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≪思いつくままに≫砂古さんの【想い出の記】連載(その5)
連載(その5)最終回は、1954年のサンパウロ400年祭のイビラプエラ公園における万国博覧会の日本グループの参加と日本館設立事業の準備後半と砂古さん御自身が見聞されたブラジル縁の有名人、芥川龍之介、谷崎潤一郎、大宅壮一、徳川一族、元皇族多羅間俊彦、君塚元大使のサンパウロにおける客死他コロニアの有名人との接触に付いて語って居られこれから面白くなるという1958年7月の結婚で一先ず終了との事で砂古独身時代の【想い出の記】で終了しその後の出来事に付いては、折に触れ気の向くままにまた語って頂くことにしてこの連載を終了させて頂きます。砂古さんコロニアの生き字引として初代君塚大使と共に飛行機で移住して来られ多感な独身時代の交遊録、貴重なお話を有難う御座いました。
写真は、コロニアの天皇と呼ばれた山本博士とも思ったのですが、やはりポルトアレグレのアルファンデガ広場で靴を磨かせている砂古さんの葉巻でも咥えさせたいポーズの青春の一コマで飾ることにしました。


(その10続き) 400年祭に戻りますが、8月の祭典よりうんと前から、リベルダーデに400年祭典日本人協力委員会の事務所をつくり、会長である山本さんは勝ち負けに関係なく地方の人びとに委員役を促しコローニアの融和に気を配られました。                              
私は山本総支配人の命令で委員会事務所に暫く出向となりました。20代の年齢で日本語とポ語が出来る2世の人は偶にいてもまだ学生で、そうした人材枯渇の時代でしたから、私の未熟なポ語でも利用せざるを得なかったのです。ジョァン進平田州議やアメリコ須貝市議は夜のパーティーには現れてVIPの挨拶などの通訳 をしてくれるのですが、昼間は来てくれないのです。                                 
山本商会に昼間勤め夜学に行っていた、後大臣やペトロブラス総裁になったウエキも山本社長命令で顔を出してくれ事はあましたが常駐でなく消えてしまいました。そんな事で、私は山本さんの訪問先のお供やポ語の電話の応対などの担当になった訳です。                  
この事務所に職員として入った新来で明大(国文学?)の安立仙一氏は山本さんの目に留まり、翌年55年に文協設立に際し、藤井卓治初代事務局長の補佐に呼ばれ、藤井亡き後も後継者として事務局長を長年やり、10年ほど前に亡くなりました。
山本さんは、この400年祭協力行事として、自ら日本館設立委員長になって、庭の白い玉砂利、瓦、建築資材一切日本より取り寄せて、桂離宮に模して日本館をイビラプエラ公園内に完成させ、55年には日伯文化協会を設立、58年には三笠宮をむかえ、これも自ら委員長となってコローニアの総意で日本移民50年祭を成功させました。勝ち負けの亀裂の縫合の完全は有りえない事ですが、其の功労は絶大です。
山本さんは「コローニアの天皇」と呼ばれましたが、この名付け親は、 前回の「思いつくままに9」で紹介した、私と書道の若松が外語で同級で今は在日の親友である、パウリスタ新聞記者時代の太田恒夫です。 的は得てはいますが、彼らしく一寸皮肉った感じがなしでもなく。私は好きでありません。                                       山本さんは北白川の宮家の遠戚とも聞いた事はありますが、それが夫人の筋なのか、根のない噂だったかわかりません。
芥川龍之介とは従兄だと漠と聞いていましたが、検索すると山本さんの姪が芥川の妻文子となっています。旧制東京府立第三中学以来の親友であり、同性愛と疑われるほどの親身な間柄、文通した手紙が残っていたのは事実らしく、それにつき補足があり、次回で触れる事になると思います。
山本博士の寫眞と、サントス丸から積み下ろした三菱ふそうバスの寫眞を添付します。

(コメント集)
和田:砂古さん 『思いつくままに10』有難う御座います。1954年のサンパウロ400年祭のイビラプエラでの開催の状況、当時活躍された方達のお話有難う御座います。61年も前のサンパウロの話を出来る方は、そうざらにはいないでしょうね。貴重な記述です。もう少し経つと私も自分で体験した話が出て来るのでしょうかね。サンパウロには住んだ事がないので馴染みが薄いのですが、コロニアの出来事であれば少しは分かるかも知れません。古のコロニア情報、これからも楽しみにしています。宜しくお願いします。
下記BLOGに掲載して置きました。途中にスペースが出来ており調整するのに少し苦労しましたが上手く掲載出来たと思います。有難う。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35704755.html

≪思いつくままに(11)≫  砂古さんの第11回の原稿が届きました。
砂古です。ちょっと、休憩させて頂きましたが、11回目をおくります。
お暇の方は、ご一読下さい。
50年代でも55・6年頃になると、進出企業も出始め、呼び寄せの単独以外に現地で永住に切り替えを期待しての旅行ヴィザ―の単独青年強硬派や、コチヤ産組青年集団及び東山農場研修制度の研修生グループなどの農業移民も増え始めました。  私の周りでは、東山や南銀以外に城島商会、今井商会、Brazcot社、コチヤその他の産業組合に、農業移民としてでなく、呼び寄せ手配を受けて着伯 し一般職や養鶏など技術移民で就職する 、又は引受先の地方農業から転向しての都市就職する人たちも現れれはじめました。
ほぼ年代順番のグループ別に整理もむつかしくなり、複雑になったので、今回もスポットにして続けます。
前回は前半で、芥川龍之介にふれましたが、 谷崎潤一郎の谷崎家がブラジル移民に、私の計算では戦前に潤一郎の兄弟姉妹で3人、戦後に甥の企業進出と其の家族があります。
戦後企業進出の甥と言う人は、私の外語ポ語の谷崎久衛先輩です。 昭和12年卒後は大阪商船南米航路のパサー。戦争中は海軍の通訳将校で、拿捕したオランダ船を日本だったか?日本の海外基地まで回送命令を受け、無事全うしたと聞いた事があります。余り多くを語らない渋い先輩でしたが、船の厨房には包丁もあり、怖い役目だったと想像します。男前でありダンディーでもある先輩でした。
戦後、大阪にあったブラジル貿易のアトラス企業にいて、支店開設に着聖間もなく、本店は倒産。支店は自力で生き残り成功され、ソロカバナ線の電車納入を落札した事もあり、現在は息子さん達がやっておられます。
7・8年の前、吉川英治の宮本武蔵のポ語翻訳 「MUSASHI} はブラジルで空前の大ヒットでした。訳者はブラジル生まれの後藤田れい子。私の友人、元は野村貿易駐在員の夫人です。彼女の旧姓は林。御母堂の林伊勢さんは、潤一郎の妹です。伊勢さんも潤一郎の血筋を引いて、生前は良く邦字新聞に知識人的投稿をされたのを覚えています。れい子さんの兄弟に新太郎さんがいます。背が高く、ダンスが上手く二世とは思えない素晴らしい日本語を話し、同じく翻訳家でもあり、英語も達人で、日英の語学力を買われ、数年前からカナダに呼ばれ、長期滞在で時折帰伯します。
上記の友人、後藤田君の事で脱線します。駐在員としては早い方で50年代中ごろの着伯。 最後には野村貿易のトップを務め、現地退社後、リオのカーボフリオでカツオをとり、鰹節にして日本輸出に努力、毎週サンパウロから車で通う頑張り屋でしたが、タイヤがすぐ減るとの苦言を思い出します。                       良い商品が出来、日本に輸出し品質の問題もなかったのですが、カツオ漁業の方で定期的確保の見通しが調査と異なり廃業に追い込まれました。
後乞われて、モジダスクルーゼスに 京都のR.オームの工場の進出を引き受け、
1000人以上の工員の工場に仕上げ、リタイアー後は、つい2・3年前まではカナダ
等に毎年スキー旅行するいい身分です。
私の家内が最初に住んだリオ郊外2時間の高原都市ノーヴァフリブルゴにも潤一郎の兄弟が戸主である家族が住んでいました。私たちが新婚旅行でリオとフリブルゴに滞在した折、其の谷ア家の娘さんがリオの日系男性との結婚式があり、教会での式と披露宴に参列したことがあります。
同じノーヴァフリブルゴで長年お土産店をやっておられた女性の谷崎さんがおられました。 サンパウロの出身で、フリブルゴの谷崎さんの親戚と言っておられました。後、サンパウロに戻って、同じお土産店をやっておられましたが、その後消息が消えました。 いつも単身で見かけましたから終始独身だったのでしょう。 このかた自身が、潤一郎の別の妹か姪かを聞きただしたことは有りません。姪であれば、潤一郎の別兄弟が彼女の父君としてサンパウロにおられたと言う事になります。
他に有名人だが、知られていない話を提供します。
徳川家一族には、幅があるとか聞きましたが、 戦後、その一家族が移住していて、パラナのコルネリオ・プロコピオでコーヒーの大農場をやっていた、後宮農場におられました。 55年頃日本紅茶の社長が三菱商事の紹介で来伯され、私の勤務先カーザ東山に来られ、私が単発のタクシー飛行機で案内しました。               着陸地点はコーヒーの中を切り開いた赤土の滑走路で、翼の両端がコーヒーの木に触れそうで驚きでした。夜御馳走を頂いた折、後宮夫人以外に給仕に顔を出された別の婦人がおられました。農場で面倒見てあげている徳川家族の夫人と言う事でした。                                                  
翌日は、其の徳川さんの息子さんの運転するジープでロンドリーナの空港まで送ってもらいました。道もはっきりしない米作地を走るのです。この時 arroz にzal をつけて、 cafezal のように arrozal = 米作地になると覚えました。
ずっとのちに、リオかニテロイ に引っ越され、徳川夫人が水彩で絵葉書作りをし
て居られる噂を聞いた事があり、又晩年はサンパウロで文協会長に3度立候補
して果たさなかった2世の小川アキオ氏の御母堂が自宅で徳川未亡人を面倒を
見、御母堂逝去後は小川アキオ氏が面倒を見られたと聞きます。 そういえば、
小川氏の父君は無名の人でしたが、そのまた父君は日本で鉄道大臣だったとか。
この話から、小川アキオ氏の御母堂も家柄のいい方で徳川夫人と何か繋がりがあったのかも知れません。
丸木さんが、一度この欄で、ブラジル出身の、元皇族に近い人(女性)が現在トロント在住で知り合いだと紹介されましたね。確かに、あの昔一時的でしたが、社会的に名のあるボランティア−をされた方と覚えています。 丸木さん紹介のその名前を正確に思い出せませんが、名前からして、お公家さんの名前には間違いないと私も、昔から思っておりました。でも、此処では、そうした取り沙汰された事は不思議にありませんでしたね。 宮さんを養子に迎えた、多羅間さんは、昔、総領事であった以外に、多羅間家は貴族であったとは何回か聞きましたが・・・・
三笠の宮が見え、山本博士宅に夜来訪されたおり、青年時代喧嘩の強かった政商の藤平さんと僕ともう2・3人が邸宅の入口で用心棒をした事があります。
大統領職を途中でほりだしたジャニオがサンパウロの州知事の時、官邸で三笠の宮歓迎パーティーが有り、私も家内に和服を着て貰って臨みましたが、その折に今トロントにおられる元お公家さんが居られたのでしょうね。
万里小路(までのこうじ)。これもお公家さんです。 この人は、現存してれば私並みの年齢。 但し風来坊で、1960年代前半中ごろ一年位滞在しただけでしょう。最後はリオ辺りに出没した噂でした。彼がサンパウロに居た時、岩崎家の私より一才齢下の当時の若当主、岩崎寛弥さんが、たまたま來聖で、酒のお相手の折、万里小路が来ていると告げたら、「俺が来ている事を言わないで欲しい」と念を押されました。日本では家族内でも外部でも評判が今一だったようです。 私が出会った時はサンパウロで有馬金鐘江保険サービス会社の外交員でした。 昔、酒を鯨飲出来たこの寛弥さんも、70才頃には舐めるだけだと言って笑っていましたが、7年一寸前に亡くなりました。

(コメント集)
和田:砂古さん 思いつくままに11を下記BLOGに掲載して置きました。今回は写真が添付されていませんでしたが文章だけでの掲載です。寄稿集にも纏めて収録する作業をさせて頂きます。
もう少し先に進めば私が歩んできた時代(1962年5月着伯のジャパンノーボでした)の話に入りそうですね。丸木さん並みの記憶力に驚いています。これからの続きも楽しみにしています。有難う御座います。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35813634.html

丸木で〜す 後藤田さん! 懐かしいお名前です。
ローム社の佐藤会長社長兄弟がコパカバーナの赤坂で食事されてた時に、同社ブラジル進出の話を聞きつけた女将が「その仕事なら、うちに出入りしてる魚屋にやらせなさい」と後藤田さんを紹介されたそうです。僕はGEニューヨーク本社勤務の頃にサンパウロ郊外アルファヴィルに後藤田さんを訪ねたことがあります。カスタムIC生産依頼の筈でしたが、当時のローム現地法人は未だGEの仕入先クライテリアの域に達してなかったので成約になりませんでした。その会社は、僕の卒業時には京都の零細企業の東洋電具で大学に求人票がありましたが、東通工と共に聞いた事の無い会社で誰も応募しませんでした。その後、東京通信工業あらためソニーとロームが日本の代表的な優良に成長するとは誰が予測したでしょうか。恐らく経営者本人もあそこまでなるとは思わなかった事でしょう。
トロント在住ブラジル二世の皇族は、サンパウロ州プレジデンテプルデンテ郊外ランシャリア生まれの北御門美代子さんです。彼女の叔父さんがトルストイ翻訳者の北御門二郎さんです。天皇皇后が皇太子時代にプルジデンテプルデンテのミヤギ邸に宿泊された際に北御門姉妹がエスコート役され、その後にも親戚に当たる三笠宮妃殿下のエスコートもされました。偶然ですが、トロントにはミヤギさんの姪御さん姉妹(旧姓奥村)も住んでます、為念。

川上:砂古様 谷崎潤一郎のご親族がブラジルに移住されたことは知っておりました。私の3回目のブラジル駐在時代(1994年7月〜1996年5月)に、伊藤忠サンパウロで私と机を並べて仕事をしていた谷崎さん(お名前は忘れましたが)もその一員でした。非常に頭の良い方でした。その方も10年程前にお亡くなりになりましたが。
人間関係、いろんなところで「縁」があるものですね。
吉川英治の「宮本武蔵」は私の愛読書の一つで、20回は読んでいます。いつかポ語に訳したいと思っていましたが、既に先を越されていましたか。谷崎潤一郎の血筋の方には到底かなわないでしょうが。今回訪伯した際、後藤田れい子さん訳の「MUSASHI」を是非購入したいと思います。
貴重は情報ありがとうございました。
川上直久(川本退屈男)

《思いつくママに12(最終)》 砂古さんの寄稿、最終回が届きました。

50年代の中ごろの54・55・56年の思い出で記載もれに大宅壮一がありました。
毒舌で有名な彼は、海外取材旅行で54年に來伯し、 「明治の日本を見たければブラジルに行け」 の言葉を残しましたが、時代も変わり昨今は引用する人も皆無でしょう。                                         
大宅壮一は、東山の弁護士の鈴木悌一とは肝胆相照らした、と聞きますが、私はリオ大使館時代以来、頻繁に同席する機会が多かっただけに、よく分る気がします。
鈴木は神戸一中卒業総代、ポルトアレグレの神学校の後サンパウロ法大卒、ラテン語、ギリシャ語、フランス語をもこなす語学の天才で、これらの外国語を混ぜたジョークや皮肉を交え、嘲笑風だが相手を怒らせない話術も巧な、頭で遊んでいるのを楽しんでいるような人でした。
戦前のアマゾン日本移民やアメリカのフォードのアマゾン開拓地の結果から評して、酷熱のアマゾン農業に日本人は向かないと、意見一致する戦後早々のサンパウロ有識者の勉強会グループに依る座談会が開催されました。   
中央公論が主催したもので、51年に掲載され、その中の発言で後に問題になった「3代目は猿になる」は、私は如何にも鈴木悌一らしいと思っていましたが、人文研の鈴木正威が書いた「鈴木悌一」 では、オーソドックスな考え方をする、外語の先輩アンドーゼンパチだったとあります。

猿事件は勝ち組に利用され、当局に密告され、出席者10名全員が国外追放と決められましたが、後に取り止めになりました。
刊行の「鈴木悌一」にある、この事件落着後の余談を借用します。
山本(東山総支配人)は料亭青柳に繰りだし、仲居に三味線を弾かせて、”食うや食わずの弁証法、3代目には猿になる”と、事件を種に得意の小唄風に吟じたという。いかにも山本らしい粋人ぶり・・・・・・
食うや食わず とは、この勉強会は錚々たるインテリの集まりで、新聞記者や記者兼画家が多く、彼らは食っていくには薄給であっても新聞社しかなかった・・・・・と、書「鈴木悌一」に説明があります。
この頃まで、日本からの経済ミッションの來伯はありませんでしたが、重油、軽油、ガソリンで発動する内燃機関のビジネスミッションがやってきました。           
団長の稲生博士(三菱重工)はのち、日本の原子力分野で重鎮に収まった人と記憶があります。第二次世界大戦後半の日本海軍の主力機「彗星」 のエンジンを設計した三菱の技師(名前失念)、通産省の甘利、元海軍技術将官ヤンマーディーゼルの重役たちでした。
サンパウロ や リオでのパーティーでは日系代議士が公式挨拶の通訳をしてくれるのですが、地方回りは関連の現地会社担当となるので、未熟な小生の出番となり、ポルトアレグレ、リオ、マナオス、ベレン、レシーフェー、サルバドールへは私がついて歩いたので、私は着伯以来比較的早めに、大雑把ながら主な地方を見聞できたのはラッキーでした。
マナオスへは事前に電報をヤンマーの代理店に打ってあったのに、出迎えがなく、郵便局の電報が着かなかった時代です。
同じ経験はレジストロに一週間程滞在して、久保田鉄工の耕耘機の販売をして毎日売上を郵便局から電報したのですが、サンパウロに戻ったら一本もついてなかった、嘘みたいな経験もしました。
ポルトアレグレでは大手業者キャタピラーなど取扱いのCIREI社や、ピアノの工場では使用始めたばかりの自慢のTELEXの機械まで見学、工業連盟では Estaleiro So造船会社に投資参加誘致を懇請され、パラッシオ・ピラチニにIlldo Menegetti州統領を訪ね、当時は日本領事館もなく、通訳は頼りない小生。それでも”通訳有難う”と最後に州統領の握手のマナーには感心しました。
マナオスではパラッシオ・リオネグロを訪問。州統領 Plinio Ramosは怖い盗賊の頭領みたいな目つきの人でした。                                 隣国から自動車を密輸して、取り押さえられ直前にドア一枚外しておき、オークションで安く落とし、あとでドアーを嵌めて転売。こんな裏話を聞いていたので、官憲もグルの懐疑心が災いしたのかも知れません。
日ポ通訳は、自分の表現能力限界内で何とか済ませますが、ポ日は、知らない難しい単語が入って来るとお手上げで、”今仰った言葉は何ですか?”とポポの質門が先行せざるを得ないので、赤面する事シバシバでした。                   
軽油エンジンの久保田鉄工から、ミッションに参加が無かったのは、その前に重役が単身來伯していたためだったと思います。この折もポルトアレグレに同行し、空港のレストラン経営者の日本人の浅枝?さんに歓待して頂きました。 日本人が少ない時代だったのですね。
56年には、大使を55年に辞任していた君塚元社長が、丸ビルの東山企業に入社していた外語ポ語一期後輩の片倉君を帯同して、単身サンパウロにやってこられました。サンパウロ東山の今後の有り方の指南役と設立早々の伯国三菱商事との業務区分調整が目的の來伯でした。 私は、山本総支配人に呼ばれ、毎日夕方早退して君塚さんの滞在するホテルに立ち寄り、雑用担当を仰せ付けられました。
夜、食事を共にする来客がない日や、山本邸の食事に出向かない日には、私を近所のレストランに帯同しての夕食でした。
そんな生活が2か月位続き、帰国前の8月1日に、ゴルフ場で倒れられ、不帰の人となり、これは大変大きなショックでした。享年65才。
そのお葬式の日に、力行会永田会長の長男?で4H運動をやっていた、私と同年の久、其の弟の東山の陸郎君が結婚。何れも相手は日本からの呼び寄せでした。東山の僕より若い学習院高等科卒の吉島君も婚約。リオでは親友の篠又君が婚約。 パウリスタ新聞の外語同級生太田君も結婚。他にも婚約・結婚で、急にぐるり皆がバタバタして来た感じでした。
これはいかんと、グループで交際した中にいた快活な新来のA子に的を絞り、少しデートを重ねたところで、姉の方にしてくれないかと母親の意見。はいそうですかの気持ちになれず、妹の方はそのうち、勤務先にやって来た日本からの出張者と話が進んだらしく、帰国で消え、儚いことでした。
57年ともなると、新来者も俄然増え、捉えどころのない社会雰囲気だったのか書くことが思い出せません。僕個人にも良い話はなく、お袋が日本で探そうかなど手紙が来るようになりました。
58年のはじめ頃、所属のコーラスに、ピアノが弾ける和子さんの紹介で誰かに連れてこられたのが今日の家内です。                                当時在聖の外語明治45年卒の先輩の遠戚でもあったので、話はスムース、7月に結婚しました。
和田さんの最初の話は独身時代を「思い出すままに」でした。
この辺で終わりにさせて頂きます。駄文の連続でしたが、読んで頂いた方々に、お礼を申し上げます。
最後に、和田さんの Porto Alegre に敬意を表して Praça da Alfandega での美人のガウーシャスと小生の寫眞を添付します。
ジーンズ着用でない皆スカートの良き時代でした。                     
                砂古友久

PS 私より50日早生の元皇族多羅間俊彦さん(東久邇宮第4男子・ 明治天皇曾孫)は86才でこの4月15日にサンパウロでなくなられました。

(コメント集)
和田:砂古さん 《思いつくままに》掲載有難うございました。一応一区切りと云うことでしょうが、《気が付くままに》私たちが実際に体験して来た時代,1962年以後の色々なコロニアの出来事に付き気ままに思い出す事を気が向いた時に書き流して頂けるとありがたいです。12回まではまとめて寄稿集にも収録して置きます。
PCを買い替えて1週間になりますが、まだ慣れていなく戸惑いながらですが、何とかBLOGの更新も出来るようになりました。写真の加工ソフトをインストールするのに手間取りましたがCANONの東京からSOFTの取り込みを指導してもらい何とかインストール出来ました。PAINTも従来通り使っています。
砂古さんの古のポルトアレグレの写真素敵ですね。アルバムにある写真を撮って使用しておられるのでしょうね。サイズダウンしないとBLOGには掲載出来ませんでした。
最近の50年!!宛てのメールは、全て宛先がh_ike《久成池田》宛てになっているようですが設定がどうなっているかCHK して見ます。
BLOG掲載は、下記URLになっています。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/48144917.html

石田:砂古友久様、石田@クリチーバです。
思いつくママに(第12章・最終回)ありがとうございます。
古い話を正確に、そして写真まで添えて記事にできる才能、素晴らしいです。砂古さんは、ブラジル移住の「生き字引」です。
知らない事を、沢山、勉強できました。又、何か、思い出したら、番外編を、書き足して下さい。期待してます。

丸木で〜す 12回の連載を楽しく読ませていただきました。
羨ましいとでも云うか、この様なエリート移民の人生もあったのか感嘆しました。
移民風雲録なんかの自画自賛に較べ客観的に思いつくままに書かれたので、お人柄がにじみ出てます。
他にも、初期移住者の裏話なんかも有れば聞かせてください。



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