長、Incra総裁のパウロ横田たちで構成した数人だけの最初のメンバーに入り、華道委員長も引きうけ、そのブラジル人社会への紹介宣伝にも貢献し、80才をめどにこれらの公職を全て辞退しました。

閑話休題
計画移民とは、バルガス大統領から松原安太郎と辻小太郎が個人的に、マトグロッソとアマゾン向けにそれぞれ獲得した特別移民枠にスタートがありました。大使着任の折にはすでに外務省の移民課から担当官が先着していて、その実現へのレールが 敷かれてあったのです。
信任状奉呈の折、ヴァルガス大統領が、別室に控えていた松原安太郎を呼び、親友として大使に紹介、このプロトコーロ破りには大使も驚かれたたらしい。
この松原・辻二人と大使の会食に、ホテルグローリアで同席の折、辻氏が両手でナイフとフォークを振り回して話すのですごく気になりました、その移住第一陣はリオで国内船に乗り替えて、ベレンに向け北上。この中に三菱の岩崎家出の澤田美喜さんのエリザべスサンダースホームの第一陣の戦争孤児数名も同船でした。
美喜さんの夫君の国連大使だった澤田廉三の兄、澤田節蔵は戦前に君塚さんが東山総支配人時代のブラジル大使で、僕が東山に入社できたのは、推薦状の学長の名前が澤田節蔵であった幸運に感謝しています。
公邸に見える多士済々との食事にも同席させて貰いましたが、前回紹介の藤平さんの次に多く見えたのは、東山の山本博士や鈴木悌一弁護士に、北パラナのCornélio Procópioのコーヒーのファゼンデイロ後宮さんですが。後で機会があ
れば詳細をのべます。           
日本から 当時著名な画家2人が前後して見えましたが、名前が思い出せません。今ほど絵心がなかった時です。ブラジル短期滞在の絵描きさん達でした。別に一人、木下と言う画家は「俺はパリ―に行く」を夢のように繰り返す、子供のような雰囲気もある半面、お金にはルーズで、紹介したCateteの安ホテル代を踏み倒し、のちサンパウロでも同じ傾向と噂を聞きましたが、最後はサンパウ
ロ近郊都市で腹上死を遂げました。
ブラジル滞在後パリ―行きを予定していた上永井画伯はパナマ運河航海中に日米開戦、リオに上陸、海が見下ろせるサンタ・テレザ地区に住んでいたが、交際相手のアルゼンチンの歌姫に作品が切りさかれ、その寫眞入りで大きく報道されたのもこの頃でした。彼はのちパリ―で有名画家となり、リオで彼に弟子入り同宿し、しかし描くよりも額縁作りを主に生活していたフラービオ・シロー・田中と福島近、前者は85才で現在もリオとパリ―を毎年往復する巨匠クラスのひとり、後者もブラジルで間部に次ぐ大画家となりました。丸木さんがご存じのコパカバーナで画廊経営の長澤栄三郎もこの同宿グループの額作りの一人でした。
タンゴの藤沢蘭子も最初のアルゼンチンへの途中見えました。学生時代、スペイン語連中と彼女の自宅に押し掛けた事がありました。NHK番組の Orquestra Típica Tokyoのピアノですでに有名だった利根ケンジも同行でした。食事中、大使が2人を夫妻のように呼ばれたので、ピアノ伴奏の方ですと、助言したら「いや私たちは結婚しております」と返事が戻ったのを覚えております。 少々僕はオクレで、他人の男女関係を察知する感覚が鈍いようです。
丸木さん御存じの1953年当時の日本代表水泳選手達も見え、夕食後に碁と麻雀を楽しみました。添付写真の後列の両端2人が山下・鈴木選手。左から2番目もかっての選手眞木さん(当時二テロイ在住)、次が砂古と丸栄蜂谷派遣の篠又幸市郎君。大使の左に座っておられる監督の方の名前を忘れました。丸木さん、彼らの思い出を語ってください。(続)

(コメント集)
和田:砂古さん 思いつくままに(4)少し時間が掛ったのかも知れませんが、2度ともMLに配信されています。
下記の通りBLOGにも写真と共に掲載させて頂いています。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35531235.html
第1回の戦後移民の皆さんの到着をリオで君塚大使と共に出迎えられたのですね。松原移民、辻移民、戦後の移民史に出て来るお話です。愈々これからが面白くなりますね。10年近く遅れて我々のあるぜんちな丸第12次航は、1962年5月にリオに到着しましたがその時には砂古さんは、既にサンパウロに引っ越しておられたのでしょうね。フジヤマのトビウオ一行がジャン卓を囲む大使夫人?との貴重な記念写真に収まっているのは、歴史的な貴重な写真ですね。毎回楽しみです。

丸木で〜す 明治大学出身でアジア大会に出場された山下選手は長崎県庁職員で長崎営業所長してた僕と長崎水連理事として一緒に競技役員してました。ブラジルでお世話になった真木さんとともに懐かしいです。

池田: 砂古さん 凄い移民歴史でスケールが違いますね、最終技術移住者として飛行機で一人旅で来た私の時代とは全く違い興味深く感読しました。次回も昔の事聞かせてください。

和田: 池田さんも飛行機移民ですか?戦後移住の移民船が就航する前に飛行機移民?して来た砂古さんと最後の技術移民として一人で飛行機で移住して来た池田さんの両極端の移住者がこのMLにおられます。歴史の隔たりを感じますね。皆で戦後移住史を紐解き語り合いましょう。
砂古さん宜しくお願いします。

丸木で〜す  20年ぶりで来たブエノスアイレスの港の辺りが見違えるような超近代的ビジネス街に変貌し、高級レストランが多く、今浦島の心境です。ローマやサンパウロでも泊まった事のある滞在中のアパルタメントホテル「トリアノン」からブラジル大使館までの建築物すべてが由緒あるフランス建築家の作品で大勢の人達が写真を撮ってます。中でも自由広場のブラジル大使館は圧巻で威風堂々、まるでベルサイユ宮殿のようです。隣のフランス大使館が小さく見えます。
ブラジルに住んでた頃に、ことの他お世話になった真木さんの若かりし頃の写真ありがたく拝見しました。当時の監督は確か遊佐正憲さんでしたが記憶が確かではございません。

吉田: 偉大な移民史ですね。政府はこれからジャパン・ハウスをロスやサンパウロに作り日本文化の拡散、宣伝をするようですが、ここに出てくるかたがたはその仕事にうってつけだと思います。ここに出てくる二ノ宮弁護士には私の卒業証書認定のため卒業証書の翻訳をお願いしました。1972年ころだったと思います。パウロ・横田氏の弟さんのサトシ・横田氏はエンブラエル社の副社長だったので会議でよくあった事があります。またオルケスタ・ティピカ・東京の演奏は1962年ごろ室蘭で聞きましたが、その時は早川真平と藤沢嵐子は夫婦でした。懐かしいかたがたと、懐かしい思い出を思い出させていただき感謝しています。

丸木で〜す  二宮さんとは正人さんでしょうか? サンパウロ在住の頃に若くてニコニコした好人物で、ブラジルには、こんな親切な方が居るのかと印象に残ってます。

砂古: はい、二宮弁護士の名前は正人です。丸木さんは昔の人の名前を full に迄覚えておられるのに感心します。
10年ほど前に日本から法曹界の著名人が数人来てサンパウロでシンポジュームが有りました。
その折、今でもUSPの総合キャンパスに移らないで、市内のジョアンメンデス広場とお茶の水橋の間にある 7 de setemro 広場の僧院のような法学部を色々の角度から水彩9枚描いてくれと依頼され収めた事があります。
十数年前、前立腺の手術以来、排尿はパイプと袋の生活ですが、全然普通に元気です。東大の客員教授なので、今も毎年2回位、ごく普通に往復されています。すごいバイタリティーですね。
文協の新年パーティーにも見えていていました。マリコさんはその役員グループの二次会テーブルに呼ばれて座られたとか言っておられました。
二宮さんが文協の移民資料館の委員長時代に親しい篠又君を副委員長に呼び込んでのコンビの時代がありました。現在も文協内の Ciate という出稼ぎ対策の責任者です。
彼の奥さんソーニャさんは、二宮さんが駆け 出しのリオ時代にナモーラされたブラジル人です。二宮さんには
きちっとした御母堂がおられたので、ビッシリ日本語を身に着け、そのうえ、東京外大の日本語科を卒業された
方で、日本語は完璧の完璧です。リオの大学の先生ですが、もうそろそろ引退の頃かもしれません。
そんな訳でリオがお好きで、私のリオの水彩を二枚、文協のビルの絵一枚、それに法科大学の絵2枚もっておられます。

砂古: 和田さん、私のPCの具合と思いすが、今回も10分ほど前に送信した、下記の二宮正人弁護士の返事が、私たちの50から、私には戻り配信がありません。
前回も戻り配信はないままでした。 念のため、そちら50年で受信したか、お知らせいただけますか?ウインドー8の未だ一年ものですが、調子が狂っている感じです。

和田: 砂古さん 50年!!には、きっちり配信されています。どうして砂古さんの所にだけ配信されないのですかね?もし他のメールが止まっておれば配信停止になっている筈ですが、通常通り配信と出て居り他の方のメールは受け取っておられるようですね。これも丸木さんのメールへの返信ですので。。。
皆さんに無事配信されている事をお知らせして置きます。

都賀: 丸木さん 都賀です、二宮弁護士には小性もお世話になっています。日本の大学卒業資格を生かしてブラジルの大学卒業及び CREA協会の技術士(ENGENHEIRO)を取得する際にお世話になりました、当時はメカトロニカがブラジルにはそんざいせず、電子技術士か機械技術士かになるしか道はありませんでした。それをブラジリアの文部省の役人へ説明する為に、二宮翻訳士兼弁護士が ブラジリアまで行って 説得してもらいました。その結果 機械科卒業資格を得てさらにCREAに機械技術士として登録できました、そのお陰で 今でも 機械技術士、工場管理責任者、工場安全責任者等の資格で働いております。昔の懐かしい話でした。

和田: 都賀さん 都賀さんは、日本の大学卒業証書でCREAに登録出来たのですか?さすが二宮弁護士は、凄腕です。私も早稲田の政経学部政治学科の卒業証書と成績証明書を地元の翻訳公証人に翻訳して貰い大学に持ち込みこみましたが、連邦大学の経済学部では、政治経済学部と云うのは存在しない持ち込むのであれば法学部か社会学部で経済学部では受け入れられないとの教授会の結論が出て、特に日本の大学では専門学科より教養学科の社会科学、人文化学、自然科学の授業に体育の授業まであり柔道やワンダフォーゲルの科目も取っており当時としては、この授業内容で有ればどこの学部も受け付けて呉れないだろうととの事で高校卒業資格を取り法学部を受験、ラテン語が必須科目に入っていた連邦大学の法学部には入れずカトリック大学に補欠で入り40年前に卒業しました。今考えると夢のまた夢の物語です。昨年12月に行われたカトリック大学法学部卒業40周年の夕食会に出席出来なかったのが悔やまれます。

都賀:都賀ですが、丸木さんですか ?
revalidação = 外国の大学証明を ブラジル内で認証してもらうには、 成績優秀よりも
より多い科目の履修をしてくることです。すくないとマッチングができないからです。
小性の場合でも 精密機械工学 と電子工学の両方を学んで来たので、ブラジルの文部省から 当時 ブラジルあった、機械工学 電子工学 の どちらの科目でも必要履修科目数に足りないのです。
今ならメカトロニックはどこのくにでも存在しましたが ブラジル には 当時は無かったからです。
二宮先生から
1) 日本の大学の履修科目の説明( 履修ガイドの翻訳) 及び
2) 日本で働いた企業(日本IBM)が用意してくれた 証明書(英文で 職種、服務規程、資格内容、実績 等) を持って ブラジリアの文部省へ持って行き 説明/証明をする為に
旅費を払うなら 必ず資格を取って来ると相談され、思わず YES PLEASEと回答しました。
二宮先生は その道の達人です。経費は結構しましたが、資格を獲得できました。
今年も CREA(SP)から 会費振り込み用紙がきました。
丸木さん 二宮先生に遭ったらよろしくお伝えください。


和田: 都賀さん 丸木さんでなし和田です。このMLの管理運営者の立場から名前がない書き込みは、総て和田の発信だと誰もが理解するのと思っていましたが、そうでもなさそうですね、今後都賀さん宛に発信する場合はちゃんと和田と明記するように心掛けます。
二宮先生とは、日本ブラジル交流協会の研修生派遣事業で25年間ご一緒していました。現在は、日本ブラジル交流協会(元民主党藤村 修幹事長が最後の責任者)は、幕を閉じ軸足をブラジルに移しOBの皆さんが中心になって二宮先生に会長をお願いしてブラジル日本交流協会として現在も10名前後の研修生を毎年受け入れているようですが、VISAの関係で苦戦しているようです。若い人たちが人生の選択肢としてブラジル移住、ブラジル研修等が自由にできるシステムが構築できるとよいのですが。。。



≪思いつくままに(5)≫  砂古さんの第5回の原稿が届きました。

駒形さんから、当時の人物・・・・のご希望がありましたが、この(5)はその前に下書き終えていた、当時の情景の雑文ですが、今回はそのままで失礼します。
私の毎朝の仕事は先ず大使館( chancelaria)へ鞄持ちで同行。其のあと、大使の私信がある日はすぐ投函に郵便局へ。 これが大変。当時の郵便局はカウンダ―上は高さ数十センチの樹液(extrato de nogueira)で塗られた黒に近い褐色の板で囲われ、中が見えない芝居小屋の札売りのような穴から応対するのです。国際電話など、高すぎるのはもちろん、先ず繋がりもしないし、郵便利用の多い時代でした。大使館の事務にしても、長い紙テープに穴模様が入るテレックス以前の時代で、モールス信号に頼っていましたから電信官がいました。一般個人では当然、郵便に頼りましたから、郵便局行きは多かったのです。  
郵便局は100%官営時代だったので定年前の婆さん達が多く、中でおしゃべりやカフェーで時間潰して遊んでいるらしく、待たされる時間が長いのには参りました。60年代まで、サンパウロの本局でもそんな感じでしたね。
大使館は最初は Av.Presidente Vargasでスタートした在外事務所をそのまま継承, そのあと国内飛行場Santos Dumont 前のビルのワンフロワーに移りましたが、一階全部占有と言え、小さいビルなので広くもなく、当時の日本の国力は低くかったのですネ、   今のサンパウロの総領事の70平米位かと見受ける広い執務室と較べ大使のそれは月とスッポンでした。館員は誰も自動車なしで、大使専用の車以外には館の公用車として50年型のフォード1台のみ。参事官と3人の館員家族はコパカバーナと言えば聞えが良いが、海岸から遠い裏通りで、互いに近所に住み、フォードで乗合往復でした。  対岸のNiteroi へ 日本人グループのテニスに大使と参加しましたが、リオの Mercado で野菜を景気よくやっていた人は、ブラジル女性のお尻を思わせる後部がたっぷりした曲線で座席もゆったりした車、Buickを持っておりました。
Laranjeiras や対岸の Niteroiに住む館員は電車、バス、フェリー通勤です。
大使の公用車はリンカーン52年の一応高級車で、同じ車はリオではアメリカの参事官の1台しかないと聞きましたが、当時の大型高級車としてはキャデラックが全盛時代でした。
この大使の公用車がリオ‐サンパウロ間のヅッツラで事故を起こし秘書が怪我をした報道が広がり、サンパウロでは砂古でないか?と大騒ぎになりました。市外電話は繋がらない時代で、憶測が憶測を招くわけです。
ラジオか新聞で報道された secretário とは、戦前も務めた、雑務ベテランのブラジル人職員 Eunício でした。大使のサンパウロ公式訪問中に主宰するパーティーに必要な洋酒などの、別途輸送中の出来事でした。ヅッツラは出来立てで、まだ複線でなかったのです。
サンパウロからの来客は皆飛行機で来られていました。プロペラ双発で前に2車輪、尾翼の下に小車輪一個のDC-3です。後、わたしも利用しましたが、SP-RIO間に1時間半以上かかりました。日本から赴任の折のシスコからNYまで乗ったのもこのDC-3で、ロッキー山脈を超すのにフーフー喘いで上る感じで、嘔吐寸前の思いでした。勿論途中給油にColorado の Denver を経由しましたが、今地図を見直すと、もう一か所何処かにに給油経由したかも知れません。     大使のサンパウロ公式訪問は、この飛行機でもなく、夜行寝台列車だったのです。リオを夜発って、翌朝サンパウロの Moocaのルーズエルト 駅に着く、デラックスな銀星号(Estrela de Prata)です。駅前の広場で奏楽隊と儀仗兵に迎えられ閲兵式があったのです。
僕も、後サンパウロの東山に移る折は、大使が銀星号に乗りなさいと前売り券購入を勧められ、大使に駅までお見送りも頂き、翌朝は東山の先輩に迎えられました。其の先輩は大戦直前に赴任し、会社は間もなく凍結で、貴重な青春時代も謳歌できず、農場で自給自足の生活で苦労をした方でした。                          銀星号は確かにデラックスでした。レールの響音は少し気になりましたが。
ずっと後の1970年ごろでも、サンパウロから奥地向け、回転式安楽椅子のある展望車がありました。それに乗って10数名で、350キロ離れたバウルーへ行った事があります。 鉄道は英国好みが残っていました。ネクタイと背広着用です。映画館もそうでしたね。ネクタイがないと入れないが、貸してくれる制度がありました。
銀星号で、話が早サンパウロに飛んだので、戻します。外での雑用は郵便局だけでありません。大使夫妻の洋服の仮縫い、カーボフリオへ魚釣り、ダービーに招待され競馬場の貴賓席や僕も大使のお古のタキシードを着てオペラなどに同行。レース毎に馬券買いは私が階下のギシェーに走る。馬券で儲かれば夜はレストランをおごって頂き、損すれば外食なし、購入したナフキンに目印を刺繍する人を探す、夫人へのピアノやポルトガル語の先生を探す,病院、買い物、その他、家族なみの楽しみも混在するが、夜が必ずしもフリーにならない執事的秘書でした。                 
主宰するパーティーでは夫妻、特に大使夫人の通訳として傍に待機する訳で、存在が派手に目立ちすぎ、外様大使の連れ子的存在だけに、本官たちの注視が気になりました。 今回はインパクトのない往時回顧だけで、お粗末でした。
パーティーでの写真を添付します。(続)

(コメント集)
和田: 砂古さん ≪思いつくままに5≫読ませて頂きました。若かりし頃の砂古さんの奮闘ぶりが活写されており読み応えが有ります。記憶力と共に当時の写真をきっちり残しておられ感心します。戦後移住史の初代君塚大使当時の貴重な記録として御披露頂ける事を幸せに思います。もう60年以上前の話ですので時効に入っており自由に取って置きの話も出てくるのではないかと期待しています。無理をなさらずにゆっくりしたペースで結構ですので長く続く事を願っています。宜しくお願いします。1万語以内で溜まれば寄稿集に収録させて頂きます。
それにしてもお若い頃はハンサムで背が高く恰好良かったですね。写真も楽しみの一つです。

丸木で〜す  リオのメルカードで羽振りを効かせてたのは、現地採用では初の伯物(ブラジル三井物産)社長になられた西村高雄さんの御尊父ではないでしょうか。僕がリオにいた頃、人参で大儲けされた話をよく聞きました。

砂古; 砂古: リオのメルカードで景気良く Buick に乗っていた人は、ゴロンとした体躯の太田さんで、西村さんのように他にもメルカードで成功者がいたのですね? あの頃は、カンポスドジョルドンの傍の1200メータくらいの標高の Santo Antonio Pinhal に小さな日本人集団地があり、人参を作っていたので有名でしたし、サンパウロから仕入れるより近くて安く直接リオに向けられていたのでしょう。

駒形; 砂古さんの昔話しに関連して、乗り物の話をします。私もDC-3{だと思う}に乗りました。RIO-SPLで、飛行機に乗り込んだ際は機体が前高、後ろ低で、座席が後ろに傾いていました。離陸すると水平飛行になり、普通の座席位置になりました。
# 夜行列車はSPL-RIOに乗りました。中々立派な寝台車だと思いました。夜乗ると朝RIOに付くので、商用などに利用する人が多いという話しでした。{私が乗ったのは砂古さんよりズット後のことですが)
私は鉄道(RFFSA)の仕事をしたので、経験のため、BELO HORIZONTE−−RIOの夜行列車にも乗りました。
これに乗ると夜が明けるころMINAS--RIO 州境の山すそ地帯を走り、周辺にはもやが立ち込めていて、ガタン ゴトン、日本の鉄道旅行景色を連想さしてくれました。 昔は旅客列車があったのですね。



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