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≪思いつくままに≫砂古さんの【想い出の記】連載(その4)
暫くお休みになって居ましたが、【想い出の記】連載(その4)をホームページに掲載して置きます。(その4)は、1954年前後の当時の青年群の動向と1954年にサンパウロのイビラプエラ公園で開催されたサンパウロ400年祭の準備等の秘話が含まれています。61年も前の事を良く覚えておられるものと感心しています。貴重な戦後移住史の一部を砂古さんの記憶を通じて残して置くことができるのはこのホームページの本領とするところです。
1回の掲載字数が1万語との制約があり≪思いつくままに(10)≫の前半を一緒に掲載させて頂いていますが、この連載も(その5)で終了予定です。
当時の貴重な写真が多数あるのですが、ブラジル書道界の大御所的存在の若松如空さんの若い頃の写真を敢えて選ばせて頂くことにしました。写真は、左から若松、砂古及び大田さんの写真だそうです。


≪思いつくままに(8)≫  砂古さんの第8回の原稿が届きました。

ブラジルは今カーニバルの最中です。お暇がありましたら、お読みください。

明けて1954年ともなると、日本との往来も急に賑やかになり始めましたが、勝海舟の孫家族の美容院以外に、東京は銀座の山野愛子美容院の進出も有り、美人の 大○さん と ○月さん、 いずれも30才台の美容師が派遣され、リベルダーデ広場近くの今の 中華料理のシーフー辺りにできた新しいビルの2階に大きなサロンでオープンしました。      

女性の存在に臭覚の強いN君が、会える場所を探し出して、ペンソン岡田の昼飯新来族4・5名で実行に移りました。 行った先は、戸主は Tさんの大きな家で、未婚の娘さんはその自宅で洋裁学校も経営しており,生徒である新來2名ほどを含む若い2世の娘さん達が週末開く社交ダンスパーティーでした。2人の美容師と現地参加の、但し一世の妙齢の美容スタフ1名は、その家の下宿人でしたから、若い校長先生と共に4人で参加するのです。男性では当時この学校の契約計理士だったS氏など若干名の2世氏たちが呼 ばれて来ていましたが、男性不足で我々は大変もてました。                   

あの頃は社交ダンスが良く流行り、家庭、特に娘さんのいる家に招待される事などが多かったです。

FestaJunina とか Festa de São Joãoと言った6月祭でも、家庭でパーティーが催され、Quentão と言うニッケを混ぜたピンガ酒とアメ湯を合わせたような熱いお酒を飲んで、寒空の庭でおしゃべりパーティーにも招かれました。やっぱり娘さんのいる家でしたねー。

一度、そうした家庭パーティーに呼ばれた折、勝ち組のお爺さんが現れて 「旭日」とかの表紙の印刷物を僕に読ませて、日本は勝った筈だと、戦後の新来の僕に、勝ったと言わせたい、それには閉口した事があります。

彼女たちとは T家の屋内だけに留まりませんでした。二世団体の主催するピラチニンガ・クラブなど他所の大きいダンスパーティーや、お茶の水橋を渡って ビールなども飲めてピアノとバイオリンが聞ける気の利いた、でも古い古い鉄格子のエレベーターを1階上る、 ヨーロッパ風の喫茶店 Austria で駄弁ったり、 たまには少々デートらしく、郊外に。 但し、時代柄、バスです。 肝心の山野愛子のお二人には、外へ迄はお相手して頂いた記憶がありません。                       

美しい日本語に飢えていたので、きれいな人から綺麗な日本語を傍で聞くだけでも良かったから、お姉さまでも良かったのです。それ以上期待してなかったと言えば嘘になりますが・・・。景気の良い中年の駐在員がポチ ポチ現れはじめた時代で、そのうち2人は下宿を出て行かれ、 なんだかアゲを鳶に攫われた感じでした。                      

その男性は駒埼?さんだったかと覚えていましたが、若しやこのW50年の 駒形 だったでしょうか? 「紀元は2600年、嗚呼一億の胸は鳴る−♪ 」 を覚えておられるのなら・・・。 でも違うでしょう。 ぼくより数歳高齢で、あんな頭の冴えた書き込みは出来ませんよネ。

その美容師の大○さんは、数年後日本に帰られて、銀座でチャーミング・スクールを開いたと新聞で読みました。                    

女性の歩き方からすべて指導する学校で、週刊誌にも取り上げられ評判のようでした。

そのT家の校長先生には、親が決めた親戚の許嫁が日本にいて、近々着伯結婚予定でした。ところがN君に惹かれて、気持ちの整理がつかないと、間際になって僕に長々と電話がかかって来たのです。 N君もフィアンセを日本に残してきている上に、本気でないのは、僕には分かっているので、これには困りました。 幸い無事に、二人は結婚され問題も起きなかったようです。

名俳優であった、後監督・製作も手掛ける、映画で大成功の 大日向伝 が、53年にサンパウロ州で牧場を作リ、映画も作る構想で家族と女優さんも 連れて移住してきました。その女優さんの下宿先もこの Tさんの家だったと聞きましたし、そのグループの出入りもあったらしいです。Wikipediaによれば、大日向伝は家族で帝国ホテルに住んでいたとかで、当初はサンパウロの一流ホテルに居を構えたでしょう。日本とも1960年代まで往復を重ね、数本名作を手掛け、ブラジルでは 1954年に「バルガス平野の決闘」とかを製作したとあります。 確かに何かブラジルで映画を作った話は聞いた記憶は有りますが、良く通ったCINE NITEROI でも、その後出来た他の映画館でも見た覚えがありません。 牧場と言うより農場がサンパウロの近郊にもあるとは聞いた事はありますが・・・・・・。 何か尻切れトンボだったような感じでしたね。                 

CINENITEROI と言えば良く通ったものです。 日本との繋がりは、電話は論外で、手紙以外は映画だけでした。

ブラジルに着いて2・3年目、カルチャーショックとは言いたくないけど、女優さんの仕種、身のこなし、綺麗な日本語が、殊更に魅力的で、同じ映画を偶には2回も観に行くのは、新来では僕だけではなかったのです。

声の魅惑と言えば、東京で在学中、NHKの連続ラジオドラマ、脚本は内村直也の「えり子とともに」は大好きでした。父子家庭の放送劇で、父親の大学教授役は小沢栄、えり子は声優の阿里みち子。二人の対話の内容も去ることながら、今でもあの声を若し聞けたらと思う程です。25年ほど前に阿里みち子が亡くなったと新聞で読みました。声優で死亡報道される位だから、矢張り僕が惚れ込むだけの美声優だったのです。ドラマの挿入歌「雪の降る街を」も当時良く聞きました。

そのころ、東山の女子行員の4.5名から、日本語の指導をしてくれとの希望がありました。夜学生が多いので、昼の休憩1時間半の半分を当てました。 彼女たちは、一応話せるものの、会話のトーンが固いなど、かねがね気になっていたのと、「えり子」が頭にあったので、芝居風にセリフの練習を教材に持ち込みました。演劇と言えば、外語の語劇祭で2枚目をやった以外には,ズブの素人、素養も持ち合わせて無かったので、セリフ指導は長く続きませんでした。自分が女性に求める幻の像への憧れと言えばロマンティックだが、言い換えれば、自分のエゴでもあった訳です。 

リオにいた頃は、自分は将来ブラジル人と結婚するだろうと思っていましたし、パーティーなどで気に入ったブラジル人の娘さんが親に連れられて現れ、「ああいう人良いですねー」と批評すると、大使夫人に「マー、砂古さん!」 と言われていました。 一方、前に紹介した蜂谷商会の篠又君は、意中の人を日本に残して来ていたせいか、絶対日本人主義でした。

ところが、篠又君は、今はベレンで家族が病院や学校経営、それに公的団体で社会的に著名な、またかっては社会党委員長であり日比谷公会堂で暗殺された浅沼稲次郎と親戚の、高柘卒の戦前アマゾン移民、越智さんの長女、リオの顔役白土貫治さんの家に預けられていたリオ看護大学卒の、日本語が当時皆目分らなかった、現在の Dona Cremilda と結婚、同じ1958年僕は日本から両親に連れられて来て、2・3年の日本女性と。それぞれにリオ当初の理想と反対現象が起こりました。(続)

写真添付を忘れました。                              女性は山野愛子美容院の3名。左端の大○さんが後、銀座でチャーミングスクールを設立。                                 右端は熟年会会長で歌の会も世話する、丸木さんもご存じの五十嵐さんの弟。慶應の出身。当時南米銀行。のち東京銀行。10数年前に亡くなりました。

前列の左端は、明石君。早稲田建築卒。ビエナール展受賞に来聖。  アメリカのMITに入学したいとかで、申込書記入を手伝ったりしたが、どうしたのか直接帰国。ここで彼も知り合った、後三菱商事社長の槙原稔の駒込の自宅を明石にやって貰ったと槙原の言。1999年東京で明石君と再会。夫人の介護中で苦労と洩言。                     白ワイシャツが砂古。 右の蝶タイが、僕と同年の久保田鉄工の駐在員、矢野君。

(コメント集)

和田:砂古さん カーニバルは、サンパウロで休養中ですか。我々もおとなしくがら空きの静かなポルトアレグレでのんびり過ごしています。夏の間は、ガウショは、100km離れた大西洋の海浜に別荘を持っているかグラマード等山の上に別荘を持ち出掛けて行くようで本当に静かな住みやすい町になります。カーニバルが終われが新学期も始まりブラジルも新しい年の経済活動が始まります。今年はサンパウロでは水不足、電力不足で夏時間の1ヶ月延期も検討されたようですが予定通り21日(土)で夏時間が終了し正常に戻ります。
砂古さんの『思いつくままに』8を読ませて頂きました。独身当時の砂古さんの青春彷徨楽しく読ませて頂きました。BLOGには6が最後となっておりトラックバックを貼った関係上≪7≫としましたが、既に7は、送って頂いているでしょうか?チエックして見て下さい。6でリオでの生活を終えてサンパウロに居を移されるとの事でしたが、サンパウロでの生活の始めとして7が存在するのでしょうか?今回送って頂いた物が7に相応するのか教えて下さい。
≪7≫は、下記BLOGに掲載しております。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35629329.html

砂古:和田さん、今、7 を再送しました。 どこかで消えていたのですね。
8 の五十嵐さんの舎弟と山野愛子美容師3名プラス小生プラス2名の
後送寫眞届いていますか?

和田:砂古 さん 思いつくまま 7を受け取りました。有難う御座います。写真2葉も取り込みました。
先に送って頂いた8は、BLOGでも8に訂正して置きます。7は新規に写真と共にBLOGに掲載して置きます。愈々面白く成って来ましたね。9以後をお待ちします。別送頂いた8の写真は、下記BLOGにも貼り付けておきました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35629329.html

丸木で〜す 五十嵐さんは弟さんの分まで長生きされてるようです。
真ん中の女性チャーミングですね、タンガがお似合いかも。
コンセリェーロフルタードのペンソンを追い出されてから、プラサダスバンデイラスのアパルタメントで久保田鉄工社員と雑魚寝したことがあります。この方ではなさそうですが

砂古:丸木さん、久保田鉄工から2番目に駐在で来たのに、メガネをかけた色白中背の北田君がいます。その後、工場を作ってからも居ましたから、時期的には、可能性が有りますが、其のころはもっと別の社員もいたから、違うかも知れません。
丸木さんの言う真ん中の女性、気持ちもいい人でした。タンガの姿は拝んだこと有りません。進出美容院に現地から参加したスタフです。 彼女結婚してから、一度偶然会いましたが早く亡くなりました。 私と彼女ともう一人の女性3人の写真を添付します。ここでは彼女右端です。これを撮ったN君と4人でお茶の水橋を渡っていた時と思います。

≪思いつくままに(9)≫  砂古さんの第9回の原稿が届きました。
当時の新来男性群像に入ります。 同年代敬称略。

東山では, 丸の内ビルで51〜52年に机を並べた青木大彦と山本譲治が54年に着伯。いずれも戦前ブラジル生まれ。                        
前に紹介した、三矢、永田、中野、金谷それにリオに横道した砂古を第一陣とすれば、この2人は第2陣である。

青木の尊父、青木林蔵氏は京大卒で総領事館の農業指導官。歴代の総領事 にも意見をズケズケ進言する理論家で有名。 開戦でも帰国せずブラジルに留まった。

息子の大彦はブラジルで待つ家族のため東山企業を退社し、自己単独渡航。 サンパウロで銀行に入り、結構長くいたが、 三菱と合併の前かに退職し,何かの特殊なケミカル製品の仕事に合資でスタート、徳倉建設のウバツーバでのウナギの養殖、次いでコチヤ産組だったか?が出資した保険会社の社長?を引き受け、更にのち京セラの太陽光発電に着手したが見送り・・・、商工業用大型不動産仲介に関わりながら、プロヴァイダー nethall を日本のKDDと共営で立ち上げ(のちKDDは撤退)最後のヒットはソロカバの広大な工業用地を商品流通税ICM免除手配済のお膳立でトヨタに 売り込みに成功。目下は闘病中。                    

山本譲治はCafelandia生まれの二世で日本では小豆島の出身。映画「24の瞳」に兄弟姉妹全員出演。高松商業のハンドボールで国体選手。東山企業退社、自己渡航。 東山銀行に入る。いい男だったが、酒が多すぎ、ピニェイロス支店長の時に若死。                           
南米銀行では、すでに、第一陣の呼び寄せ組7人の、神戸商大の坂口、花田、小堀、長谷川、阿部に拓大の森田、 長崎高商(長崎大)の金ヶ江が51年12月に着伯。長谷川はのち帰国、ブラジルに現生存者は金ヶ江だけ。神戸商大が多いのは、銀行設立の宮坂国人の母校の故である。神戸でない金ヶ江は、尊父が宮坂と南洋で麻の事業を手掛けた縁と聞いた事がある。拓大の森田もそうした縁故であろう。 

阿部と金ヶ江、それに下記の南銀の後組の五十嵐(W50同姓の司さんの弟)は、ガルボンのペンソン岡田で東山や新聞社の新来と同じ釜の飯を食った親しい付き合いだ。 53〜54年に五十嵐、古谷、西川、深谷、それに空手の原田が銀行呼寄または自己渡伯で到着入行。                                      
五十嵐と西川は亡くなり、現在ブラジルでは深谷一人。原田は10数年前突然來伯、空手でヨーロッパ彷徨を続け、イギリスで一寸若過ぎる娘さんを追っかけていたら、其の若い母親の 方に捕まって結婚したと白状。空手で地盤を築き安住との事。
およそ猛者と思えぬ、昔ながらの風貌でした。

上記の古谷は入学至難と言われた蔵前高等工業卒で更に東大卒、兄の京大卒の岩見氏の横浜紙器が進出して来たが倒産、その整理を手伝ったあと、三井物産に現地入社。 ペルーかチリーへのプラント売り込みに成功し本社採用になり、最後には専務。99年に我々夫婦は東京でリタイア−だった古谷夫妻に再会。        その時早稲田の明石が同席。ビエナールに建築受賞でブラジルに1年滞在した。其の間、気を惹かれる若いお嬢さんが2人いたが、いずれもお袋さん達の気位が   高過ぎて駄目だった 。其の一人は有名芸術家と結婚した。僕の好みでもある良いお嬢さんだったが、どうしたものか離婚。もう一人は全然無名の知られない男性と晩婚に終わった。南銀グループではもう一人いた。小豆島出身、神戸商大の浜岡。プロヅトール倉庫会社に居たが、いつ頃独立したか覚えてない。他人と合資で自動車部品の販売店を開いた。のち家族だけで部品専門のとてつもなく大型のスーパーマーケット,SuperDomをサンパウロ市の出口に作り、大変有名で其の成功は皆の羨望の的だったが、倒産し、日本に逃避。 ガンになってサンパウロに戻ったが、亡くなった。

54年末に、今書道で知られる若松孝司が着伯。外語ポ語で砂古・若松と同級の、太田恒夫が石川島納入の伯国海軍小艦サルテ号の通訳で、すでに51年に着伯し、パウリスタ新聞勤務だった。若松の到着は其の蛭田社長の招聘によるもの。若松は、太田帰国の頃、総領事館に移り、経済班に勤務中に、PUCで経済学士となる。本官副領事スタートの招聘を断り、若松経済研究所創立。Sol Nascente 証券会社を興し、日本の山陽証券にも資本参加させ、順風だったが、山陽が潰れ、Sol Nascenteも清算にむかった。

現地で副領事になりキャリアーに昇進したのに、後輩の須山がいる。

武田俊夫先輩がやっていた小さな日南銀行の招聘でやって来て、後に総領事館に入った。日本で天皇陛下の通訳などで一時新聞に名前が出た時代があった。 

東京都立大学の田尻も若松と同船着伯。彼はコチヤに入ったが、早死。田尻と親しかった宮尾は二世で戦前日本行、信州大学卒で人文研究所一筋。 彼もこの頃、ブラジルに帰国。                                       

宮尾と同宿した古庄雄二郎は18歳で移民。先ず大阪商船に勤務。バーロスのセールスマンとして卓上電気計算機販売で頭角を現し、事務機械とオフィス什器一切の販売のFKを設立、今は長男が運営、益々隆盛。柔道、ボックシングをかじり、長かったテニスからゴルフ 狂に転向してもう十数年。

このころ、五十嵐から兄さんの司さん(W50nen)を紹介された記憶が有り、弟の五十嵐は金ヶ江と既に下宿していたから、司さんは後から着伯したと考えています。如水会の御尊父御母堂は、またその後から見えたのですね?

閑話休題。太田が大将になって、若松、砂古、田尻の4人が夜集まってCaio Prado Juinior の HistoriaEconômica do Brasilの勉強会をパウリスタ新聞社で半年位やった事がある。 Condeの坂の下の 新聞社ビルが出来る前の話でGloria街を終えて、Conselheiroを突っ切って、少し下がった地点から始まるBueno de Andrade街 に社屋があった。ウナギの寝床のような、幅の狭い奥長い平屋で、植字工が横の細い通路を出入りした。        

その隣は、日本人の勝ち組の洗濯屋と聞いた。サンパウロ新聞に、確か早稲田の弁論部だった血色のいい勇壮な近藤もこの一寸

後にやってきた。

近藤は日本に引き上げたが、日本が景気の良い時期だったのか、三菱自動車に就職。それにふさわしい能力の彼だった。

彼の後に、玉井が来たが親しくなる機会はなかった。彼も帰国した。

太田は頭が切れすぎて、評価は高いが遠慮のない発言で敵もいたから、社内でも同じだっただろう。妻子4人で60年ころ帰国。サントスに見送った。外語で講師を2年程やって、三菱電機に入社。何回もブラジルに出張で来た。ヨーロッパ三菱    電気の初代社長を8年やり、最後は赤井電機の常務。                  口が祟らなかったら専務になったかもしれない。 この2・3年首の頸骨不調で読書・メール不能。 たま〜に電話が来る。 添付写真は、左から若松・砂古・太田(続)

(コメント集)
和田:砂古さん 訂正して置きました。男性群像読ませて頂きました。時代が少しずれますが、私が学生の時に2年間住んでいた頃の事を思い出します。早稲田の高井先輩の所か高井さんが経営しておられたアメカン横町(アメリコ ドス カンポス街)にあった蛇の目寿司でお会いした事のなる空手の原田先輩、サンパウロ新聞記者をしておられた玉井先輩等懐かしい名前に出くわしました。この蛇の目寿司は、早稲田の先輩方の当時の溜まり場になっており私も含め早稲田の連中が≪ツケ≫で飲み食いして金を払わないから潰れてしまったとの話を聞いていますが高井さんの奥さんは苦労されたと思います。
神戸大学の浜岡さんの呼び寄せで遣って来た浜岡さんの同窓生の小林さんと彼がポルトアレグレ総領事館に勤務していた頃に懇意にさせて貰っていました。当時の男性郡像は、溌剌とブラジルの戦後移住史の一部を作り上げて居たのですね。それにしても良く交友録を残されていますね。丸木さん並みの記憶力に驚いています。続きを楽しみにしています。
下記BLOGに掲載させて頂いています。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35647533.html

砂古:蛇の目寿司は高井さんがやっておられたのですか? 知りませんでした。三菱商事にポルトアレッグレの責任者がいましたね?小柄な方。
あの人の名前も小林❓でなかったですか? 20年ほど前にサンパウロでの商事のレセプションで会いましたが、その後見かけません。 55年かに伯国三菱商事に入ったので知り合いました。

和田:砂古さん
私がエスツダンテ街の下の方にあるRUGEIROとか云う通りに住んでおられた高井先輩のお宅でサンパウロに戻ると何時もお世話になっていました。小渕先輩と同宿したのも高井さんのお宅のサーラでした。私の方が先に戻るのでソファーで小渕恵三先輩は床に寝ておられました。高井さんは、昼間は、前田木工所で働き夜は蛇の目寿司でサンパウロの早稲田の杜を経営しておられましたが皆して踏み倒してしまったのかも知れませんね。65年にブラジルに戻ったら既に閉めて居たと思います。
砂古さんも蛇の目寿司に行かれた事がありますか?
ポルトアレグレの三菱商事の責任者(出張所長)をしておられたのは確か駒形さんと同じ外務省研修生?で高井邸で紹介された村井 修先輩でした。村井さんはポルトアレグレの後アルゼンチンの水力発電所の現場責任者として店を畳んで行かれました。
三菱商事退職後、現在はサンパウロに住んでおられ(奥さまがブラジル生まれの2世)時々稲門会の会合でお会いします。領事館に勤めておれたのは浜中さんの同級生で小林タクさんと云われる方でした。

丸木で〜す 砂古さんの同窓がヨーロッパ三菱電機の初代社長でしたか。現在ロンドン駐在の姪夫妻が現役ですから不思議な縁です。順子は阪大法科卒、亭主の永田が京大法科卒。姪は東京本社勤務の独身時代は昼飯と晩飯の弁当二つ持って行ってた猛烈社員でした。ドイツとタイに頻繁に出張してたビジネス法務のベテラン女傑です。

≪思いつくままに(10)≫  砂古さんの第10回の原稿が届きました。
1954年にはサンパウロの400年祭がありました。             正しくは1月25日が記念日ですが、目玉とするイビラプエラ公園の落成式が遅れ、これに合わせて400年祭の公式イベントは8月でした。私の最初のパスポートに名前と印章がある岡崎勝男外務大臣が表敬に見えたのを覚えていますが、これも8月だと、記録にあります。 

少し高めで遠くに望めるアベニーダ・パウりスタを背にしてイビラプエラに入る側が公園の表です。裏側になるAv.Rep.Libanoから入ると、大遊園地が樹林で囲われながら幾つも続いています。               
その辺りに、取り壊されて今はありませんが、大きな展示用のカマボコ型数棟が建てられ、400年祭記念の国際見本市の会場となりました。   

国内外の企業が出品し、カーザ東山では屋内展示場に三菱電気のミシン、ドリル、扇風機、それに久保田鉄工の軽油エンジン各種、屋外には三菱ふそうバスと 小松製作所の Moto-niveladorと呼称される、道路な どを平坦にする、ブルドーザーよりも面積をとる土木機械を展示しました。

君塚大使や千葉SP総領事(石橋湛山の娘婿)に、400年祭日本人協力委員長の東山の総支配人山本博士、他一行の来賓の巡回を迎え、私が久保田のエンジンを手回しで始動実演という、今なら田舎の産業見本市のような、大昔の話です。

其のころ、年齢は30才前の大林と言う人がいました。稲門会の相田さんによれば、早稲田の建築の先輩で、フルブライト留学を終えてのブラジル立ち寄りだったそうです。 それにしても、どうして一年程も長期滞在が出来たのか、又どうしてあれこれと仕事をその期間にやれたのか不思議です。東山のブースは僕が木工所など下請けを探して自分の考案どうりに作らせたのですが、彼は準備期間中、いつも会場に居て、あちこちのブース作りに飛び歩いていた感じでしたし、市内でも忙しそうに仕事着のままで歩いているのをよく見かけたものです。                 

そうした仕事を受ける会社が当然バックとして在ったでしょうから、麻生太郎が学習院卒後に暫く駐在したという麻生家の企業Jatic 社と思えるのです。でも、はて既に進出していたのか? とも考えます。 生産企業進出として55年がナンバー1東洋紡定説は Jatic や倒産した横浜紙器の中小企業は 対象外だったのかも知れません。              
其の一寸後頃に、リオのポンデアスーカルに電光ニュースパネルをJatic が取り付けるとか、取り付けると景観を損なうとか、聞いたか新聞で読んだ記憶があります。 
でも何回もリオに行っても観た事なしで、お流になったのでしょう。80年代頃は当時輸入のできないオルゴールの国内生産では一寸有名でしたが、90年代に始まった雑貨類の輸入に押され閉鎖したのか、消息を聞かなくなりました。 (次回に続く)                         



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